死想者・後編
……で。
結局何だったんだ、あの講義は。
建物の外に出ると、熱帯夜の蒸し暑い空気が俺を取り囲んだ。
ぞろぞろと、ボロボロの建物の中から人が吐き出されていく。清々しい顔をしている人もいれば、重い顔をする人もいる。
俺は建物の影に入って、キシリトールを含む煙草に火をつけた。スマホで暇を潰しながら、例の講師が出てくるのを待つ。
《死想教室》
ふと駅前で受け取ったチラシと同じものが、壁に貼られていると気づいた。
《生きることに疲れていませんか? 死ぬことに前向きになれませんか? そんな時は、死想教室へ来てみましょう!》
A4の白い紙の上で、顔文字みたいにデフォルメされた蝙蝠がセリフを吐き出している。
その下に、講義の日時や時間、《無料体験講習受付中!》という文面がつらつらと添えられていた。
シンプルで飾り気がない。手書き風文字のフォント。内容の不自然さを除けば、ぱっと見、普通の広告だ。
《死想とは? ……死を想え(メメントモリ)+思想の造語。死ぬための思想です。特に、死にたくても死ねないことでお悩みの方に、この教室を訪れて欲しく思います。自分自身を見つめ直し、理想的な死を迎えるために》
最初は高年の終活向けかと思ったが、《高校生から社会人の新卒、ご高齢の方まで、あらゆる人々が活用しています!》なんて、書かれていた。
感想も載せられている。
《講義を聞いて、自分の死としっかり向き合うことができました》
《死ぬのは意外と大変でした。でも、講義を聞いてから死んでよかったです》
茶番だ。死人からどうやって感想を聞くんだ?
俺がこの講義に興味を持ったのは、胡散臭さに惹かれたから。要は興味本位。最初から真面目に受けるつもりなんてなかった。
内容はイカれてたが、講義の雰囲気は普通だったな。帰り際に高い壺を売りつけられることがなくてよかった。
『死ね』
もし自分が死ぬとしたら。
時々想像する。
ああ、俺は。できることなら、事故死したい。即死したい。苦しむのは嫌だから。
……けど、事故死は人様に迷惑かけるのか。今日の講義を聞いた感じだとな。
突然隕石が降ってきて、俺にぶつかってくれないかな。
生きる理由なんてない。
けど、死ぬ意味もない。
ただ惰性の命に身を任せ、受け身に死を待っている。
『死ね』
3本目の吸い殻を捨てた頃に、トナカと呼ばれていた中年の男が出てきた。
その後ろを、あの全身黒づくめの講師がそっと押している。
「先生、先生……あ゛りがどうございまず……」
中年男は鼻声だった。泣いているのか?
「大丈夫ですよ。貴方ならできます」
「はい゛……」
「トナカさん、涙を拭いて。生きている間は笑いましょう。気をつけてお帰りください」
「……っ゛、う、ぅ゛……」
「必ず、安らかな死を」
中年男と講師は校舎の入り口で別れた。
ずるずると鼻水を啜る音を立てて、トナカが俺の傍を横切っていく。
俺はその背中を見送って、路地から顔を出してみる。講師も中年男に背を向けて、遠ざかろうとしていた。
俺はそっと、その後を追う。
『死ね』
講師の名前は、
こいつは詐欺師だ。いや、犯罪者か。人に死を勧めるのは、法律に背く行為だ。
例えば人に「死ね」と言って、自殺を決意させた場合。それは自殺教唆という罪になる。6ヶ月から7年の懲役および禁錮の刑に処されるから、殺人罪ほどではなくても、なかなかの罪状となる。
『死ね』
スマートフォンのロックを解いて、無音カメラを起動する。講師が写真の真ん中になるようにかざして、さっと一枚撮った。
……けど、後ろ姿しか映らないな。
何とか、顔を撮れるといいんだが。
何をするかって。ネットにばら撒くだけだ。某掲示板のネタにする。こいつが犯罪者だと吊るし上げられれば、そのうち警察も動くだろう。
直接警察に行かない理由?
手続きとか面倒そうだからな。俺はスレさえ立てられればいい。後は野となれ山となれ。
『死ね』
無人の交差点に出た。信号が機械らしく自分の仕事をしている。夢羽は赤信号のまま横断歩道を渡った。
『死ね』
おいおい、車がいないからって。
『死ね』
俺も時々無視するけど。
『死ね』
……。
『死ね』
『死ね』
『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
「うるさい」
くそ。さすがに集中できなくなってきた。手に持つスマホを下ろす。
こんな時に"発作"だ。
頭の中にがんがんと響く声。
『死ね』
『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』
『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
声質はわからない。
男か女かわからない。
1人なのか大勢なのかも分からない。
昔から度々聞こえるこの"声"は、生きている俺を否定する。
『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』
『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
「うるさいっ!!」
これは幻聴だ。幻聴だと、わかっている。
耳鳴りのようなもの。俺は何もおかしくない。
『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』
「ヨハラさん?」
不意に声を掛けられた。
「驚きました。急に大声をだされて、どうしたのですか?」
夢羽だ。尾行に気づかれた。
『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』
「酷い汗だ。どうぞこれを」
夢羽は黒い服のポケットに手を入れ、白いハンカチを差し出してきたが。俺は受け取れない。
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』
『死ね』
「本日は私の話を傾聴していただき、ありがとうございました。無料体験講習はいかがでしたか?」
『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』
うるさい、黙れ。
『死ね』『死ね』
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
「静かにしてください」
不意に、夢羽が声を低くした。
「誰だか存じませんが、講義の時からしつこいですね。ヨハラさんの死を決めるのは貴方ではありません」
「……え?」
一瞬俺の思考が止まる。
『死ね』
「貴方は誰ですか?」
『死ね』
「いい加減にしてください。お前が口を挟むんじゃないッッ!!」
空に響くほどの一喝。
そしてしんと静まり返る……"声"が、ぱったりと止んだ。
「……。あんた、まさか。あの声が聞こえていたのか?」
呆然としていると、夢羽は「ええ」と短く答えた。
「生徒の中には、幻聴に悩まされる方もよくいらっしゃいますからね。ヨハラさんは講義中も無視していらっしゃったので、逆に触れない方がよいかと思っていましたが」
初めてだ。あの声に気がついた人は。
「どうして先生に聞こえたんだ? "声"のこと、何か知っているのか?」
俺に精神疾患の類はない。聞こえ始めた時は医者にも通っていたが。難聴や脳神経障害の一種だろうと片付けられて、未だに原因不明だ。お祓いもしてもらったが、何も変わらなかった。
だから思わず期待する。この"声"の意味に答えがあるのかと。
「いいえ。わかりません」
だが、返答は虚しいものだった。
「ただ、その"声"は貴方の中から発せられています。それは間違いない」
「幻聴に悩んでいる生徒がいたってなら、俺と同じ奴だっているんじゃないか?」
「同じかどうかは判断しかねます。人から聞こえるものは様々ですから。それに、見えない者の声など、気にする必要はありませんよ」
「……」
「辛いですよね。生者は軽々しく『死ね』と口にする。見えざる者も、口の悪い言葉を並べて命令する。誰であろうと、人の"死"を強要するなど。全くもって、悪どいことだ」
ところで、ヨハラさんは私に何か御用で? ご質問ですか?
と、話題を切り替えて、夢羽が表情のない目で笑った。
……何だか。取り越し苦労をした気分だ。
「駅に向かう道は反対ですよ」
俺は「あー、そうなんですね。間違えました」と、すっとぼけた。
今のところ、盗撮には気がつかれていないようだ。
「いえいえ。あの校舎は辺鄙なところにありますから、迷ってしまうのも仕方がありません。本日は死想教室に足を運んでいただき、ありがとうございました」
「いや、こちらこそ、貴重なお話を聞けてよかったです。どうもありがとうございました」
ぱっと頭を下げた。すぐに「それじゃ」と踵を返して、そそくさとその場を去る。
……人の幻聴が聞こえるだって?
チラシの〈死んでよかったです〉と書かれた内容を思い出した。
というか、本当に聞こえていたのか?
夢羽は〝声"と会話をしたわけじゃない。それに、幻聴に悩む生徒を何人も見ていると言った。
「わからない」と、曖昧な答えを言うのは簡単だ。
なんだか鎌を掛けられた気もする。でも、講義中の声にも気が付いているしな。
胡散臭い。気味が悪い。だから、投げかけられた言葉にも警戒する。
俺は無情か? でも、幻聴が落ち着いたからって、別に感謝するべきことじゃない。
あの“声"は、不定期に、あるいは俺がびびると止まる。一瞬だけな。
『死ね』
ほら。どうせまた戻ってくる。
相手にするだけ無駄だって、俺も長年の経験で知っている。
死想教室の講師は読心能力者(サイコメトラー)……なんてオチも、ありかもしれない。
今日のことは、オカルト掲示板にも流せそうだな。
背中に視線を感じる。
なら。一瞬でもシャッターチャンスがあるかもしれない。
早足で歩きながらスマホの無音カメラを起動する。あいつの立ち位置を確認しようと、ちらっと振り向いて――――
「何をしているのですか?」
真後ろから声がした。
「ひっ!?」
思わず仰け反る。心臓がばくばくする。
いつの間に? 夢羽は俺の背骨にぴったりくっつくくらい、距離を詰めていた。
「び、びっくりさせないでくださいよ……」
「意地が悪いですね。盗撮は感心しません」
夢羽の顔つきは険しい。
あー……。これはまずいかもしれない。
「何も撮ってないですよ」
「信用なりませんね。画像を私に許可なく拡散性の高いところに投稿すれば、肖像権の侵害です。データを確認させていただけますか?」
「……わかりました」
仕方ない。「ちょっと待ってください、えーっと……」と、もたついたフリをして、写真を消そうとする。
「…………っ!?」
「なんて。良かったですね。嘘が本当になっていて」
講師は真面目な顔を解いて、冗談吹いたように笑った。
俺は自分のスマートフォンを凝視する。
画面に映る、電灯に照らされた夜の歩道。そこには誰も写っていなかった。
おかしい。影も形もないって。
「貴方も虚しい人だ。他者を貶めるためなら、犯罪も厭わないつもりで?」
こいつ、何だ? 幽霊か?
やっぱり心を読まれている気がした。
「……犯罪だなんて大袈裟だな。肖像権の侵害は法律じゃなくて、憲法の範疇だ。あんたのしていることに比べれば、民事で済む問題だろ」
俺も自身を正義だと言うつもりはない。とはいえ、刑事で裁かれるべきは明らかにこいつだ。
お化けだか何だかわからないが、もう猫かぶりは必要ない。俺は反論を口にする。
「おや? 脅したつもりだったのですが。お詳しいですね」
「これでも法学部出てるからな」
法学部? と、はたと夢羽が表情を消す。
「……ヨハラさん、もしかして。
よく知る大学名が出て、どきっとする。
「だったら何だ」
「奇遇ですねぇ。私も治政出身なのです」
まさかの先輩かよ。不気味な講師と変な共通点を持ってしまった。
「同じ学び舎で同じ法学を学んだ者。こんな縁があるなんて」
くっくっくっくっ。と、夢羽は重く喉を鳴らした。
「なら、ヨハラさんは不思議に思いませんでしたか? 世間はどうして、"死想"を悪しきことのように言うのかと。法律上、自殺は殺人と呼ばず、責任を問えないとして罪とはならない。なのに、自らを殺すことは"問題"に括られて許されない。矛盾していませんか?」
「さっき講義で言ってただろ。自死は迷惑なことだって」
「それも理不尽でしょう? 本来なら、死ぬも生きるも、人の自由であるべきだ。生きることに理由があるなら全力で生きて、死ぬことに理由があるなら誠実に死ねばいい」
無茶苦茶だ。
「あんた、何なんだ? 人間じゃないのか?」
「……何に見えますか?」
血の巡りに乏しい顔が、すうっと俺の前に近づいて来る。
「私は死ぬことが幸福だと説いていません。ただ。私の講義を聞いて、一人でも死んで幸せになってくれる人がいたら、嬉しいだけです」
口元だけが吊り上がる顔。まるで、死神だ。
『死ね』
死んで幸せになって欲しいなんて。
『死ね』
狂ってる。俺を呼ぶ"声"と同じだ。狂ってる。
「ヨハラさん」
静かな声が語る。
『死ね』
「生きる意味に悩んだら、いつでも私のところへ相談に来なさい。"声"に苦しめられた時も。同学のよしみです」
『死ね』
夢羽はいつもの笑わない目のまま、微笑んだ。
「よい終末をお過ごしください。それでは、これで。さようなら」
ふと気が付いた時には。
目の前に、いや、何処にも。あの黒い男の姿はなかった。
死想者 紅山 槙 @Beniyama_Shin
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