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 数ヶ月前のことだ。母と大きな喧嘩をした。母が業を煮やして始めた喧嘩だった。

「ひな、早く病院決めなさいよ。アンタもうすぐ十八になるんだよ?」

 夕食が終わったあとの出来事だった。片付けをしているとき、母が用意していたように言った。

「となりのヨシカちゃん、もう病院決めたって。田山総合病院。あそこは予約取りにくいけどすごく評判いいから、はやばや予約取っておくみたい」

 どうするの? と母が詰め寄る。

「順位が三位だからって、ホントに大学行く気なの? 大学出るまで産まないつもりなの? そうじゃなくてさ、産める歳になったらすぐ産んだほうがいいって、絶対。若いほうが体力の回復も早いんだから」

 考えてる、と私は言う。考えてるよ、お母さん。私だってちゃんと。

「いっつもそうじゃない。本当はこのまま有耶無耶にしてれば大学に行って逃げ切れると思ってるんでしょ? そんなのダメだからね。今子ども産まなくて税金かかって、最終的に迷惑するのはお父さんと私なんだから」

 彼氏を作る様子がない私に、母は繰り返し人工受精を勧めてくる。若いうちに子どもを産んでおいて、税金の免除をしておいたほうが後々楽だ、というのが母の主張だ。そして多分、母の主張には父も賛同している。表立って言わないだけで。

「お母さんの友達でね、すごく頭がいいからって子ども産まないで大学行って、そのまま就職して、結局三十すぎて子ども産めなかった友だちがいるの。もう本当に悲惨よ? 男みたいに税金払って働き続けないといけないんだから。女なんて絶対に出世できないし。産んでおけばよかった、っていうのがその子の口癖。ひなもそうならないように、って思ってるの」

 私は何も言えず、黙る。母親の提案に、イエスも、ノーもいいたくない。口を閉ざして俯いていると、母は益々激高し、ヒステリックに詰め寄る。

「あのね、そうやって黙るけど、私だってこんなこと言いたくないんだからね。ひなにできるだけ健康な状態で、元気に子ども産んでほしいから毎日毎日御飯作ってるんだから。それなのにひなはしなくてもいい勉強ばっかりして、目の下にくま作ってる。夜ふかしは母体によくないし、子宮の成長が止まるんだよ。子ども産めなくなったらどうするの!? 産めなかったら私とお父さんに税金払ってもらうつもりなの!?」

 自分で払うよ、と言うと、絶対無理、と母は語気を強めて言う。

「そーんなの絶対無理。いい、この国は女は子どもを産むようにできてるの。別にね、子どもを産まなくても逮捕されたりしないけど、それに逆らって女が大学行って就職したって意味ないの。みんなそうしてるのに、どうしてひなはそれができないの?」

 私は母の問いかけに答えない。答えたくない。そうしていると、この嵐は過ぎ去っていくからだ。でも今回に限っては、母は私の逃げを許さなかった。

「いい加減にしてよ! いつまでそうして黙ってるの!」

 母は丸めた主婦雑誌で食卓を叩く。ばんばんばん。

「そんなに行きたいなら大学行ってもいいよ。でも絶対に、ひとり産んでからにしてよ。私たちに迷惑かけないで。いつまでも親がいるって思わないで!」

 これ持ってってよ、と母がひと抱えある書類の束を渡してきた。それは病院のパンフレット群だ。郵送されたり、持ち帰ってきたり、人から譲ってもらったりしたものだろう。

「私考えるの疲れたから、ひなが決めて。病院とか、時期とか! 私がいくらいっても聞かないんだもん、もう私つかれた」

 でもいい? 母が強く念を押す。

「絶対に子ども産んでよ。払わなくていい税金払い続けるなんて絶対にバカバカしいんだから。ひなは女に生まれたんだから、役目を果たしてそのメリットを最大限に活かしなさい。お父さんは何も言わないけど、私と同じことを思ってるんだからね」


 自室にある私の勉強机の上には、そのとき押し付けられたパンフレットの山ができている。私はその山からひとつ取り出し、中身を眺める。つやつやした、カラープリントのパンフレット。

 小谷レディースクリニック 〜新しい命の誕生を応援します〜

 パステルカラーでデザインされた紙面を眺める。「母体に無理をかけない出産」を掲げ、妊婦ひとりひとりに専門カウンセラーをつけ、細やかなケアをしてくれるらしい。

 サンプルとして載せられている病院食も、彩り豊かで美味しそうだ。浴場はまるでレジャー施設のようにゆったりと広く、暖かな間接照明に照らされていた。保険は適用されないが、妊婦用の整体も受けられる。レディースクリニックと名乗りながら、リゾート施設のように見えた。

 ほかにも病院はある。オーガニックを売りとし、玄米食を基本とした食事ができるもの。ペット同伴OKのもの。胎教、ヨガ、アロマ、ピラティス……。

 ひとつひとつを比べてみるが、まったく気が進まない。きらきらした紙面へ視線を滑らせるだけだ。

 仮に母の言葉に従ったとして、人工受精を選んだことを周りはなにか言ってくるだろうか。旦那さんがいないなんて子どもがかわいそう、とか、焦って産まなくても相手は見つかるよ、とか。

 そして、税金から逃れるために子どもを産んだのだと、影口を言われるのだろうか?

 実際そのとおりなのだから返す言葉はない。私は知らない男の精子を胎内に入れ、十ヶ月間育てて外に出すのだ。施設に預けることもできるが、世間体を考えれば産んだ後も実家で育てることになるのだろう、母と一緒に。

 でも本当は大学に行きたいと思う。別に大学でやりたいことがあるわけではない。専門的に学びたい分野があるとか、外国語が話せるようになりたいとか、そういう目的があるわけでもない。

 ただ、私は他の男子生徒よりも出来がいいのだ。もちろんつきちゃんと義高くんの次ではあるが、大学にいけるぐらい成績がいいのだ。それをみすみす捨てて、大学に行くな、子どもを産めと押し付けられるのは納得できない。

 私は大学に行きたい。行ってみたい。この家から出ていって、もっと勉強がしたい。そのために中途半端な偏差値の大学ではなく、学費が必要ない公立の大学に行きたい。

 そうしたら私は納得して、そこで相手を見つけたい。結婚して家庭を築きたい。

 けれども母は、父は、それを認めないという。一歳でも若いうちに子どもを産み、身を落ち着けろ、と言う。女だから大学に行かなくてもいい、と言う。

 みんながそうしてるから、日奈子もそうしなさい。結局、普通が一番なんだって、気づくときが来るんだから。どうしてあなたは普通になれないの?

 母と世間は同じ呪文を繰り返す。

 みんながそうしてるから。みんながそうしてるから。みんながそうしてるから。

 ――もし、みんなが子どもを産まなかったら、私も産まなくていいんだろうか?


 私はパンフレットを放り出し、タブレットを開く。インスタグラムを見るためだ。そこではあさひが新しく記事を投稿していた。

 ほんとに嬉しい、というコメントとともに、リングピローに乗せられたペアリングが映っている。大きな指輪と、ひと回り小さい指輪。装飾のない、シンプルなリングだった。


 おめでとー!

 >ありがとう!学校にはつけていけないから、しばらくしまっておくんだけども。

 

 めっちゃきれい!これMirfänäだよね?

 >そうだよー。ずっとここがいいって言い続けたら買ってくれた!

 

 これからも、よろしくお願いします。

 >こちらこそ、よろしくお願いします笑笑


 クラスメートから祝福コメントがつけられている。いいね! も二十四個ついていた。その中につきちゃんのアカウントを見つけたので、私もそれにならっていいね! を押した。私からあさひに向けて掛ける言葉なんてなにもない。せいぜい敵意がないことを示すアクションしかできない。

 ほかのクラスメートの投稿を見たが、新しくできたカフェに行ったとか、セールでたくさん服を買ったとか、とくに興味を惹かれるものはない。ひと通り更新された記事を見た後、つきちゃんのアカウントを見てみる。つきちゃんの投稿は、去年の十月を最後に止まっていた。

 いとこの結婚式に出席しました。というコメントとともに、会食が映されている。天ぷらの盛り合わせ、小鉢、お味噌汁とご飯とデザート。色合いは賑やかだが、画面は暗いし構図も平坦だ。いいね! も六個しかついていない。

 つきちゃんらしいな、と思う。つきちゃんはインスタグラムは義務でしているだけで、あんまり興味がないんだろう。ツイッターも見るためのアカウントしか持っていないと話していた。

 つきちゃんは私の家族のように、勉強することを糾弾されるのだろうか、と考える。私はよく、つきちゃんに親の悪口をこぼす。うっとうしい、押し付けがましい、いなくなればいいのに。でもつきちゃんからはそういう言葉を聞いたことがない。弟のヨリくんの話をぽつぽつと聞くくらいだ。

 私はつきちゃんの家族のことを考える。つきちゃんの家族はきっと、つきちゃんと同じように、おだやかな人柄なのだろう。雑誌で机を叩くなんて野蛮なことはしないはずだ。

 つきちゃんの家庭では、穏やかな人たちがしずかに食事を摂っている。つきちゃんはそこで、きれいな箸使いで微笑をたたえながら食物を咀嚼している。

 それはなんだか、とても理想的な家庭に思えた。何も言わない父と、口数の多い母と、反抗的な娘しかいない私の家庭とはかけ離れている。

 私はベッドから降りると、リュックから教科書を引っ張り出す。

 全国統一模試は再来週だ。子どもを産むべきだ、と考えている両親を説得するには、模試で結果を出すしかない。いい成績を、それこそ神童つきちゃんを超えるぐらいの成績を出さないと納得してもらえない。

 私は情報通信の教科書を開く。応用問題の文章を読みながら、爪を噛み、ノートへ計算式を乱雑に書きなぐった。

 階下からは、母が食器を洗う音が聞こえる。いつもよりも強い力で茶碗と茶碗をぶつけ、大きな音を立てて洗い物をしているように聞こえた。


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