てのひらの上の『リンドウ』
李適
Ⅰ、男とオトコの子
リンドウが咲いている。
小ぶりな花弁を風に揺らしながら、青紫の香りをあちらこちらに、花壇の隅で可愛く踊る。
男はそれを見るともなしに眺めていた。いや結局は見てはいなかった。どちらかといえば、男は遠くで遊ぶ子供たちの方を眺めているのだった。それも結局は、ただ目に映っているというだけのことであったが。
男はもうすこし、漠然としたことを考えていた。それは大まかにいえば、彼の過去のことであった。また将来のことであった。同時に世の中全てのことであり、しかし彼自身だけのことであった。つまり、本当のところは、なにも考えてはいないのだった。ただ考えると言う行為にのみ、頼りをおいているというだけのことだった。
男は絶えず自分の頭の中が、よくわからない綿のようなもので敷き詰められていると感じていた。重さの一切感じさせない、密度の濃い靄がかった綿。それは綿であるために、なんの形も積極的に作れはしなかった。男は満たされない鬱屈とした不安を、世界で自分だけが抱えていると感じている、典型的で、傲慢な劣等感を持つ、弱々しい、愚か者であった。しかし、彼だけが彼の特別のところを信じて疑わない、ただ一人の人間だった。
男は目の前の遊具や砂場で遊ぶ子供たちをながめるにつれ、次第にむしゃくしゃしたものがたまっていくのを感じていた。本人はそれに気づいていなかった。いや、気づいていたが、気づかないふりをしていたのかもしれない。
彼は、公園のベンチに腰掛けながら、過去自分にもあった幸福の時を、いま、目の前で、なんの感慨もなく無為に消費していく子供たちを、ゆるせなく思った。なぜあのときだれも、もう二度とはないその時間を有意義に過ごすことを教えてくれなかったのか。彼は誰ともしらない彼の記憶のなかの人間を、無性に腹立たしく思った。
もし、俺があの場にいる園児どもの監督者だったら、一刻も早くあいつらに教えてやるんだがな。お前らみたいに鼻をたらしながら、いたずらに泥で服を汚すことばかりを覚えた人間は、何事も成せずにその一生を棒に振るんだとな。いつまでも周りが、幸せをお膳立てしてくれると思ったら大間違いだ。自分は何かをもらって当然だというような顔をしやがって。いつでもが奴らにとってはクリスマスや正月というわけなんだろう。はん、しかしそれが時間の幸福ということであれば、過ぎ去っていくまでのことさ!
憎々しげに園児を睨み付けると、男は色褪せてもとの色のよくわからなくなったズボンから、しわくちゃになったタバコを、取り出した。しかしライターが見当たらなかった。たしかに同じところに入れたはずなのに、あのプラスチックの手応えはどこにも感じられなかった。
男はタバコを口に咥えると、苛立たしげに服のポケットをひっくり返しはじめた。どのポケットからも、糸屑やレシートが飛び出してきた。しかし、不思議なことにライターはどのポケットにも見当たらなかった。彼のブルーのライターは彼のポケットから完全になくなってしまっていた。
そんなはずはない!俺が忘れるべきでないものを絶対に忘れたりするはずがないんだ!ブルーのライターだったはずだ!ブルーのライターを絶対におれは、このポケットに入れたんだ!
自分にだけ訪れる不幸がまた気まぐれにやってきた。男は世の中に対する憎々しい気持ちを再び強くした。すると、
「おじさん、ここはタバコ吸っちゃダメなんだよ」と幼いつくような声が不意に背後から聞こえてきた。
驚いて声のする方をみると、いつの間に来たのか、ベンチの横にオトコの子が一人座っていた。裾の広がったポンチョのような服と、ゴム紐のついた帽子を袈裟懸けにして、一目であそこにいる子供の一人だということがわかった。
はじめ、男は戸惑った。急に声をかけられたこともあるにはあったが、あれほど腹を立てていたものが急に目の前に現れたことにたいする動揺の方が大きかった。苛立ちというのはいつだって、自分と直接関係のないものだと思うからこそ、その感情のふれが大きくなるものである。それが突然目の前に立って現れたとなると、何かよくわからないものにたいして、出鼻をくじかれたと思わずにはいられなかった。
けれど男はすぐに思い直した。話しかけられたのが小さな子どもであることにきづいたのだ。そして、そんな子供にまで後ろめたさを感じる自分に、男は多少の哀れみと、苛立ちとを感じた。
「ふん。だから、吸ってないだろうが。ほら、見えないか。タバコは火がついてなきゃ吸えないんだよ」
語気を強めて突慳貪にいいはなつ。急に話しかけられた腹いせにすこし、脅かしてやろうとおもったのだ。
ただ男のおもったような効果はうまなかったらしい。オトコの子は「ふうん」と呟いたばかりでつるっとした調子だった。
男は、そのオトコの子の態度に、必要以上に馬鹿にされたものを感じた。積極的に傷つけるよりもなお酷い、人格上の侮蔑が、そこにはふくまれているような気がしたのだ。男の頭からは目のまえにいるのが小さなオトコの子であることなど、すでに抜け落ちていた。彼の目には、もはや彼の信じる世界しか存在していなかった。
(彼は自分の頭の中を過剰に信じるが故に、よく現実との齟齬を生じさせることがあった。そして、自分の頭を過剰に信じるために、それを現実側の誤りだと、頑に断定し続けた。彼は手前勝手に現実に三行半を叩きつけ、それでいながら、それを現実側からの拒絶だと思っていた。彼と現実との溝は永久に埋まることがなかった。彼は愚かであった。しかし、そのために、彼は永久に孤独な人間であった。)
「分かったら早くあっちに行かないか!そこにいられると、迷惑なんだよ!」
男は急に声を張り上げた。
オトコの子はその大きな目をパチクリさせた。男の言ったことがよく理解できない、というふうにも見えたが、しかし突然のことで恐らく本当に驚いていたにちがいない。なにせ男自身も、突然の自分の大声に、呆けていたくらいであった。
しばらくオトコの子は、男の顔を見つめていた。その表情はなんとも言えない独特の表情だった。そしてその表情はおそらくオトコの子の目にあった。
ベンチに腰掛けたオトコの子の目は、純粋な、鉱物の目だった。不意に子供だけが見せる、あの、混じり気のない、純粋な、鉱物の目だった。透き通って、どこまでも澄みきった、深い、黒色の瞳。オトコの子の顔はその目のために、どこまでも単純なようでいて、それでいてどこまでも複雑な色がみえた。
オトコの子は一つひとつ、言葉を確かめるように口を開いた。
「でも、この公園は広いし、他にもベンチはたくさんあるよ。たぶん、ぼくがみただけであと4つはあったかな。それに、いま公園には子供だけだから、みんな遊具の方が楽しいし、ぼくがここにいても、あまり迷惑にはならないとおもうよ。ベンチ座っているのだって……、ほら、おじさんだけじゃない」
男は、それを聞くと「はん!」と、大袈裟に咳払いした。
「いいか、これからくたびれた大人が、集団でくるんだよ、お前は知らないかもしれないがな!ベンチはな、そういう人間のためのもので、公園は本来そういう人間のための場所なんだよ。そのとき、お前なんかがベンチに座っていたらどうだ、邪魔じゃないか?邪魔だろう、いやきっと邪魔に違いないんだ!俺の言ってるのはそういうことなんだよ。ベンチはお前らなんかが座るためのものじゃないんだ。分かったか!分かったら、さっさと仲間のとこにいっちまえ!」
それを聞いたオトコの子は顔色一つ変えずに、
「ダメだよ、おじさん、嘘ついちゃ。だってまだお昼よりずっと前だもん。みんなお仕事してるはずだよ。いっぱいで来るなんて嘘だよ」
と当たり前のことのように返すのだった。
男はうるさそうに舌打ちした。そうしてはじめてオトコの子の顔を正面に見据えた。幼いながらもくりりとした真っ黒い目が印象的で、目鼻立ちの、すっととおった、利発そうな顔立ちをしている。そのオトコの子の賢そうな顔立ちが、また男の膨れ上がった劣等感を刺激した。
「じゃあ、正直に言ってやる。いいか、よく聞け。俺はガキが嫌いなんだ。だからお前と話していると、俺が迷惑なんだよ。ベンチに座りたきゃいくらでも座ればいい。ただ、俺の横にだけは座るなといっているんだ。その、きいきい甲高い声を聞いてるとな、うざったくて虫唾が走るんだよ」
「それほんとう?」
「本当だとも!なんだって、この俺が嘘をつかなければならないんだ。おれはお前らなんかきらいなんだ。はやく、あっちへ行けったら!」
オトコの子は小首を傾げる。それは、やはり子供だけが見せる、あの奇妙な鳥類の傾げ方だった。
「おじさん、それ変だよ。だって、おじさん、さっきから、ずっと遊具の方を観てたじゃない。ふつう、ほんとうに子供が嫌いだったら、あっちの方はみないんじゃないかな。ぼくもね、実は犬って苦手なんだけど、あんまり目を合わせたいとおもわないんだ。だって、犬って目があったら友達になれるって思うのか、こっちに近寄ってくるんだもん。僕は噛まれないか見てるだけなのにね」
オトコの子はそう言うと、けらけら笑い出した。まるで話しが噛み合わない。男はこの、幼児特有の頭から抜けるような笑い声が、心の底から嫌いだった。まるで本当に、この世に面白いことが存在するとでもいうかのようなその笑いを見ると、どうしてもぶち壊してやりたくなるような気持ちに駆られるのだった。
「いいか、よく聞けよ」男は今日、何度目かになるいいかを繰り返す。
「俺はな、お前たちみたいにくだらないことで笑っていられるほど、暇じゃないんだよ。なにもしなくても幸せが用意されているお前らとは違うんだよ。俺にはおまえらと違って、やることも、やらないといけないことも山ほどあるんだ。俺の幸せは、俺が用意してやらないといけないんだ。それをただ、いまベンチに座っているというだけで、お前らなんかとおんなじだと思われちゃ溜まったもんじゃない!俺がいまここに座っているのと、お前がいま俺の横で話しているのには、天と地よりも大きな差があるんだ、……お前らにはわからんかもしれんがな!そうだとも、俺はこれっぽちっだって暇なんかじゃないんだ。俺は忙しさでいっぱいなんだ。それで頭がはち切れそうなくらいなんだよ。……なあ、俺の言ってることが分かるか?分かるよな、いやきっと分かるはずだ!……ほら、分かったんだったら、はやくあっちへ行かないか!」
男はほとんど狂人のようであった。現に、彼を構成する半分以上は、現実社会からみれば狂っていたのかもしれない。ただ、彼をみていたのは現実社会ではなかった。彼をみていたのは一人のオトコの子だった。一人の、小さい、鉱物の目を持った、可愛らしいオトコの子であったのだ。
「じゃあ、おじさんは忙しいんだね?」
「さっきからそうだと言っているだろうが!」
「それじゃあなんでベンチなんかに座っていたの?」
「馬鹿だなおまえは。動くことだけが忙しさだと思っていやがるっ。俺のやっていたのは精神の労働さ。他の人間が束になって一生かかっても働かすことのできないような精神の労働を、俺が買ってやっているのさ」
「精神を働かせるってどういうこと?僕、よくわかんないんだけど」
「そのまんまの意味だよ!世の中の人間はとかく、何にも見えちゃいない。頭を働かせることもできないような馬鹿ばかりが、めくら、のように世の中をさまよい歩いていやがる。しかも、そいつらはそんな自分を自覚しようともしていない。世界はいま目の前にあるというのに!だから俺だけは世の中をはっきり見つめて、他の奴らが見つめていない分まで、ちゃんと世界を認識してやっているのさ!それが精神の労働さ!」
「……うーん、よくわかんないけど、それ、そういうふうに精神を働かせるとどうなるの?」
「『どうなるか』だって!『どうなるか』なんてことが、本当に大事なことだとでも、そうだとでも、思っているのか!」
「だって、働いたら、普通お金がもらえるわけでしょ?それって誰かのために何かをやってあげたからだよね。おじさんはみんなの代わりに働いているわけでしょ?だから……、どうなるのかなって」
「精神の労働に金銭が支払われるだと?おまえらは本当になにもわかっちゃいない。精神の労働はそんな金で置き換えられるようなものじゃないんだ。お前らはすぐに物質的な豊かさを幸せだとおもいたがる。それがお前らを、めくら、にしているのだとも知らずに!それがお前らを卑しい豚にしているのだとも知らずに!」
「それじゃあ、僕たちはそのうちぶくぶく太っていっちゃうんだね。嫌だなぁ、ぶうぶういって暮らすのは」
「いいや、お前らはもうすでに豚なのさ!お前は生まれたときから自分の幸せを考えたことがあるか?その幸せがなにによって培われているか考えたことがあるか?いつまでその幸せが続くか考えたことがあるか?ないとしたらお前は豚だ。いや豚以上だ!餌を与えられているだけにも関わらず、それに気づこうともしない。そしていつかじぶんが幸せを徴収される側になってはじめて気づくのさ、自らが豚以上の豚であったことにな。だから俺はお前に本当のことを教えてやっているのさ。制限付きの幸せなんていうのはいずれ、消えてしまうクリスマスのような幻灯なんだよ、とな」
「うーん……。やっぱり、僕にはよくわかんないけど……。それじゃあ、おじさんはサンタさんみたいなことしてる、ってことかな。おじさんが、そうやって代わりに働いてくれるから、それでぼくたちは、毎日楽しいって、そういうこと?」
「サンタだって?」
「うん、サンタクロースだよ。しらない?いろんなものをみんなにプレゼントして、喜ばせてあげるんだよ。しかも、おじさんみたいにお金ももらわないんだって」
「はっ。サンタだって!たしかにあいつも惜しいとこまでいるのかもしれないな。ただあと一歩のところで、わかっちゃいない。あいつは結局のところ物質さえ配っておけば、それで万事丸く収まるとおもっているが、しかし俺から言わせてみれば、それこそが大きな間違いさ。そのために、俺たちは物質があることが満足だと思い込ませられる、そうして金銭なんていう煩わしい猥褻物のために、働かせられる。ほら、こうやって俺たちは意味もわからず、金なんてものの奴隷になるのさ。結局、サンタのやつだって、一年のうち1日は肉体を働かさないといけないんだろう?これが、滑稽な事実でなくてなんだっていうんだ。そうやってあいつが物質的な満足をガキに植え付けてしまうがために、奴も無償でかけずり回らせられる羽目になるのさ。俺から言わせれば愚かで、馬鹿な、間抜けだ。そんなことにならないように、奴も最初から精神を働かせていれば良かったんだ。同じ無償なら、おなじことじゃないか」
「でも、サンタさんはみんなが喜んでくれるから、それがお金の代わりになっているんじゃない?せいしんの、ろうどう?は、物じゃないから、物以外のものを代わりにもらっているんだよ、きっと」
「どちらにせよ、見返りを求めてる時点で同じことさ。その行為が純粋であれば、代替物なんてどうして必要なもんか。なにかを受け取らなければ成立しないものなんて嘘さ。純粋な行為とは、それ自体で何ものにも置き換えられないものなんだよ、本当に。精神の労働だけが、この世で唯一、純粋な行動なんだ。労働なのに、行動じゃないから、純粋なんだ。サンタが精神の労働者とお前、いま言ったか?バカをいえ。他の人間から喜びを徴収するために働いている奴が、精神の労働者なものかよ」
「……ふうん。それじゃあ、おじさんはその代わりになにも必要ないんだね?たとえば、みんなが、そうやって、代わりにおじさんが世界をみてくれる分、たくさんのお金をあげるよ、って言われてもおじさんは本当に必要ないんだね?」
「金だって!そんな馬鹿馬鹿しいものが配られるだって!はっ、よしてくれ。そんなものが配られるなんて、俺の純粋な精神が、はっきりと見開いたこの目が、お前らみたいな豚の精神に汚されて、くぐもっちまうじゃないか!」
「でも、ほんとうに、ほんとうにだよ?みんながおじさんに感謝して、なにかを渡してあげたい、受け取ってもらいたいと思ったら、僕たちはどうしたらいいのさ。みんな本当になんでもおじさんに上げたいんだよ、お金でもなんでもね」
「はっ、余計なお世話だよ!俺にそんなことを考えている暇があったら、お前らはその濁りに、濁った頭をなんとかするのが先さ。俺みたいに、世界を少しでも見られるようになったら言ってくれよ。まあ、その時はそんなことがどれくらい無駄なことか、わかっているだろうがな」男はそこでちょっと言葉を切ってから、思案げな表情を見せた。左斜め上を見つめ、目だけが忙しくきょろきょろし、なにかを思い出す時の、焦点の定まらない爬虫類のような感があった。
「……でも、そうだな。どうしてもというのなら、俺がいま欲しいものはライターだな。それもブルーのライターさ。おれが絶対にポケットに入れていたはずのな。これは誰かからもらうんじゃないからな。なにせ、世界が俺から不法に盗んでいったものなんだ。俺はたしかにこのズボンのポケットにしまっていたんだから。それを勝手に『不幸』なんてかたちで世界が持っていきやがった。おれは常々、思うんだよ。奴らはこうやって精神の労働者から不当な盗みを働いて、その分を豚に分け与えているんじゃないかってな。それで精神の労働者から、金銭の徴収を執り行えている気になっているんじゃないかってな。だから、これはもらうんじゃなくて返してもらうんだ。世の中が奪ったものをおれがもう一度手に入れるんだ。なあ、お前どう思う?俺には、俺のタバコを吸う権利があるだろ?これは俺の正当な要求だよな?」
オトコの子を追っ払おうとしていたことなど忘れ、彼は気軽に話しかけていた。しかし、いつまでたっても、あの甲高い耳をつく声は、返ってはこなかった。
男は振り向いた。そこにはベンチがあった。ペンキの剥がれ、ささくれの剥き出しになった、秋の風の中にすさぶ寂しいベンチだった。幾度も触れられて赤茶けた錆色の手すりが、秋の陽にくすんでいる、そういうベンチだった。そして、そこに座っているはずの、オトコの子の姿は、どこにもなかった。
そんなはずはなかった。
意味もわからず、男は慌てて周囲を見渡した。公園は公園のままだった。子供たちも子供たちのままだった。乾いた空気も、色の変わり始めた梢の揺れも、缶やそれ以外のゴミで溢れたアルミの屑入れも、全部そのままだった。ただ、オトコの子だけが、公園からいなくなってしまっていた。どこにも、オトコの子の姿だけが、完全に、消えてしまっていた。
男の足元で、散らかしたレシートのくずが音を立てた。
一瞬目を離したすきに、どこかにいってしまったのか……たしかにそれが1番ありそうだが……けれどそのことに俺が気づかないものだろうか……すぐそばにいたんだ、あのガキは。まるで鼻先さえ着けそうな勢いで……ベンチは公園のまんなかにある。そこからほんの僅かな時に、どこに隠れることができるだろうか。……走って遊具のほうに戻ったのか?それとも裏側の林に……なにを言ってるんだ、俺は!……いま、まさにそれは俺が確認したじゃないか!……俺が、確認したんだ。だとしたら間違えるはずがない……それに、子供の走る音というのは、がちゃがちゃとしていて、消そうとしたって消せるもんじゃない。まず間違いなく気づくはずだ……とすると、あのガキは間違いなく、いま、この公園にいないことになる……そんなことがありえるだろうか?そんなことが現実に起こるうるだろうか?……俺が現実を取り違えたのか?精神の労働者たる俺が?……いや、それこそありえない!俺が、世界の認識をはかり間違えるなんて!……でも、しかし、……なにか勘違いをしているのか?……なにか見落としているのだろうか?……この俺が?……この、俺が?……なにか、勘違いを……
「あのぅ……」
驚いて、男は振り返った。
呼んでいたのは、女性だった。柔らかそうな生地の、ピンクと白のチェックのエプロンを着て、胸にあしらわれた犬のワッペンが舌を出して笑っている。その後ろには二人、子供がエプロンの端を掴んで隠れている。
「すみません、急に……。あのこれ、落とされませんでしたか?」
女性の手にはライターが握られていた。プラスチック製の、淡い、ブルーのライターだった。それはたしかに、男の持っていた、ライターそのものだった。
「あ、ああ……」
男の返事は、しかし、明瞭な音にはならなかった。風の間にさらされて、散り散りになってしまう、そういう類の声だった。
男はライターを受け取った。どこからどう見ても、それは彼のライターだった。
「これ、この子たちが公園の入り口でひろったらしくて。おもちゃにしようとしてるところを見つけて、私が注意したんですよ。『どこでそんなもの拾ったんだ』って。そしたら、あの、ベンチに座ってらしたのが見えたので、……もしかしたらそうかもしれないとおもって」
言い淀んだときの女性の目線は、間違いなく男の格好の薄汚さを指していた。けれど、男にとっては、そんなことなどもはやどうでも良いことだった。
「……その子たちが、これを拾ったんですか?」
「あ、ええ、そうですよ。ほら、隠れてないで、前に出てしっかり謝らないいとダメでしょ」
後ろにいた、二人の子が、ゆっくりと出てきた。一人は、エプロンの裾を掴んだままだった。もう一人は、自分の親指のささくればかり気にしているようだった。そうして、二人ともが、やたらと色彩豊かな、市販の、厚手の子供服を着ていた。あのポンチョのような、園児の服などではなく……。
「ほら、はやく謝らないと、ほら」女性は子供たちの背中を軽く押す。
「あ、いや、それはいいです。……それよりも、その」
「は、なんですか?」
「いえ、その、ふくなんですが」
「この子たちの洋服がどうかしましたか……?」
「おたくは幼稚園ですよね?」
「え?え、いや、うちは託児所になってて、あの、保育所ってわかりますか?幼稚園とはちょっと違うんですけど……」
「それじゃあ、その子たちの服は」
「ああ、そういうことですか?保育所ですから、特に規定はないんですよ。だからみんな自由な服を着てきてて、ね?」
男の子たちは手を握られたが、ちらと顔を上げた程度で、返事をするそぶりはなかった。
男は目を丸くしながら、その子たちの格好を眺めた。そして、遊具の方であそぶ子供たちに目をやった。一人一人やたらとカラフルで、それでいて形のちがう服ばかりだった。女性の言ったことは、どうやら本当らしかった。
「じゃ、じゃあ、ポンチョのような……、ゴム紐のついた帽子をつけた男の子、ひとりいるでしょ?ね、ひとり?」
「いや、いませんよ……。そんな格好してる子は」女性は気味悪気にする。
「いるはずだよ!現にさっきまで話していたんだ……、そう、ちょうどそこに咲いている花みたいな、そんな感じの色の、裾の広がった服だったんだよ!白い帽子をひっかけた!」
男の大声に、女性は少し後ずさった。そうして、横にいた子供たちを、守るように自分の後ろに隠した。
「そんな子、いませんよ……。それに、花って、これリンドウですよね?敬老の日とかに、おくる……。こんな紫のスモック着せてる幼稚園、たぶんないと思いますけど……、うちも体操服の帽子は、黄色になってますし……」
いちいち女性の言う通りだと、男はおもった。たしかに、なぜ自分はそのことを、まず第一に不思議に思わなかったのだろうか。紫の服と、真っ白い帽子だなんて、どう考えたっておかしいじゃないか。そしてなぜ、その服装だけを見て、あそこにいる子供と、おんなじものだと思ったのか。おれは、たしかに、みていたはずなのに。
一度、変だとおもうと、次々に合点のいくところがあった。思い起こしてみれば、変なところしかなかったと思い当たるくらいだった。
しかし、男はそのことに気づかなかった。そして、気づかなかったということに、男は気付いたのだった。
そして、もう一度、男は独りごちた。
「おれは、たしかに、みていたはずだったのに」
「あの、大丈夫ですか?」保母さんの声は、多少うわずっていた。男の態度は異常だった。それは、『この世』の、だれの目から見ても明らかなことだった。
「それじゃあ、ライターお渡ししたので……。あ、ほら、前でて。頭下げて、ね」
前に出された子供たちは、そのまま促されるようにして頭を下げた。男はその子たちの、引きつった表情を見るともなしに、みていた。けれど、その子たちの目は、決して男の目とは合わなかった。彼らは、最初から最後まで、一度も男の顔を見たりはしなかった。
保母さんも、子供たちも、そのまま戻っていこうとしていた。男は、ぼうと呆けていた。ひどく大きなものに裏切られたような、そういう気がしていたのだ。けれど、そんな心の空白になんだか突き動かされるようなものがあった。なにかは、やはりわからなかった。しかし、いままでの綿とは違う、はっきりとした形を持った、明確な衝動だった。
男はベンチを立ち上がって、保母さんを呼び止めた。
「すみません」
「は、なんでしょうか……?」急に呼び止められた保母さんの顔には、明らかな怯えの表情があった。
「特になにかあるわけじゃないんですが……、さっきこの花が敬老の日に贈られる、って言ってましたよね。どうして敬老の日に贈るんです、なにか……、花言葉かなんかが由来なんですか……?」
「ああ……。私も詳しい理由はよくわからないんです、でもたしかリンドウの花言葉って……、『正義』とか『勝利』とか、あとは……」
保母さんは、いったんそこで言葉を切った。
「そう、あとは『悲しんでいるあなたを愛す』っていうのも、たぶんあったとおもいます。うろ覚えで申し訳ないんですけど……」
「悲しんでいる、あなたを愛す……?」
「ええ、由来まではちょっと私もわからないんです……、申し訳ないですけど……」
保母さんは、早く子供たちを連れて、その場を立ち去りたそうだった。子供たちも、その後ろに隠れたままだった。
「それじゃあ、あの、失礼します……。」
保母さんは、何度目かになる、「あの」を呟いて行ってしまった。
男の頭の中では、『悲しんでいるあなたを愛す』という言葉が、こだましていた。頭の中の綿も、その音を吸いとれはしなかった。どころか、その音が響くたび、頭の綿は、すみの方で小さく、細かく、固まりつつあった。さっきの心の空白に、その残響がいつまでも残っていた。音が響くにつれ、頭の中にすっかりなにも無くなっていくのを、男は感じていた。
この言葉のなにに、惹きつけられたのか、男はわからなかった。しかし、なんだか非常に大事な言葉のようにおもった。聞けば聞くほど、暖められるような、締め付けられるような、澄み切っていくような、そんな気のする言葉だった。それだけで、何かに対して報いなければならないような、そんな気のする言葉だった。
保母さんと、子供のいなくなった後も、男はしばらく突っ立ったままだった。ふとベンチのほうを向いた。先ほどまで自分の座っていたところにレシートとゴミと、皺くちゃになったタバコが落ちているのが見えた。そして、その少し離れたところに、プラスチックの固まりのようなものが落ちていた。ちょうど、先ほどまでオトコの子が座っていたあたりの場所だった。
男は近づいて、それを拾い上げた。みると、それは男の落とした、ブルーのライターだった。男が忘れるはずのない、絶対にポケットに入れていた、世界に盗まれてしまったはずの、ブルーのライターだった。男が、すでに手に持っているものと、全く同じブルーのライターだった。男のライターは、最初のものと、今のものと、二つ存在していた。
そのとてつもなく奇妙な現象に、なぜだか、男のなかには驚くような気持ちは湧いてこなかった。どころか、それをなんだかひどく自然なものだとおもった。そして、後に拾ったライターの方が、心なし、青の色が紫がかっているような、そんな気がした。より、透明で、純粋で、どこまでも澄みきっているような、そんな気がしたのだ。
男は、オトコの子との会話のことをおもった。オトコの子は『みんな本当になんでもおじさんに上げたいんだよ、お金でもなんでもね』と言っていた。男は、もしライターじゃなかったら、と考えた。もし、それ以外の何かを欲しがっていたら。もし、金が欲しい、とでもこたえていたら、と考えた。
途端に、なんだか背中に薄寒いものが走った。ライターとこたえていて良かったと、男は心の底からおもった。そして、今拾った方のライターを優しく、包み込むようにしてズボンの右のポケットにしまった。それは、おそらく、二度と世界に盗まれないようにするための、精一杯の男の防衛策だった。
それから、男は散らかしたゴミを拾うと、最初にもらったライターと一緒に、今度は左のポケットにしまった。ゴミとライターはポケットに入ると、すぐ地面に落ちた。男はもう一度、左のポケットをひっくり返した。左のポケットには裏地がほつれて、大きな穴が空いていた。指どころか、手がまるまる入ってしまいそうなくらい、大きな穴だった。それをみた男は、そんなことにも自分は気づかなかったのか、と思わず苦笑してしまった。
また、秋の涼しい風が流れた。落ち葉と共に、次第に寒くなっていくことを告げる、乾いた秋の風だった。男は、思わずその寒さに身震いした。
男は、いまが秋であることをおもった。風の冷たいことをおもった。落ち葉の、流れていくことをおもった。少しずつ寒くなっていく、これからのことをおもった。自分の身なりの汚く、寒々しいことをおもった。男は明日のことをおもった。生きていくことをおもった。そして、明確に、明日を生きていく自分の姿を、思い描きはじめていた。過去でも、将来でも、世の中のことでも、彼自身のことでもなく、明確に明日を生きていくことを、男は考えはじめていた。
その男の足元には小ぶりで可愛らしいリンドウが、秋の風に揺れながら、咲いていた。青紫の香りをあちらこちらに、小さな花弁を揺らしながら、可愛く踊っていた。
よく晴れた、風の涼しい、秋の昼時、ある公園の、花壇の隅で、
リンドウが咲いている。
リンドウが咲いている。
てのひらの上の『リンドウ』 李適 @riteki
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