第50話 4年前の追憶

 地面に点々と続く血痕けっこんを頼りに、リネットは慎重な足取りで追跡を続ける。

 彼女が追っている相手は、ブリジットに片腕を斬り落とされて敗走中のベアトリスだ。

 リネットは彼女を追跡する任務を命じられたわけではない。

 今、ブリジットは情夫バイロンの誘拐ゆうかい事件のせいで命令を下せる精神状態ではなかった。

  

 ベアトリスの追跡はリネット自身の判断だ。

 本家を危機におちいらせた彼女を捕縛あるいは殺害するためだった。


「裏切り者は許さん」


 そうつぶやくとリネットは慎重に相手との距離を保ちながら足を進めていく。

 近付き過ぎてもいけない。

 重い手負いの相手とはいえ、ベアトリスは分家の女王クローディアの実妹だ。

 異常筋力による戦闘能力はブリジットに匹敵するほどであり、リネットが勝てる相手ではない。

 だが……。


「これでは長くは持つまい」


 地面に続いている血痕けっこんを見る限り、出血量は相当なものだった。

 片腕を斬り落とされているのだから無理もない。

 いかに応急的な止血処理をほどこそうと、この様子ではすぐに失血死するだろう。

 ならば死ぬのを見届けてから、死体をブリジットの元へ持ち帰るほうが簡単で安全だ。


 そう考えたリネットの耳に水音が聞こえてくる。

 少し行くと、森の奥から流れてきた渓流けいりゅうが一時的にまる池が木々の間から見えてきた。

 その池のほとりの大きな岩の上に身を横たえているベアトリスの姿が見える。

 斬り落とされた腕の切断面からおびただしい量の血があふれ出し、彼女が身を横たえている平たい岩を赤く染めていた。


 ベアトリスはうつろな目で宙を見つめたまま、時折わずかに身じろぎするのが精一杯のようだった。

 リネットは木陰こかげに身を隠し、彼女がそのまま息絶えるのを見守ることに決めた。

 だが……。


「そこにいるのは……リネットか」


 ベアトリスは宙を見つめたまま、かすれた弱々しい声でそう言った。

 気付かれている。

 リネットはベアトリスの勘の鋭さに内心で舌を巻いた。

 おそらく追跡している時から気付かれていたのだろう。


 リネットは静かに木陰こかげから姿を現すと、油断せず身構えたまま十分な距離を保ってベアトリスに視線を送った。

 そんなリネットを見てベアトリスは弱々しく笑う。


「やはりか……。見事な追跡だったから、おまえだと思ったよ。リネット」

「……なぜブリジットを裏切った? あれほど献身的だったあなたが」


 リネットには理解が出来なかった。

 ベアトリスは分家出身者でありながら、本家のために多くの貢献をしてきた。

 それがなぜ今になって……。


「……このままではダニアは滅びる。本家も分家もな」

「何だって?」


 まゆを潜めるリネットにベアトリスは苦しげに息をつきながら語った。


「おまえも知っているだろう? ここ数年で公国は急激に力をつけてきた。王国はそのことに危機感を抱き、我ら分家を急先鋒にえ、苛烈かれつな戦を公国に仕掛けようとしているのだ」

「戦を……」


 公国の件はリネットもすでに知っていたが、王国が戦を仕掛けようとしていることはリネットには初耳だった。

 西の王国と東の公国の戦が起きれば、ダニア本家が主に活動している公国西部は戦火の真っただ中となる。

 本家も戦に巻き込まれ、その被害は致命的なものになるだろう。

 ベアトリスは静かに目を閉じると話を続ける。

 

「その戦の結果を見ることなく我らは滅びるだろう。公国の戦力を大きくぐのと引き換えにな。それを避けるために、我らのクローディアは王に進言した。本家と分家の2派に分かれたダニアを統合して戦力を整えるまで待つべきだと」


 ダニアを統合する。

 それはベアトリスが本家の者たちに吹聴ふいちょうし、内部分裂をうながした甘言かんげんだ。

 

世迷言よまいごとを……」

「それだけではない。同時にクローディアの血族を増やし、将来に渡って戦力を充実させることも重要だと王をき伏せた。そのためにクローディアはまだ成人前の娘であるレジーナに次代の女王を任せ、自らは王に輿入こしいれすることと引き換えに、王国側に戦の開始を数年待たせることに成功したのだ」

「なっ……」


 その話にリネットは絶句した。

 にわかには信じがたい話だった。

 

「クローディアが……王に輿入こしいれだと?」

「そうだ。女王としての誇りも何もかなぐり捨てて、王のめかけとなる道を選んだのだ。王も自らの血すじにクローディアの血を混ぜることが出来るのは僥倖ぎょうこうと思ったのだろう。話はまとまり、先代は今すでに王の子を身ごもっている」


 リネットは知らず知らずのうちに拳を強く握りしめ、声を震わせて言った。  


「馬鹿な……女王の身でありながら自分を売ったというのか?」

「それもこれも全ては一族を守るためだ。貴様らのブリジットにそのような真似まねが出来るか? 無理だろうな。情夫1人にかまけているような身勝手な女だ。我が姉クローディアこそが……真にダニアの未来を思う女王なのだ。リネット……おまえならばダニアをどうする? ダニアの未来をどう……」


 それだけ言うとベアトリスは体を震わせる。

 すでにその目は光を失い、リネットを映してはいないようだ。

 いよいよ死が目前に近付き、ベアトリスの意識は混濁こんだくとし始めた。

 その口からここにはいない娘の名がれ出る。

 

「バーサ……母はここで死ぬ。だが、ダニアは決して滅びぬ。バーサ……ダニアの未来を……頼む」


 そう言ったきりベアトリスは事切れた。

 リネットはその亡骸なきがらを見つめたまましばらく動けずにいた。

 ベアトリスの言葉と自らの胸の憂慮ゆうりょからみ合い、彼女の身の内でグルグルと激しくうずを巻き続けていた。

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