03.杏野先生とマリアンヌ

「ありがとう、まりあ先生」

「杏野よ、琴音さん」


  保健室のテーブルの上、甘い香りを昇らせたカフェオレが二つ。クッキーののった皿もある。一枚を齧りながら、琴音は笑った。

 それを見て、杏野も笑う。


「……実はね、あなたのお友達から、琴音さんが一人で教室に残っていて心配だからお願いって、言われたの」


 つと、琴音は下校を誘ってきた二人を思い出す。きっとあの二人だ。

 少し恥ずかしくなると同時に、申し訳なさが膨れた。カフェオレをゆっくりと飲んで、俯く。


 窓から入り込む風に、植木鉢のアイビーがゆらゆら揺れていた。まるで静かに話を聞きたがっているかのようだった。


「夕奈のことが心配なんです。それに私のせいかもって、思って」


 少しだけ声が震えたものの、誤魔化すようにまたカフェオレを飲んで、琴音は続けた。


「夕奈……最近ちょっと変だったんです。それで意地悪しちゃって……なんか隠し事してるみたいに思えたんです、それで……」


 気付けばぽたぽたと、涙が頬を伝っていた。袖で拭っても、止まらない。後悔と不安ばかりが湧きあがって涙となる。

 と。


「……それは多分、進路のことね」

「えっ?」


 琴音が顔を上げれば、杏野はまっすぐにこちらを見据えていた。杏野は普段から優しく微笑んでいる先生であったが、その時は普段に似合わず真面目な顔をしてた。

 その顔は一瞬だけ。杏野は口が滑ったといわんばかりに、誤魔化しの笑みを浮かべた。


「秘密にしてねって言われたけど、教えちゃうね……夕奈さん、実は進路で色々悩んでたの、大学に行くかどうか……」


 大学に行くか、どうか。唖然として琴音は瞬きをする。


「夕奈は、私と一緒の大学に行くって……」


 そう、そのはずだったのだ。そう話していたのだ。

 それが一体、どうして。


「それが、バレエをもっと頑張りたいって気持ちもあったみたいでね、大学かバレエか、悩んでたのよ」


 ――夕奈がバレエをやっていることを、琴音はもちろん知っていた。彼女が踊っているところこそ見たことがなかったが、身体は柔らかいんだよ、と足を広げてぺったりと床について見せてくれたことがある。


 けれども、まさか進学と天秤にかけるほど打ち込んでいたなんて、思ってもいなかったのだ。


 一緒に大学へ行こう、と言った時、夕奈はバレエのことを考えていなかったのだろう。彼女が嘘を吐くとは思えない――きっと、進路のことをしっかり考え始めた時に、バレエが自分にとって何であるか気付いたのだろう。


 正直に話せばよかったのに、と思うものの、今ならどうして夕奈が隠していたのか、理由がわかる――嘘を吐くことになるかもしれないから、言い出せなかったのだ。


 それなのに、自分は変に思って、親友に冷たくしてしまって。

 ますます後悔が溢れ出る。マグカップを持つ手に力が入ると、残り少ないカフェオレが音を立てて波打った。しばらくが経てば、その波は治まり、カフェオレの水面は静寂を取り戻した。


 一つの気持ちが、胸に灯る。


「……あたし、夕奈に謝りたい。それで、夕奈の相談にちゃんと乗りたいし……夕奈がどこに行こうにも、応援したい」


 しかし思い出して、また俯いてしまう。それでも再び顔を上げて、琴音は微笑んだ。

 めそめそしていたら、夕奈に笑われてしまう気がした。


「夕奈、どこにいっちゃったかわからないけど、また会えるよね……?」

「――ええ、きっと!」


 琴音の笑みに、杏野も花が咲いたような笑みを浮かべた。そうして「新しいの、淹れようか?」と立ち上がった時に。


 ――廊下から、可愛らしい音楽が響いてきたのだ。


「あら、もうこんな時間だわ」

「何の音ですか? これ」


 杏野は何か知っている様子で扉を見たが、琴音にとって初めて聞く音楽だった。

 得意げに微笑めば、杏野は扉を開けて廊下に出た。琴音も続けば、音楽は昇降口の方から聞こえているようだった。昇降口は保健室からすぐにあり、誰もいないその場所で、杏野は柱を指さした。


 指さした先にあったのは、掛け時計。普段から見ていて、琴音にも馴染みのあるものだったが。


「この時計、こんな仕掛けがあったんだ!」


 いま、その時計の文字盤の下が開き、バレリーナ人形が出現していた。音楽にあわせてくるくると踊っている。両腕も動かし、まるで生きているかのようだ。


 針は五時を示していた――もしかすると、二週間前、夕奈もこれをみたのかもしれない。確か別れた時、確かこれくらいの時間だったではないか。

 見ていたのなら、いいなと思う。バレリーナだし、きっと気に入ったに違いない。


「この時計、素敵でしょう? 私がおじいさまにつけていいかって、頼んだの」


 杏野はまるで少女のような顔をしてバレリーナを見上げている。


「まりあ先生のおじいちゃんって……あっ、学園長先生?」

「琴音さん、杏野、よ」

「あっ」

「まっ、いいか、まりあ先生でも」


 くすくすと笑う杏野は、どうしてか、同年代の少女のように思えるのだ。こういった人形が好きなところも。


「かわいいお人形ですね」


 白いバレリーナはくるくると踊り続けている。まるで自分達だけに、特別なショーを見せてくれているようだ。


「この時計ね、昔からうちにあってね……子供の頃、私はこのお人形をお友達だって思っていたの」


 ぬいぐるみに名前を付けて一緒に過ごすみたいに。そう、杏野は説明する。柱にある時計まで夕日は届かず、影が落ちてそこは暗くなってしまっていたが、バレリーナは光を纏っているかのように見えた。


「私が『まりあ』だから、彼女は『マリアンヌ』って名前にしたの」

「へえ……マリアンヌかぁ……本当に綺麗……」


 名前を口にすれば、マリアンヌが微笑んだかのように見えた。


 やがてぜんまいが切れたかのように音楽が止まる。マリアンヌのショーが終わってしまった。静かに舞台が閉じていく。昇降口は再び静寂に染まった。時計の針が進む音だけが、鼓動のように聞こえる。


「さてと、琴音さん。もうこんな時間だし、暗くなる前に帰りましょうね。私もそろそろ帰らなくちゃだし……」


 杏野に言われて、琴音も我に返る。五時を回ってしまったのだ。


「あっ、はい! ありがとうございました! まりあ……じゃなくて、杏野先生!」

「ふふ、別にいいやって言ったのに」


 杏野の微笑みは、先程のマリアンヌの優しく柔らかな笑みを思い出させた。杏野は人差し指を立てて、たしなめるように口を尖らせる。


「でも琴音さん、一人で帰るのは危ないわ。先生と一緒に駅まで行きましょうか……先生、職員室に荷物をとってくるから、ちょっと待っててね……あっ、マグカップ洗わなくちゃ」

「あたしが洗っておきます!」


 ごちそうになったのだから、これくらいやらなくては。琴音は保健室へと走り出した。


「ありがとう、琴音さん、それじゃあ、荷物をまとめてくるわ」


 杏野は職員室へと歩き出す。


「今度お茶するときは、夕奈さんも一緒に、ね」

「……はい!」

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