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 布団の中から手を伸ばし、体温計を手探りで掴み取る。前と後ろを指で確認すると、すぐに舌の裏側へ突っ込んだ。そのまましばらく待つと、アラームが鳴る。口の中から抜き取り、暗がりで結果を確認する。三十五度二分一厘。数字が何度か点滅したあと、浮き出てくる「送信成功」の表示を見届けると、プローブを消毒し、ケースにしまう。それから勢いをつけてベッドから降りた。

 食卓へ向かうと、朝食が並べられていた。今日のメニューは、わかめと玉ねぎの味噌汁、サバの塩焼き、キャベツの千切りと茹でたブロッコリーだ。デザートは櫛切りされたオレンジ。向かいでは父が、トーストだけのシンプルな朝食を摂っている。

 箸でサバを崩していると、母が鍋を掲げて言う。

「味噌汁、飲み切っちゃってくれない?」

 私は了承し、空のお椀を差し出した。そこへ味噌汁のおかわりが注がれていく。

「日奈子、これも」

 母がキッチンから食卓へ腕を伸ばし、私へジップがついた小袋を渡してくる。中身は葉酸が摂取できるサプリメントだ。

 私はそこから二粒取り出し、近くにあったティッシュに包んでポケットに入れた。母は生卵を箸で細かくほぐしている。ボウルの底に箸が当たる忙しない音が、キッチン中に響いていた。

「今日、遅くなるの?」

 フライパンに卵を流し込みながら、母が私に聞く。

「うん、十七時半のバスで帰ってくる」

「そう」

 カンカン! と母がボウルのふちを強めに箸で叩く。音の大きさで怒気を示すようにも聞こえた。少し前までは、もっと早く帰ってこいとか、家で勉強したらいいでしょとか言われたけど、もう母は何も言ってこない。きっとすでに諦めているんだろう。

 朝食を終えると洗顔を済ませ、制服に着替える。パジャマを脱いでいるときに、さきほどティッシュに包んだサプリを取り出し、学生カバンの内ポケットにつっこんだ。ティッシュ越しに指先で粒のコリコリしたところをつまみ、なくしていないことを確かめて安堵する。こうしないと、サプリを飲んでいないことが母にバレてしまう。

 最後に母から弁当を受け取り、家を出た。青いギンガムチェックの袋に包まれた弁当箱は、最近ますます重くなったような気がする。それはカバンの中で、海に沈めた錨のように私をつなぎとめているように思えた。錨はより深く、底を目指して潜っていく。

 私が通っている高校は、家からバスで三十分かかる場所にある。やってきたバスはいつも通り学生でいっぱいになっていて、まるでスクールバスみたいだ。バスに乗り込むといつもの席に付き、タブレットで英単語アプリを立ち上げた。

 Colleague、同僚。Totally、完全な。Punish、罰する。

 そのうち、右斜め前に並んで座った二人の女子高生が会話を始めた。

「そういえばさーえのち最後の週どうする? 今月でしょ? どっか行く?」

「映画は?」

「最近なんかやってたっけ」

「なんか、世界滅亡系のやつ。いまランキング一位だったと思う」

「絶対まずいでしょ。赤ちゃんお腹のなかでびっくりするよ」

「じゃあベタに大舞神社行こうか」

「お守り買う? 安産祈願とか」

「まーもう死ぬほどもらってると思うけどね」

 彼女たちの会話に耳を傾けながら、私は英単語にチェックをつけていく。

 Implement、実施する。Enhance、強調する。Compound、調合する。

 バスが高校の近くに止まると、生徒たちはこぞって乗降口へ向かった。私もその列に混ざりながら、鞄から丸めたティッシュを取り出す。そしてバス停へ降りるとき、中身を地面へ向かって落とした。薄茶色をした小さな二粒は、すぐに空中へ飛んで見えなくなる。

 このバス停の周りには、おそらく四百錠近くのサプリメントが撒かれている。そのすべては私が撒いたものだ。

 葉酸三百マイクログラム、鉄分十ミリグラム、カルシウム百ミリグラム、その他栄養素。

 毎朝二粒ずつ、バス停まわりの土壌は豊かになっていく。


 朝のホームルームの時間だった。連絡があります、と野村先生が話し始めた。

「みんなも知ってると思いますが、中村さんが明日から産休に入ります」

 先生が促すと、あさひが席を立って前に出てきた。お腹が大きいので動きづらそうにしている。彼女が通る道を広くするため、両脇の生徒が机をそれぞれ左右にずらし、あさひはそのたびに「ごめんごめん」と謝っていた。

 あさひは膨らんだお腹をさすりながら、先生の脇に立つ。

「みんなと高校生活を送れて、楽しかったです。私は卒業まではいられないけど、卒業式には出席します。これからは自宅で勉強をするので、わからないところがあったら聞くかもしれません。その時は、よろしくお願いします」

 あさひはお腹がつぶれないように、角度の浅いお辞儀をした。

「えー中村さん……あれ、名字もう変わるんだっけ?」

「先生、まだでーす」

 恵那が挙手をし、茶々を入れた。

「入籍は冬です。クリスマスにするので」

「あーそうか。じゃあまだ中村さんでいいんだな。これから中村さんは暫く学業を離れて、公務に入ります。そんな中村さんに、拍手を贈りましょう」

 教室中に暖かい拍手が湧く。私も拍手をした。あさひは皆から祝福を受けて、照れくさそうに笑っている。

 あさひが席に戻ったあと、先生は話題を変えた。

「あと、みんなが気になっている中間テストの結果を配信しました。各自で確認してください。テスト結果は三者面談でも使います」

 男子から、えーという声が上がり、おのおのタブレットを取り出している。対して女子の反応は薄い。私は斜め前に座っているつきちゃんを見た。つきちゃんはタブレットも見ず、ただ静かに先生の話を聞いている。涼しい顔をして、前を見つめていた。

 ホームルームを終えて先生が出ていくと、男子が「何位だった?」とか、「古典ノー勉でも全然とれてるわ」とか言い合っている。私もようやくタブレットを取り出し、テストの点数と学年順位を確認した。

 総合得点は八七二点。学年順位は三位。

 見る前から予想はついていた。だから大して驚かない。私は席を立ち、つきちゃんに声をかける。

「つーきちゃん」

「んー?」

「何位だった?」

 つきちゃんはタブレットから顔を上げ、ほがらかに微笑む。そして、声に出さずに、いち、と口元だけ動かした。そのとき、ふわっと柔軟剤の匂いがして、私は嬉しくなって頬が緩む。

「すごいなあ、つきちゃんは」

「ひなは?」

「つきちゃんよりは低いよ」

 私がそう言うと、つきちゃんは困った顔をする。

「うーんまあ、でもやっぱり気になるよ」

「三位だったよ。なんとか死守した。つきちゃんのおかげでさ、数学今回すごくよかったんだ」

 つきちゃんが一位で、私が三位。じゃあもう、二位は誰かわかる。たぶん隣のクラスの義高くんだろう。

 この順位は、もうずっと変わらない。義高くんがつきちゃんを超えることもないし、私が義高くんを超えることもない。つきちゃんは必ず一位だ。それぞれ頑張っているはずなのに、順位は判子を押したようにいつも同じだ。

「つき先生、また情報通信教えてほしいな。この間の模試のマージソートの問題、一問しかわかんなかった」

「あれかー。私も全部答えられてないんだよ。一緒に考えよ」

 でも私は知っている。つきちゃんはいつも、結局のところ正解しているのだ。最後は勘だった、とか、自信なかったんだけど、とか言いながら、きちんと正解を答えている。

 今回のテストの出来について話していると、保健の羽田先生が教室のドアから顔を覗かせ、高坂さん、と声を掛けられた。

「ごめんね、こんなところで。高坂さん、今月分まだみたいだけど、登録忘れかな?」

「えっ、登録しましたよ。二週間くらい前です」

「でもサーバーにデータがないんだ。あとで見てもらえるかな」

「はい。すみません」

「もしアプリでうまくいかないなら私の方で手入力するから、今度教えてね」

 先生はそれだけ言って立ち去った。つきちゃんは心配そうな顔をしている。

「ひな、大丈夫?」

「うーん」

 私はタブレットからアプリを立ち上げ、今月の生理日を確認する。こんなことはこれまでになかった。生理が来たらすぐにアプリへ登録しているようにしている。忘れる、なんてことはありえないはずだ。

 でも、原因はすぐにわかった。アプリが立ち上がると、小さなウィンドウが表示されたのだ。


【データ送信エラー:電波状況の良いところでリトライしてください】


「あー、通信切れてて送信失敗してた」

 生理日を登録したとき、データを送信している途中で建物の外に出たのだろう。結果として無線の切り替えがうまくいかず、データが送信されないままアプリ上に残り続けていたのだ。

 エラーメッセージを見せると、つきちゃんが笑う。

「そんな表示はじめて見た。珍しいんじゃない?」

「ねー。こんなことあるんだ」

 私は設定で学校のネットワークにつながっていることを確認すると、もう一度生理日を入力し、送信した。今度はあっさりとデータが送信され、次回の生理予定日が表示される。きっとサーバーにも反映されただろう。

「そうだ、つきちゃんさ、忘れないうちに聞いてもいい?」

 私はタブレットに指をすべらせ、先週の模試で受験した数学ⅡBを表示させる。大問六にまるで歯が立たなかったのだ。つきちゃんは計算跡を見ただけですぐに察していた。

「これ、惜しいところまでいってるね。ここまで来たらもうひとつ公式が必要なんだよ」

「そうなの?」

「うん。長くなると思うから、昼休みね」

 つきちゃんがそう言ったとき、ちょうど予鈴が鳴った。もうすぐ現代文の平原先生がやってくる。

 私はタブレットをスリープさせ、自席に戻った。現代文のワークと教科書を取り出し、シャーペンをノックする。

 あさひが、いなくなる。

 知ってはいたが、先生からそう告げられると、いよいよ実感が出てくる。またひとり、このクラスから女子がいなくなる。

 二週間前にも、友里が産休に入った。その前の週も、他クラスで産休に入った女子がいた。このクラスは春には十五人女子がいたが、今は十人になってしまった。そのうち二人がすでに妊娠していると聞いている。

 来年の三月までに、いったい何人残っているんだろう?

 いったい何人が、卒業式に参加できるんだろう?

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