5

「高坂さんさ、今ちょっと手離せる?」

「うん、大丈夫」

 秋が深まるにつれ、学校全体で文化祭の準備が進んでいった。しかし私が担当しているパネル係はあまり進捗が芳しくなく、放課後も残って作業をしていた。私は膝をつき、床に敷かれた大きな板へ、決められた領域を刷毛で塗りつぶしていく。教室の隅では数名の男女が談笑しながら作業をしていたが、ふと義高くんがその輪を抜けて私に話しかけてきた。

「ペンキないから取り行きたいんだけど、俺どれ使っていいか分かんないから来てくれる?」

「うん」

 刷毛に付いたペンキを落とさないように缶につっこみ、立ち上がる。義高くんは教室の出口で佇み、私がやってくるのを静かに待っていた。


 ペンキは一階の用具室にまとめて置いてある。そこに行くまで、私と義高くんはふたりきりで廊下を歩いて玄関まで向かった。私は彼の少しうしろを歩くようにしてついていく。話題もないので、居心地の悪い沈黙が用具室に着くまでずっと続いていた。

 用具室は窓から光が差し込み、室内が妙に明るく照らされていた。屈んで道具箱を漁っていると、ふと義高くんが前触れなく話題を私に振った。

「たまに、俺らのクラスでも話題になるんだけどさ」

 義高くんがライトグリーンのペンキ缶を持ち上げる。それに倣って私は道具箱と空のバケツを手にし、来た道を戻り始めた。

「高坂さんってさ、大学行くってホント?」

「ああうん」

 私の腕の中では、歩くたびに刷毛や筆がガッチャガッチャと音を立てている。

「そんなこと、二組で話題になるんだ」

「悪い意味じゃなくてさ、珍しいよ。女子はみんな結婚するか、アルバイト始めるかのどっちかだから。あと、専門学校行くとか? 大学に行くのはやっぱり珍しいよ」

 義高くんは、珍しいという言葉を二回も使った。そうか、そんなに珍しいだろうか。

「すげーと思うな。でも、当然だと思う。高坂さん、スッゲ頭良いもんな。いつも学年三

位だからさ」

「でも、義高くんは二位でしょ」

 私の声音は自然と低くなる。分かっていて言ってるんだろう、という意地悪な意味も込めている。

「いや、うん。まあそうなんだけどさ、女子で三位取るってすげーよなって話。高坂さんと比べたらさ、殆どの男は女子に成績で負けててさ、恥ずかしくなるよ」

「うん……」

 褒められているのか、貶されているのかわからない。真意が知りたくて、左隣を歩く彼を見上げるが、整った顔があるだけで、なんの情報も得られなかった。

「高坂さんはどこが第一志望なの? オレO大なんだけど」

 私もO大だ。都心にあって国公立の大学。偏差値も七十を超えている。私の成績だと、模試ではB判定で、十分射程圏内にある。

「まだ決めてないんだ」

 しかし、私は答えを濁した。私もO大なんだよ、と打ち明けようかとも思ったが、このあとクラスで言いふらされることを考えると、言わない方がいい気がした。義高くんはそれを察したのか、そっか、と温度が感じられない声で言った。つまらない女だと思われただろうか。

 しばらくふたりで静かに長い廊下を歩いた。気まずさが場を覆うが、それを壊すように義高くんが再び話を始めた。

「やっぱりさ、高坂さんも悩んで大学に行くって決めたの?」

「……どういうこと?」

「いやさ、みんな、女子って悩んでるから。高坂さんみたいに進学するかどうかもそうだし、子ども産んでから働くとか育児に専念するとか、そもそも産まないとか、いろいろ。いつも悩んでる。高坂さんも悩んで、それでも大学に行くって決めたのかなって思って」

「うん、悩んだよ」

 悩んでいるどころか、未だに家族の賛成が得られず、母と喧嘩している。私の返事を聞いて、義高くんがやっぱそうなんだ、という。

「人と違う道を選ぶって、すごいストレスかかるからさ。なんか、最初から絶対大学行くって決めてたらかっこいいな、って思ってたけど、やっぱ悩むんだ」

 ちょっと安心した、と言う。

「高坂さんて、ちゃんと話してみるまでは怖い印象あったけど、一緒にパネル作ってたらさ、普通に女の子だなって思った。ふつうに優しい」

「そうかな」

 やはり義高くんの言葉は、褒められているのか、貶されているのか分からない。正確に言えば、表面上は好意的な言葉を口にするが、言われている側は全く良い気持ちがしてこない。ほんの少し皮を剥けば、悪意が表出してきそうだ。

 恵那は義高くんが私に好意を持っているという話をしていたが、そのような話につながるのだろうか? 黙ったまま様子を伺っていると、彼は思い詰めたように口を開く。

「俺さ、こんなこと言ったらふざけんなって思われるかもしれないけどさ。女子がうらやましいんだ。もちろん、オレも出産してみたいとか、大学行きたくないとか、そういうことじゃなくて」

「……どういうこと?」

「女子がインスタとかツイッターで、生理がつらい、とか、つわりが気持ち悪い、とか色々書いてるだろ。そういう悩みって、なんか、悩めることがいいなって思う。俺たちは勉強して就職する、しか選択がないから。

 それとか、企業の募集要項とか見ててもさ、女性の活躍推進とか、妊婦さんも働ける会社とか、俺には関係ないことばっかりなんだ。男って悩みがない分、誰もなにも言ってくれないんだよな。そもそも話題に取り上げられない」

 彼はそこで少し間を置いた。

「なんていうか、問題がない分、社会で透明になった気がする」

 なにをいっているんだろう、と私は思う。義高くんはきっと、子どもを産めと母親に詰られた経験がない。毎月来る鬱陶しい生理で下着を汚したこともなければ、朝起きていちいち基礎体温を測る必要もない。葉酸サプリメントを飲む必要もない。妊娠と出産に悩むことなく、好きなことができる。それのいったい、何が不満なんだろう?

「でも、悩むのって結構つらいよ」

 私は当たり前のことを言う。

「悩みなんてさ、なければないほどいいよ。一よりもゼロのほうがずっといい。どうするか悩まなくていいなら、義高くんがうらましい」

「うーんまあ、そうなんだけどさ。ごめん、変な話して」

 義高くんは笑って濁す。そして、切り替えるように一段階高い声で新しい話題を出した。

「高坂さんってさ、大島さんと仲いいの?」

「え、うん。仲いいと思う」

 つきちゃんの名前が出て、私は動揺する。

「そっかー。大島さん、すげえよな。いつもテストで一位取ってるよね」

「うん、この前のテストも一位だよ」

「あーそうなんだ。オレが二位だったから、まあ一位は大島さんだろうなって思ってたけど、改めて知るとやっぱすげえって思うわ」

「ああ、うん、そう……」

 私と義高くんの間の会話で、つきちゃんの名前が出てくることに不審を抱く。どうしてここにいない人が話題に出てくるんだろう? 義高くんは、さっきまでのおずおずとした話し方をやめ、切り落とすような明るさを持った声で私に聞いた。

「大島さんってさ、彼氏いるか知ってる?」

 その質問をされたとき、ひどい落胆が全身を覆った。踏み台にされた、と思う。彼は私に興味がないのだ。私と仲がいい、つきちゃんに興味があるのだ。そのために私の話題をクラスメートたちにしたのだろう。

「あんまりそういう話しないんだよね。だからわからないや」       

 つきちゃんは彼氏がいない。結婚の予定もない。今度人工授精をする。そんな大事な話を、この男にするわけにはいかなかった。私も義高くんと同じくらい声のトーンをあげ、はっきりと言った。

「ごめんね」

「そっかあー」

 義高くんも声のトーンを落とさず、相づちを打つ。でもその表情は固いままだ。それ以降私たちは会話を交わさず、静かに道具を運び続ける。

 じきに教室が近づいてきて、私と義高くん以外の人がいる場所に戻ってきた。喉が詰まるような緊張感が取れ、ほっとする。義高くんは教室についてすぐ、誰かに声をかけられて別の作業に戻っていった。私はまた、もくもくとペンキを塗る仕事に戻る。そうしながら、私はさっきまでの会話を思い出していた。

 義高くんが、つきちゃんに交際を提案する。つきちゃんはきっと、断らないだろう。いいよ、というはずだ。私にはわかる。そして、OKした理由を聞けば「えー、なんとなく」と言うんだろう。その声さえ想像できる。

 義高くんなんかにつきちゃんはやらない。つきちゃんの穏やかな声も、冴えた頭も、そのすべてがふさわしくないと思う。つきちゃんはつきちゃんで完結した存在なのだ。見た目が良くて頭がいいからって、つきちゃんに触れてほしくない。

 でも、もしつきちゃんが義高くんのことを好きだったら、どうするんだろう?  

 そうしたら私は、彼の好意をつきちゃんに伝えてやるべきなんだろうか。それが本当の友情なんだろうか。でもつきちゃんが義高くんと付き合うのは、絶対に嫌だと思った。そうしたら、つきちゃんの神聖さが失われてしまう。

 義高くんが、つきちゃんに告白しませんように。

 青く染まった刷毛を動かしながら、そんなことを願った。

 間違いない。私はつきちゃんにとって、最低の友達だ。


 文化祭当日は、クラス合唱だけこなした後、進学組にあてがわれた自主学習室にこもって勉強をしていた。一方つきちゃんは学校のどこにもいない。人工授精の実施がどうしても日付がずらせなくて、文化祭を休んだのだ。

 そしてつきちゃんが進学しないと決めてから、私はさっぱり勉強に身が入らなくなった。シャープペンシルを握る手に力が入らないのだ。数式も英単語も、定義された変数も、まるで意味のないものとなって体中を通り抜けていく。自室の勉強机の上には、手をつけていない課題が積まれていった。

 私よりも頭のいいつきちゃんが進学しないのだ。それであれば、つきちゃんより成績の悪い私が無理をして進学して、いったい何になる? ムダじゃないか? そんな終わりのない問いが頭を巡る。

 おかげで、後期の中間テストの結果は惨憺たる結果だった。総合得点は六百五十一点。学年順位は六十二位。それを目にしたとき、私の決意は固まっていた。

 その夜、母に子どもを産む、大学へは行かないと告げた。母は私の突然の心変わりに戸惑い、心配していた。

「なんかあったの?」

 母にそう問われても、返答できなかった。きっかけは間違いなくつきちゃんのことだが、それを母に言いたくなかった。ほら見たことか、という反応をされるのが、たまらなく嫌だったからだ。なんとなくだよ、と理由を濁す。

「とりあえず、産もうと思うんだ。若いうちに出産しておいたほうが、やっぱりあとあと楽だもんね」

 母やつきちゃんが言う理由を自分でも口にしてみると、それはとても体に馴染んだ。そう、とりあえず産んでおけばいい。産んでおきさえすれば、将来余計な税金を払わなくてすむんだから。

 無理して大学に行って働くよりも、そのほうがいい。

 みんながそうしてるんだから。結局、普通が一番いいんだから。

「そう……」

 母は私の判断に喜ぶだろうと思っていたが、納得がいかない、という顔をしていた。

「病院決めたり、契約したりは私が調べておく。とりあえず、明日ぜんぶ考えよ」

 私はそれだけを言い残して自分の部屋に行く。そしてベッドに倒れ込み、深呼吸をした。いつも通りであれば、世界史の記述問題の見直しをしたいし、二週間後の模試に向けて英作文の練習をしたい。しないといけない。

 でもそれって何の為に? 私はもう、進学しないと決めたのに。

 私は目を閉じて、つきちゃんのことを考えた。つきちゃんはきっとこんなことを考えない。つきちゃんは進学しなくても、自分を厳しく律して勉強に励むことができる。こういうとき、つきちゃんは純粋な知識欲で勉強できる天才なんだと思わされる。私は学業の才能がないくせに大学に行きたがる、半端な人間なのだ。

 私は参考書を開かず、病院の資料が積まれた山から目についたパンフレットを引き抜く。そこに並べられたパステルカラーの丸い文字列を眺めながら、今後のスケジュールを考える。

 産むと決めたら、やるべきことがたくさんある。人工授精をする病院を決め、事前検診を受けなければいけない。そしたら排卵日と合わせて体の中に精子を入れる日を決めて、受精させる。一回で済む場合もあるが、大体二回か、多いと五回ぐらい掛かる人もいるらしい。もちろん一回だけが理想的だが、そんなにうまくいくとも限らない。

 タブレットで目についた病院の予約を取る。プレコンセプションケア。同じような名前の健康診断を、去年も受けた。十六歳から始める妊活、という名目で。

 あのときは痩せすぎと睡眠不足を注意されたが、今年はいったいどうなっているだろう?


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