8

 穏やかな陽光が降り注ぐ、昼日中だった。私は手ぶらで散歩をしていた。桜が咲いていたので、季節は春なんだろう。風が吹くたび、ちらちらと花びらが散っていた。

 散歩の途中で、私が卒業した中学校の脇を通り掛かる。そこにはグラウンドがあって、男子生徒たちがサッカーをしていた。鋭い笛の音と歓声。足音とボールを強く蹴る、ボンッという低い音。

 なつかしいなあ、と私はフェンス越しに試合の様子を眺めた。試合中らしく、線の外側では女子が座って眺めていて、脇では先生が笛を吹きながら審判をしていた。

 試合をしばらく眺めていると、だれがゲームの主導権を握っているのか分かってくる。ボールをいちばん長く触っているのは、身長が高くて足の長い男の子だった。彼がボールを取るたびに皆が名前を叫び、彼に注目していた。確かに彼が放つボールは一番飛距離があったし、誰よりもボールを奪ったし、誰からもボールを奪われなかった。遠くからはよくわからないが、きっと器量もいいのだろう。長めの前髪がよく目立つ男の子だった。

 彼がゴールを決めたとき、ひょうきんな男の子がバク転をして、先生に怒られていた。みんな、それを見て笑っている。

 私はそんな彼らの様子を、ぼんやりと眺めていた。こんなころが私にもあったのかな、と思う。サッカーの授業は受けたけど、あのころの私は勉強勉強で、こんなふうに楽しく体育に参加した記憶がない。

 ふと、ボールがコートの先からはみ出した。サイドキックになり、さきほどの前髪の長い生徒がボールを受け取り、線の外へ出て地面に置く。そして狙いを定め、蹴ろうと振り上げた途端、いきなり足を止めた。

 彼はボールを蹴るのをやめて、まっすぐ前を見た。幽霊を見たような顔をしていた。私はその視線がすぐに自分に向けられたものだと気づく。

「矢野ー、どうしたー?」

 教師が彼へ声を掛けた。それでも彼は一向に動こうとしない。生徒たちもプレイを止め、私の存在に気づき、視線を向ける。

「あの人?」

「どうかしたの? 気になるの?」

「知り合い?」

 彼はクラスメートの問いかけに答えず、私を見つめて立ち尽くしていた。念のため私は背後を振り向くが、誰もいない。彼は間違いなく「私」を見ている。

 逃げなければいけないと思う。それでも足が全くうごかない。視線で釘を打たれたように感じた。まるで、そこを動くな、と言われているようだ。

「矢野ー?」

 異常を察知した体育教師が笛を吹き、彼の方へ駆け出す。

「どうした? 大丈夫か? 具合わるいか?」

 彼は教師の質問に答えず、固まっていた。

「矢野?」

 教師が彼の肩を叩こうとすると、その直前に彼は足を引き、勢いよくボールを蹴り出した。ボンッと硬い音がして、ボールは早く鋭く、飛んでいく。わあっと生徒たちが声をあげる。

 それは間違いなく私の方へ、速度をつけて飛んできた。しかしボールは私の顔面に当たる前にフェンスに阻まれる。空気が揺らぐような、大きな音がした。がっしゃん。それから少しの静寂の後に、ボールが地面にてんてんと落ちる。どよめきと、悲鳴。教師の慌てる声。

「矢野! おい、何してるんだ!」

「なに、どうしたの?」

「様子見てきたほうが良くない?」

 彼は騒がしい周囲にまったく動じず、長い前髪の向こう側から、静かに私をにらみ続けていた。彼は私が誰だか知っているうえで、強い殺意をぶつけたようだった。私はとうとう立っていることができなくなって、しゃがみ込む。前を見ることができない。

 遠くから、「すみませーん、大丈夫ですかー?」という声が聞こえた。女子生徒のひとりが、こちらへ向かってくるようだった。それを聞いても、私は立ち上がることさえできない。

 俯いた視界の中で、私は知っている名前を小さくつぶやく。

 そんなこと、あるはずもないのに。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る