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「それじゃあ、パネル係は高坂さんです」

 教室の中からパラパラと拍手が贈られる。文化祭の分担決めで、私は演劇の背景係に決まった。できるだけ準備に参加せずに試験勉強をしたいと考えていたので、一番いい係に決まったと思う。つきちゃんも私と同じ考えなのか、景品準備という地味な係についていた。

 私とつきちゃん以外の女子は、学生生活最後の思い出になるからと、様々な準備をしているようだった。当日は誰と学校を回るかとか、後夜祭で誰と話したいとか、それまでに彼氏を作りたいとか、そんな話だ。

 昼休みにあれこれ騒ぐクラスメートを眺めながら、私とつきちゃんは机を突き合わせて静かに昼食を摂る。私は母が作った弁当で、つきちゃんは下段がオムライスで、上段が蒸した野菜とウインナーとシュウマイが詰まったお弁当だった。

 箸で野菜ギョウザを取りながら、つきちゃんに聞いた。

「つきちゃんはさ、文化祭でなにか特別なことしないの?」

「うーん別に。特にしたいこともないかな」

 ふーん、と私は温度のない返事をした。その一方で、揺らがないつきちゃんを好ましく思う。私はつきちゃんの、そういうところを信頼しているのだ。

 そこへ突然、恵那が私達のところにやってきた。さっきまで違うグループにいたのに、私に何か聞きたいことがあるらしい。

「ね、日奈子さ、パネル係だったよね?」

「え? まあ、うん」

「二組のパネル係さ、義高くんだってさ」

「ああ、そうなんだ」

 いつもテストで学年二位の義高くん。顔は知っているが、話したことはない。それというのも、近寄りがたい人だからだ。

 義高くんは目立つ男子だった。身長が高く、細身で、目鼻立ちがしっかりしている。バスケ部に入っていて、そこで副部長のポジションについているらしい。気さくな人柄で後輩にも慕われている。

「ヨシタカさ、前に男子に日奈子のこと気になってるって話してたらしいよ」

 恵那はニヤニヤしながら私へそんなことを言ってくる。私は反応に困る。恵那は一人であまずっぱーいと騒いでいた。

「えー、まさかこれ、あるの? すごい、めっちゃ頭いいカップルじゃん! パネル係でいっしょなのもさ、ヨシタカ狙ってたんじゃない?」

 まさか、と私は努めてクールなふりを装う。偶然でしょ、と返事をする。そんなふりをしながらも、内心で期待していることが憎らしかった。

 恵那がいなくなった後で、つきちゃんに向き直ると、つきちゃんはお弁当の空き箱をしまってタブレットを見ていた。私が、そんなわけないじゃんね、とさっきの出来事への感想をいうと、つきちゃんはメガネを直しながら、「なにが?」と言った。まるでさっきのやりとりなんか、何も聞いていなかったというように。

「ううん、別に。なんでもない」

 なんだか浮かれた気分を見抜かれたようで恥ずかしい。私も慌てて弁当の残りを口に詰め込むと、空き容器をしまって英単語アプリを開いた。それでもまだ、なんとなく自分の気持ちが浮ついていることが分かる。

 あの義高くんから、好意を向けられているかもしれない。

 そんな心の動揺が現れたのか、簡単な発音記号の問題を三回続けて間違えてしまった。私は溜め息をついて、アプリに表示された「ざんねん!」の文字を眺めていた。


 蒸し暑い夏の日だった。その日は三者面談の日だ。クーラーで冷えた教室の中で、私と母が並んで腰掛け、向かいに野村先生が資料を並べて座っている。先生は、私の学校での様子を話した後、教師用タブレットに進路希望調査票を映して母に見せた。

「それじゃあ、高坂さんは大学進学ということでいいですか?」

 先生が私と母に尋ねる。わたしは迷わずはいと応えた。母は何も言わないが、表情から不満を隠しきれていなかった。先生は困ったような顔をしている。

「それでしたら、高坂さんは成績が本当にいいので、学業の面ではまったく問題ないと思います。希望しているO大学もB判定ですし、射程圏内ですよ」

 それは母がほしかった言葉ではないようで、表情がますます険しくなる。

「でも先生、ほかの女の子は大学に行くんですか? うちの子だけ進学を目指しているんでしょうか」

「みんなまだ進路を迷っているので、うちの学年ではっきりしたことが言えません。ですが、去年は進学した生徒が二名と、就職した子が五名いました。みんなすごく優秀な子たちでした」

 先生のやわらかなフォローなど意に介さず、母は詰め寄る。

「学年で数名だけじゃないですか。それって変わってるってことでしょ?」

「うーん、まあ、珍しいですよね。だいたいの子は家庭に入るので……それでも、まわりがどうしているか、ではなく、高坂さんが何をしたいかが大切だと思います」

 そこで話の矛先が私へ向く。私が言っていることは先程から変わらない。

「私はO大学に行きたいです」

 私の返事を聞いて、母があーもう、とため息をつく。

「もう、本当にがんこなんだから。誰に似たんだろう」


 三者面談を終えた後、図書室で勉強していく、という私を置いて、母はさきに帰ってしまった。去り際に、私に聞こえるよう大きなため息をついていた。

 教室に戻ると、つきちゃんが私のことを待っていてくれた。私はそれが嬉しくて、大げさな仕草で「やれやれ」というジェスチャーをする。

「やーっと終わったよ。私は進学だって言ってるのに、母親が食い下がるんだよね。本当にうっとうしい。なんかい同じことを聞けば気が済むんだろ」

 教室の中は私とつきちゃんしかおらず、とても静かだった。遠くから野球部の掛け声と、吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。

「ね、ひな。こっちにきて」

 つきちゃんはカーテンが揺れる窓辺で手招きをした。私は慌ててリュックサックを机に置いて、つきちゃんの元へ駆け寄る。つきちゃんの近くにいると、いつもどおり強めの柔軟剤のにおいがした。

 つきちゃんは言う。

「私さ、大学行かないことにしたの。さっき三者面談で、そういう話になったんだ」

「え、なんで?」

「やっぱりさ、早いうちに子ども産んで、育てちゃったほうがいいかなって思うんだ」

 つきちゃんの言葉に、私はすぐに反応ができなかった。そうだよね、と反射的に返すことが出来ない。

「え、あのさ、つきちゃん彼氏いたっけ? 結婚する予定があるの?」

 問いの代わりに出てきた不躾な質問に、つきちゃんは穏やかに答える。

「ううん、ないよ。高校生活の中で好きな人ができなかった。だから、とりあえず人工受精で産んで、家族で育てようかなって思ってる。私絶対子育て苦手だから、お母さんから色々教えてもらいたいし」

 とりあえず、とつきちゃんは言う。とりあえず妊娠して産む。とりあえず、とにかく、まずは。妊娠と出産の話をするとき、母もその言葉を必ず言う。

 私はつきちゃんに質問を重ねる。

「それさ、家族はなんていってるの?」

「女の子だから仕方ないね、っていう空気。私もその空気に逆らう気は起きないから、なんとなく従っておこうかなって」

 つきちゃんの言葉が、私はなにひとつわからない。つきちゃんの成績がいいのは、もともと頭がいいこともあるんだろうけど、それよりも地道な努力のためでもあるのだ。つきちゃんは私が勉強する量の何倍も量をこなしている。そして、その努力の源は「いい大学に行きたい」という動機があるものだと、私は思っていたのだ。

 でも、つきちゃんは大学に行かずに子どもを産むという。

「つきちゃんはそんなにいい成績を取るのに、家族に反対されたから大学に行かないの?」

「うん、まあ……考えても仕方ないし。あとさ、お母さんになると国から手当もらえるでしょ? もちろんそのお金は子どもを育てるのに使うけどさ、それを百パーセント子どものために使うんじゃなくて、八十パーセントくらい、使ってさ。そのちょっと削った分を、ヨリにあげようかなって思ってるんだ。予備校代とかね、ほかにも、色々。足しになるかなって」

 そう言ってつきちゃんは笑う。でも笑うつきちゃんに私は詰め寄る。

 どうして? どうして? 仲良しのつきちゃんのはずなのに、何を考えているのかこんなにもわからない。

「でもさ、つきちゃんすっごい頭いいじゃん。この前の模試でも、判定全部Aだったんでしょ? それなのに、もったいなくない? 絶対大学行ったほうがいいよ」

「でも私大学行ってもやりたいことないんだよ」

「じゃあ、どうして?」

 私は多分、このとき本当に心底理解ができない、という顔をしたと思う。

「じゃあどうしてつきちゃんは勉強するの?」

 私にはわからない。大学に行く気がないなら、あさひや恵那や他の女子みたいに、勉強なんてしなければいいのだ。部活をして出会いの場を増やし、そこで彼氏を探したり、学校を卒業したあとの生活を見据えて料理教室や家事教室にいけばいい。毎週のようにお見合いをしている子もたくさんいる。

 でもつきちゃんはそれをしない。人よりも机に長く座って、勉強を続ける。そして、私がどんなに頑張っても取れない学年一位を取ったうえで、進学しないという。そんなつきちゃんの思考が、私には理解できなかった。

「ええっと」

 つきちゃんは数秒間をおいて言葉を整理していた。それからゆっくり、小さな子供に諭すように私へ話す。

「私は、学校で勉強することって今しかできないと思ってるんだ。だからしっかりやろうと思ってる。大学に行くためじゃないんだよ。

 それにさ、たとえ大学に行かなくても勉強したことって無駄にならないよ。将来子どもに勉強教えるとき、使えるかなって思う。昼休みとか、ひなに勉強教えてるのも、リハーサルみたいなものかも」

 ダメ押しのようにつきちゃんは続ける。

「私は女だから、子どもを産んで育てれば生活できる。でもヨリは男だから、できるだけいい会社に就職しないといけない。私の勉強は生きるためには必要でもないけど、ヨリは絶対必要条件になってる。私とちがって、ヨリは選べないから。だから、勉強は弟に譲るよ」

 そう言った後に、つきちゃんは私へのフォローも欠かさなかった。

「大学へ行くっていうひなは偉いと思う。私はさ、大学にそんな憧れってないんだ。去年、O大とY大のオープンキャンパスにひなといったでしょ? でもさ、私には大学があんまり楽しそうに思えなかった。男子ばっかりで、女子がいなかったし。女子大もあるけど、東京にしかない。そこまでして行かないとだめかな? って思うし」

 それにもう、とつきちゃんは言った。

「お母さんが許してくれないよ」

 私はこのとき、顔をしかめたと思う。会ったこともないつきちゃんの母親が、私の母親と重なっていく。

 人を追い詰めていく、頭に響くヒステリックな高音。

「『ヨリが可哀想だから、つきはヨリを助けてあげてね』って。もう聞き飽きるくらい、言われてるんだ。だから、大学に行く気にはなれないよ」

 丸めた主婦雑誌、叩かれる机と、与えられるサプリメント二粒。

 手間がかかった、温かくバランスの良い朝食。鉄アレイのように重い弁当箱。

「やっぱり、お母さんは私より、ヨリのほうがかわいいんだろうな。なんとなく気持ちはわかるよ。私も自分がお母さんだったらヨリのことかわいがっちゃうと思う。ヨリは家だと全然しゃべらないし、おはようもロクに言ってくれないけどさ。でも放っておけないんだよ。かわいげがあるっていうんだろうな、ああいうのは」

 弟のヨリくんの話は、つきちゃんから聞いたことがある。あんまり成績良くないんだよ。勉強みようかって言っても、いやがるし。そんなことを前に話していた。

「つきが男の子に生まれてればよかったのにね、っていうのがお母さんの口ぐせ。でもまあ、仕方ないよ。私が男に生まれてたら、それはそれで大変だったと思うし」

 つきちゃんは来週事前検査を受けて、問題がなければ来月にでも人工受精を試すという。親戚のツテで、評判のいい病院の予約を取れたのだそうだ。でもつきちゃんは他にも気になる病院があるので、いくつか見学にいくそうだ。

「もしさ、実際やってみて、つきちゃんおすすめの病院とかお医者さん見つけたらさ、教えてよ」

 私はできるだけ明るい声で言った。

「ネットのレビューなんか信頼できないし。つきちゃんが良いっていうところが、いちばん信頼できるよ」

「ひなのために体当たりで試してくるよ」

「頼もしいなあ」

 無難に会話を終わらせながら、私は頭を殴られたようなショックで、体の力が抜けていた。

 つきちゃんが大学に行かない? 弟に進学を譲る?

 自己を犠牲にするようなつきちゃんの話を聞いた途端、毎朝バス停にサプリメントを捨てている自分の行為が子どもっぽく思えて、恥ずかしくなった。母へのささやかな抵抗。なんの意味もない、くだらない反抗。

 それに比べて、つきちゃんはなんて大人なのだろう。どこの大学にも行けるぐらい頭がいいのに、自分は進学せず、弟に譲るという。そして自分は子どもを産むという。

 家族に迷惑をかけないように。自分は女に生まれて運が良かった。ヨリは男に生まれて可哀想。

 でもさそれって、と私は思う。つきちゃんの意志がどこにもない。

 つきちゃんは、本当はどうしたいの?

 つきちゃんは、本当にそれでいいの?

 それを聞いたところで、つきちゃんの返事は想像がつく。

 つきちゃんはきっと、曖昧に笑うだけなのだ。それから、よくわかんないや、と続ける。賢いつきちゃんでさえ、自分が本当にどうしたいのかわからないのだ。

 それであれば私はなおのこと、何もわからないだろう。

 そして、私は何もわからないまま、バス停に二粒のサプリメントを撒き続けるのだ。


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