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 高校の卒業式を終え、就職も進学も選択しなかった私は、公務に専念する身となった。同じ立場の同級生は期間限定のアルバイトをしたり、資格の勉強をしたりしているようだった。いっぽう私はあれこれ煩い親戚や家族がいる家にいたくなくて、ケアサロンの入院を選択した。保険が適用されないために値段は張るが、父も母も反対しなかった。恐らく、私が本意でなく子どもを孕んだことに多少の負い目を感じているのだろう。

 サロンに通う妊婦は派閥があった。大きく分けると人工授精で妊娠するグループと、普通に妊娠した自然受精グループだ。自然受精グループは全員結婚しているか、あるいは婚約者がいた。こちらが多数で、体感では七割ぐらいになる。人工授精グループは私やつきちゃんのように家族と育てる子か、あるいは女性同士の同性婚を予定している子だった。

 自然受精グループは大多数である分、いつも賑やかな声が聞こえた。マタニティファッションについて話したり、評判の良い写真家を紹介したり、話題は尽きなかった。そして多くの場合、オーガニックに走る。添加物のない食事、胎教、アロマ精油を使ってつわりを軽減……。

 いっぽう、人工授精グループは会話が少ない。カップルになっている妊婦はどこへ行くにもペアで固まり、私のようなシングルの妊婦は一人で行動する。マタニティエクササイズ、整体、ヨガ……沐浴の講義も一人で参加した。

 人肌を模された、柔らかい質感の人形。ぐらぐらする首を支え、表側にお湯を掛け、ひっくり返して裏側にお湯を掛ける。体を拭くときは、タオルで擦らず、押し当てて水分を取るようにする。

 サロン側の配慮なのか、沐浴の講義に参加したのは独身の妊婦しかいなかった。私語も少なく、黙々と人形を洗う姿はまるで工場の作業員のように見えた。ふと、赤ちゃん工場というワードが浮かぶ。決められた数の妊婦が決められた数の子どもを出産し、決められた型どおりに育てて増やしていく。工場で産まれた子どもには注意書きが入る。「母体にストレスがかからない環境で育まれました」。

「それじゃあ、赤ちゃんに声かけをしてあげてくださいねー」

 先生の明るい声が教室中に響き、受講生が人形に「気持ちいい?」とか、「すっきりしたねー」とか、アドリブで話しかけ始めた。

 私は小さな声で「愛してるよ」といって、親指と人差し指で作った輪に首を通そうとする。しかし、私の短い指では赤子の首を一周することはなかった。


 ケアサロンでは、とにかくぼんやりと時間が過ぎていった。周りを見ていると、キャンプや遊園地に出かけたり、アルバイトに精を出したりして活動的に過ごしてるようだったが、私はどうもそういう気が起きなかった。サロンで必要な講義を受講し、整体やマッサージを終えると、興味のないテレビを見て過ごすだけだった。あまりに受け答えがはっきりしないので、つきちゃんや両親に鬱を疑われたくらいだ。

 でも、その疑いは間違っていないのかもしれない。私にとってはもう、自分の周りを通り過ぎていく全ての出来事がどうでもいいと思えた。望んでいない道を歩まされると、諦めと失望のようなものが全身を覆うのだ。しかし、毎日を温かで清潔な寝床の中で過ごしていると、手放した可能性を嘆く気にもならない。

 そんな風に荒んだ心境だったので、花見の季節もゴールデンウィークも漫然と過ごした。半年前まで寝食を惜しみ、時間に追われながら勉強していたことが、とても遠い出来事のように思えた。

 ふと右手を見ると、ペンだこが小さくなっていることに気づく。黒く固くなっていた中指の第一関節は色が薄れ、注意しなければ分からない程度の存在になっていた。そういえば、と思う。もう長いこと筆記用具を握っていない。タブレットの英単語暗記アプリも起動してないし、自宅の部屋には、机の上に大量のプリントや参考書が置きっぱなしにしてある。試しにタブレットを開き、情報通信の応用問題を見てみたが、何も思い出せなくなっていた。あんなに詰め込んだ記憶が抜け落ちてしまっている。

「君さ、もしかして吸い取ったんじゃないの?」

 私は手を拳にして、ぐりぐりと強めに腹を押してみる。胎児は私の問いかけに応えず、ただ羊水の中で体を揺らしていた。


 転機は、梅雨の頃に訪れた。

 二十二週目の定期検診だった。「男の子です」、と担当医師に告げられた。エコー検査でペニスがはっきり見えたらしい。手が掛からなそうな女の子が良いと思っていたので、この報告は少し残念だった。医師は検査結果の数字を眺めた後、眉をひそめた。

「運動不足なので、むくみが気になりますね。もしよかったら、リフレクソロジーを受けてみますか?」

 リフレクソロジーには補助が付かないが、今なら梅雨の低気圧キャンペーンにより、六割引で受けられるらしい。特にやることもなかったので、快諾した。受付で手続きを済ませると、同日午後十三時から二十分施術してもらうことになった。

 時間になり、マッサージ室へ行く。リクライニングチェアに案内され、深く腰掛けると、私の足元に男のスタッフが跪く。

「じゃあ、始めますねー」

 スタッフは両手にオイルを取り、手の平を擦って馴染ませる。そして裾を捲り上げ、私の脚を露出させると、脹ら脛をぎゅっと強く掴んだ。親指の腹が腱に潜り込み、筋をたどるように押し込んでいく。

 その途端、回ったことのない血液が勢いよく頭の方へ巡り出した。濁っていた視界がとつぜんクリアになり、鼻が効くようになる。室内に流されてる細やかなピアノのBGMがうるさく感じ、頭の中で反響する。部屋で焚かれている爽やかなベルガモットの香りが、かえって胃液を逆流させた。スタッフの指はしっかりと脚を捉えたまま、骨の隙間を捉えて凝りをほぐしていく。

 おかしい、と思った。自分に対して跪く男も、サロンで与えられる温かい食事も清潔な寝床も、その何もかもが。まるでご機嫌取りをされているみたいだと思う。

 もしかしたら私たちは、と思う。もしかしたら私たちは、手足のついた子宮なのかもしれない。だってもしも私たちに子宮がなければ、孕んでいなければ、こんな風に王様のような厚遇は受けられていないはずなのだ。

 足を揉まれながら、急に目眩がしてきた。右手で額を押さえる。男性スタッフはそれに気が付かず、膝裏に指を差し込んで圧を掛けてくる。

「ここにリンパ節があって、押すと代謝が良くなるんですよ。アレ、すみません、痛いですか?」

「いや、ちょっと……」

 考えすぎなのかもしれない。だって私たちは子どもを産む。それと引き換えに進学や就職を制限されている。これぐらい尊重された扱いを受けて当然なのだ。

 でも、丁重な扱いを受ければ受けるほど、手足をもがれてしまったような気持ちになる。理由はわかっている。自由ではないからだ。暖かで快適でも、檻の中にいるのであれば窮屈なことに変わりがない。

「大丈夫ですか!? 一旦中止しますね」

 耳元で呼びかけてくるスタッフの声がする。すみません、と口にしようとしたが、目眩がひどくて言葉にならなかった。

 看護師を呼ぶか聞かれて、断った。そこまで大ごとにしてほしくなかった。近くのトイレまで案内してもらうように頼み、入り口前でスタッフと別れた。彼は去り際の直前まで繰り返し謝罪していた。

 あなたは悪くないのだ。浮腫を取るマッサージは的確で狂いがなかった。ただ、わたしにはそんなことをしてもらう価値がなかっただけで。

 洋式トイレに座り、目眩が落ち着くまでしばらく待った。ケアサロンの外れにある職員用トイレは人の往来も少なく、心を静めることができた。深呼吸を繰り返すと、だんだんと視界がぶれなくなってきて、回復していく。張りが収まった腹の中から、自分の存在を主張するように胎児が肉壁を体で押してくる。

 もう、だめかもしれないと思った。日々膨らみ続ける違和感に、これ以上耐えられる気がしなかった。今はまだ腹の中にいて、生殺与奪を握っているが、一度腹の中から出てきたら今度は人権が生じてくる。自由に泣いて笑う、私とは別の感覚を持った「子ども」が出てくる。

 私はその子どもの世話をしなければならない。そう思うと途方もない感情が芽生える。

 無理だ、こんなの。無理だ。無理だ。赤子はまだ肉壁を押してくる。作られたばかりの骨を使い、子宮の壁に湾曲した「一」の字を繰り返し書き続ける。押してきたあたりの下腹を、私も手の平で押し返す。

 君は義務で生むだけなんだ。税金から逃れるために産むだけなんだから。

 そうやってお母さんを蹴っていられるのも、今のうちなんだからね。


 七月も後半になった、暑い日だった。その日はケアサロンを一時的に出て、実家に帰宅する日だった。迎えに来た母の車に乗り込む。夏休みが始まったのか、道ばたで遊ぶ小学生が目に付いた。車が走り始めると同時に、私は決めていたことを口にする。 

「お母さん、私、」

 言おう言おうと決めていたのに、いざ口にしようとすると胸がつまった。涙腺がぎゅっと狭くなり、発声することが難しくなる。目と目の間がすごく熱い。奥から血が噴き出してくるようだ。母は私が何かを言おうとしてることを察し、ウインカーを出して、近くの銀行の駐車場に車を停めた。エンジンが切れて車内が静かになると、私はようやく口を開いた。

「大学に、行きたい。子どもは、育てたくない……」

 そう口にしたとき、目元でこらえていたものが決壊した。涙が溢れ出し、頬を伝っていく。私は耐えきれなくなって、子どものように声をあげて泣き出す。母は私の様子に慌てて運転席を降り、後部座席に乗り込み、体を抱きしめてくる。

「ああ、いいよ、いいよ、日奈子。お母さんはいいから。ごめんね、そんな決断させて。つらかったね」

 母の手が、私の丸まった背中を撫でつける。それでも涙が止まらない。私は横隔膜を震わせて、呼吸ができないほどに泣き続けた。

「いいよ、育てなくても。産みさえすれば、あとは他の人に任せてしまえばいいよ。そんなに日奈子が悩むほどやりたいことがあるなら、そっちを優先させな」

 かつてヒステリックに怒鳴りつけた母の声は、今はすっかり凪いでいて、いまはただ泣き止まない子どもを前にしてなだめる、優しい母の声をしていた。私はその声を聞きながら、自分自身が傲慢で勝手な人間であることをしみじみと感じていた。

 税から逃れるために子どもを産む。でも、育てたくない。産んだらもう一度勉強し直して、大学に行きたい。

 だから、私は産んだ赤ちゃんを施設に預けようと思う。


 三十週目の定期検診で、担当医師にそのことを告げた。医師はとても嫌そうな顔をした後で、私と視線を合わせずに言った。

「そうやって子どもを産んで捨ててく人、たまにいるんだよな。俺はさ、男だからわかんないけど。あんなに弱い生き物捨てていくなんて、ほんと人としてどうかしてると思うんだよな」

 医師の言葉になにも言い返せなかった。医師は私が黙ってしまったことにも苛立ったようで、大きくて長い溜め息をついた。はーっ。

「施設への届けは出しておきます。でも、もし産まれた子ども見て気が変わったら教えてください。産まれてから四十八時間は変更受け付けるから。産んでから気持ちが変わるっていう人も、結構いますので」

 ありがとうございます、と私は言った。産んでから四十八時間は変更を受け付ける。それはきっと医者の気遣いなのだろう。でも全然ありがたくないと思う。

 ありがたくないと思ってしまう、自分の思考が悲しかった。


 私の様子を見たカウンセラーから家族との話し合いを薦められ、暫く自宅へ帰ることになった。

 帰宅した夜、久しぶりに家族で食卓を囲んだ。父にも子どもを施設に預け、進学することを伝えたら、「そうか」とだけ言った。

「じゃあもう、仕方ないんだな」

 父は娘が子どもを産み捨てることについて、何も言わなかった。皿を並べ、ビールを開けて飲み始めた。興味がないのか、諦めているのか、その両方なのか。それは、表情や行動を見ても分からなかった。

 ちょうどそのとき、点けていたテレビから速報と称して赤い帯のテロップが出た。夕方十七時五十分の県内ニュースだった。男のアナウンサーが厳しい表情でニュースを読み上げる。


 八江警察署は二十三日、暴行障害の疑いで北区に住む会社員の男(三十八)を逮捕した。逮捕容疑は二十二日の夜、男は交際している女性の腹部めがけて複数回金属バットで殴打し、全治三ヶ月の重傷を負わせた疑い。警察署によると、犯行後に男本人から警察に通報があった。男は「子宮を壊してくれと頼まれた」と供述している。


 母は何も言わずにテレビを消した。温かな料理と違って室内は静まりかえり、しんとしていた。沈黙を埋めるように母が言う。

「出産、無事に終わるといいね」

「うん……」

 母は私に、「産まれてくる赤ちゃんに会いたいね」とか、「子どもの名前は決めた?」などを聞いてこない。出産を終えた私が無事でいることだけを願っている。自分の娘が周りと同じ道を選ばないことについて、諦めている。何を考えているか分からない父と違って、わかりやすい分、母は話がしやすかった。

 夕食と入浴を終えると、私は自室のベッドに入り、膨らんだお腹に気をつけながら横たわる。頭の中ではさっき見たニュースが離れない。

 金属バットで殴られる下腹部。痛みにあえぐ女と、無慈悲に殴りつける男。さんざん殴りつけたあとで、自分で救急車と警察を呼ぶ男。その横では、女がありがとうありがとうと呻いている。腹の中の卵巣は潰れ、子宮は破れている。

 壊れた胎内はからっぽだ。埋めようがない穴が空いていて、ぼうぼうと音がしていた。


 一時帰宅を終えた後、再びサロンへ戻った私は、突然体中に力が漲ってくるのを感じた。実家から持ってきたテキストを片っ端から開き、目に付いた問題を解き始めた。現代文、古典、英語、数学、世界史……。記憶は大きく抜け落ちていたが、部分的でも空欄を埋められたときに快感を覚えた。学校にいたときでさえ、勉強を楽しいと感じたことはなかったのに。消えかけていた中指のペンだこの痛みが再発したが、それさえ愛おしく思えた。

 試しに共通テストの模試を解いてみる。自己採点結果は五割ほど。こんな数字では行きたいO大学は圏外だ。

 しかし失望はなかった。寧ろ伸びしろしかないとさえ思えた。ベッド脇の机に作った参考書の山を、早く崩したくてたまらなくなった。 

 その夜は遅くまで勉強していたせいで、巡回する看護師に見つかり叱られた。それでも久しぶりにかいた爽やかな汗がたまらなく嬉しくて、私は恍惚としながら眠りについた。 

 九月の中旬だった。担当医師が私に告げる。

「じゃあ、出産予定日を来月第一火曜日にします。部屋の予約を取っておきますね」

 こうして、赤ちゃんの誕生日が決まった。そして、それは私が妊婦ではなくなる日だった。

「麻酔を打つので、前日に半日間絶食します。目が覚めたら出産は終わってますので、あんまり緊張しなくて大丈夫ですよ」

 子どもを施設に預けることを伝えても、担当医は態度を変えることなく、説得することもなく、周りの妊婦と同じように私へ接してきた。それはきっと、私へ向けられた優しさなどではない。何を言ってもムダだと諦められた人間に取る態度だった。

 その夜、つきちゃんに出産予定日を伝えると、ドキドキするねーというメッセージが返ってきた。つきちゃんは四月に流産をしていた。インスタグラムでは、つきちゃんがサプリメントの瓶を並べた写真をアップロードし、おすすめの栄養剤を募っていた。コメントには先輩を自称する元クラスメートたちから、色々な助言が届いている。

 つきちゃんは、どんな気持ちで私にこのメッセージを送ったんだろう、と考える。それから、私が子どもを施設に預けると教えたら、どんな顔をするんだろうとも考える。

 いつも澄ました顔をしているつきちゃんの顔が、侮蔑で歪む。

 もしかしたらそれは、私が世界で一番見たくない物かもしれなかった。


 出産当日のことは、よく覚えていない。麻酔を打たれ、目を覚ましたら終わっていた。日付をまたいでいたが、体感としては一瞬で終わったように思えた。

 私には、母が「無事に終わりますように」と頻繁に祈っていた理由がよく分からなかった。きっと自然分娩が主流だった頃の名残なのだろう。私に出産を実感させたのは、脇腹に残った僅かな縫い目をなぞったときだけだった。

 目を覚ましたあと、私はまず最初に、昨晩暗記した英単語を二十個暗唱してみた。どれも間違いなく覚えていることに安堵した。麻酔で記憶が吹き飛んだりしないか心配だったのだ。

 看護師に半日の安静を言い渡されたあとは、暇で仕方がなくなった。そこで持ち込んだタブレットを起動して、インスタグラムを見た。タイムラインに出てきたのは最新の出産報告だった。母親と新生児がベッドの上に並んだ写真。きっと旦那さんが撮影したのだろう。暖かみのあるフィルターが掛かった写真を見て、愛されているな、と思う。

 これはきっと、私がどれだけ頑張っても手に入れられないものなんだろう。

 そう思いながら、記事に いいね! を押下する。画面の上で、小さなハートが弾けて赤く灯っていた。 

 

 産後二日目、元気よくお粥の朝食を食べ終えた私は、部屋からの外出を許可された。

「赤ちゃん、見てみますか? 新生児室は五階ですよ」

 看護師は私が子どもを施設に預けることを知ってか知らずか、そんなことを提案してくる。正直に言えばあまり興味が湧かなかったが、断るのも不自然な気がして承諾した。

 薄いスリッパに足を通し、院内を歩く。胎児が出て行った体はとても軽く、人が見てなければスキップできそうだった。大きなできものを取ったような、爽快な気分さえした。少しずつ大きくなっていったから感覚が鈍っていたのだろう。転倒を恐れずに走ったり跳躍したりできることが、こんなにも嬉しい。

 新生児室に着くと、すぐ横の部屋でお母さんが出入りして代わる代わる授乳をしていた。私は部屋に入らず、ガラス越しに赤ちゃんを眺めた。並べられたワゴンの中ひとつひとつに、白い布に包まれた赤ちゃんが並んでいる。顔の皮膚は柔らかく、さっきまで浸かっていた羊水の匂いが立ち上ってきそうだった。

 みんなそれぞれ足首にタグをつけ、母親のものと思われる名字が書かれていた。でも、私が産んだ赤ちゃんだけタグの色が違い、私の名前も書かれていない。その代わりに、

子宮ナンバーの頭五桁だけが書かれていた。F6851。

 保育器の中の赤ちゃんを見たら気持ちが変わるかもしれない、と心のどこかで思っていた。でも実際は、自分が思っていたよりも薄情だったことを知る。赤ちゃんを見ても、自分の中で育てたということが信じられない。これをぬるま湯で洗い、水と食物を与えれば人間になる、ということをまだ疑っている。

 かつては私もこうだったはずなのに。

 この赤ちゃんは病院側で出生届が提出され、しかるべき施設に預けられる。そして私の子宮ナンバーには経産婦としてフラグが立てられ、三十五歳から税金が部分的に免除されることになる。

 ふと日付を思い出す。入院した日が十月一日だったことを覚えている。次の日、麻酔で寝ている間に取り出されたので、彼の誕生日は十月二日だ。

 十月二日生まれ、てんびん座の男の子。

 病院側が出生届を出す場合、母親には命名権は与えられず、施設で名前がつけられる。それでも私は、誰にも知られないよう、彼に「カイト」という名前をつけることにした。

 高く空へ飛び立っていくような子に育ってほしい。そんな願いを込めている。

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