影の救済
とろたく軍艦
第1話
序章
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
第一章
「息子を返してよ!私の理想の息子を返してよ!」
おごそかな裁判所で女性の金切り声が場違いなほどに響いた.
「あんた達ができるって言うから,髪色は金で,瞳がブルーの息子を注文したんじゃない!全然違うじゃない!髪色は白だし,瞳の色なんて黒じゃない.こんな失敗作ならいらなかったわよ!」
マイケル・サンダーソンは,下を向きながら,誰にも聞かれないように小さくため息をついた.いったい何度こんなくだらない茶番に付き合ってきたのだろうか.
「静粛にお願いします」
裁判長の言葉で落ち着きを取り戻したのか.女性は椅子に戻った.だが,その目はこちらを激しくにらみ付けていた.
「判決を言い渡します」
残暑も落ち着いた10月の半ばだった.
判決が発表されてから,マイケルは母親と顔を合わせないように,そそくさと裁判所を出て,研究所へと戻ってきた.
「あら.帰っていたの.裁判はどうだったの?まあ,どうせ無罪でしょうけど」
メアリー・フォスターはコーヒーを飲みながら軽く話しかけてきた.裁判沙汰になってもひょうひょうとしていられるのなら,今後はぜひとも彼女に裁判に行ってほしい.
メアリーは会社の同僚だ.非常に頭脳が優秀で,研究者としては素晴らしいのだが,マイケルは入社以来ずっと彼女に苦手意識を持っていた.彼女の発言は基本的にすべて正論であり,正しいのは理解できるが,感情的に納得できるかはまた別問題だ.
「無罪だったけど,気分は最悪だよ」
判決が言い渡されたときの母親の憎しみのこもった顔を思い出して,苦々しい気持ちになりながらマイケルは言った.
「無罪だったならいいじゃない.というか,そもそもこの手の裁判で私たちが負けたことなんて一度もないんだから,堂々としていればいいのよ.遺伝子編集が確実に成功できる保証がないことなんて,何度も説明しているんだから」
ダイアン・ターナーが部屋に入ってきた.
「マイケルも戻ってきたし,早速これからのデザイナーベイビー作製のスケジュール調整を始めるわよ」
この研究所の正式名称は,受精卵遺伝子編集総合研究所.その名の通り,受精卵の状態で遺伝子編集を行うことにより,遺伝子のレベルで人間をデザインする唯一の施設である.遺伝子編集は,女性から卵子を取り出し,体外で受精させるところから始まる.その後,作成した受精卵内に,ある種の核酸とタンパク質 (Det54) を,電気を使って送り込む.核酸の配列に基づいて編集する遺伝子が決まり,Det54によって編集が実行される.これで遺伝子編集は終わりとなり,編集した受精卵は再び胎内へと戻される.そして,通常の出産過程を経て,遺伝子編集済み新生児,いわゆるデザイナーベイビーが誕生する.
だが,メアリーが言うように,遺伝子編集は100%成功する技術ではない.当然,受精卵に電気を使って核酸とDet54を送り込むので,受精卵にダメージが加わってしまう.その結果として,この段階で受精卵が死んでしまうこともある.この場合は,一カ月後にまた卵子を取り出せば良いので,高齢出産の場合は別だが,基本的には大きな問題にはなりにくい.一方,今日の裁判のように,重大な問題になってしまうケースもある.それは,私たちが親の注文に応えられなかったときだ.たとえば瞳の色.瞳の色は,三つの遺伝子によって決まる.これら三つの遺伝子のすべてで遺伝子編集が成功しなければ,注文者の希望はかなえられない.さらに,知能や体力,芸術性など,非常に多くの遺伝子が関わっている要素について注文が入った場合,成功率は格段に低くなるのに対し,莫大な費用がかかることになる.それでも,親として,できるだけ子どもには優れた遺伝子を持たせてあげたいと思うのだろう.遺伝子編集のために法外なお金をつぎ込む親は大勢いる.成功すれば私たちは感謝されるが,失敗すると恨まれる.今回のように,裁判にまで発展するのも決して珍しいケースではない.もっとも,遺伝子編集に失敗した子どもを失敗作呼ばわりする親に愛情があるのかは実に怪しいとマイケルは思っているのだが.
「それじゃあ,今日の会議はここまでね.さっき伝えたように,今週末までに,来週行う遺伝子編集で使用する核酸の配列表を作成しておくこと.以上」
ダイアンの言葉で会議は終わった.
私たちの業務のほとんどは,デスクワークである.翌週に控えている遺伝子編集の資料作成が主だ.両親の遺伝情報や遺伝子編集の要望を基にして,核酸の配列表を作成しておくことが業務内容である.実際に,溶液を調製して受精卵に電気をかけて送り込むのは,ロボットの仕事である.
また,私たちは遺伝子編集業務以外の業務をすることも許されている.それは基本的な生物学の研究である.培養細胞を用いた分子生物学研究や細胞生物学研究,マウスやラットなどの哺乳動物を用いた動物実験や,実際のヒト検体を使用する人体実験まで幅広く研究を行う自由が保障されていた.当然ながら,成果は研究所に帰属するが,自由に研究を行うことができるというのは科学者にとって一種の癒やしである.実際に,マイケルも業務の傍らで研究を推し進めて,何本か論文も発表している.
今日は裁判があったせいで精神的に疲れた.マイケルは最低限の業務のみを終わらせ,早めに帰宅することにした.家に食べる物がなかったことを思い出し,道中のスーパーマーケットでお弁当を購入した.購入したお弁当を温めながら,テレビを付けると相変わらず気がめいるニュースしかやっていなかった.どうやら臨時ニュースが入ったらしい.
「臨時ニュース.臨時ニュースが入ってきました.先ほど,ヤハルヴァ戦線より速報が入りました.我が軍が『反対派』のナレンバ基地を制圧した模様です.これにより私たちは勝利へとまた一歩近づきました.戦争終結は近しいものと判断します」
マイケルは大きく息を吐いてから水を飲んだ.ずっとこの調子だ.わたしの記憶にある限り,幼少期からずっと,ニュース番組では,我が軍の勝利と近い将来の戦争終結を唱い続けている.マイケルは今年30歳になるので,単純に25年近く勝利していることになるが,戦争が終結したことは当然ない.絶望的な気持ちに浸っていると,ニュースが先に進んでいた.
「今日も『反対派』の連中がデモ活動を行っているのを確認.『反対派』は仕事をしない暇なろくでなしが集まっているのでしょうか」
よく言えた物だと,マイケルは心の中でニュースキャスターをあざけった.デモ活動なんて私たち『賛成派』だって毎日のようにやっているじゃないか.自分たちのデモ活動は許せるのに,『反対派』のデモ活動は見下すのか.本当にどうしようもない世界だと思いながら,お弁当を食べ終えて,テレビを消した.
私たちが住んでいるのは外周およそ25,000 kmほどの大きさの島であり,周囲は海にとり囲われている.東西に短く,南北に長い形をしているので,東側と西側とで気候の差は特にみられないが,北側と南側とでは異なった気候となっている.北側の地域は気温の年較差が大きく,夏は平均気温が15℃近くになる一方で,冬は0℃を下回り,冬の間は積雪が続く.マツやスギをはじめとした針葉樹林が広がっており,居住者はほとんどいない.それに対して,南側の地域は最寒月の平均気温が20℃以上となり,年中多雨で気温の年較差は少ない.高さが10メートルを越えるような高さの,シイやカシをはじめとしたさまざまな常緑広葉樹が広がっており,居住者は北側と同様にほとんどいない.したがって,南北の中心付近に,東西に広がりながら多くの人々が生活をしていた.
私たち『賛成派』と『反対派』が戦争を始めたのはおよそ50年前のことである.『賛成派』とは,受精卵の遺伝子編集,つまりデザイナーベイビーの作製に賛成する勢力であり,『反対派』はその逆である.最初のデザイナーベイビーが誕生したのは,今からおよそ100年前.当時まん延していたウイルスに対する抵抗性を持つように設計されたらしい.それから瞬く間に遺伝子編集の技術は普及したが,決してすべての人が遺伝子編集を肯定的に受け止めていたわけではなかった.受精卵の遺伝子を人間の手で弄ることに対して生理的嫌悪感をもつ人々は決して少なくなかった.宗教上の理由により受精卵に人の手を加えるのを良しとしない人々もいた.当時,人々に受け入れられていた宗教の教義は,創造神によって今の自然の状態が作り出されたというものだった.遺伝子編集により生命のあり方が変わってしまうのではないのかと危惧する声が上がった.生命に対して人為的に介入するのは,神の領域に踏み込んでしまっているのではないだろうか.敬けんな教徒ばかりではなく,わずかな信仰心しか持たないような教徒も強く主張した.また,遺伝子編集に要するお金は決して安くはなく,一般市民が簡単に手を出すことはできなかった.だが,富裕層の人々は,自分の子どもをより優秀にするために,積極的に遺伝子編集を行った.そして,デザイナーベイビーは富の象徴となった.どれだけ子どもの遺伝子編集にお金を注げるかで親の愛情が測れると主張する人もいた.デザイナーベイビーが一般的になってからしばらくすると,スポーツ大会の上位層や,有名大学合格者におけるデザイナーパーソンの比率が高まってきたのだ.従来,貧富の差は私たちの共同体において重要な問題だったが,富裕層の人々が積極的に遺伝子編集を行い,デザイナーベイビー,デザイナーパーソンを作製するにつれて,貧富の差はより広がった.そして,60年前の選挙で,『賛成派』が初めて政権のトップに立った.首相は,幹部から『反対派』を排除し,『賛成派』のみの独裁政治を開始した.これにより,『賛成派』と『反対派』の両陣営の溝は決定的なものとなった.両者とも表立って相手を非難はしないが,政治的な緊張は非常に高まり,まさに一触即発の状態だった.
政権交代から数年後,ついに戦争の火蓋は切って落とされた.始まりは,一つの爆弾だった.遺伝子編集の反対主義者が,『賛成派』のパーティー会場で自爆テロを決行したのである.テロの結果,多くの『賛成派』の死者,負傷者が出た.このテロ事件をきっかけとして,『賛成派』は2年間の無政府期間を宣言し,『賛成派』と『反対派』の地理的隔離を実施し,東側に戦力を集中させ,戦争の準備を開始した.一方,『反対派』も政府様組織を設立し,西側に戦力を集中させ,戦争の準備を始めた.そして,無政府期間の宣言から2年後,『賛成派』は『反対派』に対して宣戦布告をした.これが今日まで続いている長きにわたる戦争の始まりである.
先ほどのニュースでも流れていた通り,私たち『賛成派』は局地戦で負けたことがない.常に勝利を収めているが,大局的には『反対派』に勝ってはいない.この理由として考えられるのは,おそらく人数の差だと言われている.単純な人口だけでは,『賛成派』は『反対派』のわずか2割であり,この差こそが,敵勢力を制圧できない理由なのではないか.ここまで大きな人口差が生じた原因としては,さまざまな説が流れている.とある新聞記者は,遺伝子編集によって卵子や精子の質が低下したことが原因である,と述べているが,その科学的根拠はない.また,『賛成派』居住地域のみで流行している風土病が原因とする説が流れているが,こちらに関しても,先ほどと同様に科学的根拠はない.最も有力な説は,『賛成派』と『反対派』を分けたときに,『反対派』には公的記録のない人々が多くいたのではないか,という説である.
とにかく,理由はどうあれ,我が軍が『反対派』に勝利し,戦争を終結するためには人数差を克服するほどの戦力が必要となる.遺伝子編集のおかげで,平均の知能指数で考えると,私たちは『反対派』を凌駕している.しかし,一部のみを極めた天才に限ると,『賛成派』と『反対派』で能力の差は明瞭ではない.その証拠として,武器や兵器の性能は,『賛成派』と『反対派』でほとんど変わらないことが研究で明らかになっている.これらの開発者の頭脳レベルは『賛成派』と『反対派』とで差がないことを示している.当然ながら,このようなデータはニュースには流れないし,知っているのも一部の研究者のみである.つまり,武器および兵器の性能で私たちが『反対派』に勝利するのは限りなく不可能に近い.そこで我が軍が考え出したのが,ゲノム兵士というアイディアである.運動能力や筋力,忠誠心などの兵士に必要とされる素養を遺伝子編集によって高めた兵士のことである.自らの子どもをゲノム兵士に志願させる酔狂な親などいるはずもないので,『反対派』から拉致した女性を使用することで作製する.拉致被害者女性から卵子を摘出し,強引に受精させ,遺伝子編集を行う.その後,女性の胎内に受精卵を戻し,出産させ,ゲノム兵士を作製するのである.まさに女性を,子を産む機械としかみなしていない非人道的な行為であるが,『賛成派』にはゲノム兵士を問題視する声はない.おそらくは,ゲノム兵士を糾弾し,使用できなくなることで,『反対派』に戦争で負けるのを恐れているのだろう.実際,ゲノム兵士の優れた活躍により,勝利をもぎ取った局地戦は枚挙に暇がない.だが,戦果が挙げられるならば,どのような行為も正当化される,という考えはマイケルの倫理感とは大きくかけ離れた物だった.
シャワーを浴びてサッパリとしたマイケルは,自らの気分を落ち着かせるためにルーティンである日記を書くことにした.以前,どこかの研究論文で,毎日日記を書くことでストレスを解消することができると書いてあったので,その日から日記を書いている.とはいっても,毎日書くことがあるわけではないので,気の向いたときにだけ書くようにしているが.だが,特に嫌なことがあったときには,日記に思いの丈をぶつけることが,日頃の鬱憤を晴らすはけ口になっているのも事実である.
10月18日.今日は,朝から裁判で非常に疲れた.自分の息子の髪の色と瞳の色が注文と違うという訴える母親との戦いだった.遺伝子編集をする前に,こちらが何度も,遺伝子編集が完璧な技術ではないことを説明して,納得していたにも関わらずこの仕打ちである.遺伝子編集の核酸情報に誤りはなかった以上,メアリーが言っていたように,こちらに落ち度はないので負けることは心配していなかったが,それでも憎しみのこもった目でにらまれるのも疲弊するのだとメアリーは分からないのだろうか.メアリーもメアリーだ.正論を振りかざしてきてうっとうしいことこの上ない.正論を振りかざしても誰も幸せにならないのだということを誰か彼女に教えてやるべきだ.それにしても,実の息子を失敗作呼ばわりしたあの母親は子どもに対しての愛情を持っているのだろうか.おそらく失敗した息子はしっかりと母親から愛情をもらうことはないだろう.彼のこれからの人生に希望はもうない.彼は生まれてくるべきではなかった.
マイケルはここまでを一気に書き終えて,いったん書くのを止めた.水を一口飲んで,気分を落ち着けた.彼は日記のページに目を落とす.そして,帰ってきてから見たニュースを思い出して,再び日記をつづりだした.
臨時ニュースも聞き飽きた.常に我が軍が勝っているにも関わらず,いつまでたっても戦争が終結しないのは一体なぜなのか.ゲノム兵士などというおぞましい技術まで使用しているにも関わらず,いつまでたっても戦争が終結しないのは一体どうしてなのか.そもそも勝利など目指さず,話し合いにより和平交渉をすれば良いだけなのではないか.もっとも,戦争が始まってから50年が経過した現在となっては,話し合いによる解決など望むこともできないのだろう.私たち『賛成派』の人間が『反対派』の人間を見下し,自分たちが人類の進化形と思い込んでいる以上,『反対派』の人間と言葉を交わすはずもない.『反対派』の詳しい事情は分からないが,おそらく,『反対派』の人間も私たちを自然に反する異常者と思い込んでいるに違いない.奴らが私たちと話し合いをするなどありえない.どうあがいてもこの戦争は,どちらかの勢力が滅びるまで終わらない.そして,どちらかの勢力で技術革新が起こらない限り,敵勢力を滅ぼす夢はかなわない.つまり,半永久的に私たち人類は『賛成派』と『反対派』に分かれ,戦争を続けるだろう.その結果,どれほど大量の人が死ぬことになろうとも.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
夜も遅くなってきた.明日も仕事があるので朝が早い.マイケルは部屋の電気を消して,ベッドに潜り込んだ.日記を付けたおかげだろうか.彼の心は軽くなっていた.
第二章
「おはようございます」
マイケルは事務所に入り,元気な声でメアリーとダイアンにあいさつをした.ダイアンは忙しかったのか,軽く会釈をしてきただけだったが,メアリーはどうやら暇だったらしい.
「あら.おはよう.昨日は裁判があったせいで,疲れた顔をしていたのに,今日は元気なのね.昨日の夜は良いことでもあったのかしら」
「昨日は心配掛けてすみませんでした.早めに上がって,ご飯を食べてのんびりしたら気分が晴れました」
彼は日記を付けていることには触れずにうまく返す.
彼女も,特に彼には興味がなかったらしい.
「あらそう.それは良かったわね.それじゃあ今日の仕事はよろしくね」
会話を終えて,眠気覚ましのコーヒーを入れながら,マイケルは今日の仕事の段取りを組んでいた.コーヒーを入れる間に,今日の予定を決めて,出来上がったコーヒーを飲みながら仕事をするのが彼のルーティンだった.
いれ立てのコーヒーを片手に,来週の遺伝子編集のスケジュールをチェックしていると,ひときわ要望の多い人がいた.彼は『賛成派』の政党幹部の一人だ.どうやら息子に遺伝子編集を行うらしい.これは大仕事になりそうだ.彼が息子に希望する遺伝子編集の注文は,非常に複雑だった.まず外見.目の色と髪の色.これらは成功するかは別として,どのように遺伝子編集を行えば良いのかは明らかになっているので,使用する核酸はすぐに決めることができる.だが,問題だったのは身長だ.身長を高くするというのはなかなかな難題である.一番簡単なのは,成長ホルモンの分泌量を他の人と比べて多くするように遺伝子編集をすることだが,当然デメリットもある.成長ホルモンの分泌が過剰になると,眉間,頬骨の突出や下顎の突出などの顔貌の変化が起きる.さらに,糖尿病や脂質異常症,高血圧症などの代謝異常も生じやすくなる.結果として,心筋梗塞や狭心症などの心血管障害や脳梗塞,脳出血などの脳血管障害を合併するリスクが高まる.遺伝子編集によって子どもの健康が脅かされることは,一応,この仕事の最大のタブーとされている.実際には子どもの健康に気を遣わない研究者が多いのだが.したがって,成長ホルモンの分泌量を増やす方法は使えない.そこで,現在までに,身長の決定に関与することが報告されている遺伝子を,その影響度ごとに重み付けをし,どの遺伝子を編集すればどれだけ身長が変化するのかを,計算機でシミュレートしながら決める.このとき,遺伝子編集の副作用も同時にシミュレートし,安全性も加味しながら,どの遺伝子を編集するかを決定する必要がある.
政党幹部の彼は外見に留まらず,内面に対しても遺伝子編集を依頼していた.どうやら息子には野心家になってほしいらしい.性格ほど遺伝子編集が難しい領域はないだろう.というのも,性格の形成は遺伝のような先天的な要因だけではなく,家庭環境や周囲の人との人間関係などの後天的な要因も大きく関与することが知られているからだ.しかし,文句を言っても始まらない.先ほどの身長と同様に,これまでに競争心や意思決定力,自己中心性に関わる遺伝子を過去の論文の中から調べて,計算機を使ってシミュレートする必要がある.外見および内面についての要望をかなえつつ,安全性の高い遺伝子編集ができるように,核酸を工夫しなくてはならない.
ほとんど一日を掛けて,マイケルは遺伝子編集に必要な核酸を決定し,ダイアンに報告した.このとき,核酸の情報だけではなく,コンピューターシミュレーションの演算結果を同時に報告し,どのような根拠を基にして決定したのかを説明しなくてはならない.
ダイアンは目を細めながら彼の作成した資料を眺めていた.そして,しばらく腕組みをしながら天井を眺め,おもむろに尋ねてきた.
「これだけ多くの遺伝子編集を行った場合,成功確率はどれくらいになりそうかしら」
彼が想定した質問の中で,最も来てほしくない質問だった.やはり,彼女は優れた上司だ.部下が提案したアイディアの痛いところを的確に突いてくる.この研究所に配属されてからここまで成長できたのは,他でもない彼女のおかげである.
「率直に申し上げて,すべての遺伝子編集が成功する確率は10%ほどと考えております.また,補足するならば,特に性格に関しては後天的な要素の影響力が大きすぎるため,過去の文献を参考にしながら,教育の方法論の指導も必要であると判断します」
彼女は,すぅーっと息を吐いた.
「これ以上,成功率を上げることは可能かしら.無理を言っているのは分かっているけれども,成功率がわずか10%ではクライアントも納得しないでしょう」
「可能か不可能か,という質問に答えるならば可能です.ですが,そうなると今度は安全性を犠牲にする必要があります.今の私のアイディアですと,子どもの健康はほとんど脅かされませんが,成功率を上げるために,影響度の強い遺伝子のみに着目しながら遺伝子編集を行いますと,失敗したときに子どもの健康が害される可能性が高まってしまいます」
「子どもの健康を守ることは重要ですが,何よりも重要なのは,クライアントの要望をかなえることです.なので,リスクを高めても良いので,成功率を高めるように再度核酸を決定し直してください」
マイケルは気付かれないように唇の端をかんだ.これだ.これが彼女とわたしの考え方の違いだ.彼女は基本的に倫理的な人間だが,仕事においては恐ろしいほどに冷徹である.彼女が最優先するのは,子どもの安全ではなく,クライアントの要望をかなえることである.遺伝子編集に失敗した子どものたどる末路が悲惨なことは彼もよく知っているが,それでも遺伝子編集によって,子どもに身体的,精神的障がいが生じた場合の悲惨さは見るに忍びない.『賛成派』において,殺人は固く禁止されている.しかしながら,遺伝子編集に失敗した子どもの死体がよく発見されるが,これが事件に発展したことは一度もない.事実上,親は失敗作の子どもを殺すことが許されているのだ.そして,発見された死体を分析すると,遺伝子編集がうまくいかなかった子どもよりも,遺伝子編集によって障がいが出てしまった子どもの割合が多いことが分かっている.つまり,マイケルにとって最も避けたいのは,遺伝子編集がうまくいかない子どもを作製してしまうことではなく,遺伝子編集によって障がいを負った子どもを作製しないことなのだが,ダイアンは彼と反対の立場だ.彼女が大切にしているのは金と自社への信頼感だ.デザイナーベイビーがどのような末路をたどるかなど彼女からしたらつまらないことなのだろう.
彼女の提案に納得することはできないが,断るわけにもいかない.正しくは,彼女の性格上,わたしが反論したところで決定は覆らず,単に仕事が別の人のところに回るだけであるので,断っても意味がないのである.来週に遺伝子編集の予定があることを踏まえて時間ギリギリまで粘ってもおそらく無意味だ.金曜日が終わるときに代案が提出されなければ,週末に彼女が自ら設計するだけだ.彼女を納得させられるほどの確率にしながらも,子どもの安全性もできるだけ妥協しないようにするしかない.彼は決意を固めて,再度,核酸を設計し直すことにした.
二日後.彼がダイアンに修正を命じられてから二日が経過した.彼は寝食を忘れて,核酸の設計を行っていた.身長を伸ばすように工夫すれば,競争心が低下する.反対に,自己中心性を上昇させるようにすると,身長が縮んでしまう.やっとどちらも満たせるような組み合わせを見つけたかと思うと,今度は安全性が失われている.完全に袋小路に迷い込んでしまったが,何とかすべてのバランスを取った折衷案を提示することができそうだ.
「長らくお待たせして申し訳ございません.核酸設計を再度やり直しましたので,ご確認よろしくお願いいたします」
ダイアンはマイケルから資料を受け取ると,細かく確認を始めた.しばしの緊張の後,
「分かりました.成功確率は25%と低いですが,このくらいでしたらクライアントも納得する現実的な数値でしょう.では,来週の遺伝子編集に間に合うように手はずを整えてください」
落ち着き払った声だった.
彼女の承諾を得ることができたマイケルは,急いで核酸の化学合成を発注した.化学合成はロボットが行うので,必要な核酸の情報を入力するだけで,自動的に合成される.お昼前に発注できたので,夕方には終わっているだろう.疲れ果てていた彼は研究所の仮眠室で夕方まで睡眠を取ることにした.そして,午後6時すぎに核酸合成および品質確認終了のメールが届いて目を覚ました.急いでデスクに戻り,注文した核酸と,Det54を混合してビンに封入するように指令を出した.それからしばらくして,封入完了のメールが届いたので,メールに記載されているロット番号を確認して,遺伝子編集ロボットに編集予定日とロット番号を入力した.何とか今週中に,間に合わせることができた.
マイケルは連日の睡眠不足で疲れ果てていたが,軽く酒を飲みたかったので,スーパーマーケットでビールとチーズを購入してから帰宅した.
『賛成派』の食材はほとんどすべてが無人の工場から提供されている.たとえば農作物.かつては田畑を耕し,種をまいて,肥料や農薬を散布して,収穫までほぼすべてを人力で行っていたらしいが,現在そのような非効率的な方法は採択されていない.政府主導ではなく,個々人の自由に任せた結果,必要な分の農作物を必要な分だけ用意することが難しくなってしまった.また,地域一帯を農場として使用することで,『賛成派』の領域を浪費していた.雑草の駆除を目的として農薬を散布していたが,こちらも個々の自由に任せたことが原因で,土壌汚染や水質汚濁などの環境汚染が進行してしまった.農薬を大量に使用してしまうと,抵抗性を示す抵抗性雑草が繁殖してしまう.結果として農業に壊滅的な被害が生じてしまった.そこで,現在,『賛成派』では農場ビルによって農作物が作られている.農場ビルとは,名前の示すとおりで,これまで平面に展開していた農場を,立体的に展開することを目的とした建造物である.ビル内はあらかじめ徹底的に紫外線滅菌され,搬入される土壌や水についても紫外線により滅菌されるので,雑草が繁殖することは原理的にあり得ないシステムである.万が一,雑草が生えてきてしまった場合は,ドローンによるレーザー照射が行われ直接的に雑草にダメージを与えるシステムが構築されており,農作物には一切被害が出ないようになっている.工場内ではイネやムギ,トウモロコシなどの穀物,トマトやナス,レタスなどの野菜,ダイズ,ラッカセイなどの豆類を含む非常に幅広い農作物が生産されている.
生産工場により自動的に生産されているのは農作物だけではない.畜産物も自動的に生産されているが,動物は一切飼育されていない.食用肉は培養細胞から作られている.動物から採取した細胞を,タンクを利用して大量に増殖させる.増やした培養細胞を三次元組織培養することで培養肉が作られている.これは乳製品でも同じである.ミルクは乳腺に存在する乳腺上皮細胞が合成および分泌する.ウシから採取した乳腺上皮細胞を,タンクを利用して大量に増やした後,三次元組織培養することで乳腺を作製する.作製した乳腺から分泌されたカゼインや乳糖,乳脂質を回収し,自動でミルクが作られている.
翌朝.ひどい頭痛がして目が覚めた.ズキズキする頭を抱えながら起き上がると,散乱したビールの空き缶とチーズの袋が目に入った.久々に飲み過ぎたな,と反省しながら冷蔵庫を開け,冷たい水を喉に流し込んだ.水を飲んで少し頭の痛みも落ち着いたので,ゴミを片付けて,シャワーを浴びた.好きな時間にシャワーを浴びることができるだけ,この地域はまだマシだなと彼は思った.
『賛成派』の領土は,身分や階級によって居住地域が定められている.戦線から最も遠いこの地域,いわゆる経済特区に住むことが許されているのは,政府関係者や軍の上層部,そして高収入の人だけである.戦線に近づくにつれて,徐々に住民は貧しくなる.最も戦線に近い町に住むのは,『賛成派』の中でも最貧民である.このような町では,しばしば,侵入してきた『反対派』によるテロが起きており,住民が巻き込まれてしまうことがある.この町から脱するには,位の高い者と結婚をする,戦争で素晴らしい戦果を挙げるなどの方法しかないが,ほとんどの住民は脱出することがかなわない.『反対派』に逃げ込む人もいるらしいが,この選択は最も愚かな選択である.『反対派』の人間が私たち『賛成派』の人間を歓迎するはずもない.良くて殺され,運が悪ければ,人体実験の犠牲になることだろう.
シャワーを浴びてサッパリしたマイケルは,いつも繰り返している妄想を日記帳に書き込むことにした.頭の中で考えているだけでは,思考がまとまらなくなってきたのである.紙に書き出すことによって,頭を整理しようと試みた.10月18日につけた日記の次のページから書き始めた.
10月22日.昨日は飲み過ぎた.極めて難解な仕事を終わらせた,その打ち上げといっても,まさか酔い潰れるとは.だがお酒を飲んだ次の日ほど頭が回ることはない.自分の考えを書くにはちょうど良かったのかもしれない.いつも同じ妄想をしていると,思考がグルグルと堂々巡りをしてしまい先に進まない.今これを書いているのは,自分自身の頭の中を整理するためであり,また,思考を先に進めるためである.
マイケルは文章を読み返しながら,ひとごと感の漂うのを見て思わず笑ってしまった.自分のことであるにも関わらず,常にどこかひとごとのように感じてしまうのが彼の癖であった.
この世界に救いはないと言ったら言い過ぎだろうか.そんなことはない.『反対派』がどのような世界なのかは分からないが,少なくとも『賛成派』の世界に救いはない.希望はなく,絶望で覆われている.敵国から強引に連れてきた女性にデザイナーベイビーを産ませることでゲノム兵士を作製する.戦争の主導者である政治家や軍の上層部こそが最も安全な地域に居住し,戦線付近の住民のみがテロに巻き込まれる.自分の子どもであるにも関わらず,容姿や性格が自分の注文と違った場合に,子どもを殺しても罪に問われない.そして,今後も戦争が終結することはなく,子どもの選抜はより過激になってゆくだろう.この世界に正義はあるのか.この世界に生きる意味はあるのか.この世界に幸せはあるのか.私は思う.「この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない」私はこの世界を救済したい.そしてその方法も既に頭の中にある.
彼は一口水を飲んでから再び書き始めた.
この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.戦争をしているのは人間である.そして,選抜の名の下に,罪のない子どもを殺すのも人間である.それならば話は簡単だ.これから人間が生まれてこないように世界を作り替えてしまえば良い.今生きているすべての人間を抹殺することで,この目標は達成できる.だが,私はこの選択はしない.理由の一つには,実現可能性がある.無差別の殺人で『賛成派』のすべての人間を殺すのはまず不可能である.毒物や毒ガスを散布しても,『賛成派』のすべての人間の抹殺は望めない.また,別の理由として,殺人は正義にもとる非倫理的,非道徳的行為だからである.生命を不当に奪う権利など私たちには与えられていない.
では,どのようにして人間が生まれてこないように世界を作り替えるのか.答えは簡単だ.子どもを産むことができないように身体を作り直せば良い.この方法ならば,実現可能性は非常に高い.また,将来の子どもの出生を否定しているだけなので,殺人をしているわけではない.つまり,正義の名の下に許される倫理的,道徳的な方法である.具体的には,遺伝子編集によって人体を作り直すのだ.重要となってくるのは,UBZ387という遺伝子である.この遺伝子はある種のウイルスがコードしている遺伝子で,この遺伝子から合成されたタンパク質が細胞内に蓄積すると,細胞のエネルギー生成を担っているミトコンドリアの機能が低下し,その結果,細胞がエネルギー不足に陥り,細胞の活性が低下してしまう.ウイルスはミトコンドリアを持っていないので,自身への毒性はまったくない.ウイルスを除去するために働いている免疫細胞の活性を低下させることで,生体に排除されないようにして,感染を成功させる役割を担う遺伝子である.UBZ387が身体のすべての細胞で発現してしまったら人間は死んでしまう.もちろん人体実験は行われていないが,この遺伝子が全身で発現するよう設計したマウスやラットは,生まれてからしばらくして死んでしまった.そんな苦しみを味わいながら人間を殺すのが目的ではない.目的は子どもを産むことができないように身体を作り直すことだ.したがって,この遺伝子を精子のみで発現するように工夫すれば良い.この場合,全身性の作用はなく,精子の活性のみが低下し,子どもが生まれないようになる.精子のみでUBZ387遺伝子を発現させるためにGTGH2遺伝子に着目した.GTGH2遺伝子は肝臓や小腸,筋肉などでは発現が認められず,精子のみで発現することが知られている遺伝子である.GTGH2は有糸分裂と減数分裂の際に,染色体や紡錘体機能を制御するタンパク質のリン酸化酵素として機能する.GTGH2遺伝子の下流にUBZ387遺伝子を組み込むことで,精子特異的にUBZ387遺伝子を発現できるようにする.
問題はどのようにしてすべての受精卵にUBZ387を組み込むかということだが,こちらについても解決のめどは立っている.この遺伝子をDet54の含まれるプールに混ぜるのである.Det54は遺伝子編集に欠かすことのできない酵素であり,あらかじめ大量に生合成されてプールに蓄えられているのだ.Det54は熱や光に非常に弱いタンパク質である.熱や光に当たってしまうと,容易にタンパク質の立体構造は変化してしまうのだ.タンパク質が酵素として働き,触媒活性を有するためには立体構造が最も大切なファクターとなる.なので,Det54プール自体は紫外線や放射線,高温による滅菌が行われない.Det54プールを出入りするロボットのアームのみが徹底的に滅菌されるシステムなので,一度プールに遺伝子を混ぜることができれば,半永久的に除去されることはない.そして,遺伝子編集のための核酸と混ぜ合わせるタイミングで,核酸とDet54, UBZ387の混合液が完成し,遺伝子編集の際に,受精卵に導入される.アームはアルコール滅菌と,紫外線滅菌の二段階で滅菌される.アルコール滅菌は,70%エタノールがアームに吹きかけられ,その後,強烈な風によって風乾されるというシステムである.風乾後,紫外線が照射され滅菌が行われる.粉末状に調製されたUBZ387を送風口に仕込むことで,アルコールの風乾時にアームにUBZ387を付着させることができる.続いての紫外線照射により,UBZ387に損傷が生じるが,こちらは受精卵に導入した後に修復されるので差し障りはない.以上が,私の考えた『賛成派』の人類救済計画のシナリオだ.
しかしながら,この計画を実現することはできない.いや,正確には,実現する意味がない.この計画が完遂した場合,『賛成派』の人類がゆっくりと滅びに向かうため,戦争は終結するだろう.だが,私には同じ歴史を繰り返すように思えてならない.『賛成派』の人間がいなくなったときに何が起こるか.『反対派』の人間は,遺伝子編集技術をすべて葬り去ることができるだろうか.実は,『反対派』の人間の中には,遺伝子編集技術に憧れがあり,戦争で勝利した暁には遺伝子編集をした子どもが欲しいと思っている人もいるかもしれない.その場合,再び,遺伝子編集によって貧富の差が拡大し,戦争が始まってしまうだろう.だからこそ,真の意味でこの世界を救うには,『反対派』の人間も,『賛成派』の人間と同じように,子どもが生まれてこないように身体を作り替える必要がある.私はこの課題を解決する術を持ち合わせていない.UBZ387をウイルスに組み込み,そのウイルスを『反対派』の人々に感染させるというアイディアはどうだろうか.いや,失敗に終わるのが見えている.『反対派』のすべての人に感染するようにウイルスを散布することは不可能であり,そもそも『反対派』の科学技術の水準もはっきりしない中では実行できない.『反対派』の人々の生殖能力を奪うめどが立たないことには,『賛成派』の人類救済計画を始めることもできない.実にもどかしい.この瞬間にも新たな生が誕生してしまっているのに.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
マイケルはノートを閉じた.彼は『賛成派』の人間の生殖能力を奪う具体的な方策が見えたことに光明を見いだしたが,『反対派』の人間の生殖能力を奪う見通しが立たないことに強い怒りを覚えた.一刻も早く皆を絶望から解放しなくては.
その日以来,寝ても覚めても彼の頭の中は,『反対派』の人類救済の方法論でいっぱいだった.彼は自分の考えが周囲に気付かれないようにするため,研究所でのデザイナーベイビーの作製は,嫌な顔一つせずに今まで通りにこなした.彼の仕事ぶりは普段と変わらないので,ダイアンもメアリーも彼がそのようなことを考えていることには気付く由もなかった.
それから3カ月の月日が経過した.その間,彼は熱心に仕事に取り組んだが,肝心の『反対派』の救済計画については良案が浮かばなかった.ある日,家で夕食を食べながらふとテレビを見ていると,『反対派』の人々によるデモ活動が中継されていた.食欲がうせてきたので,テレビを消そうとしたときにある一つのプラカードが目に入った.多くのプラカードには「『賛成派』の人々に正義の鉄ついを!」や「デザイナーベイビーには人権などない!」といったような『賛成派』やデザイナーベイビーを罵倒する言葉が書かれていたのだが,そのプラカードは違った.書いてあったのは,何とマイケルが人類救済において要としている遺伝子UBZ387の名前と,住所と思わしき文字列である.心臓の鼓動が早くなるのを感じ,思わずテレビに走り寄った.プラカードを掲げているのは,自分と同じくらいの年齢の男性であり,周囲と同じように声を上げ,拳を振り上げてデモに参加しているが,その瞳に『賛成派』への憎悪は見えず,むしろ浮かないようにパフォーマンスとしてそれらの行動を取っているようにみえた.映像が切り替わる前に,急いで彼の住所を日記帳に控えた.
『反対派』の彼は信用できるのだろうか.マイケルは来る日も来る日も悩まされた.救済遺伝子の名前を書いていたのは事実だが,それが人類救済計画の支持者とも限らないのではないか.でもそれならば,わざわざデモ活動に参加してまであんなプラカードを掲げる理由が思いつかない.彼は敵なのか,それとも味方なのか.思考は堂々巡りになってしまった.そんな折,ダイアンから一つの訃報が告げられた.以前,彼が遺伝子編集をした『賛成派』幹部の息子が何者かに殺害されたらしい.まさかと思って調べてみると,案の定だった.被害者の遺伝子編集は失敗しており,生まれながらに呼吸器系の障害が出てしまっていたらしい.生後3カ月の新生児が赤の他人に殺されるはずがない.どう考えても犯人はその家族に決まっているのに,捜査当局ははじめから外部犯と決めて捜査を始めていた.捜査が宣言されただけで,実際には捜査など行われていないのではないだろうか.このままではダメだ.人類を絶望から救い出すのに一刻の猶予もない.マイケルはプラカードの男に接触することを決意した.
彼が狙ったのは『賛成派』と『反対派』の捕虜交換会である.当然ながら,彼が『反対派』に侵入し,プラカードの男の家にたどり着くのは不可能である.そこで,捕虜交換会に狙いを定めた.『賛成派』と『反対派』との間で,捕虜に関する約束事などはまったく取り決められていないが,お互いに自分の領土におぞましい人間を置いておきたくなかったのだろう.おぞましい存在は,それを殺した後でもおぞましいことに変わりはないのだから.
マイケルは懇意にしていた捕虜のケビン・スターを利用することを思いついた.『反対派』の人間は誰からも嫌われていたので,積極的に関わる人はいなかった.研究者を除いては.研究者は人体実験のサンプル欲しさに,捕虜をよく研究所に連れてきていた.そして,マウスやラットなどの哺乳動物の実験だけでは手に入れられないデータを,捕虜を使って手に入れていた.研究所に連れてこられた捕虜で,再び外に出られた人は誰もいない.誰もが研究者の手で実験の末に殺された.実際に,マイケルの知り合いの科学者ブライアン・ネルソンは,特に人体実験が大好きで,彼が殺した捕虜の数は100人を超えるといううわさもあったほどだ.そんな残虐非道な実験が行われる中で,マイケルだけは不必要に痛みを与える実験や殺してしまうような実験は行わなかった.彼は『反対派』の人間をくまなく調べる実験を好んだ.いつかの救済計画において使えるようなデータを探索していたのだ.また,彼はそもそも遺伝子編集をしていない人間を対照群として実験することを好んだので,むしろ無為に死なれると困ったのである.そのような状況下で,研究者と被験者という奇妙な間柄ではあったが,マイケルとケビンは親交を深めた.そして,捕虜交換会の前日にマイケルは手紙を預けた.ケビンは深くは詮索せず,
「命を助けていただき本当にありがとうございました.この手紙は命に代えても届けると誓います」
と言って『反対派』に帰って行った.
捕虜交換会からちょうど一週間後.マイケルは車を走らせた.プラカードの男に示した待ち合わせの日である.あの日,ケビンに託した手紙には,救済遺伝子UBZ387の名前と待ち合わせの日時,場所のみを記しておいた.もし仮に手紙が見つかったとしても,ケビンには内容が分からないようにすることで彼を守るためだ.待ち合わせに選んだのは,はるか北にある今は使われていない城跡だった.『賛成派』と『反対派』の戦争が繰り広げられているといっても,境界のすべてが戦線というわけではない.人口の集中する町の近くの境界で戦闘が行われているだけなので,ほとんど人の住んでいない北方領域では,境界の監視はそれほど厳しくなく,簡単に敵領土に侵入することができた.プラカードの男には申し訳ないが,指定場所には『賛成派』領域の城跡を選ばせてもらった.相手の本気度を確認したかったのである.
12時を迎えた.指定した時刻は11時だったので,1時間近く待ったが誰も来なかった.ひょっとしたらケビンが手紙を届けられなかったのかもしれないし,プラカードの男の行動には大して意味はなかったのかもしれない.相手への失望感と,救済計画を実現できないことへの歯がゆさをかみ締めながら,帰宅しようと車の方に足を向けた.
「待て!」
後ろから男の声が聞こえた.
まずい.不審な動きをしていると思われたか.こんな北方領域に捜査当局の関係者などいるはずがないと高を括っていたが,まさか監視されていたのか.どうやってこの場を切り抜けるか考えを巡らした.
「手を挙げてゆっくりと後ろを向け!怪しい動きはするなよ!」
今ここで振り返らないのは不自然だ.このまま捕まってしまったら,懐に忍ばせてある日記が見つかってしまう.今日『反対派』と会うことは書いていないが,『賛成派』の人類救済計画の詳細が書いてある.これでは,思想犯と判断され,極刑も免れない.声からすると相手の人数は一人だ.振り向きざまに人数を確認し,一人だった場合,車まで走ろう.そして,なんとか日記だけは処分しよう.これさえなければ,不審行為で捕まるだけでほとんど罪はない.
両手を挙げて振り返った.案の定一人だったので,すぐさま走り出そうとしたが,違和感に気付いて立ち止まった.服装だ.服装に違和感を覚えたのだ.彼が着ていたのは『反対派』の軍服である.まさかプラカードの男なのか?
「落ち着け.俺はケビンから手紙を預かった者だ.遺伝子の名前を見て,自分と同じ考えを持っているのではないかと思ってこの場所にやって来た.1時間もおまえの前に姿を見せなかったのは謝る.すまなかった.おまえが本当に単独で来ているのかを確かめる必要があったんだ」
彼は帽子とサングラスを外した.あのときデモ活動でプラカードを持っていた男の顔だった.
「ああ.いや,こちらも心配りができず申し訳なかった.そうだよな.俺はあんたの顔を知っているけれども,あんたは俺の顔を知らないからな.慎重になるに決まっている」
マイケルは,口元に笑みを浮かべながら,プラカードの男に手を出して握手を求めた.
「俺の名前はマイケル・サンダーソンだ.よろしく頼む」
「俺はビル・クローバーだ.こちらこそよろしく」
ビルもニヤッとしながら,マイケルの差し出した手を固く握りしめた.
「お互いに積もる話もあるだろうが,まずは人目に付かないように室内に入ろう」
二人は城の中へと入っていった.
第三章
「改めて自己紹介する.俺の名前はマイケルだ.よろしく」
「俺はビルだ.よろしく」
二人が出会ったのは初めてなのだが,以前から知り合いだったような気がする.同じような思想の持ち主だと分かっているからだろうか.
「それじゃあ早速本題だが,あんたの考えは俺と同じって考えで良いんだな」
マイケルはビルの真意を尋ねた.わざわざ敵地にまで足を運んでいるのだから,彼が敵対するはずもないのだが,慎重に行動するに越したことはない.
「おまえの考えとやらが分からない以上,断定した回答はできないが.まあおそらく同じだろうな.おまえもあの遺伝子を使うんだろ?」
マイケルは大きく息を吐いた.リスクを犯して『反対派』の人間に手紙を送ったのは,腹の探り合いをするためではない.
「オーケー.分かったよ.ちゃんと俺の本心をあんたに教えるよ.じゃないと敵地にまで来てくれたあんたに対して不誠実だからな.俺はあの遺伝子を使う.精子のみで発現するように工夫したUBZ387を遺伝子編集のタイミングで受精卵に導入し,デザイナーベイビーの精子の活性を低下させることで,生殖能力を奪う.そして,子どもを産むことができなくなった私たちはゆっくりと滅びへと向かう.これが俺の考える人類救済計画だ」
しばしの静寂が訪れる.そして,今度はビルが語った.
「なるほど.やはりそうか.おまえからの手紙にUBZ387と書いてあった時点で予想していた通りだ.おまえが本心を話してくれた以上,俺も本心を話さないとな.俺の考えもおまえの救済計画と同じだ.UBZ387を受精卵に組み込むことで次世代の生殖能力を奪い,長期的に人類を滅亡させるのが俺の計画だ.だがおまえはどうしてこんな計画を思いついたんだ?俺たち『反対派』と違って,『賛成派』は裕福で恵まれた暮らしをしているものとばかり思っていたんだが」
「あんたの考えと俺の考えが同じなのはよく分かった.俺が人類救済計画を思いついたのは遺伝子編集がこの世界に希望を生まないことに気がついたときかもしれない.『賛成派』は地獄だよ.毎日毎日,新たに生まれてくる子どもの遺伝子を親が望むように弄って,まるで子どもが親の所有物であるかのようだった.そして,自分の子どもの遺伝子編集が成功したときには大喜びだが,失敗したときは悲惨だった.やつらに子どもへの愛情なんてものは存在しない.その証拠に,遺伝子編集に失敗した子どもは幸せになることがない.両親に見捨てられて親の愛情を知らずに孤児院で育つか,そうでなければ殺された.捜査当局は見て見ぬ振りをしているが,遺伝子編集に失敗した子どもの一定割合は不自然に殺害されているんだ.地獄はこれだけじゃない.あんたら『反対派』との戦争も地獄だ.いやこれは別にあんたを直接的に責め立てているわけじゃないし,『反対派』に怒りを向けているわけでもない.今の世の中のシステムそのものへの怒りなんだ.俺たち『賛成派』は『反対派』から女性を拉致し,強制的に卵子を摘出し,遺伝子のレベルで調製された兵士であるゲノム兵士を産むことを強いられている.俺が直接手を汚しているわけではないが,知っていながらも見て見ぬ振りをしている以上,同罪だろう.『賛成派』では貧富の差で居住地域が決められているんだが,戦線に近い地域に住むのは当然ながら貧民達だ.政府関係者や軍の上層部などの戦争指導者が安全な地域に住んでいる一方,彼ら/彼女らは『反対派』が仕掛けたテロによって犠牲になっている.もうこの世界はダメなんだ.何か一つの制度を改革して修正できるレベルをはるかに超えてしまった.ここまで壊れてしまった世界は元には戻せない.元に戻す方法があるとしたらそれは一つしかない.人類救済だ.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない」
マイケルは話し終わるとビルの表情を伺ったが,その表情からは何も読み取れなかった.
ビルは無表情のままに語り出した.
「俺たち『反対派』は毎日が絶望の連続だ.個人のスペックが高い『賛成派』に対抗するには数が必要だ.俺たちは生まれた瞬間に男と女で分けられる.男は教育機関で育てられ,勉強や運動を死ぬほどやらされる.定期的に試験が行われ,その成績が悪い人たちは機関から排除され,自爆テロや特攻を命じられる.だが,そうなると今度は,軍隊から優秀な兵士がいなくなってしまう.なので,試験の成績が良い人たちも兵士として戦場に駆り出された.俺たちだって死にたくない.必死で考える.試験の成績が上位でも下位でも戦場に送られるのなら,あえて中間の成績を取れば良いのではないか.口にするだけなら簡単だが実行するのは難しい.なぜなら,俺たちはお互いに話をするのが禁止されていたため,どの程度の点数を取れば中間の成績なのかが分からないのである.こうして俺のクラスメートはほとんどが戦争に送られて死んでいった」
「それならあんたはどうやって戦争に行かずに済んだんだ?」
「簡単な話だ.俺の頭脳が同級生と比較して,極めて優秀だったんだ.試験で上位グループに入ってしまったら戦場に送られるのを分かっていたのに高得点を取り続けたのは,反骨精神のようなものだったのかもしれない.あえて優秀なまま死んでやるって思っていたな.それがまさか,各教室の成績トップだけは戦争には行かせずに,軍事開発に携わることが義務づけられていたとは.そんな裏道があるとは当時は知らなかったが,今になって思えば当然だな.頭の良い人を片っ端から戦場に送り込んだら『反対派』の科学技術水準の向上は見込めない.俺は抜群の成績を取り,さらには軍事開発に携わることを条件に命が保証されたんだ.特に,俺は分子生物学や生化学,遺伝学の成績が良かったので,生物兵器の開発部門で研究開発を行っていた.そして,過去の文献を検索しているときにUBZ387遺伝子を論文で見つけた.ミトコンドリアの機能を低下させ,細胞の活性を低下させるというデータを見て,身体に電流が走ったように気持ちになった.これを精子や卵子に組み込むことができれば人を殺すことなく,この世界の戦争を終わらせることができる.おまえは言ったな,『この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない』と.心から同意する.この世界で生きることは絶望でしかなく,生まれてこないことこそが希望なんだ.だから,俺は戦争を終わらせ,すべての人を苦しみから解放するために人類救済計画を考えた」
俺たちは似たもの同士だ,とマイケルは思った.二人ともこの世界に絶望し,生まれてこないことに希望を見いだしたのだから.だがまだ聞いておきたいことがあった.
「『反対派』で男が強制的に教育を受けさせられることは分かったけれども,女はどうなんだ.さっきの話だと,生まれた後すぐに男女で分けられるとのことだったが」
「女は俺たち男よりも残酷だ.最初の10年くらいは,ある程度自由に行動することが許可されているのが唯一の救いだろうか.だが,初潮が訪れて妊娠可能な年齢になった瞬間から地獄は始まる.『反対派』で女に求められていることは丈夫な子を多く産むことだけだ.だからこそ,妊娠の準備が整った女子から順番にその身体は出産のみに使われる.また後で詳しく説明するが,俺たち『反対派』の人も体内受精ではなく,体外受精の方法を採っている.妊娠可能な女子から強制的に卵子を摘出し,適当な男の精子を受精させ,受精卵を女子の胎内に戻される.そして,およそ10カ月の妊娠期間の後に出産をする.出産後はまたすぐに,次の受精卵が胎内に入れられて再び妊娠,出産をする.後は,閉経までこの繰り返しだ.産んでははらまされ,産んでははらまされる.そこに人間らしい営みなど見いだせるはずもなく,やっていることはただの家畜と同じだ.そして家畜と同様に,出生能力のない女は維持にお金が掛かるだけなので,早々に自爆テロや特攻を命じられる.当然,不妊の女も同じ扱いだ」
聞いているだけで吐き気を催すような話だった.これが俺たちと同じ人間の所業なのか.マイケルは目まいのするほどの強い怒りを覚えた.だがここで感情的になってはいけない.怒りは計画の原動力だが,実施には強い自制心が求められる.重要なのは理性である.
「さっきあんたは『反対派』でも体外受精が行われていると話していたが,それはどういう意味なんだ.遺伝子編集をするために『賛成派』では体外受精が行われているが,遺伝子編集を行わないならば,体内受精で良いのでは」
「さっきは軽く話しただけだったからな.詳細は今から説明する.最初は俺たち『反対派』の人間も体内受精で子どもを作っていたことは事実だ.だが,ここで問題が起きたんだ.問題とは,要するに体内受精の効率の悪さだ.大量の人間を産んで,戦争に勝利することを目指す『反対派』は体内受精などという非効率的な受精方式を非難した.一つの卵子も無駄にしないために,体内受精ではなく,卵子を取り出し体外受精を行い,再び胎内に戻すことが政策として決定した.しかしながら,体外受精が広まるにつれて,ある不審感がまん延しだした.俺たち『反対派』の人間も,遺伝子編集が具体的にどのように行われるかの知識はある.つまり,効率を求めて体外受精を採択したばかりに,今度は遺伝子編集が行われる可能性が生じたんだ.そして,『反対派』の人間が遺伝子編集という悪魔の行為を許すはずがない.俺たち生物学者は浄化液を開発した.浄化液というのは受精卵を清潔に保つための液だ.この液は生体膜に対しての毒性はほとんどないが,遺伝子編集で使われる核酸は分解するように設計されている.体外受精を浄化液の中で行うことにより,受精卵に遺伝子編集をしていないことを証明することが現在では義務づけられている.そして俺にとってはこれら一連の出来事こそがまさに思いがけない幸運だったんだ.なぜかって?だってそうだろ.もし体内受精が続けられていたら,救済遺伝子を導入する機会は訪れなかったはずだ.それに,浄化液による洗浄も都合が良い.ただ体外受精を行っているだけでも,救済遺伝子を導入することはできなかったからな」
「浄化液の中で遺伝子編集をするつもりなのか?だけどさっきあんたは,浄化液は核酸を破壊する作用をもつと言っていたじゃないか」
「ああ.おまえの言うとおりだ.だからおまえら『賛成派』が行っている遺伝子編集の方法とは別の方法を考えた.『賛成派』で行われている遺伝子編集の方法は,編集したい遺伝子に基づいて設計された核酸とDet54を,電気を使って受精卵に導入するという方法のはずだ.これを要素ごとに分解して『反対派』においても遺伝子編集ができるように工夫すれば良い.まずは一つ目の要素である核酸についてだ.おまえらは核酸をそのまま受精卵に導入しているが,それではおまえが言ったように浄化液で分解されてしまう.ならば核酸は生身の状態にするのではなく,ウイルスの内部にパッケージングしてしまえば良い.これは三つ目の要素である電気による遺伝子導入にも関わってくる.そんな精密な電子機器を自作するのはほぼ不可能だし,仮にできても周囲に気付かれる恐れがある.だったら,核酸をパッケージングしたウイルスを受精卵に感染させれば良い.さっき俺は,浄化液は核酸を分解するが,生体膜を傷つけないと説明した.ウイルスには二つの膜様構造がある.タンパク質からなるカプシドと,脂質と糖タンパク質から構成されるエンベロープだ.これらの構造体は浄化液によるダメージを受けにくい.最後に,二つ目の要素であるDet54についてだ.電気によって受精卵に導入するからこそDet54はタンパク質の状態で問題ないが,俺の考える遺伝子編集法では,電気は使わない.ウイルスにタンパク質をパッケージングするのは現在の技術では不可能だ.だが別にタンパク質をそのままウイルスに組み込む必要はない.Det54をコードする核酸をウイルスにパッケージングすれば良いだけの話だ」
なるほど,とマイケルは納得した.DNAは細胞の核内でmRNAへと転写される.転写されたmRNAは核外のリボソームにおいてタンパク質へと翻訳される.ビルはこの仕組みをうまく活用したのだ.Det54というタンパク質を用意するのではなく,それをコードするDNAを用意し,受精卵の中でタンパク質を合成してもらうという方法だ.それに,ウイルスを用いた遺伝子導入は『賛成派』でも珍しい技術ではない.ウイルスを用いた遺伝子導入は農薬抵抗性の穀物や野菜を作製するときに頻繁に使用される.それにがん指向性をもたせたウイルスを体内に注射することで,がん組織を破壊するというがん治療もよく行われている.
ビルは続けた.
「つまりだ.精子のみで発現するように工夫したUBZ387遺伝子と,Det54をコードする遺伝子を,ウイルスにパッケージングし,そのウイルスを浄化液の中で受精卵に感染させることで遺伝子編集を行い,生殖能力を奪うのが俺のプランだ」
「あんたの考えはよく分かった.清潔さを病的に求めすぎた余りに,今度はそのシステムによってウイルスの感染が広がってしまうというなんとも皮肉な話だがな.一つ言わせてもらうならば,そんなにうまく行くのか?たとえば,浄化液は受精卵を洗浄することを目的として使うんだろ.なら,微生物の感染なんて最初に対策を立てられているんじゃないのか」
「そこは心配ない.おまえの指摘通り,浄化液は徹底的な紫外線滅菌が行われる.通常であればウイルスを散布したところで遺伝子編集など行えるはずもない.だが,その問題については解決のめどが立っている.実は俺たちの使用している紫外線ランプは,単に紫外線を照射するだけではなく,自由にその波長を変更することのできるキセノンランプを採用しているのが大きな特徴だ.おまえも知っていると思うが,キセノンランプは可視部から紫外領域にわたる広い範囲の光を放射する.キセノンランプから放射された光は,モノクロメーターによってスペクトルに分散され,紫外線の波長のみが取り出される仕組みになっている.そして,モノクロメーターのスリット幅や回折格子はプログラムによって自動で制御されている.滅菌に使用される紫外線波長は260 nm.この設定を同じ紫外線でも殺菌効果が低下する400 nmにプログラムを書き換える.目に見えない紫外線の波長が変更されたことなんて,プログラムを直接確認しない限り分からないから気付かれる可能性は非常に低い」
「キセノンランプの特徴を利用した巧妙な作戦なのは分かった.だがそこまで重要なプログラムだ.素人が勝手に変更できるような代物ではないと思うんだが.そしてあんたは分子生物学や生化学が専門だとさっき言っていた.あんたにそんな高度なプログラミング技術やハッキング技術はあるのか?」
「もちろん俺にそんなスキルはない.だがそういったことが得意な仲間ならすでに見つけてある.俺とは別の教育機関の出身だったが,そいつもトップの成績だったらしい.今の研究所で知り合ったが,システム工学やプログラミングに精通するスペシャリストだ.俺たちと同じく,人類救済計画の賛同者だ.彼に先ほどの話をしたところ,プログラムの書き換えは可能だとすでに回答を得ている.俺の計画は以上だ.『反対派』の人々の救済計画は理解してもらえたと思うが,おまえの計画はどんな計画なんだ.それを教えてくれ」
マイケルは懐に手を伸ばして日記帳を取り出した.そして,ビルに日記を手渡してこう言った.
「俺の計画や考えはすべてその日記帳に記してある.まずはそれを読んでくれ」
ビルは時折読んでいる手を止め,深く考えるそぶりをしながら最後まで読んだ.どちらも言葉を発さなかった.
長い長い沈黙だった.しばらく沈黙が続いた後,おもむろにビルが口を開いた.
「おまえの考えはしっかりと伝わった.万全な計画かは分からないが,おそらくこれが現状で考えられる最善策なんだろう」
「読んでくれてありがとう.あんたの言うとおりだ.あんたの計画も俺の計画も万全とはいえないだろう.だが,そもそもこの世に万全な計画など存在しない.どんな計画だって例外はつきものだ.それでもやらなければならない.この絶望した世界から皆を解放できるのは俺とあんただけだ」
「そうだな.俺は『反対派』を救って,おまえは『賛成派』を救う.俺ら二人で『賛成派』と『反対派』を併せたこの世界を救おう」
ビルの言葉が終わるやいなや二人は熱く抱擁を交わした.
「俺はあんたの味方だ」
「俺はおまえの味方だ」
たかぶった気持ちが落ち着いてきたので,マイケルはビルに最後の確認をした.
「いつ俺たちの作戦を決行する.数日や数週間のズレなら問題はないだろうが,数年も決行がずれてしまえば,戦況が傾いて俺たちの計画に思いがけない支障が出てしまうかもしれないぞ」
「おまえの準備にはどれだけかかりそうだ.俺の方は一年あれば準備は整うはずだが」
「俺も同じようなものだ.一年もあれば十分だ」
「なら今日にしよう.来年の今日だ.今日という日は俺たちの人生にとって一番重要な記念日のはずだ.だから俺たちの記念日である今日を,人類にとっての記念日にもしよう」
「了解した.計画のスタートは来年の今日だな.もう俺たちが再び接触しない方が良いだろう.無駄に作戦失敗のリスクを高めたくないしな.だから今日でお別れだ.短い時間だったが同胞に出会えて俺は幸せだったぞ」
「それは俺も同じ気持ちだよマイケル.志をともにする同士に出会えて俺も幸せだった.絶対に失敗するなよ.片方だけが成功しても意味のない計画なんだからな」
「ああ分かっている.命に代えても成功させてみせるさ」
「それじゃお別れだな」
マイケルとビルはお互いの手を熱く握り,お互いの健闘を祈った.
ビルは『反対派』に戻る方法を見られたくないというので,マイケルが車で先に帰ることにした.帰宅後,今日のことを忘れないようにとすぐに日記帳を開いた.
4月1日.今日は運命的な出会いを果たすことができた.本当に『反対派』の同士がいたのだ.彼の名前はビル・クローバー.彼は『賛成派』と『反対派』の境界を越えて,北方領域に入ってくるという勇気を示してくれた.わたしと同じように,分子生物学や遺伝学を専門とする研究者だ.彼もまた過去の文献を読んでいるときに,偶然,ミトコンドリア機能を低下させることのできるUBZ387遺伝子の存在を知り,人類を不妊化するというアイディアを思いついたらしい.彼も『賛成派』の同士を探していたらしく,わたしからのメッセージを受け取って,危険を覚悟して会いに行こうと思ったらしい.彼から『反対派』の実情を聞いたが,まさに地獄そのものだった.子どもを産むことのできる年齢では,無理に子どもを産ませ,その年齢を過ぎてしまったら用済みと判断され,自爆テロに使われるというまるで家畜のように人間の女性が扱われている事実には強烈な怒りを覚えた.今思い返しても気持ち悪くなりそうな話だ.やはりこの世界は終わらせなくてはならない.わたしとビルの二人なら人類救済計画を『賛成派』と『反対派』の両方で同時に進めることができるだろう.計画の実行はちょうど一年後の4月1日に決まった.これから忙しくなる.わたしの方も実行に間に合うように資材を調達しなくてはならない.だがやり遂げてみせる.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
彼は同士を見つけたことの安心感からか,今まで味わったことのないような幸福感に包まれながら眠りについた.
翌朝.彼はセットしていた目覚まし時計より前に目を覚ました.睡眠時間こそ長くはなかったが,スッキリとした目覚めだった.昨日のことがあまりにも非日常的すぎたので夢か幻のように思えたが,あれは事実だ.今日から救済計画の準備を始めねばならない.気合いを入れ直して,彼は会社に向かった.
「おはようございます」
自分のデスクに向かおうとすると,ダイアンに呼び止められた.彼は一瞬,自分の計画がすべて露呈してしまっているのではないかと警戒したが,どうやらそうではなかった.
「おはようマイケル.メアリーが来たら今週のミーティングをするからいつもの会議室に来てね.私は先に行っているから」
「分かりました.メアリーが来たらすぐに伺います」
落ち着け,と彼は自分自身に言い聞かせた.救済計画が知られていることはありえないはずだ.昨日,城跡に着くまで尾行している車はなかったし,城の中での話は絶対に誰にも聞かれていないはずだ.ビルという同士に出会えたことの高揚感はあったが,帰りも尾行には気を配っていたが,尾行の車はなかった.ケビンに持たせた手紙が軍の関係者に見つかっていたという可能性はあるだろうか.その可能性はわずかにあるが,限りなく低いだろう.軍の関係者が手紙を見ていたなら,ケビンを『反対派』に返すことはせずにすぐさま処刑するはずだ.それに,ケビンに手紙を渡すことができたのは自分以外にもいる.いや,ケビンが拷問を受けて,それに耐えられず,自分が手紙を預けたことをすでに軍に話しているかもしれない.違う.それはあり得ない.昨日ビルは言っていた.ケビンから手紙を預かった者だ,と.ケビンが拷問を受けていたとすれば,それをビルが知らないのはおかしい.よし.大丈夫だ.ケビンの手紙が軍の関係者に読まれたなんてありえないことだ.だが,一つ心配になるとそれは雪だるまのごとく膨れ上がってゆく.自分の日記が誰かに読まれたという可能性はないだろうか.あの日記が読まれてしまったら,反逆罪の思想犯と判断され,即刻死刑だ.ならば,今この瞬間に自分が無事であるということが,誰にも日記を読まれていないということの何よりもの証明に他ならないだろう.マイケルが強引に自分を落ち着けようとしたところ,研究所のドアが音を立てて開いた.まさか,捜査当局の関係者か!ドアが開いたその刹那,彼は反射的に立ち上がりそうになったが,すんでのところで我慢した.変な動きを捜査当局に見せるのは都合が悪い.足音がこちらに向かう度に心臓が早鐘を打った.変な汗が滴り落ちるのが気持ち悪い.呼吸も浅い.
「おはよう.って,あんたどうしたのよ.具合が悪そうだけど.もしかして病気かしら」
ゆっくりと声の方を見上げると,メアリーだった.
彼は緊張がみるみる解けていくのを感じた.彼女を見て安心感を抱いたのは初めてかもしれない.彼は努めて平成を装いあいさつを返した.
「おはようメアリー.大丈夫だ.気にしないでくれ.さっきまで軽く身体を動かしていただけだ.何しろ座ってばかりで,身体の節々が痛むからな」
「なら良かったわ.まあそうね.この仕事は基本的にはずっとパソコンと向き合っているだけだし.肩や腰が凝って仕方ないわよね.座ってばかりで体力も衰えていく一方だし.この前,久しぶりに家の周りをランニングしてみたらたった30分で足がつっちゃたのよ.もうそれからランニングは辞めたわ」
彼女は答えた.
「だけどやっぱり私ももう少し運動した方が良いかしらね.二の腕とか太もも,おなか周りの脂肪も気になるし.私もあんたを見習ってもう少し運動してみるわ.ただまああんたも私と同じでいつも運動なんかしないんだから,急に運動しちゃダメよ.危ないから」
「ああそうだな.ありがとう.それよりも,荷物を置いて準備ができたら会議室に来てくれ.今週のミーティングがあるってさっきダイアンが言ってた」
「分かったわ.着替えたらすぐに行くから先に行っててちょうだい」
「はいよ.すぐに来てくれよな」
マイケルは彼女に一声かけてからダイアンの待つ会議室へと急いだ.
「失礼します.メアリーは先ほど来ました.着替えたらすぐに来るそうです」
ダイアンは作業中のパソコンから目を上げずに,
「分かったわ」
とだけ簡単に返事をした.
数分後,メアリーが部屋に入ってきた.
「失礼します.お待たせしてすみません」
メアリーが入ってきて,席に着いたのを確認してからダイアンは立ち上がり,ミーティングを始めた.
「まず始めに来週の遺伝子編集の予定人数を発表しますが,これは普段と変わらず一万人ほどです.その中でも私たちの部署が担当するのは2,500人に決まりました」
「2,500人!?どうしてそんなに私たちの部署が担当しなくてはならないのですか.一日500人なんて無理ですよ」
「理由なら横に座っているマイケルに聞いたらどうだ」
ダイアンは冷たい目をマイケルに向けた.
「私が以前,あまりにも時間をかけて『賛成派』幹部のデザイナーベイビーの作製に取りかかったからですよね」
「その通りだ.彼が一人の遺伝子編集に時間をかけすぎたため,当時私たちがこなす予定だったノルマは達成できなかった.なので,ノルマを達成するために,そのとき他の部署に緊急で依頼をしたんだ.今回はそのときの借りを返すために,厳しいノルマになっている」
「そんなの私には関係ないじゃないですか.彼が独断専行でノルマを無視し,あなたはそれを止めなかった.私はきちんとノルマをこなしたはずです.責任はお二方にあるので私は引き受ける必要はないと判断いたします」
マイケルは苦々しい気持ちになった.メアリーの悪い癖だ.彼女の言葉は正しいが,他者との共同作業にはまるで向いていない.とはいっても,自分が原因でこのような状況になっているのは理解しているので,何も言うことができない.
「あなたに意見を求めた覚えはありません.私が上司である以上すべての決定権は私にあります.メアリー.あなたが出て行きたいなら引き留めはしません.あなたがいなくなったときの補充要員などいくらでもいます.さあ.ご自由にどうぞ.研究者を辞めたらあなたの社会的信用は低下するでしょうから,もうこの一番安全な特区に住むことは許されないと思いますが」
メアリーとダイアンはにらみ合っていたが,しばらくしてメアリーが頭を下げた.
「大変申し訳ありませんでした.先ほどは出過ぎたことを言いました.今週のノルマも承知しました」
「よろしい.それでは今週中に二人で2,500人.よろしくお願いしますね」
それだけ言い残し,ダイアンは会議室を出て行った.
先ほどあれほど怒っていたメアリーと二人の空間は居心地が悪い.マイケルはそそくさと部屋を後にした.
マイケルは疲労のあまり溶けて消えてしまいそうな感覚に陥った.この五日間の記憶はほとんどなかった.それほどまでに激務の日々だった.出勤記録をみると,どうやらこの五日間の労働時間は80時間を超えていた.ミーティングの後,メアリーとデザイナーベイビーの割り振りをした後,ろくに家に帰らずにひたすら業務をこなしていた.だがようやくその業務が終わり,週末は家でゆっくりと休むことができそうだ.まずは家に帰ってシャワーを浴びる.その後,自然に目が覚めるまで自室のベッドで過ごそう.彼は帰宅後の予定を確認しながら,疲れた身体にむちを打ち,家路についた.
目が覚めてもマイケルはぼんやりとしていた.長く寝過ぎた弊害だ.結局彼はシャワーを浴びた後,ベッドに倒れ込み丸々半日を寝て過ごした.彼は寝ぼけたままもう一度シャワーを浴びて,脳を覚醒させた.そして,救済計画を実行に移す算段を考え始めた.
4月7日.この五日間仕事は拷問さながらだったが,ここまで真面目に働けばダイアンもメアリーもわたしが救済計画を考えているなど思いもしないだろう.五日前,わたしは救済計画を実行に移すだけの度胸がなかった.常に周りは敵に見えるし,いつ捕まるんじゃないかと気が変になりそうだった.それを思うと,他のことなど考えられないほどに忙しい日々を過ごしたのも悪くはないのかもしれない.この五日間を経て気持ちも大分落ち着いた.来年の4月1日が決行日だ.それに間に合うように計画を進めなければならない.計画は三段階からなる.
第一段階はUBZ387遺伝子の大量調製だ.これは他の分子生物学実験や遺伝学実験を行っているときに秘密裏に調製するしかない.自動核酸製造機を使用してUBZ387遺伝子を組み込んだプラスミドベクターを作製する必要がある.自動核酸製造機とは,あらかじめ入力された核酸の塩基配列情報にしたがい,オートマチックに核酸を合成する装置である.DNA鎖を構成する塩基アデニン,チミン,シトシン,グアニンを充填したカラムをセットし,入力情報に基づき,各カラムから一分子ずつ塩基が溶液中に放出されるシステムである.溶液中には塩基同士の結合を触媒するDNAリガーゼという酵素が含まれており,カラムから放出されるごとに順々に塩基鎖が伸長し,目的の核酸UBZ387遺伝子が合成される.自動合成したUBZ387遺伝子とプラスミドを混ぜることで,UBZ387遺伝子をプラスミドに組み込むことができる.プラスミドとは,大腸菌や酵母の核外に存在し,環状の二本鎖構造をとり,染色体のDNAとは独立して複製される核酸のことである.UBZ387遺伝子をプラスミドベクターに組み込み,大腸菌に導入する.そして,大腸菌を培養し,UBZ387遺伝子の組み込まれたプラスミドベクターを大量に用意する.大腸菌から抽出したプラスミドベクターに対してポリメラーゼ連鎖反応 (PCR) を行い,UBZ387遺伝子を大量に増幅することで,第一段階の目的は達成できる.
第二段階はUBZ387遺伝子の凍結乾燥だ.PCRによって大量に作製されたUBZ387遺伝子は溶液中に溶けた状態で存在する.送風口にセットし,風によって核酸をロボットアームにまで届かせるには粉末の状態にする必要がある.そこで重要となるのが核酸の凍結乾燥である.凍結乾燥とは,試料中の水分を氷点以下の温度で凍結させて,高真空下でその状態のまま昇華させることによって,水分を除去乾燥する方法である.通常の大気圧下の乾燥と比較し,保存性や復元性に秀でているのが特徴である.凍結乾燥装置も自身の研究室に置いてあるので,第二段階も問題なく達成できる.
最後の第三段階は送風口への粉末のセッティングだ.ロボットアームが稼働する空間への人間の立ち入りは厳重に取り締まられているのでそちらからの侵入は現実的ではない.現段階では建物の見取り図などが分からないので,この段階の解決法はない.次回からの出勤時から少しずつセッティング経路を考える必要がある.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
4月30日.ようやく第一段階のUBZ387遺伝子の大量調製が終了した.わたしが当初想定していた以上に時間がかかってしまった.UBZ387遺伝子の自動合成は二日と掛からず終了したのだが,プラスミドに組み込むのがなかなかうまくいかなかった.どうしてうまくいかなかったのか原因は結局分からないが,強い焦燥感に駆られる日々だった.条件検討を繰り返したが思うようにいかなかった.実験記録ノートは失敗の連続である.プラスミドとDNAの比に問題があるのではないかと考えて,プラスミドとDNAの比率を変えながら実験を行ったが,プラスミドに組み込むのは成功しなかった.次に,大腸菌への導入方法に問題があるのではないかと考えて,従来の方法とは異なる導入方法を検討した.これまでは「-80℃で保管していた大腸菌を氷上融解させ,融解後にDNAを加えて,30分間氷上でインキュベート.インキュベート後,42℃に温めた水に液を30秒浸し,再び氷上で5分インキュベート.5分経過後,SOC培地を加えて,37℃で60分ほど震とうし,コンラージ棒を用いて大腸菌液をLB培地に塗布」という方法を行っていた.新しく試した方法とは「-80℃で保管していた大腸菌を氷上融解させ,融解後にDNAを加えて,5分間氷上でインキュベート.5分経過後,コンラージ棒を用いて大腸菌液をあらかじめ温めておいたLB培地に塗布」というものである.この方法では,大腸菌に熱を加えないので,大腸菌の活性が高く,遺伝子導入を行うのが効率的になるという報告がされていた.しかしながら,改良型の方法でもプラスミドに組み込むのは成功しなかった.新品の大腸菌を購入し,もう一度実験を行っても,結果は変わらなかった.最後に,プラスミドにDNAを組み込む段階の条件を検討した.これまでは16℃で30分間インキュベートという方法で組み込んでいたが,温度を変更したり,インキュベート時間を変更したりして,実験を行った.すると,温度は16℃のままで,インキュベート時間を30分から一晩へと変更することで,無事に組み込むことができるようになった.この条件検討の段階では全くうまくいかずに生きた心地がしなかった.その後の段階であるPCRによる増幅は特に問題なく行うことができたので,PCR増幅→大容量の液に希釈→PCR増幅というサイクルを何度も回した.その結果,大量のUBZ387遺伝子を調製することができた.第三段階の送風口への粉末のセッティングに関しては,依然として解決していない.どうにか来月の中旬に研究所の試料閲覧室への入室が許可されたので,そのときに送風口のダクトがどこにつながっているか見取り図や設計図を見て明らかにしたい.遺伝子編集の仕事をしているとき,救済計画の準備をしているときにビルのことが不意に思い出される.彼は救済計画の準備はできているだろうか.捜査当局に捕まってしまって,すでにこの世にはいないんじゃないのか.いや考えるな.彼がもし救済計画の準備を進めているとしたら,わたしがそれに遅れを取るわけには行かない.結局の所,わたしにできるのは彼のことなど考えずに,来年の4月1日に救済計画を始めることができるように日々を過ごすことだけだ.業務は淡々とこなしているので,ダイアンとメアリーには疑われていないはずだ.きっと,彼女らにはわたしたちの計画の崇高さは理解できないだろうから,彼女らを説得するのは不可能だ.気付かれることなく計画を開始できるように怪しまれるような行動は今後も極力避けなければ.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
5月20日.第二段階のUBZ387遺伝子の凍結乾燥も完了した.わたしの研究室の凍結乾燥装置が問題なく使用できたので,誰にも見られずに凍結乾燥することができた.これでUBZ387遺伝子の粉末の準備も問題ない.後は,最後の第三段階.送風口への粉末のセッティングを残すだけである.研究所の試料閲覧室にて,研究所の見取り図や設計図,平面図を確認したところ,送風口がどのようなダクトを通っているのかは分かった.そして,研究所施設設備概要に目を通していると,送風口の内部の構造も書いてあった.どうやら送風口には,HEPAフィルター式の空気清浄機が設置されており,そこできれいになった空気を吹きかけることによって,エタノールの乾燥に使用しているらしい. HEPAフィルターとは,粒径が0.3 µmの粒子に対して99.97%以上の粒子捕集率をもつようなフィルターを指す.花粉やカビ,ダニは0.3 µm以上の大きさなので通ることはできない.凍結乾燥したUBZ387遺伝子の粉末の直径は0.3 µmを下回っているので,HEPAフィルターに阻まれることはない.しかしながら,ここで大きな問題となるのは,どのようにして送風口まで粉末を届けるかということだ.ダクトにわたしが入って,送風口付近まで持っていくのは現実的ではない.ダクトの幅は最大部分でも約50 cmなので,人間が通ることはできない.そこで,ダクト内の風の流れを利用することを考えている.通常,ダクト内の風速は5 ~ 7 m/秒となるように設計されている.実際に,研究所のダクトの図面から計算した風速は6.5 m/秒であり,この風の勢いを利用して一気に粉末を送風口まで送り込む予定である.ダクトは内部で何度も折れ曲がっているので,粉末が送風口まで運ばれるかが最大の懸念事項である.なので,HEPAフィルターにトラップされる大きさの花粉を利用して,粉末が運ばれるのか今後,実験していきたい.他の粉末ではなく花粉を利用するメリットは,花粉が自然由来の物質なので,フィルターで大量に検出されたとしても,それが人の手による現象だと判断される可能性が低いという点にある.研究所の設計図面より,ダクトの外界への露出部分は既に分かっているため,実験も問題なく行うことができる.やはり,施設内でも最も中心的な役割を担う遺伝子編集ロボットが稼働している空間に外部からつながるダクトなので,露出部は徹底的に隠されていた.施設内部を経由しなければ入ることができない場所なので,当然ながら職員以外はたどり着くことすらできない.まさか,経済特区の住人であり,デザイナーベイビーの作製を行っている研究所職員が,自分の勤め先にテロを企てるとは想定していないのだろう.また,外観からはまったく見えず,研究所内の試料閲覧室内部でしか見ることのできない研究所の設計図面がないと隠し場所は分からない.今回に限ってはそこが逆に穴となってしまった.かなり巧妙に隠されているために,犯行が気付かれる可能性は非常に低くなってしまう.警備員を付けてしまえば,その近くに研究所の弱みがあると教えるようなものなので,警備を付けることもできない.同様の理由により,近くに防犯カメラを設置することもできない.まだ,決行日まで時間はある.焦る必要はない.重要なのは,誰にも気が付かれないことなのだから.まずは,安全に実験が行えるのか様子見を行い,じっくりと実験を行いたいと思う.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
6月12日.前回日記を書いてから,およそ3週間が経過した.ダクトの下見に行くことができたのはわずか3回だけだ.わたしのいる研究室からダクトの露出部のある空間まで片道で15分はかかってしまい,毎日のように行くのは不審極まりないと思ったからである.実際に下見をした3回も,決して同じ曜日にはしなかった.下見に行くことができて明らかになったのは,やはり,警備はほとんどないということだ.近くに警備員の姿は見えなかったし,防犯カメラの存在も確認できなかった.それにしても,ダクトの下見は緊張しすぎて心臓に悪かった.実験を理由にして仕事部屋を抜け出して下見に行っていたのだが,一度はメアリーがわたしのことを呼びに実験室に来たらしい.下見を終えて仕事部屋に戻ったときに非常に不審がられたが,お手洗いに行っていたと言い張った.結果的には,その場では事なきを得たが,彼女からの疑いは未だ晴れていないような気がする.そのとき以来,彼女が一挙手一投足に目を光らせているように感じる.仕事中もずっと彼女の目線がわたしに注がれているいるような気がする.しばらくは彼女の動向にも気を払わなければならない.彼女がわたしを見張っている間は実験を行うのは厳しいのではないか.もし,いつまで待っても彼女からの疑いが晴れずに,計画を先に進めることができなくなったらそのときはどうするか.答えは決まっている.彼女を始末するしかない.殺人は正義にもとる非倫理的,非道徳的行為であることは明々白々だが仕方がない.この場面で最も大切なのは人類救済計画の遂行に他ならない.絶望に支配されたこの世界を終わらせる計画の礎となってもらうしかない.覚悟はしておく.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
8月23日.もうダメだ.あれから2カ月.メアリーの監視は緩む気配がない.花粉を用いた実験も行うことができていない.このままでは,救済の決行日に間に合わない可能性が出てきてしまう.やるしかない.だが,殺人だ.できるわけがない.口にするだけなら簡単だ.理論武装だって完璧だ.彼女一人の命を奪うだけで,これから生まれてきてしまう大勢の人が生まれなくて済むのだ.彼女一人が死ぬだけで,人類にどれほどの救済がもたらされる?臆病風に吹かれて彼女を殺せなかったときに救済計画はどうなる?一人の命と人類全体をてんびんにかけたときに,一人の命が選ばれるなどあってはならない.今この瞬間にも,遺伝子編集のせいで苦しんでいる人が『賛成派』には大勢いる.彼女は遺伝子編集技術を駆使して,そのような悲劇を生み出す側の人間なのだ.彼女を殺すことは,遺伝子編集の被害者の方々の敵討ちになるのではないか?それに,彼女はわたしと同じくこの経済特区に居住が許される特別階級の人間だ.彼女がいなくなることで,もしかしたら新たにこの特区に住むことが許される人がいるかもしれない.その人からしたら,彼女が死ぬことは幸せなのではないのか?さらに言うなれば,『反対派』の環境も地獄だ.ただ人間を産む機械として扱われて,役目が終わったら殺される『反対派』の女性に比べれば,メアリーは幸せなのではないのか?今彼女の生が終わっても,それは幸せな人生だったのではないか?そもそもわたしは彼女の事なんて嫌いだったはずだ.なのにどうしてこんなに悩んでいるんだ?だが,どれほど言葉を尽くして理論武装をしても,実際に人を殺すと思うと,身体の芯から震えが出て止まらない.そもそもどうやって殺せば良い?普通に殺してしまったら,絶対に足が付いてしまう.彼女に見張られているせいで救済計画を実行できないのも許されないが,彼女を殺してその罪で捕まってしまっても,救済計画は実行できなくなってしまう.研究所の試薬を使って毒殺?ダメだ.研究室の試薬はミリグラム単位で使用申請が必要だ.徹底的に管理されている試薬をくすねるなんて無理だし,すぐにわたしの犯行だと気付かれてしまう.ならば,ナイフや包丁を使って刺殺?鈍器を使って撲殺?縄を使って絞殺?車で引いて轢殺?ガソリンをかけて焼殺?水に頭を押し込んで溺殺?どれもダメだ.死体が残ってしまえばすぐに身元は割れてしまう.賢い彼女のことだ.わたしに殺されることを予期して既に遺書を作っている可能性もある.ならばどうする?遺書を回収するなんて不可能だ.そもそも彼女の家に遺書があるとも限らない.回収に失敗して一つでも取りこぼせばわたしは終わりだ.そんなリスクは負えない.死体を隠すというのはどうだろうか.死体さえ見つからなければ,彼女が失踪しただけで終わるのではないか.そして,救済計画が始まってしまえば,後は彼女の死体が出てこようがどうでも良い.大事なのは,決行日まで死体を隠しておくことだ.隠すならどこだろうか.わたしの部屋か?確かにわたしの部屋ならば人目に付くことはありえない.死体の腐臭についても適切にケアすれば限りなく抑え込むことができる.他にはあるだろうか.人目に付かない屋外.だが,特区を初めとした人間の居住地域は『反対派』のテロリストが隠れるような空間ができないように設計されているので,死体を隠しておくことは不可能だ.ならば,居住地域以外の地域はどうだろうか.それこそ,かつてビルに会った北の城跡なんかはほとんど確実に人目に付かないのではないだろか.彼女を呼び出して殺害し,車のトランクに死体を押し込んで城跡に遺棄する計画は現実的だろうか.いや,やはりダメだ.いくら彼女の死体を隠すことに成功したとしても,失踪した彼女を捜索することを目的として,捜査当局が彼女の部屋を調べたときに遺書を見つけてしまう可能性がある.万事休すだ.もう疲れた.ウイスキーでも飲んで眠ればすべてが夢となるだろうか.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
明くる日.マイケルはひどい頭痛とともに目が覚めた.ベッド横のガラステーブルを見ると,ウイスキーがボトルの半分以上なくなっていた.出社の時間が迫っていたので,痛む頭を押さえ,半ば身体を引きずるようにして彼はシャワーを浴びに行った.出社すると,メアリーが視界に入ってきて,彼は暗たんたる思いに陥った.いつも通りに業務をこなしながら,どのようにして彼女を始末するか,その方法について思いを巡らせていた.勤務終了時間の間際に何とメアリーが話しかけてきた.ここしばらく彼女に話しかけられることはまったくなかったので,驚きを隠せなかった.ひょっとして,彼女はわたしの企てに感づいており,わたしを脅迫するつもりなのだろうか.
「ねえ.そろそろ帰るけど,あなたに話したいことがあるのよ.この後,予定とかないなら私の部屋に来ないかしら」
彼女の部屋に招かれるなど,彼女と知り合って以来初めてのことだ.彼女が何を考えているかは判然としないが,渡りに船とはこのことだ.彼女の家に行けば,彼女が遺書を用意しているか分かるかもしれない.もし遺書がないことが分かれば,彼女を殺して,救済計画を実行できるだろう.マイケルは誘いに乗らない手はないと考えた.
「俺に話したいことがあるなんて珍しいな.だが,俺の方も話したいことがあったからちょうど良いな.一緒に帰ると余計な詮索をされそうだし,別々に帰ろう.俺の端末に君の家の住所を送信してくれ.君が帰ってから少し経ったら俺も出るよ」
「分かったわ.それでよろしくお願い」
彼女が部屋を出てから20分後.彼の端末に彼女からメールが届いた.簡単に返信を済ませて部屋を出た.車のナビを立ち上げ,先ほど届いた彼女の住所を入力した.ナビを見るとここからさほど遠くない場所であると分かった.どうやら車で10分ほどの距離らしい.彼は覚悟を決め,深呼吸をした.彼女の部屋に遺書がないことが分かったときにはためらわずに殺そう.彼は心に誓ってからゆっくりとハンドルを握って車を走らせた.
彼女の家に着いた.わたしのような一軒家ではなく,マンションの一室だった.隣の部屋に人が住んでいるかもしれない.彼女を殺すときには,叫び声を上げさせないように気をつけなければ.部屋のインターホンを鳴らし,彼女が出てくるまで,彼女を殺す計画を綿密に算段立てていた.
「はいお疲れ.待ってたわ.部屋にあがって頂戴」
彼女の服装はシャツにパンツといういつもの見慣れたオフィスカジュアルではなく,緩いスウェット姿だったので,非常に新鮮味を覚えた.
「この部屋で待ってて.飲み物を持ってくるけど,コーヒーと紅茶はどっちが良いかしら」
「そうだな.紅茶をお願いする」
「分かったわ.女性の部屋をジロジロ見ないでね」
彼女は軽くくぎを刺してからキッチンに向かった.言われたとおり彼は大人しく待つことにした.ここで彼女が戻ってくるまでに部屋を物色して遺書を見つけて回収しても意味がない.他の部屋にあるかもしれないし,電子データとしてどこかのクラウドに保存しているかもしれない.すべての遺書の所在を確かめてからでないと彼女を殺すことはできない.彼女からどのようにして遺書のありかを聞き出すか考えていると彼女が戻ってきた.紅茶をいただこうとしたまさにその瞬間に彼の脳裏にある考えがよぎった.まさか自白剤が盛られているなんてことはないだろうな.彼は急に心配になった.ここまで彼女の真意が分からなかったのだ.もしかしたら紅茶に自白剤が入っており,以前彼女が彼を探しに行ったときに本当はどこで何をしていたのかを聞き出そうと考えているのではないか.そう考えると急に部屋に呼び出したことにも納得がいく.まずい.この紅茶を飲むわけには行かない.だが,出してもらった飲み物に手を付けないのも不審なのではないだろうか.わたしが紅茶を希望した以上,実は苦手だったなどという言い訳は通じない.
「飲まないの?心配しなくても美味しいわよ」
案の定メアリーが飲むように促してきた.とりあえず時間を稼がなければ.
「いや.飲もうと思ったんだが,カップが思ったより熱くてな.実は熱い飲み物が苦手なんだ.もう少しぬるくなったら飲むことにするよ」
下手な言い訳だが,時間は稼げそうだ.今のうちに状況を打開する方法を考えなくては.彼女のことなど意識から追いやり,自分の考えに集中していた.すると,彼女がわたしに告げた.
「心配しなくても良いわよ.自白剤なんて入れてないわ」
彼は驚きのあまり一瞬呼吸が止まった.彼女は何と言った?自白剤?なぜそのような言葉が彼女の口から出たんだ?彼が何も言えずに口を閉じていると,彼女からさらに言葉が.
「この部屋はもちろん,他の部屋にも遺書なんてないわよ.当然,端末やクラウドの中にもね.どう?ここまで聞けば安心して私を殺せるかしら.それともまだ懸念事項があるの?ああ.そうね.この部屋がライブ中継されている可能性や,隠しカメラで盗撮されている可能性を考えているのね.大丈夫よ.少なくとも私の知る限りにおいて,この部屋が第三者の目に入る可能性はないわ」
マイケルはあっけにとられていたが,やっとの思いで言葉を紡ぎ出した.
「君は何を言っているんだ?自白剤?遺書?殺す?俺には君が何を言っているのか分からないんだが.それともこれは心理テストか何かなのか.今俺は君に試されているのか」
必死に彼はごまかそうとした.
「あなたは優秀だと思うわ.分子生物学や遺伝学などの生物学への造詣も深いし,それ以外の学問分野もよく勉強している.あなたはあなたが思っているよりもずっと賢いわ.でもね,あなたは決して完璧なんかじゃない.あなたにも欠点はあるのよ.そう.あなたは隠し事をするのにまるで向いていない.今だって,私が自白剤の話をしたときにあなたはすぐに返事をしなかった.沈黙それ自体が肯定になることを理解できていない」
彼は言葉を返せなかった.何か言葉を発してしまえば,運命が決定づけられてしまうような気がした.
「あなたに私は殺せない.正確には殺すという判断をくだすことができない.殺人を倫理的に許容できないという理由だけではなくて,その非合理性も十分に理解できているからよ.あなたが今ここで私を殺して死体を隠したとしても,到底逃げ切ることはできない.あなたの乗ってきた車に私の死体を運ぶのを誰かに目撃されてしまえば計画はすぐにご破算よ.それに,私の携帯端末には,あなたに送ったメールの履歴が残っているし,仮に私とあなたの端末の履歴を削除しても,電波の基地局にはデータが残ってしまう.私が失踪すれば,捜査当局は,連絡の履歴を確認するために,基地局から履歴を復元するでしょうね.そうなれば,あなたが今日私の家に来たことはすぐに分かってしまう.もちろんこれらはすべて状況証拠になるから,あなたがすぐに逮捕されることはないでしょう.けれども,私の監視だけでも精神的に参ってしまうようなあなたが,朝から晩まで捜査当局の人間に監視されて,正常な精神を保つことができるとは思えないわね.あなたが何をしようとしているか私にははっきりとは分からないけれど,それは捜査当局の人間の監視下でも行えるようなことなのかしら」
彼女は静かにコーヒーを口に運んだ.
一体,この女性は何者なんだ.初めて出会ったときから,賢い女性だとは思っていたが,これほどとは思ってもみなかった.わたしの救済計画までを見破っていないと言っているが,その言葉自体が信じられない.もしかしたら,何もかも見透かされてしまっているのではないだろうか.
「まただんまりね.別に良いけど.あなたの沈黙は肯定と受け取ることができるから」
悔しいがその通りだ.わたしには彼女を殺すことはできない,どれだけ理論武装をしても,わたしの精神は人を殺すことには絶えられそうにない.それに,彼女の指摘したように,彼女を殺した後に救済計画の決行日まで逃げ切れるという自信はまったくない.考えがまとまらない.彼は最後の抵抗よろしく,彼女をにらみ付けながら既にぬるくなった紅茶をグイッと飲み干した.彼女の言うとおり,自白剤は入っていなかった.
「君の狙いは何だ.わざわざ親切に俺の欠点を教えたって訳じゃあないんだろう.金か?俺を脅迫して金を手に入れようとしているのか.もしくは,君の指示通りに動く操り人形になることを所望するのか」
彼は穏やかでない胸中を察されないように努めて平常心の振りをした.
「はあ.強がってみせるのは構わないけれど,私の目を直接見ることができていない時点で虚勢だとバレバレよ.ちなみにさっきの質問に答えると,両方とも間違いよ.あなたも分かるとおり,研究所のお給料は良いからね.お金にはまったく困っていないわ.それに,あなたを操り人形にするつもりもまったくないわ.私自身の手でかなえられない望みは持たない主義なの.だから,あなたを私の道具にはしないわ」
彼女はあっさりと答えた.
「それだったら君は何がしたいんだ」
「簡単な話よ.あなたの質問とは逆よ」
「どういうことだ」
「つまり,ね.私があなたの手伝いをするということよ」
彼女があまりにもあっけらかんと言うものだから,彼ははじめ彼女の言葉を理解できなかった.
「俺の手伝い?君は俺がしようとしているかは分からないと言ってたはずだが」
「そうね.でも正確には,あなたのしようとしていることがはっきりとは分からないと言ったのよ.まったく見当がついていないとは言っていないわ」
やはり彼女は俺の計画に気が付いている.彼女の言葉が信じられなかったが,この直感は正しかったんだ.だが彼女を殺すこともできない.なのに計画は露呈してしまった.彼女が捜査当局に計画を伝えてしまったら終わりだ.もう俺は捕まるしかないのか.死刑になるしかないのか.そんなのは御免だ.別に命が惜しいのではない.俺の命なんていくらでもくれてやる.だけども,それは救済計画が終わった後の話だ.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.絶望に支配されたこの世界に子どもが生まれてこないようにして,この世界を救った後でなければこの命を投げ出すことはできない.それに,わたしが捕まってしまい,救済計画の一切を話してしまえば,さまざまな対策が取られてしまい,受精卵の遺伝子編集のタイミングで救済遺伝子を導入するという方法は今後誰も行うことができなくなってしまうだろう.そうなってしまえば,今後二度と救済計画を行うことは不可能になってしまうかもしれない.わたしが『賛成派』において救済計画に失敗している一方で,ビルが『反対派』で救済計画を実現に成功したらどうすれば良いのだ.『反対派』の軍事力が低下する一方で,わたしたち『賛成派』の軍事力が強化されれば,あっという間に『賛成派』が戦争に勝利するだろう.そのときおそらく『反対派』の人々は全員無残に殺される.『賛成派』と『反対派』の人々の価値観の溝は深く,分かり合うことなどできはしないのだから.敵は殺すしかないのだ.ならばどうする.マイケルが悩み出したのを見て,メアリーは再度告げた.
「私の話を聞いていなかったの?私はあなたの手伝いをしたいと言ったのよ.あなたを捜査当局に売るようなことはしないわ」
そういえばさっきもそんなことを言っていたかもしれない.彼はこの部屋に入ってからうまく頭が働いていない.彼女の口から出る言葉はすべてが衝撃だったからだ.それでも,彼女の真意を確かめようと,彼は震える声で言った.
「俺の手伝いをしたいというのは理解した.だが,俺が何をしようとしているか.君の予想で構わないから聞かせてほしい」
マイケルが話を聞いておらず,話が進まないことにイライラしていたが,やっと話が進んだので彼女も留飲が下がったのか,再び落ち着いた口調に戻った.
「あなたがこれからしようとしていること.私の予想は,デザイナーベイビーの生殖不全の誘導ではないかしら」
マイケルは今度こそ完全に息が止まった.完全に彼の計画が,彼女には見えているのだ.あまりの洞察力に背筋が凍るような気がした.
「その反応を見る限り,どうやら私の予想は的中したみたいね」
マイケルは声を震わせながら尋ねた.
「どうしてそう思ったんだ.その理由を教えてくれ」
「まあそうね.でも教える前に一つだけ言うと,私以外は気付いていないからその点は心配しなくても良いと思うわ.ダイアンにも気づかれてはいないわ.それで,あなたの計画が分かった理由だけどね.一言で言うなら,デザイナーベイビーに対するあなたのこれまでの態度かしら.あなたは遺伝子編集によって子どもが傷つくのをとても恐れているように見えたの.裁判のときもそう.あなたは遺伝子編集に関する不幸に対して神経質すぎるわ.どうしてこの仕事をしているかまでは私は知らないけれど,あなたがこの仕事をとてもつらそうにこなしているのおまえから見てきたからね.だから,あなたがコソコソと何かをしているのだとしたら,きっとこの社会体制を壊すくらいのことはしそうだと思っただけよ.最初は,遺伝子編集に乗じて受精卵を殺そうとしているのかと思ったけれども,即効性がありすぎて,犯人が研究所内にいることがすぐに分かってしまうので違うと考えたわ.何個かの受精卵を殺しても社会体制にダメージを与えることはできないからね.そして次に思いついたのが,受精卵の不妊化よ.この方法なら,世間が気付くまでに20年程度かかるので,研究所の人間が疑われる可能性が非常に低いわ.ひょっとしたら伝染病だと思う人もいるかもしれないからね.そして,20年もの期間にわたって不妊化を実行したときの社会体制へのダメージは計り知れないわ.まあ,得意げにここまで語ったけれど,あなたがそれを具体的にどのように行うのか.それについては皆目見当が付かないわ.受精卵不妊化計画なんて大それたことを考えるだけではなく,それを具体的行動として実行できる辺り,やはりあなたは非常に優れた人間ね」
彼女にはすべて気付かれている.ここまで分かっているにも関わらず,捜査当局に通報をしない理由は何だろうか.いや,ここまでの彼女の話は,言ってしまえばすべて彼女の妄想の可能性がある.何しろ証拠と思わしきものが何一つないのだから.ここまで考えて彼はすべてを悟った.そうか.彼女はわたしの口から救済計画の全貌もしくは一部を話させることによって,捜査当局に報告する際の証拠とするつもりなのだろう.部屋のどこかに盗聴器が仕掛けられているかもしれない.はじめに彼女を殺そうとして,彼女が叫び声をあげたらすぐさま現行犯で逮捕されていた可能性すらある.何て悪賢い女だ.やはり彼女だけは敵に回してはいけなかった.だが,まだ大丈夫だ.わたしは計画に関することを何一つとして自分の口から話していない.捜査当局に付け入る隙をわたしは与えていない.幸運なことに,盗聴されていた場合,ここでシラを切り通せば,疑いが晴れる可能性すらある.ピンチをチャンスに変えるしかない.
「なるほど.君が俺をどう思っているのかがよく分かった.非常に面白い計画だ.ひょっとしたら実現性もあるのかもな.だが,そんな計画を俺は全く知らない.俺がつらそうにしながら仕事をしているというのも君の見立てに過ぎない.俺は誇りをもって今の仕事をこなしている.遺伝子編集によってより良い子どもを作製する.夢に満ちあふれているじゃないか.実験を行うために部屋を出たはずの俺が実験室にいなかったことを不審がっているが,それについても,何度も釈明したはずだ.俺はそのときおなかが痛かったからお手洗いに行っていたんだと.いい加減にしつこいぞ.今日のところは帰らせてもらう.じゃあな」
彼は即座に帰ろうとした.このままこの部屋に居続けても自分にはメリットはない.それどころか,うっかり何かのはずみで計画に関することを口走ってしまうかもしれない.今日のところはいったん家に帰り,もう一度彼女に対する対抗策を考えなくてはならない.彼が仕事用のリュックサックを片方の肩に掛け,彼女の部屋の扉を開けようとしたまさにその瞬間.
「待って!!!」
メアリーが急に大声を上げた.ここまで大きな彼女の声を聞いたことがなかったので面食らってしまった.そして,リュックを強引に引っ張られ,床にたたきつけられた.机に頭こそぶつけなかったが,倒れこむときにすぐ真横に机が見え,寒気がした.
「かはっ」
あまりにも強く背中からたたきつけられたので,一瞬息が止まった.
「ゴホゴホ.何するんだメアリー」
彼が起き上がろうとすると,今度はメアリーがその上から覆いかぶさって,抱き着いてきた.
「ゴホゴホ.何のつもりだ」
彼は背中を打った衝撃でまだ満足に息ができずにいた.気が付いたら,リュックはあまりにも強い力で引っ張られたので,肩のひもが切れてしまい,部屋の隅の転がっていた.メアリーは答えずにそのまま彼に体をくっつけてきた.だんだんと息が整ってきたマイケルが彼女をどかそうとすると,彼女は彼の耳元でささやいた.
「私は本当にあなたを手助けしたいの.話だけでも聞いてくれないかしら」
強引に彼女を振りほどこうとしたが,マウントポジションを取られているため思うように彼女を押しのけることができない.やがて,もみ合っていても仕方がないと観念し,マイケルは暴れるのを止めて,彼女の話を聞くことにした.無論,彼女の力が弱まったらすぐにでも脱出するつもりではあるが.
「さっきも言ったけれども,私はあなたの手助けをしたいの.急に倒したことは謝るわ.ごめんなさい.でもこうでもしないとあなたが話を聞いてくれないと思って」
彼は,彼女がずっと耳元でヒソヒソと話してくるのが気になったので,
「分かったよ.君をどかすのにも苦労しそうだからな.話なら聞くよ.普通に聞くから耳元で話さなくて良いぞ」
と,彼女を押しのけようとしながら言ったが,しがみついて動かない.
「あなたが私を信用していないのは分かっているの.この部屋に盗聴器の類が仕掛けられていて,あなたから犯罪行為に関する供述を引き出させるようにわたしが振る舞っていると思っているのでしょう.いきなり信用しろなんて無理な話だものね.だからこうして耳元で小声で話すことで,盗聴器があったとしても問題ないようにしているつもりよ.どれほど高性能な盗聴器でも,この声の大きさを拾うことはできないわ.あなたも話すときは私の耳元でお願い」
「君の狙いについてはよく分かった.だが,盗聴器が壁面や家電製品の中に仕掛けられているとは限らないだろう」
メアリーはこの言葉を聞くと拘束を緩めた.彼は今が好機だと思い,力を込めて彼女を押しのけようと起き上がったが,彼女に手をかけることはできなかった.彼女は上着を脱ぎ棄てており,下着一枚の姿だったからだ.
「どうして脱いでいるんだ」
彼は動揺を隠せぬまま尋ねた.
「どうしてって.あなたが言ったんじゃない.盗聴器が壁面や家電製品の中に仕掛けてあるとは限らないって.他に仕掛けられる場所で,耳元の小声すらも拾えるとなると,私の衣類しか残っていないじゃない.私は私の疑いを晴らすために脱いだのよ.とりあえず上は脱いだけれども,下着も外した方が良いかしら」
彼は刺激に耐えられず,つい彼女を信じてしまいそうになった.しかし,その気になれば下着の中にでも盗聴器は仕掛けられるかもしれない.自分の羞恥心なんかで救済計画をみすみす失敗させるわけにはいかない.
「そうだな.下着の中に隠しているという可能性もあるからな」
「分かったわ」
そう言うと,彼女はゆっくりと下着を外して,それを彼に手渡した.下着の中に盗聴器の類は仕掛けられていなさそうだった.確認後,下着を彼女に返し,彼女が下着を身に着けている間に,先ほど脱いでいた上着も調べたが,こちらも盗聴器の類は確認できなかった.
「次は下も脱いで,確認してもらいたいのだけれど」
彼女は引き続き潔白を証明するために,下に履いていたスウェットを脱ごうとしていたが,マイケルはそれを阻んだ.
「下はわざわざ脱がなくて良い」
「でもそれじゃあ,あなたからの信頼は得られないわ」
その通りだ.彼が彼女の脱衣を止めたのは,男性の前で女性にスウェットのパンツを脱がせるという行為に後ろめたさがあったからではない.もしスウェットのパンツに盗聴器の類が仕掛けられていたとしても,耳元で小声で話す限り,その声を拾うことはできないと判断したからだ.彼は彼女を信用するべきか迷っていた.いくら彼に自白させたいからといっても,賢くてプライドの高い彼女が,異性の前で肌を見せるという行為をするだろうか.それに,上着と上の下着には盗聴器の類はなかった.小声で話す分には問題ないのであれば,もう少し彼女の話を聞いても良いのかもしれない.
「分かった.降参だ.君の話を聞くよ」
「信用してもらえたという訳ではなさそうだけれども,まあいいわ.とりあえず話をできる環境を作ることには成功したのだから.何を聞いても良いわよ.何でも答えるから」
マイケルはお互いに耳元で話すために彼女を抱きしめているこの状況にどこか奇妙なおかしさを感じながらも,いろいろと彼女に質問をすることにした.
「初めに説明してしまうと,君の仮説は正しいよ.君の言う通り,俺は受精卵を不妊化することで,子孫を途絶えさせて人類を滅ぼそうと考えている.実現性はともかくとして,こんな恐ろしい計画を知りながら,君はどうしてそれに協力したいと言ったんだ?常識的に考えれば,俺は精神障がい者で,捕まえるべき人間なんじゃないのか?」
彼は彼女の行動が理解できなかった.自分とは違い,現在の社会体制に大きく不満を持っているようには見えず,遺伝子編集という職に対する忌避感も特に抱いているようには思えなかったからだ.
「そうよね.普通に考えればあなたの計画に協力するなんてあり得ないわよね.私は現在の社会体制に納得のいかないことは多いけれども,かといって特に大きな不満があるという訳でもないからね.でも,考えてみたの」
「何を?」
マイケルは尋ねた.これから語られる言葉こそが彼女の真の言葉なのだと思うと,緊張感が高まるのを感じた.
「現在の社会は正しいのかどうか,ということよ.さっきも言ったけれども,私はこの世界に大きな不満はないのよ.自分で言うのも変な話だけど,私って恵まれているのよ.高いお給料をもらうことができているから,戦争から最も遠いこの安全な経済特区に住むことが許されているわけだしね.遺伝子編集の仕事にしたって,もともと私が分子生物学や細胞生物学,遺伝学が好きで,その延長でやっているようなものだから,まったく苦じゃなかったわ.この世界で行われている戦争だって,私には関係のないどこか遠いところで行われているように思えるわ.見ず知らずの人間が戦争で亡くなったと報道されても,悲しみなんて覚えなかったわ」
でもね,と彼女は続けた.
「あなたの計画に気づいたときに現在の社会は果たして正しいのか考え直したわ.笑っちゃうでしょ.正しさなんて,全能感に浸っていて現実の見えていない学生が語るような痛々しいものじゃない.社会に出て,自分が何者でもないのだと突きつけられてからは,正しさは人それぞれなんていうお飾りの言葉を偉そうに言っていたわ.そんな風に言っていれば,誰も私に反論もしてこないでしょ.他人と議論するのがおっくうだった私にはおあつらえ向きの言葉だったわ.でも私は正しさをもう一度考え直した.だって私はそれを考えないといけなかったから.今私のいる『賛成派』の掲げる理念と,あなたの掲げる理念は異なっていて,その両方を私は知ってしまったのだから.あなたを通報するということは『賛成派』の理念を選ぶということを意味するから」
「それで,君の出した結論は?君の考える正しさを聞かせてくれ」
彼女は深く息を吸い込んでから再び話を続けた.
「私の考えた正しさは,人間がどのように生きるのかということに帰着したわ.私の至った結論はこうよ.すべての人間は幸福に生きる権利があり,平和の中で生きる権利があり,差別や貧困に苦しまなくて良い権利があるということよ.当然,すべての人間には,私たちのように遺伝子編集を受けた人も,それを否定する人も含まれるわ.『賛成派』と『反対派』の区別なく,すべての人間が幸福に生きる権利があるはずよ.そう考えたときに現在の社会情勢はどうかしら.『反対派』の暮らしのことは分からないけれども,『賛成派』に限ったとしても,到底すべての人間が幸福に生きることができているとは考えられない.私やあなたのように経済的に恵まれている人は,経済特区で何一つ不自由のない暮らしができるかもしれない.だけど,経済レベルの低い地域では,満足に医療を受けることができずに亡くなってしまう人もいるし,犯罪に巻き込まれて亡くなってしまう人もいるじゃない.そして,『賛成派』と『反対派』の戦争が続いている以上,どうしても平和な日常を送ることができない人は出てきてしまう.だったら話は簡単よ.戦争や貧困,差別のない世界を作れば良いだけなのよ」
マイケルはしばし考えた後,おもむろに口を開いた.
「君の考えは理解した.だが,現実問題としてどのようにして戦争や貧困,差別をなくすんだ?簡単にこれらのものをなくせるのなら,きっと世界は今のようにはなっていないはずだ」
「その通りよ.私だってもう子どもじゃないんだから,理想はしょせん理想でしかないなんて十分に理解しているわ.『賛成派』と『反対派』の思想の違いは,対話による解決は到底望むことはできない.経済格差だって,ここまで格差が拡大し,固定化してしまっている以上,解消することは難しいはずよ.限りなく不可能だとすら言えるわ.遺伝子編集は,どれだけ努力を重ねても決して成功確率が100%になることはあり得ない.遺伝子編集の失敗に基づく不幸はなくならない.こんな絶望に満ちた世界だけれども,一筋の希望の光はあったわ.そう.あなたの計画よ.人間には幸福に生きる権利があるわ.そして,同時にこう思ったのよ.幸福になることができない人間は生きるべきではないんじゃないかって.だってそれってすごくつらいことじゃない.幸福になることができないにも関わらず生かされているだけなのよ.私にはこの世界を良くすることなんてできない.でもね.絶望を味わう人をなくすことはできるわ.だから私は,絶望に満ちた世界を変えるのではなく,終わらせるというあなたの計画に協力したいの.これが私の本音よ.私をどうするかはあなたが決めてちょうだい.ここまで話しても,私が信用できなくて,あなたの計画の支障になると言うのなら,私は自殺するわ.言ったはずよ.私はあなたの計画に協力するのが望みだって.私が生きていることがその計画の邪魔になるのだとしたら,私は協力するために自分の命を捨てるわ.大丈夫よ.あなたに万が一にも嫌疑が掛からないように死ぬから.そこは心配しなくて平気よ」
彼女の本心,そして覚悟を聞いて,マイケルはひどく戸惑った.まさか,ひょうひょうと仕事をしているように見せながら,こんな事を考えていたとは.彼女の内面に熱い気持ちなどないものとばかり思っていた自分を恥じた.だが,彼女を信用して良いのだろうか.彼は彼女を信じたかったが,それは非常にリスクが高いことも同時に理解していた.彼女が味方になることのリターンと,そのリスクは果たして釣り合いが取れているだろうか.
「申し訳ないが,今ここで君が信じられるか決断をすることはできない.だからこそ,明日まで待ってくれないか.今晩一人で考えさせてくれ.どういう決断をするかは分からないからできれば先走らずに今日は死なないでくれ」
「あなたに迷惑を掛けないために自殺するのだから,あなたと会った今日死ぬつもりはなかったのだけれどね.分かったわ.でも,まさかあなたにそんなお願いをされる日が来るなんてね.世の中,不思議なものね.あ,一つだけ最後に言わせて.あなたの計画の妨げにならないように私には死ぬ覚悟があるけれど,これは脅迫ではないということは覚えておいてほしいの.私の命を守るという目的で私を信用なんてしなくて良いわ.職場で会話すると怪しまれるし,メールも履歴が残ってしまう.だからこうしましょ.また明日,今日と同じ時間にここで会いましょ.じゃあまた明日」
「了解した.今日と同じ時間にここに来れば良いんだな.また明日」
コソコソとしていると余計怪しく見えるというのは彼女のアドバイスだ.なので,彼は堂々と彼女の家を出て,駐車場に向かった.車の中で深く息を吐くと,エンジンを掛け自分の家に車を走らせた.
家に着いた彼は,シャワーを浴びてから夕食を食べずに,メアリーのことを考えた.
8月24日.またしてもわたしを悩ませるのはメアリーだ.つい昨日,わたしは彼女をどのように処理するかに悩まされていた.悩みを忘れるために酒の力を借りたが,おかげで,ウイスキーをボトルの半分も飲んでしまった.朝起きたときの頭痛と吐き気を思い出すと,しばらく酒は控えたいと思う.そのメアリーが何と今日接触してきた.わたしは何でもないそぶりをしていたが,内面では激しい焦燥感に駆られていた.待ち合わせは彼女の部屋だったが,そこで思わぬ事態となった.彼女がわたしとビルの救済計画に協力したいと言い出したのだ.まずそもそも,わたしの行動のわずかな違和感から,計画の全貌を把握した彼女の洞察力には目を見張るものがある.そしてわたしの計画に協力したいというその理由を尋ねたが,非常にわたしと近しい思想を持っていることが分かった.「人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない」という思想に深く共鳴した.「この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない」というわたしの思いすら知っているようだった.また,彼女は自分の覚悟すら聞かせてくれた.彼女の存在がわたしの計画の支障となるなら,自死もいとわないという.あの瞳は本気だった.わたしやビルと同じだ.自分の命がまったく惜しくないのだ.ただひたすらに,理想の実現にまい進する人間の目をしていた.問題は彼女をどうするかということだ.わたしの思いに近しい思想をもち,同時に,理想をかなえるためにのみ生命を燃やすというその覚悟を聞いて,わたしは彼女の気持ちにうそはないと思っている.だが,それでも彼女を味方に引き入れるかどうかは別の問題だ.彼女が味方になる場合に一体どんなリターンが見込まれるだろう.わたしの監視がなくなるのが一番のメリットだろう.この二カ月,彼女に見張られているという思いで,花粉を用いた実験を行うことができなかった.しかしながら,これに関しては,彼女が自死を選んでくれたとしても問題はないだろう.では,彼女と分担しながら計画を進めることができるという観点から考えるとどうだろうか.花粉を用いたダクト管での実験は,本番での確実性を担保するために,最低でも2,3回は行う必要がある.毎回わたしが実験に行ってしまうとダイアンがいぶかしんでしまう恐れがある.確かにダイアンからの疑義を避けるために,彼女と協力するのは得策かもしれない.二人で分担して作業を行えば,一人で何度も実験を行うことは回避できる.彼女が死んでしまったらどうなる.一つの可能性としては,部署の人員が,ダイアンとわたしの二人だけとなってしまうことが考えられる.そうなってしまうと,ダイアンのコンタクトが増えてしまい,計画を気付かれる恐れが生じる.もう一つの可能性としては,研究所が新たな人員を部署に補充することが考えられる.この場合,ダイアンに計画が露呈する可能性は増えないが,新人に気付かれる恐れが生じてしまう.というのも,わたしのいる部署では,配属してから三カ月間は試用期間として,先輩が業務を指導する取り決めになっているからだ.試用期間の間,原則として新人と先輩はともに行動することが期待される.つまり,実験室に行くといううそをついて,部屋を抜け出し,ダクト管まで行って実験を行うのは限りなく不可能となってしまう.となると,やはり彼女には,わたしの計画に協力してもらうのが合理的決断であろう.殺人は正義にもとる非倫理的,非道徳的行為である.彼女が死ぬのを理解しながら,そうするように振る舞うのは殺人と同等に罪深いのではないだろうか.明日,彼女にわたしの計画に協力してほしいということを伝えよう.彼女に悩まされることもないので,今日は安眠できそうだ.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.
マイケルは日記を閉じてすぐにベッドに潜り込んだ.昨日は深酒のせいで睡眠が浅かったのが原因だろう.明日,どのように彼女に話を切り出そうか考えていたが,あっという間に眠りに落ちた.
その日の晩.彼は夢を見た.夢見ていたのは,彼が小さかった頃の記憶だった.彼は父とキャッチボールをしていた.父は野球が大好きで,息子が生まれたら親子でキャッチボールをするのが夢だったらしい.父は休みの度にマイケルを公園に連れて行きキャッチボールをした.彼も父のことを尊敬しており,大好きだったので二人で遊べるのが嬉しくて仕方なかった.ある日,ボールを投げながら父が問いかけてきた.
「将来なりたいものは何だ?」
マイケルはボールをキャッチし,しばらく手でボールを転がしながら考えた.将来の夢か.自分は一体どんな大人になりたいのだろう.考えても分からなくなりそうだったので,最初に心に浮かんだ仕事を答えることにした.
「僕の将来の夢はお医者さんかな」
言いながら父にボールを返した.
「おお.そりゃあ立派な夢だな.どうしてお医者さんになりたいんだ?」
「この前,僕が足をけがしたとき病院に行って,そこのお医者さんがすごく優しかったんだ.だから僕も誰か困っている人を助けられるような人間になりたいなって」
「努力家で誰よりも優しい心をもつおまえなら絶対になれるぞ.俺は応援してるからな.父さんが病気やけがで病院に行くときには,父さんの面倒をみてくれよ」
父は笑いながら言った.ほんの冗談のつもりだったんだろう.マイケルも冗談っぽく返した.
「仕方ないな.父さんは僕の最初の患者だからな.そして,父さんがどんな病気やけがでも僕が絶対に直してやるよ」
その日の父との会話から15年後.彼は子どもの頃の夢をかなえ,医者になることができた.仕事は大変だったが,やりがいも多く医者としての業務に誇りを感じていた.ある日,外来で診療を行っていると,父がやってきた.
「久しぶりだな.こんなに大きくなって.夢だったお医者さんにもなれたんだな.立派だよおまえは.おまえは父さんの自慢の息子だ」
「はいはい.分かったよ父さん.俺が働くところを見学しに来たわけじゃないんだろ」
「まあ見学も兼ねているんだけどな本当に.おまえの仕事の邪魔はできないな.父さん,この頃,体調が優れないんだよ」
「え.大丈夫なのそれ.具体的にどんな症状なの」
「大丈夫なんだけどな,母さんに病院で見てもらいなさいて怒られちゃったからな.まあちょっとおなかが痛いのと,背中とか腰辺りが痛いって感じかな」
「ただの食べ過ぎってことはないんだよね」
「いやあ.そんなにご飯は食べていないからな.最近,むしろ以前よりご飯を食べる量は減ってきたくらいだ」
「なるほどね.症状だけだと診断は難しいから,おなか辺りを中心にCT検査をやってみよう.原因が分かるかもしれない」
彼は看護師に父をCT検査室に連れて行くようにお願いした.そして,父が重い病気でないことを祈りながら次の患者の診療に取りかかった.午前の診療の間,父は戻ってこなかった.
昼休みを空けて午後の診療.最初の患者さんは父だった.
「検査お疲れさま.午前の間に終わるかと思っていたんだけれど,思ったより時間かかったんだね.検査室が混んでたのかな」
「まあ,混んでたってのもあるけれど,看護師さんにおまえの昔話をしていたら思いの外盛り上がっちゃってな.それが原因だな」
「俺のいないところで,俺の昔話を職場でするのは辞めてくれよ.まあいいや.それじゃあ結果を見ていくね」
彼は父の登録番号を入力し,先ほどのCT検査結果のデータをダウンロードした.『賛成派』の人々は生まれたときから一人ずつ登録番号が付与されている.登録番号には個人情報のすべてがひも付けされ,一元管理されている.アクセス権をもった人が父の登録番号にアクセスしてしまえば,父の病歴や資産情報,家族構成などすべてが知られてしまう.医師に与えられているのは病歴閲覧の権利と,検査結果の閲覧のみである.
父が明るく振る舞っているので,特に大きな病気はないだろうと楽観的に考えていたが,なぜだかずっと嫌な予感がしていた.そして,その予感は的中してしまった.すい臓付近に腫瘍のようなものが確認できたのだ.非常に鮮明に写っており,到底見間違いとは考えられない.AIの画像診断ツールを用いて,病理診断を行ったところ,自分の見立てと同じく,すい臓がんとの診断だった.そして,父がすい臓がんを患っていると考えればすべての合点がいくのだ.腹痛や背部痛,食欲不振はすい臓がんの典型的症状である.リンパ節や他の臓器への転移はしていない様子だが, がんがすい臓内に限局しておらず,すい臓外へ進展してしまっている.この状態までがんが進行していると,手術によるがんの切除は非常に難しいため,現実的な選択肢ではない.そこで,次の選択肢として,放射線療法と化学療法の併用療法が考えられる.だが,併用療法によるすい臓がんの奏効率は非常に低いというのが業界内の共通認識だった.それ以前に,そもそもとしてこの旨をどのようにして父に伝えれば良いのだ.黙った医者ほど恐ろしいものはない.きっと父は,わたしが診断画像を見ながら神妙な顔つきをしていることに戸惑っているはずだ.「特に異常はありません」と告げて,この場では父にいったん帰ってもらうということもできる.大した効果は見込めないが,痛み止めを処方することも可能だ.一方で,我慢強い父のことだ.今回は母に強く言われてしぶしぶ病院に来たが,本来ならば痛みに耐えて病院には来ないような性格である.ここで,異常がない旨を告げてしまったら,それを信じて痛みに耐えられなくなるまで病院には来ないだろう.既に進行してしまってはいるが,治療をするのならできるだけ早いほうが良いというのはがん治療の共通事項だ.自分一人で判断するには荷が重すぎると考えた彼は,父に一言断りを入れて,同僚の医師に相談することにした.
「父さん.時間かかってごめん.この画像を見て,気になるところがあるけれど,自分だけでは判断に自信がないから,他の先生にも相談してくる.だから少しの間,ここで待っててくれ」
「なんだ.何か問題でもあったのか.もう十分おまえの仕事の様子は見ることができたし,そろそろ帰りたいんだがな.何もないなら帰って良いか」
「そうなんだけど.頼むから少しだけ待っててくれ.すぐに確認は済むから」
そう言い残し,彼は同僚の元に向かった.
「今,大丈夫かリカード.少し相談に乗ってほしいんだが」
彼はコーヒーを飲みながら,医学論文とにらめっこしている同僚に話しかけた.
「どうしたマイケル.おまえ,今日の午後は外来じゃなかったのか.こんなところで油売っていて良いのか」
「外来なんだけど,父が来ているんだ.それでおまえに相談があるんだ」
「お父さんが来ているのか.家族の診察は気が乗らないよな.俺が代わりに行ってやろうか?」
「いや.そうじゃないんだ.とりあえずこの画像を見てくれ」
彼はリカードに父のCTスキャンの画像を見せた.リカードは不審な顔をしながら,画像を見始めた.しばらくたって,険しい顔つきになったリカードが彼に言った.
「おまえ.これって」
「そうだ.俺の父の腹部CTスキャン画像だ」
「そうじゃない.このすい臓付近に見えるのは,がんじゃないのか?」
「やっぱりおまえもそう思うよな.俺もAIもすい臓がんだと判断した」
「しかもこの進行具合だと,手術療法はできないだろ.放射線療法と化学療法の併用療法で治療するのか.いやそんなことは問題じゃないな.問題なのは,これをおまえの父さんに知らせるかってことだ」
「そうなんだ.それでおまえに相談に来たんだ.俺の父は頑固者なんだ.今日は母に強く言われて病院に来たが,次に来るかどうかは分からない.限界まで我慢する可能性もある」
「それは厄介だな.ここからさらに進行すると治療効果はほとんど望めないんじゃないか.でも軽く病院に来てみたら,いきなりがんの宣告は精神的負荷が大きすぎるよな.下手すりゃ,医療不信になる可能性だって十分に考えられる.そしたら最悪だぞ.病院の一切の治療を拒否するかもしれないからな」
「だからどうしようか悩んでいるんだ」
「お母さんにだけ伝えるっていうのはどうだ?そしたら,お父さんが苦しそうな感じを醸し出したときに,また病院に行くのを強く勧めてくれるんじゃないのか?それならさほどがんのステージが進行する前に,再度病院に来てもらうことができるかもしれない」
「母はうそをつくのが苦手な人間なんだ.父の病気のことを話したら,絶対に母は動揺する.父の前で病気を知らない振りができないかもしれない.そうなると母からがんのことが父に伝わってしまう.自分より先に,他の人が自分の病気について知っているという状況はあまり気持ち良いとは言えないと思うんだ」
「確かにな.それはおまえの言うとおりだ.だったらもう覚悟を決めて直接今から告げるしかないんじゃないか.おまえのお父さんも,見ず知らずの医者に告げられるより,実の息子に告げられる方が良いかもしれない.俺や他の医者ではなく,おまえが父の診療をできたのは運命だと思うしかない」
リカードの話を聞き,マイケルはしばらくどうするか考えたが,彼の言葉に感銘を覚えている自分に気付いた.そして思い出した.かつて自分が父に向かって言った言葉を.「仕方ないな.父さんは僕の最初の患者だからな.そして,父さんがどんな病気やけがでも僕が絶対に直してやるよ」父のために何をすべきか.答えは最初から決まっていた.今日,すぐにでも病状を説明することだ.医療不信?そんな風にさせるものか.父が納得するまで,言葉を尽くして説明するだけだ.
「ありがとな.おまえに相談して覚悟が決まったよ.父のためにも,これから話をするつもりだ」
「そうか.なら頑張れ.変な言い方かもしれないがそれでも頑張れとしか俺は言えない.おまえとお父さんにとってこれが最良の選択になることを祈っている」
リカードはそう言って,再び論文を読み始めた.いれ立てだったコーヒーはすっかり冷めてしまっていた.
帰ったりしていないよな,と心配になりながら足早に診療室に戻ると,父は看護師と仲良く話し込んでいた.わたしが診療室から出るのを確認して,父の話し相手になってくれたのだろう.
「父さん.楽しく話していたけれど,何の話をしていたの?」
「おお.やっと戻ったか.おまえが出て行ってから暇だったからな.そしたらこの看護師さんが話しかけてくれて.おまえに冷たく扱われたからな.その仕返しにおまえが子どもの頃,母さんとはぐれて泣きじゃくっていた話とかを教えてやったぞ」
父は楽しそうに話していた.
クスクスと笑いながら看護師もわたしに話しかけてきた.
「まさか,マイケル先生がそんな子どもだったなんて.かわいい時代もあったんですね.あ,心配しなくて大丈夫ですよ.このことは僕の心の中に留めておきますから」
「父さん.もう子どもの頃の話は辞めてくれってさっきも言っただろう.恥ずかしいんだから」
彼はそう言った後,看護師を近くに呼んで耳打ちした.
「忙しいのに話し相手になってくれてありがとうな.一人だったら勝手に父が帰ってしまったかもしれないから」
「いえいえ.これも仕事の内ですから.わたしは話を聞いていただけですよ」
そう言い残し,彼は部屋を出て仕事へと戻っていった.
「遅かったじゃないか.何していたんだおまえ」
父が彼に話しかけてくる.どう切り出そうか.父の性格上,変に隠し立てをしたり,遠回りな方法で伝えたりするのは辞めた方が良いだろう.直球で行くしかない.マイケルは改めて覚悟を決めた.
「さっきも話した通り,他の先生に相談しに行ってたんだ」
「特に問題なんかなかっただろう.ちょっとおなかとか腰が痛いからって,すぐに病院に行ってこいとか言うのは母さんの良くないところだな」
「いや父さんは母さんに感謝した方が良いよ」
「何だ.母さんに感謝って」
マイケルは本題を切り出すことにした.深呼吸をして,彼は父に話し始めた.
「父さん.落ち着いて聞いてね.母さんに感謝って言うのは,今日病院に来たことで,父さんの病気を早期に発見することができたからって意味なんだ」
「急に改まってどうした.父さんの病気って何だよ」
父がいぶかしむようにして自分を見てくる.
「さっき父さんにはCT検査をしてもらったでしょ.その画像を見ていて気になるところがあったんだよ.ちょっと待ってね.今画像を見せるから.ほらここ.ここに影があるのが分かるかな」
マイケルは画像を指しながら,病気の説明を続けた.
「この影っていうのが実はがん組織なんだよ.今,見てもらっている臓器がすい臓だから,父さんはすい臓がんの可能性があるんだ」
言い終わってから恐る恐る父の方を見ると,父は目と口を閉じて,何かを我慢しているような表情をしていた.変なごまかしは父を混乱させるだけだと思ったが,あまりにも直接的な物言いすぎただろうか.フォローしなければと思い口を開こうとしたとき,父がゆっくりと話し始めた.
「治る見込みはあるのか」
唐突な質問だったのでマイケルが面食らっていると,父はさらに続けた.
「すい臓がんがどのくらい思い病気なのか父さんは知らないからな.それで,治るのか治らないのかどっちなんだ?」
「ちょっと待って.父さんは自分がすい臓がんを患っているって信じたの?」
「何を馬鹿なことを言っているんだおまえは.医者であり,息子であるおまえの言葉を信じることができなかったら親として失格だろう」
マイケルは一つだけ勘違いをしていたのだ.確かに父は頑固者で,病院にもなかなか足を運ばないような人だけれども,それは決して医者を軽んじていたわけではなかったのだ.そして,子どもの前で親であろうとする人間だったのだ.マイケルは不意に泣きそうになった.どうしてそうなったのかは分からない.ただ言葉では表すことのできない感情が胸の内で行き場を求めて暴れ回っていた.
落ち着け.落ち着け.今,泣いて良いのは俺じゃないだろ.彼は自分自身に言い聞かせた.そうだ.今一番泣きたいのは父親のはずだ.俺が涙を流すわけにはいかない.それに,まだ医者としての仕事が残っている.涙をこらえながら彼は父に答えた.
「俺の言葉を信じてくれてありがとう父さん.父さんのすい臓がんは進行度としては中期の段階なんだ.この段階だと手術で取り除くのは難しいから,放射線を当てて,同時にお薬を飲んでがん細胞を攻撃するという併用療法というのがベストな治療法だと思う.そして,父さんが一番気になっている治療できるのかという質問に対する回答になるけれど,正直,厳しいというのが現実なんだ」
父さんは口を挟まないように黙って聞いていた.マイケルは続けた.
「すい臓がんというのはもともと治療するのが難しいがんの一つなんだ.初期段階だったなら手術でがん組織を取り切ってしまうことができたんだけど,父さんのがんの状態は中期だからそれができない.併用療法はすい臓がんのスタンダードな治療法だけれども,放射線やお薬ではすい臓がんのがん細胞をなくすのは難しいんだ.だから父さんが5年後まで生き残る確率というのは,大体30%ほどなんだ」
父の表情が険しくなった.覚悟を決めているとはいえ,生存率が3割ほどと告げられるのはやはり相当堪えるのだろう.すると父がおもむろに口を開いた.
「それなら父さんは治療をする意味はあるのか?治療をして苦しみを引き延ばすようなことはしたくないんだが」
「確かに3割しか生きることができないから,治療には意味が見出しにくいのかもしれないけれども,それでも,治療しなかったらほぼ確実に死んでしまうんだよ.だったら少しでも希望を持って,治療を受けてみない?」
「治療を受けたら入院しないといけないだろう.その間に,自分の好きなことを我慢して,挙げ句に死んでしまったらそれこそ人生の無駄って言うんじゃないのか」
父の主張はもっともだった.併用療法を行うには患者の入院が絶対条件だ.徹底した管理体制の下,放射線療法や化学療法が行われる.確かに,治療期間は,自分の好きなように生活することができない.実際に,これを理由にして治療を拒否する患者さんは一定数いらっしゃる.それに併用療法には副査用がある.抗がん剤の服用により,口内炎ができ,吐き気や下痢が起きることが知られている.副作用のつらさを原因として,治療を断念した患者さんも多い.これまではある意味では自分とは無関係な他人だったので,患者さんの意思を尊重して,治療を拒否した患者さんの決定に反対はしなかった.しかし,自分の父親にはどうか生きてほしい.だからこそ,父には併用療法を受けてほしかった.
「そうかもしれないけれども.それでも俺は父さんに生きていてほしいんだ.だから併用療法について,考え直してくれないか」
「おまえの気持ちは素直に嬉しい.俺だってできるなら生きていたいよ.まだ,やりたいこともたくさんあるし,母さんやおまえに会えなくなるのも寂しい.それでも,痛みを我慢しながら生きるくらいなら,死んだ方がマシだよ.おまえや母さんに心配をかけたくなかったから黙っていたけれども,白状すると,おなかも背中もすごく痛いんだ.正直,我慢できないくらいだ.だからおまえからすい臓がんと言われても,これほど痛いならあり得るなと思ったからすんなりと受け入れられたというのもあるくらいなんだ.なあ.こんなにつらくても生きなくちゃいけないのか?」
マイケルは面食らった.父の吐いた初めての弱音だった.病院に来てから自分や看護師と仲良く話していたから,それほど痛くはないのかと思っていた.だが違っていた.息子を心配させないようにする父の心遣いだったのだ.どんなに苦しくとも常に笑顔を浮かべ,黙って耐えてきた父親に,生きる方が素晴らしいなどと言えるだろうか.いや,言えるはずがない.楽になるチャンスがあるのに,それを放棄させる権利がわたしなんかにあるはずがない.彼は震える声で父に聞いた.
「それなら父さんは安楽死をするつもりなの?」
『賛成派』では安楽死が認められているのだ.当然ながら,望んだ誰しもが安楽死を許されているわけではないが,医師の承認や家族の同意などいくつかの条件を満たせば,安楽死が認められる.延命治療を拒んだ末期がんの患者さんや,難病の患者さんなどが利用するシステムである.彼は父の訴えを聞いていると,父が安楽死を望んでいるのではないかと考えた.
「その通りだ.父さんは安楽死によって安らかに死にたいと考えている.お世話になった人たちにお別れをしてから,自分の家でおまえらにみとられながら死にたいというのが父さんの最期の望みなんだ.安楽死のためには医師の許可が必要なのは知っている.おまえの目から見て,俺は安楽死が許される状態か?」
言うまでもない.進行度が中期のすい臓がんは安楽死の対象だ.だがすぐには答えられない.答えてしまったら,運命が決定してしまう予感がした.息子が答えようとしないのを感じとって父がもう一度彼に尋ねた.
「もう一回聞くぞ.俺の今の病状は,安楽死が認められるような状態なのか?頼む.教えてくれ.安楽死ができるかどうかは今の父さんにとって一番重要なことなんだ.答えづらい質問なのは分かっているけれどもどうか教えてほしい」
父の覚悟が伝わった.もし認められるならば,父は本当に安楽死を選ぶだろう.答えるのが息子として,医師としての務めなのかもしれない.
「父さんの病状は,すい臓がんの中期ステージだから,政府で定められている安楽死の要件を満たすと思うよ」
「その言葉を聞けて父さんは安心したよ.つらいことを頼むようだけれども,医師の承認の欄はおまえが署名してくれないか.おまえに認められて父さんは安楽死がしたいんだ.勝手なことを頼んでるのは承知だが,どうか頼まれてくれ」
父が頭を下げてきた.実の父親の安楽死を息子としては認めたくないけれども,それでも,全く関係のない医者に認められるよりは,俺が認めた方がまだ納得はいくはずだ.
「分かったよ.医者として俺が署名するよ.でも安楽死願は医者の証明だけでは足りないよ.家族の署名も必要なんだ」
「ああ知っている.それも母さんに署名してもらうつもりだ.今晩にも,母さんにお願いをするつもりだ.もし今日時間があるならば,仕事終わりに家に来てくれないか.一人で話すのは少し怖いんだ」
マイケルも初めからそのつもりだった.父の安楽死を認めるという決断を下すならば,家族会議が必要不可欠だ.それに,父の状態を知っておきながら,他の患者さんの相手をできる自信もなかった.
「今日は大丈夫だよ.家に着く時間が分かったら早めに連絡するからね.間違っても一人で話し始めないでね.そして,今も腹部や背部に痛みがあるんだよね.かなり強い鎮痛薬を処方するからとりあえずしばらくはこの薬でしのいでね」
「ああ.ありがとう.助かったよ.それじゃあまた後でな」
父に鎮痛薬の処方箋を持たせて診療を終えた後,彼はすぐにリカードの元に向かった.リカードは先ほどと同じように医学論文を読みながら,コーヒーを飲んでいた.
「リカード.おまえに頼みがあるんだ」
「この後の外来の交代か?」
「そうだ.よく分かったな」
「まあな.ついこの前,俺が看た患者さんもすい臓がんだったんだ.その人は,治療という選択をせずに,安楽死という選択をしたんだ.だからおまえのお父さんもひょっとしたらと思っただけだ.そして安楽死を選ぶなら家族の承諾が必要だろ.そのための家族会議が開かれるんじゃないかと思っただけだ.それで,おまえに父親への病状説明を促した俺に文句はないのか?俺が何も言わなければ,おまえがお父さんに病状を説明することもなく,お父さんが安楽死を選ぶこともなかったかもしれないんだぞ」
「そうだったんだな.いや,おまえには感謝こそすれど,怒る筋合いはないよ.おまえのおかげで父と向き合うことができ,父の本音を聞くことができたんだからな.もし今日,父に真実を伝えられなかったら,事態が悪い方に捻れていた可能性もあるんだから」
「そう言ってくれて心が軽くなったよ.おまえがお父さんに伝えに行ってから,俺はその選択を促して本当に良かったのかずっと自問自答していたんだからな.論文の内容なんて頭に入らないし,いれ直したコーヒーも飲む気にならずに冷めてしまったしな」
「気負わせてしまってすまない.何度も言うがおまえには感謝しかないんだからな.仮にこの選択が悪い方に向かってしまっても,それは俺の選択の結果だから,おまえが悩む必要はないぞ.それじゃあ俺は急いで帰らないといけないから.外来診療の残りはよろしく頼む」
「了解した.任せておけ.おまえはお父さん,お母さんとじっくり今後のことを話し合ってこい」
マイケルはリカードに別れを告げてから自分のデスクに戻り,急いで日誌や報告書を書いて帰宅した.父に今から帰る旨を一報入れ,実家に向かった.
「急に帰ってくるなら連絡の一つでもしなさいよ.あんたの分の夕飯を用意できなかったじゃない」
帰るなり母の小言が始まった.てっきり父が伝えてくれているとばかり思っていたが無理もない.自分自身との折り合いを付けるだけで精いっぱいなのだろう.
「まったくもう.お父さんも帰ってきてからろくにあいさつもなしで部屋にこもっちゃうんだから.本当に困ったものだわ」
「ごめんよ母さん.適当に外でご飯買ってくるから気にしないで良いよ」
「あんた.外食ばかりじゃ健康に悪いわよ.今からご飯を炊くから少し待ってなさい」
言い終わると同時に母がキッチンへと戻っていった.最近の外食は栄養バランスに配慮したものもあるのだが,どうやら母は知らないようだ.リビングでゆっくりしていると父が部屋から出てきた.
「お帰り.後でよろしくな」
「ただいま.うん.家族でしっかりと話し合おうね」
二人は母に聞こえないように小声で会話した.
それからしばらくして,母の料理が完成したらしい.
「二人ともご飯ができたわよ.席について」
ダイニングから母の声が聞こえる.
「今から行くよ」
彼は短く返事をして,父と食卓に着いた.
「母さん.話があるんだ」
夕飯を食べ終え,食器が片付けられてからしばらくして,父が不意に口を開いた.マイケルは父が話を切り出す瞬間にずっと備えていた.
「あら.何よ改まって話って」
母がタオルで手を拭きながら返す.
「今日,母さんに言われて病院に行っただろ」
「そういえばそうだったわね.ちゃんと看てもらったの?おなかとか背中が痛いって言っていたけど,結局原因は分かったの?」
彼が父を見ると,父も困った顔をしながらこちらを見ていた.「おまえの口から話してくれ」とでも言いたげな顔つきだった.彼は静かにうなずいて,深呼吸をした.
「実は父さんの診療をしたのは俺なんだよ母さん」
「あら.あんたが看てくれたのね.それなら信頼できるわ.それで原因は分かったのかしら」
「原因はこれから説明するけれども,その前に一つだけ.まずは静かに俺の話を聞いてほしい.母さんの質問には後で全部ちゃんと答えるから.とりあえず俺の話を聞いてほしい」
「何よ急に.分かったわよ」
「父さんの腹痛や背部痛,最近の食欲不振の原因はがんなんだ.正確に言うとすい臓がんが原因なんだ.今のところ父さんのすい臓がんの進行度は中程度で,ここまで進行すると外科的に取り除くことはできないんだ.だから代わりに放射線療法と化学療法を組み合わせた併用療法を行おうとしたんだ.それで」
「ちょっと待ちなさいよ.すい臓がん?進行度?併用療法?どういうことなのよ.ちゃんと詳しく説明しなさいよ」
「分かったから落ち着いて.ちゃんと説明するから.でもその前に俺の話を最後まで聞いてよ」
「嫌よ.あんたが何言っているか分からないもの.すい臓がんって何の話よ」
「すまなかったマイケル.後は私から話すよ」
一触即発の状態だった.すると,母と息子の言い争いを見たくなかったのか,父が会話に入ってきた.
「母さん.マイケルに診断してもらったんだけど,実は私はすい臓がんを患っていたんだ.すい臓がんのせいで,おなかが痛くなり,背中が痛くなっていたらしいんだ」
「ちょっと本当に父さんががんなの?」
「そうだ.しかも中期のステージらしく,治療するのが難しいらしい」
父は淡々とした口調で話していた.母が取り乱しているのを見て,逆に心が少し落ち着いたのかもしれない.
「それじゃあどうするのよ.もう父さんは死んじゃうの?」
今日の議題の核心を突くような質問だった.何かを堪えるような顔を見せた後,父は答えた.
「私は治療ではなくて,安楽死の道を選ぼうと思っている」
バン!!母が机を力の限りたたいた.
「冗談じゃないわよ.どうして治る可能性があるのに,自ら死ぬなんて選ぶのよ.そんなのあたしには全然理解できないわよ」
思わずマイケルが口を挟んだ.
「ちょっと母さん.そんな言い方はないだろう.父さんだって悩んで決断をしたんだよ」
その言葉を聞いて,母はマイケルを思い切りにらみ付けながら言った.
「あんたも知っていたのね.父さんが安楽死することを.どうして止めなかったのよ.あんたは父さんに生きていてほしくないの?」
「そんなわけないだろ!生きててほしいに決まっている!でも,父さんが言ったんだ.あの我慢強い父さんが俺の前で言ったんだよ.これ以上つらい思いをしてまで生きていたくない.死にたいって.そんなことを言われたらもう何も言えないだろ.ここまでつらいと叫んでいる人にそれでの生きろって言えるのかよ!俺は言えないよ!だから俺は父さんの安楽死という選択を全力で応援するって決めたんだ」
彼は自分が何を叫んでいるのかも分かっていなかった.自然と涙があふれてきた.嗚咽混じりの,でも心の底からの叫びだった.
「二人とももう良い」
母が息子に言い返そうとしていると,父が静かな口調で二人をたしなめた.
「母さんもマイケルもありがとうな.二人とも俺のためを思って怒ってくれているのがよく分かった.でも二人がけんかしているのを見るのはつらいよ」
二人は静かにうつむいた.
「マイケル.勇気が出なかった俺の代わりに母さんに話してくれてありがとうな.それに,医者として安楽死を認めてくれてありがとう.今日はもう遅い.明日も朝から仕事なんだろ.だからもう帰りなさい」
父はマイケルを帰そうとした.玄関まで来て彼は父に尋ねた.
「大丈夫なの?母さんは父さんの安楽死を認めなさそうだったけれど」
「母さんなら大丈夫だ.今は感情的になっているだけで,すぐに冷静さを取り戻すさ.そしたら,また話をしようと思っている.何年寄り添ってきたと思っているんだ.大丈夫.きっと最後には母さんにも納得してもらえるよ」
父は穏やかに笑いながらそう答えた.
マイケルは父の言葉を信じることしかできなかった.
そして,それから3週間後に,父は安楽死した.どうやら父の言っていたことは正しかったようで,母に安楽死の話をしたその次の日,もう一度話すと今度はあっさりと認めてくれたらしい.一晩で母の心境にどのような変化があったのかは分からないが,父の決断を応援すると決めたようだ.父が安楽死してからわずか3カ月後,母も安楽死を遂げた.父がいなくなってからほどなくして,母がわたしの病院にやってきた.診療すると,父と同じすい臓がんだった.母は父と比べて,症状が出るのが遅かったので,病院に来たとき既に中期と後期の間までがんが進行していた.すい臓がんのことを母に告げたとき,どこか安心したような表情をしていた.これで父と同じところに行くことができると思ったのだろう.わたしが診療したので,安楽死願の医者の署名はわたしの名前になった.そして,父が亡くなってしまったので,家族はわたしと母の二人だ.家族の署名欄にもわたしが署名した.母の安楽死を見届けた後,わたしは医者を辞めた.父と母を救えなかった自分には医者としての資格がないように思えた.医学でがん患者を救うことができないのならば,はじめからがんにならないような人間を作ることができれば,今回のような悲劇は二度と起きないのではないか.そう考えた彼は,デザイナーベイビーを作製する機関である受精卵遺伝子編集総合研究所の門をたたいた.
朝6時.目覚まし時計の音が鳴り響く.昨晩はぐっすりと眠ることができたマイケルの目覚めは快適そのものだった.起きたとき彼は夢の内容を覚えていなかった.
「それじゃ,あなたの答えを聞かせてもらおうかしら」
昨日の約束通り,彼はメアリーと彼女の部屋で向かい合っていた.
「昨日も言ったように,私の命を守るという目的で私を信用なんてしなくて良いわ.私があなたに話した思いを信用できるかどうかだけで判断してちょうだい」
彼女はまっすぐに彼の目を見つめた.その目には揺らぐことのない信念が宿っていた.彼は深呼吸をしてから彼女に話した.
「俺は君を信じるよ.非科学的かもしれないけれども,君の言葉には魂が込められていた.君の瞳は理想に燃えていた.もう一度言う.俺は君の思いを,そして,君自身を信じるよ」
メアリーは彼の言葉を聞きながら涙を流していた.自分の心の底からの思いが人に伝わったとき,人は歓喜に震え涙を流すのだ.彼女はそれこそが自分の汚れのない信念の象徴であるかのように,涙を拭うことなく言葉を紡いだ.
「あなたに認められて,信じてもらえて私は本当に嬉しいわ」
彼は懐に手を伸ばし,日記を取り出した.自分も本当の意味で彼女に信じてもらわなければならない.そして.日記には彼のすべての思いが詰まっている.
「これが俺の日記だ.これを君に読んでほしくて今日は持ってきた.ここに書いてあるのが俺という人間だ.昨日ここで,君は君の心を俺にさらけ出してくれた.俺だけが心の内を隠しているのは公平ではないからね.だから,まずはこの日記を読んでほしい」
そう言って彼は日記を彼女に手渡した.
「分かったわ.あなたを知るために,読ませてもらうわ」
震える声で彼女が言った.
しばらくして,彼女は日記を閉じた.彼女が俺という人間にどのような判断を下すのか,彼は緊張しながら彼女の表情を伺った.彼女は安らかに目を閉じていた.その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた.口角もわずかに上がっていた.この表情には見覚えがあった.母だ.母にすい臓がんを宣告したときの表情と同じなのだ.俺の日記を読んで,彼女も安心しているのだろうか.静寂に耐えきれなくなり,思わず彼は声を掛けてしまった.
「読み終わったみたいだけれども,どうだった?これを読んで俺という人間について分かってもらえたと思う.幻滅したか?こんな人間と一緒に活動するのは嫌か?」
彼女はそっと目を開き,柔和な笑みを浮かべた.何て優しい表情なのだろう.かつて何かの絵画で描かれていた聖母のような,見るものすべてを受け入れてくれるような穏やかな笑みだった.彼女はゆっくりと口を開いた.
「あなたという人間を理解できた気がするわ.これを私に読ませてくれてありがとう.あなたの現在も,未来も,そして過去も理解したわ.お母様,お父様の安楽死.大変つらかったでしょう」
彼は目頭が熱くなるのを抑えられなかった.両親が安楽死してからそんな優しい言葉を掛けられたことがあっただろうか.
「あなたの思いをしっかりと受け止めたわ.あなたに幻滅?そんな訳ないじゃない.あなたが人間である証拠が詰まった物語じゃない.替えの効く道具じゃない.一人の人間なんだって.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.私はあなたの信念に心から共感したわ.もう一度お願いするわね.私にあなたの計画を手伝わせてくれないかしら」
「ああ.もちろんだ.俺には君が必要だ.だから俺からも君にお願いする.どうか俺の計画に協力してくれ」
「私で良かったら」
二人は厚く抱擁を交わして泣き合った.お互いの過去,現実,未来には希望なんて存在しない.けれども,もし自分たちの救済計画が実現したのなら,未来には希望が生まれる.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
しばらく抱き合った後,メアリーが話し始めた.
「日記を読ませてもらったからあなたの計画は理解したわ.人類救済計画の方法論についてもね.私の存在が邪魔になっていたのが今から思うと申し訳ないわ」
「そこは気にしないでくれ.君という優秀な仲間を手に入れることができたんだ.よほど心強いよ」
「そう言ってくれると助かるわ.それで私はどんな風にあなたのサポートをすれば良いのかしら」
「日記にも書いたように,二人で交互に実験をしよう.俺だけが実験に向かうと,ダイアンに疑いの目を向けられかねない.君と俺とで交互に実験をすることができれば,彼女から疑われるリスクは少なくなると思うんだ」
「分かったわ.今,重要なのは,粉末がダクト管の中の風に乗って無事にフィルターまで届くかということね.私たちのどっちが先に実験を行う?ただ,私はまだダクト管の場所を詳細には知らないわよ」
「俺が先に実験を行う.家に花粉まではそろっていて準備が万端な俺から実験を始めた方が良いだろう.ダクト管の場所については,今から経路を描いて説明するよ.この家にいらない紙があったら持ってきてほしいんだけれど」
「この部屋にはないから少しだけ待ってて」
そう言い残し,彼女は部屋を出て行った.大量のコピー用紙を持って部屋に戻ってきた.彼は束から一枚だけ抜き取り,仕事部屋からダクト管までの案内図を描いた.
「こんな場所にダクト管なんてあるのね.知らなかったわ.それに,この階段や通路の存在も知らなかったわ」
「君も知らないのか.実は俺も見取り図を見るまでは知らなかったんだ.それに階段や通路には行ってみれば分かると思うけれども,意思を持ってその方面に行こうとしない限り,注意を払わないような工夫がされていたんだ.だから,近くを通ってもこの通路や階段の存在には気が付かないんだ」
「そこまで徹底して隠されているのは,やはりここが遺伝子編集部屋と外とをつなぐ大切なラインだってことね」
「その通りだ.下見に行った限り,この近くには警備員がおらず,防犯カメラも設置されていなかった.目に見えているにも関わらず,決して存在が明るみに出ないように細心の注意を払われているんだ.でも,逆にそれが俺と君にとっては良い方向に働くんだ.直接的に後を付けられない限り,俺たちが実験を行うことに気付く人は誰もいない.だから,研究所内で通路を曲がるときにだけは注意してくれ」
「分かったわ.肝に銘じるわ.それはそうとして,あなたはどうやって花粉を大量に手に入れたのよ.私たちの研究所内で植物に関する研究部門はなかったと思うんだけれど.それにこの周辺地域には,木々は一切生えていないじゃない」
「俺がビルという『反対派』の人とコンタクトを取ったことは日記に書いたはずだ.北方領域の城跡で彼を待っているときに,その周囲を見回っていたんだ.そしたら城壁周辺には,スギが大量に自生していたんだ.スギは大量の花粉を飛散させることで有名な植物なのは知っていたからね.彼とのコンタクトの後,別の日に一度花粉を取りに北方領域に向かったんだ.だから今,俺の部屋には花粉の入ったチューブが大量にあるよ.それは今度君にも渡すから」
話し終わると彼は立ち上がって帰る支度を始めた.
「それじゃあ.今日はこの辺りで帰ろうかな.あまり遅くに車を走らせるのも嫌だし.やはり不要なリスクは増やしたくないからね」
「それには同意だわ.でも最後に一つだけ良いかしら.あなたとの連絡方法を決めましょ.直接顔を合わせて進捗を報告するのは1カ月に一度.場所はこれまでと同じく私の部屋というのはどうかしら」
「君の考えに賛成だ.メールなどの電子的やり取りはどうしてもログが残ってしまうからね.ベストなのはやはり直接顔を合わせることだ.頻度と場所についても異論はまったくない.それで,花粉を使った実験をどちらが行うかという伝える方法だけ決めてしまおう」
「そうね.二人そろって同じ日に実験をしてしまったらハイリスクすぎるものね」
「こういうのはどうだ.俺はいつもリュックで通勤しているだろ.リュックのファスナーを開けた状態で足元に置いていたら実験を行うという合図.反対に,ファスナーを閉じていたら実験を行わないという合図だ」
「良いわね.なら私は右手首にヘアゴムを付けているときには実験を行う.逆に,左手首にヘアゴムを付けているときには実験は行わないという合図よ」
「分かった.ここまでこっそりとした合図ならダイアンに気付かれる可能性はないだろう.合図が分かってもアイコンタクトなどは禁止だな.そして,職場では今までの関係性のままでいよう」
「了解したわ」
「それじゃあ,1カ月後にまたここで」
「ええ.1カ月後に」
彼はメアリーと固い握手を交わしてから,彼女の部屋を後にした.
8月25日.今日は大変素晴らしい日だ.メアリーという心強い仲間,そして理解者を手に入れることができた.やはり彼女を信頼したのは正解だった.彼女と抱き合って涙を流したとき,心が一つになったような気がした.実験についてもこれで問題なく進めることができそうだ.今までこの日記には俺の信条を書いていたけれども,『賛成派』における人類救済計画は俺だけの計画ではなく,二人での計画だ.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
9月1日.実験に成功した.まさかこんなにも簡単にうまくいくとは思ってもいなかった.メアリーとの話し合いから一週間空けて,初めての実験を行った.今日は比較的仕事が少なかったので,ダイアンに怪しまれずに仕事部屋を抜け出すことができた.下見したときと同様に,警備はほとんどなかったので簡単にダクト管にたどり着くことができた.耳を近づけると,空気を吸っている音が聞こえた.ダクト管付近でチューブ内の花粉を空気中に散布した.一定割合の花粉がダクト管に吸い込まれた.実はHEPAフィルターの汚染状況は,所内のパソコンから各自でコントロールパネルにログインすることでモニタリングできるらしい.これはメアリーが見つけた情報であり,やはり彼女が仲間になったことは非常に心強い.花粉を散布した後,急いで仕事部屋に戻って,フィルターの汚染状況を確認した.すると,想定していたように,花粉散布前と比較して汚染が進んでいた.これにより,花粉のような粉末がダクト管を通り,フィルターまでたどり着くことが示唆された.ひとまず一度目の実験としては大成功だ.後は,この実験結果に再現性があるか確かめるために何度か実験を行うことにする.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
9月25日.今日は,メアリーとの一度目の定期報告会だった.以前と同じ時間に彼女の部屋で報告会を行った.9月1日に行った実験で大成功だったので,その追試を二回行ったが,いずれの実験でも粉末がフィルターにたどり着くという結果を得ることができた.これを彼女に共有したところ,何と彼女もわたしと同様に,花粉散布によりフィルターが汚染されたという結果を得ていたらしい.わたしが3回実験を行ったのに対し,彼女は2回しか実験を行うことができなかったことをわびてきた.わたしは今月の仕事はそれほど多くなかったが,彼女は厄介な案件を引き受けてしまったらしく,今月は非常に忙しそうだった.何より重要なのはわたしと彼女の計画がダイアンに気付かれないことなので,問題はないと慰めた.わたしが行っても彼女が行っても同様に成功する以上,外から凍結乾燥させたUBZ387遺伝子の粉末をダクト管の近くで散布することで,フィルターを通過した粉末が,遺伝子編集ロボットのアーム部分に付着するという計画の準備は完全に整ったのかもしれない.明るい未来に二人とも喜んだが,これがぬか喜びとなってしまわないように,お互いに後何回かずつ実験を行って,計画の成功がほぼ確実と自信を持っていえるようにしようと決めた.次に会うのも,前回と同じように一カ月後に設定した.10月25日だ.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
10月20日.今日の実験も大成功だった.花粉程度の大きさの粉末では,ダクト管の近くで散布すれば確実にフィルターまで届くことが分かった.花粉と比較し,はるかに小さなサイズのUBZ387遺伝子の核酸粉末は,より飛散しやすいので本番においても大きな不安はないだろう.5日後にメアリーに成功報告をできそうだ.そのとき彼女も再現性が取れているだろうか.期待に胸が膨らむ.もう少しだ.もう少しで計画を実現することができる.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
10月25日.今日はメアリーとの二度目の定期報告会だった.この一月の間に彼女は三度実験を行ってそのすべての実験で良い結果を得ることができたらしい.完璧だ.もちろん,実際には完璧な計画は存在しないし,おそらくわたし達が見落としているほころびもあるのかもしれない.だが,わたしと彼女の二人で何度実験を繰り返しても成功するというのは大きな励みになる.計画が露呈するのを避けるために次に会うのは計画の決行日の朝にしようという話になった.4月1日の朝.そこで,UBZ387遺伝子の核酸粉末を彼女にも渡し,二人で計画を実行する.今日の話し合いの結果,午前にわたしが,午後に彼女が実行することになった.一人では失敗するかもしれないので,念のために二人で行うことにした.こっちは用意できたぞビル.あんたもうまくやっていることを願っているからな.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
3月31日.いよいよ明日だ.久しぶりの日記なので何を書けば良いのか戸惑っている.この五カ月間,人類救済計画に関することは特に何も行わなかったので,書くことがなかった.メアリーともあれから仕事場以外では一切接触をしていない.ダイアンに気付かれた節がなければ,捜査当局に気付かれた節もない.まったく問題なく明日の計画を実行できそうだ.UBZ387遺伝子の核酸粉末も手元に大量にある.毎日少しずつ研究所から持って帰ったかいがある.「この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない」この信念を形にするときがついに来た.
運命の4月1日.時刻は午前7時.朝早いにもかかわらずマイケルとメアリーの意識は完全に覚醒していた.緊張のためか合流してから二人はまだ一言も言葉を交わしていない.このままでは出勤時間が迫ってしまう.彼は沈黙を破って話し始めた.
「いよいよ今日だな」
彼の言葉は震えていた.だが彼女はそれを聞いて逆に安心することができた.緊張しているのは自分だけはないのだ.そう思えるだけで,彼女は勇気を振り絞ることができた.
「そうね.いよいよ今日ね」
「これがUBZ387遺伝子の核酸粉末だ.とりあえずこれだけの量を使う予定だ.一応家に予備も残してはあるが,失敗はしないでくれ」
彼はポケットから白色粉末の入ったチューブを取り出し,彼女に手渡した.この粉末に人類の未来が委ねられていると思うと彼女は非常に不思議な気持ちになった.
「分かったわ.任せてよ」
「それじゃ以前に打ち合わせたように午前にわたしがこれを散布しに行き,午後は君が散布しに行くということで問題ないか」
「それで大丈夫よ.花粉を使って実験したときと同じようにすれば良いだけでしょ」
「そうだ.それに君は一人じゃない.俺もいる.リスクを減らすために二人で行うのだから,気負いすぎなくて良い」
「それはあなたもでしょ.あなたが緊張しているのも伝わっているわよ.でもありがとう.そう言ってもらえて少し心が楽になったわ」
彼女はほほ笑んだ.それを見てマイケルは自分の心が落ち着くのを感じた.やはり彼女と二人で計画を進めてこられて本当に良かった.自分一人だったらもしかしたら緊張に耐えられなかったかもしれない.
「いや俺の方こそ礼を言う.ありがとう.君と話して俺の緊張も和らげることができた.俺と君は信念を共有した二人だ.必ず二人で計画を成し遂げよう」
「ええそうね.二人でやりきりましょう.そして,人類を救いましょう.不幸になる人が生まれてこない世界の実現まであと少しよ」
「ああ.その通りだ.それじゃあ人類救済計画を始めよう」
話し終わると二人は互いに抱きしめ合った.自分は一人ではないという思いが二人の支えとなっていた.
第四章
「子どもが生まれてこないという未曽有の事態に私たちは直面しています.私は,今まで発見されてこなかった新種の細菌や真菌,ウイルスによる感染症が原因なのではないかと推測しています」
あれから30年の月日が経過した.マイケルは60歳になった.テレビの向こう側では,感染症の専門家が自説を長々と述べていた.
「あなた.ちょっとこっちにきてお皿を出してくれないかしら」
キッチンから妻の声が聞こえてきたので,テレビを消して手伝いに向かった.
「今日の夕食は豪華だな.何か良いことでもあったのか」
「あら嫌だ.今日は4月1日じゃない.私たちの記念日じゃないの」
「俺たちの結婚記念日はまだ先じゃないか」
「結婚記念日は結婚記念日でまたお祝いするわよ.そうじゃなくて.今日は私とあなたの二人で人類の未来を変えた記念日でしょ」
「分かっているって.ほんの冗談じゃないか」
マイケルは苦笑いしながら彼女の配膳を手伝った.彼女が記念日を大切にする人間だと知ったのは結婚してからだった.熱い闘志は心にあるが,基本的には理知的でクールなイメージだったので,意外なギャップに驚かされた.
「それじゃあ私たちの救済計画の実現に乾杯」
「乾杯」
彼らが結婚したのは,人類救済計画を実行してから半年ほど経過した頃だった.30年前の4月1日.彼らは計画を実現したが,その結果が出るまで20年ほどの歳月がかかる.既に折り込み済みだったが,実際にその状況に陥ると,言いようのない不安感が襲ってきた.そもそも自分はうまく散布することができたのか.彼女は失敗しなかったのか.今の彼女はどのような気持ちなのだろう.そのような思考が常に頭の中をぐるぐると回っていた.
とある休日,彼が足を伸ばした公園で偶然に彼女に遭遇した.ベンチに座りながら彼女と話をしていると,彼女も自分と同じような不安感を感じながら生活をしていることが分かった.彼女に自分の抱えている悩みを話すとそれだけで心が軽くなるのを感じた.それは彼女も同じだったらしい.自分たちの悩みは間違っても他の人に話すことができない.それから,定期的に二人で会うようになった.くしくもそれは定期報告会のように一カ月に一度の頻度だった.だが,逢瀬を重ねた二人が男女の仲になるのにそう時間はかからなかった.彼らが心の内をさらすことができるのはお互いしかいなかったのだ.結婚するに当たって,職場の上司であるダイアンに報告したが「おめでとう.仕事に支障が出なければ何でも良いわ.二人とも今後ともよろしく頼むわ」と返されただけだった.実にダイアンらしい返答だと二人して笑ったのを覚えている.二人とも受精卵遺伝子編集総合研究所の仕事は辞めなかった.それは本業のためというよりもむしろ,研究者としての副業に魅力を感じていたからだ.お互いに自分の専門分野で研究を行って論文発表をするのが好きだったのだ.時には二人で共同研究を行うこともあった.二人で協力して作り上げた論文はまるで彼らの子どものようだった.当然,実生活で彼らは子どもを作らなかった.
「さっきニュースを見ていたようだったけれども,何か面白いニュースはあったかしら」
「いや特に面白いニュースはなかったな.一つだけあるとすれば,相変わらず出生数の減少の原因が分かっていないことくらいだな.さっき出ていた専門家は感染症が原因なのではないかって話していたな」
「まあそうよね.もし私がこの計画に加担していなかったら,遺伝子編集のタイミングで不妊化が行われているなんて夢にも思わないもの.感染症が原因と考えるのも無理もないわ」
結論から言えば彼らの計画は成功した.10年ほど前から,出生数が減少していることがニュースで取り上げられている.初めてそのニュースを見たときは興奮のあまりうまく寝付けなかった.最初の数年間は偶然だと思われていたので,政府も世論も大きな反応を見せなかった.しかし,五年ほど連続で出生数が減少している,しかも急激に減少しているということが明らかになった報じられたとき,偶然ではないのではといううわさが広まった.すると,はじめは反応を見せなかった政府が事態の収拾に乗り出した.有識者を集めて原因究明を行ったが,究明には至らなかった.先の科学者がテレビでコメントしていたように感染症が原因であるという説や,『反対派』が散布した毒物が原因であるという説,遺伝子編集を繰り返し,ゲノムに異常が生じたことが原因であるという説などさまざまな説が唱えられたが,どの仮説が正しいのか検証はされなかった.一方,世論の反応はさらにさまざまだった.有識者と同じような意見を持つ者が多かったが,個性的な意見を持つ人も見られた.神や悪魔のような超自然的な力が原因であるという説や,実は報道されている数字はうそであり,人々を恐怖に陥れようとする影の権力者の仕業であるという陰謀論まで飛び出した.世論の中には,遺伝子編集の段階で不妊化が行われたのではないかという声もあったが,それを訴えている人々はごく少数であり,時の経過とともにその声は消えてしまった.計画から20年の歳月が経過したが,彼らの計画は未だ誰にも気付かれていない.
この20年の間に一度だけビルと話す機会があった.それは20年前の4月1日の出来事に端を発する.人類救済計画を実行したその日の晩,マイケルはテレビを見ていた.テレビで映し出されている戦争やデモ活動の映像を見ながら,この地獄を終わらせることができるかもしれないと思い胸が熱くなった.すると,『反対派』のデモ活動の映像にビルが写っていることに気が付いた.以前と同じように,ビルは人とは違ったプラカードを掲げていた.そのプラカードに書いてあったのは日付と時間だった.指定された日時は5月1日の12時.場所の指定はなかったが,おそらく以前と同じ場所だろう.彼女を連れて行こうか迷った.だが,不要なリスクを負うのは辞めておこうと思い,彼女には声を掛けなかった.そして,5月1日.マイケルは以前と同じように北方領域の城跡を目指して車を走らせた.一応周囲を警戒してみたが,追跡してくる車両は特になかった.約束の12時.今度は時間ちょうどにビルがやってきた.
「おいマイケル.俺だ.ビルだ」
「ビルか.久しぶりだな」
「大体一年ぶりだからな.おまえが今日ここに来たってことはそういうことで良いんだな」
「ああ.その通りだ.無事に人類救済計画を実行した.俺にコンタクトを取ったということはあんたもうまくいったのか」
「そうだな.俺の方も,問題なく実行することができた.もうおまえには会わないと決めていたんだがな.だがどうしても,おまえが首尾良くことを運べたかどうかを確認したくなって,デモ活動に参加していたんだ」
「なるほどな.それじゃあ,俺たちは二人とも成功したってことか」
「不妊化がうまくいくかは分からないから,成功とは断言できないが,それでも救済計画自体は実行できたな」
「やっとこの地獄を終わらせることができるんだな」
「ああ,やっとだ.今すぐに救うことはできないけれども,少しずつこの世界から苦しみをなくすことができるはずだ」
二人は静かに握手を交わした.
「今度こそお別れか」
「いや分からないぞ.もし俺たちが生きている間に戦争が終われば,自由に会える日が来るかもしれない」
「確かにそうだ.それならお別れじゃないな.誰も殺し合わなくて済む平和な世界でまた会おう」
「ああ.俺はその日を心待ちにしているよ」
今回もマイケルが先に帰ることになった.彼がどのようにして『反対派』に戻っているのか,それは平和な世界で会ったときにまた聞けば良い.
さらに10年の月日が経過し,マイケルは70歳を迎えようとしていた.既に人類救済計画を実行してから40年の月日が経過しているが,相変わらず出生数減少の原因は分からなかった.もはや民衆の関心は出生数減少の原因ではなく,どのようにして共同体を維持するのかという問題にシフトしていた.十代の人口が特に少なくなっている一方で,高齢者の人口は増加の一途を辿っていた.このままでは,生産年齢人口に対して非生産年齢人口の割合が高くなってしまい,生産年齢の人々の負担が大きくなってしまう.生産年齢人口を増やす手立てが存在しない.そこで,共同体の維持のために政府が行ったのは非生産年齢人口の削減だった.分かりやすく言うならば高齢者の処分だった.政府は70歳を迎えた高齢者の安楽死を義務づける法律を三年前に制定した.当然のことながら,世論からは強い反発を迎えた.だが,安楽死の強制より優れた考えを提供できた者は誰もいなかった.時間経過とともに,安楽死の強制が自然に受けられていった.法律制定時に70歳を超えていた人の処遇について思い返す人は誰もいない.入院していた方は病院内で強制的に安楽死を執行された.その他,身体にまったく問題がなかった人々も,年齢の線引き一つで強制的に安楽死を執行された.政府による殺人行為そのものだが,それをとがめる人は誰もいなかった.誰しもが心の中では分かっていたのだ.高齢者を減らすこと以外にこの世の中を維持する方法はないのだと.
メアリーはマイケルの一歳年上だった.昨年70歳を迎えた彼女も安楽死を執行された.正確には,マイケルが執行した.政府の法律によれば,安楽死の執行が許可されているのは,医師と薬剤師のみだった.現実的には,薬剤師が安楽死を執行することはなく,ほとんどすべてが医師の仕事だった.他人に殺されたくはない.彼に安楽死を執行されることを望んだのはメアリー自身だった.メアリーに話を持ちかけられたときには彼は拒否していた.既に父と母の安楽死を行っているのだ.これ以上,家族を殺めるのはどうしても嫌だった.それでも,誰とも知らない人に命を奪われたくないという彼女の言葉を聞いて,彼女の安楽死を執行する決意を固めた.安楽死の偽装などは考えもしなかった.安楽死証明書と遺体,そして遺体のDNA検査証明書.この三つの提出が義務づけられている以上,彼女の死を偽装することは到底現実的ではなかった.
安楽死を執行する前日,つまり彼女の誕生日の前日.彼らは夜通し思い出を語り合った.付き合ったばかりの頃から今に至るまで,非常に多くの思い出を作ることができた.この世界は残酷だったが,それでも楽しかったと思える思い出はあった.希望はなくともつかの間の楽しみはあったのだ.そして,朝を迎える頃,彼らが話題にしたのは自分たちの原点である人類救済計画についてだった.
「私があなたを家に呼んだのがすべての始まりだったわね」
「おまえに力いっぱい倒されたことは今でも覚えているぞ」
「仕方なかったじゃない.ああでもしないとあなたは話を聞いてくれないと思ったんだから」
「でも君があそこまで胸の内をさらけ出してくれたからこそ,今の俺たちの関係があるからな.あのときの君には感謝しないと」
「後悔している?」
彼女は彼の目を見ながらゆっくりと尋ねた.彼は一呼吸置いてから彼女に答えた.
「後悔なんかしたことは一回もないよ.君に安楽死を執行することも,君と結婚したことも,そして,君と一緒に人類救済計画を実行したことも.何一つ君との思い出で後悔したことはないよ.それだけは胸を張って言える」
「ありがとう」
彼女は安心したように涙を浮かべながらほほ笑んだ.ああ,この表情だ.彼女のほほ笑みこそが彼にとっての生きる希望だった.
いよいよ彼女に安楽死用の薬剤を注射するときがきた.彼女の腕に注射をしようとしたときに彼女がそれを制止した.
「最後に一つだけ.私が死んだ後に私を追いかけて自殺するのは許さないからね」
急にこんなことを言い出した.彼は内心を見破られ動揺してしまった.
「うそが苦手なのは昔から変わらないわね」
彼女は笑っていた.
「あなたが死のうとしていることなんて分かっていたわよ.でもそれは駄目よ.あなたにはこの世界がどうなるのか,その行く末を見守る責任がある.私とあなたとで変えたこの世界を最後まで生き抜く義務があるのよ.あなたが来年70歳になるのは知っているわ.だから,安楽死の日まで生き続けなさい.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.これはあなたと私の合い言葉でしょ.あなたには希望のないこの世界と最後まで戦ってそれから死んでほしいの.これが私の最後のわがままよ.聞いてくれるわね」
「分かったよ.君の最後のわがままを聞くよ.俺は来年の誕生日に安楽死を執行されるまで,この世界で生きてやる.できるだけこの世界を目に刻みつけてから死ぬよ.君の言ったとおりだ.この世界を今の形に変革した俺にはその義務がある.だから心配しないでくれ」
「ええ.頼んだわよ」
その言葉を最後に彼女は安らかに息を引き取った.やはり死こそが救済だ.彼女を抱えながら彼は静かに涙を流した.
彼女の死からおよそ半年後.共同体の維持のために政府は戦争を終結させた.生産年齢の人々を戦場に送るほどの余裕はもはや『賛成派』には残されていなかった.戦争にも多くの資源が必要なのだ.戦争終結に反対する民衆はどこにもいなかった.戦争に割く余力がないことなど民衆の誰もが分かっていた.戦争終結のために政府代表が『反対派』政府に連絡したところ,驚くべき事実が明るみに出た.なんと,『反対派』においても,出生数の減少が起こっていたのだ.それもほぼ同時期から起こり始めていたのだ.『反対派』の政府関係者も戦争継続は困難と判断し,『賛成派』に連絡を取ることを考えていたらしい.こうして戦争は終結した.戦争終結に伴って,『賛成派』と『反対派』を行き来する自由は認められたが,実際に相手の領域に足を踏み入れる者はほとんどいなかった.政府が戦争終結を宣言したところで,根本的に相手の価値観を認めることができないので,両陣営の溝は実質的にはまったく埋まらなかった.子どもが生まれなくなって,共同体の維持が困難になったので戦争を止めただけで,相手への憎悪はお互いに残っている.実際に,相手の領域に足を踏み入れた青年が集団暴行を受け殺害されるという事件が問題になった.
マイケルは,戦争の終わった世界で再び会おうというビルとの約束を思い出し,彼に会うために連絡先を調査した.すると,五年前に亡くなっていたことが明らかになった.それを知ったとき,ひょっとして救済計画実行の罪に対する極刑を執行されたのではないかと想像した.だが,詳しく調べると,彼の死因は心臓発作だった.彼は幸せに死ぬことができただろうか.ようやく戦争のない世界が訪れたのに,マイケルには喜びを分かち合う相手はこの世界には誰もいなかった.
メアリーが亡くなる直前に二人の元をダイアンが尋ねてきた.ダイアンはメアリーと同じ年齢らしく,今年,安楽死を迎えるらしい.
「二人とも久しぶりね.元気そうで何よりだわ」
マイケルとメアリーは同じ部署で働いていたが,ダイアンは途中で別の部署へと異動してしまったので,顔を合わすのは数十年ぶりだった.
「お久しぶりです.ダイアンさんこそ,お元気そうで安心しました」
数十年ぶりに見た彼女は腰がすっかり曲がっており,髪も真っ白だったが,全身から放たれる切れ者のオーラは健在だった.
「私と同じ歳だからメアリーももうすぐ安楽死よね.二人で気持ちの整理をしているときにおじゃましてごめんなさいね」
「いえいえそんな.私たちはダイアンさんに再び会えて嬉しいですよ」
メアリーが返した.
「別に攻めているわけではないんですけれども,どうして今になって私たち二人に会いに来てくれたのですか」
「本当はもっと早くにあなたたちに会いに行くつもりだったのよ.でも,私に勇気がなかったせいね.今日までずっと会うのを引き延ばしていたわ.どうしてもあなたたちに聞きたいことがあったのよ」
二人は顔を見合わせ,警戒を始めた.ひょっとして,人類救済計画についてダイアンは何か気付いているのだろうか.
「俺たちに聞きたいこととは一体何ですか」
マイケルは不自然にならないように,平静を装いながらダイアンに聞いた.
「年寄りのありえない妄想なのかもしれないけどね.ひょっとしたらと思うと気になってきちゃってね.どうしてもあなたたちに確認しないと,悔いなく安楽死はできないと思ったのよ.今,『賛成派』で出生数が少なくなっているのはあなたたちも知っているわよね」
反応の一つで計画が露呈してしまうかもしれない.彼らは緊張しながらうなずいた.
「それで.その原因としていろいろな説がささやかれているわよね.感染症が原因であるという説や,『反対派』が散布した毒物が原因であるという説,遺伝子編集を繰り返し,ゲノムに異常が生じたことが原因であるという説,などたくさんあるわよね.でも,私はそれらの説がすべて正しくないと思っているのよ」
マイケルは声が震えそうになるのを必死に抑えた.
「それでは,ダイアンさんは出生数減少の原因をどのように考えているのですか」
彼女はマイケルの目を真っすぐに見つめながら答えた.
「何か,とまでは分からないけれども,不妊化を誘導するような遺伝子を遺伝子編集のタイミングで受精卵に導入したのではないかと考えているわ.その遺伝子が精子や卵子に対して特異的に発現するように設計したのか,それとも,全身で発現するように設計したのかまでは分からないけれどね」
「それは非常に興味深い仮説ですね.精子や卵子に対して特異的に発現するように設計することも,それぞれに特異的に発現している遺伝子の下流に不妊化誘導遺伝子を組み込めばできますからね.ですがそんな都合の良い遺伝子などあるのでしょうか.発現するだけで不妊化を誘導するような機能をもつ遺伝子が前提となっている仮説ですが」
「候補となるような遺伝子を私が見たことないのは事実ね」
「それじゃあ,仮説というより妄想になってしまいませんか」
耐えきれずに二人の会話にメアリーが入ってくる.
「ええ.あなたの指摘は正しい.私の話しているのは科学的根拠に基づく仮説ではなく,妄想の類ね.でもね.ありえない妄想ではないとも同時に思っているのよ.不妊化を誘導するような機能をもつ遺伝子といっても簡単な話,細胞機能に障害を与えるような遺伝子であれば何でも良いのよ.その遺伝子を生殖細胞で発現させれば良いのだからね.可能性ならいくらでもあるわ.DNA→mRNA→タンパク質というセントラルドグマを乱すだけでも細胞は障害を受けるわ.細胞骨格であるアクチンフィラメントや中間径フィラメント,微小管の形成を阻害するというメカニズムもありえるし,細胞内エネルギー分子であるATPの合成を担うミトコンドリアの機能阻害というメカニズムも考えられるわ.」
「そうですね.可能性だけならばありますね.でもやはりそれは仮説ではなく,ダイアンさんの想像,妄想になってしまいますよね」
メアリーが繰り返す.
「まあそうよね.仮にも科学者がデータに基づいてではなく,思い込みに基づいて議論をするのは良くないわね.変に混乱させて申し訳ないわ」
ダイアンが頭を下げた.
「いえ.こちらこそ失礼なことを言ってしまい申し訳ありませんでした」
マイケルは徐々に警戒を解き始めた.ダイアンが自分たちの人類救済計画の詳細を知っているかもしれないと思い警戒をしたが,まったくそのようなことはなかった.確かに不妊化誘導遺伝子を遺伝子編集のタイミングで受精卵に導入するというアイディアは見破られていたが,それも何一つ証拠がない.彼女から聞く話もなさそうだと判断した彼は,ダイアンに帰ってもらおうとした.
「それじゃあダイアンさん.今日は興味深いお話をどうもありがとうございました.不妊化誘導遺伝子の導入という説は大変興味深いです.後で,メアリーとも科学的に議論してみたいと思います」
ダイアンを玄関まで送ろうと立ち上がろうとしたが,彼女に止められてしまった.
「最後に一つだけ良いかしら」
「良いですよ.何でしょうか」
「どうして,今日,私があなたたちに話をしたのか分かるかしら」
三人の間に緊張が再び走った.やはり彼女は自分たちの計画に気が付いているのだろうか.
「私が何の意味もなくあなたたちの元にやって来て,自分の意見を延々と話すような人間ではないことくらい,あなたたちならよく知っているのではないかしら」
その通りだ.二人はダイアンの性格をよく知っていた.彼女は無意味なことに労力をかけることを誰よりも嫌う人間だった.だからこそ,彼女が自分たちの家を訪ねてきたときからずっと疑問だったのだ.彼女はわざわざ出生数低下に対しての自分の意見を話すためだけに自分たちのところに来るだろうか.やはり違ったのだ.自分たちを訪ねたことには,しっかりとした彼女なりの目的があったのだ.
どうする.マイケルは必死に考えを巡らせた.ちらりと横を見ると,メアリーも険しい顔で何やら考え事をしていた.おそらく自分と同じでどうすればこの窮地を脱することができるのか,考えているのだ.
二人から返事がなかったのでダイアンは話を続けた.
「あなたたち二人に聞きたいことがあると先ほど私は言ったわね.でもそれは,出生数減少の原因についての意見なんかじゃないのよ.単刀直入に言うわね.私はあなたたち二人が出生数減少を引き起こした実行犯だと思っているのよ」
時が止まった.声を上げる人は誰一人としていなかった.マイケルはとっさに返事をしようとしたが,喉の奥が渇いて声を出せなかった.メアリーも同じように,目を大きく開いて口をパクパクさせていた.
「ふふ.やっぱりそうだったのね」
ダイアンが確証を得たかのように笑い出した.
「何のことを言っているのかさっぱり分からないのですが.俺たちが出生数減少の犯人ですって?そもそも,この現象にしても,原因が分かっていないじゃないですか.先ほどあなたが俺たちに披露してくれた考えだって,仮説と呼ぶにはほど遠いあなたの想像に近い内容だったじゃないですか」
顔が引きつりそうになりながらも,マイケルはハッキリと彼女に反論した.
「そうよね.出生数減少の原因は私の想像だし,あなたたち二人が犯人だという証拠は何もないわ.私がこの話を捜査当局にしても,頭がおかしくなったと思われて終わりでしょうね.でもどうかしら.私の話だけでも聞いてくれないかしら」
「お話だけなら良いですよ.良いよなメアリー」
「ええ.良いわよ」
二人は渋々と彼女の訴えを受け入れた.無理に反対をして,彼女が強硬な姿勢を取ってしまったら取り返しが付かなくなってしまう.
「良かったわ.ありがとう.現在,問題になっている出生数減少の原因は,私の推測だと,『不妊化誘導遺伝子の受精卵への導入』なのはさっき説明したわね.次に考えたのは,誰が容疑者として浮かび上がるのかってことね.二人とも知っての通り,受精卵遺伝子編集総合研究所は『賛成派』で唯一の遺伝子編集施設よ.つまり,研究所に所属する人間に容疑者が絞られるわ.ちなみに,研究所に出入りする業者が犯人だという可能性は極めて低いわね.不妊化誘導遺伝子の受精卵への導入なんて芸当は,遺伝子編集について詳しく,同時に,分子生物学や細胞生物学,生化学,遺伝学に秀でた人間のはずだからね.当然,この程度の絞り込みでは多くの研究者が容疑者となってしまうわ.私もその一人だしね」
「だったらどうして俺とメアリーに疑いの目を向けたんだ」
「正確には,疑っているのはあなたよマイケル」
彼女はマイケルをじっと見つめた.彼女の瞳はどこまでも透き通っており,その瞳に見つめられると,まるで心の中まで見透かされているかのような気持ちになった.
「あなたが計画の発起人であると私は考えているわ.そして,きっかけは分からないけれども,いつからかメアリーもあなたと協力関係になったというのが私の推測よ」
「それなら聞き直すが,どうして俺に疑いの目を向けたんだ」
彼女は困ったような顔を浮かべながら言った.
「正直,強い根拠があった訳ではないのよ.ただ,あなたが遺伝子編集という技術を強く憎んでいるように感じたからというのが理由だわ.あなたが提案する遺伝子編集に用いる核酸配列を見ていて気が付いたのよ.あなたの遺伝子編集のアイディアはあまりにも胎児の安全性に重きを置きすぎていた.他の部署も含めて数多くの研究者の遺伝子編集のアイディアを見てきたけれども,あなたほど安全性を考慮する人物に出会ったことないわ.そこで気が付いたのよ.憎んでいるのは言葉のあやとしても,あなたは遺伝子編集による悲劇を生みたくなかったんだなって.そう考えればすべてのつじつまが合うわ.あなたは悲劇を止めるために反出生主義的価値観をもつようになり,デザイナーベイビーの不妊化を通じて,長期的に人類を滅ぼすことを計画したのではないか.出生数が減少し始めた時期を考慮すると,不妊化が行われたのは40年ほど前からになる.あなたがメアリーと結婚したのも疑った理由よ.あなたたち二人はお互いにこっそりとコンタクトを取っていたことには気が付いていたのよ.いつからか神妙にアイコンタクトを交わすようになっていたわね.そしてそれも,40年ほど前のことなのよ.まとめるとこうなるわ.あなたがいわゆる不妊化計画を立案し,実行はメアリーと二人で行った.そして,そこで通じ合ったあなたたちは恋愛関係に発展した.ひょっとしたら,不妊化計画が成功したか分からないという重圧も恋愛関係に発展した原因の一つとしてあったのかもしれないわね.どう?当たっているかしら」
二人は何も言えなかった.ダイアンに見られないように,できる限りアイコンタクトなどは行わないようにしていたはずなのに.一体どれほどの観察眼を持っているのだろうか.ダイアンの底知れなさに背筋が寒くなった.何返さなくてはダメだ.このまま黙ってしまえば自ら認めたことになってしまう.だが,何と返せば良いのだろう.鋭い彼女のことだ.へたなことを言ってしまえば,そこから論理的に詰められてしまうかもしれない.彼が次の言葉を言うより先にダイアンが話を続けた.
「急にこんな話されても困るわよね.仮にあなたたちが犯人ならば,いえ,犯人でなかったとしても,いきなり私の推測を一方的に話されてしまったら困惑するのも無理ないわね.ごめんなさいね.私はこれにて失礼するわ.これが最後に顔を合わせることになると思うけれども,どうか安楽死まで二人ともお元気で」
彼女が扉を開けて帰ろうとした.その瞬間,マイケルは声をかけた.
「最後に一つだけ聞かせてください」
ダイアンはゆっくりと彼の方を振り返って,ほほ笑んだ.
「ええ良いわよ」
「もしですよ.もし本当に俺たちが犯人で,人類を滅ぼそうとしていたらあなたはどうするのですか」
彼女はやや驚いたような顔をして,それから静かに答えた.
「どうもしないわ.私には私の信じる正義があるように,あなたたちにも信じる正義があるのでしょう.私にはあなたたちの正義を非難する権利はないわ」
そう言い残し彼女は扉を閉めた.彼女が自分たちの元に来た理由が分かった気がした.彼女はおそらく自分の中で導き出した仮説が合っているのか,検証したかったのだろう.科学者とはそういう人たちだ.自ら考えた仮説を検証して,正しいか間違っているか考察する.科学者としての彼女が,仮説を仮説のままにしておけなかったのだろう.
メアリーのいなくなった世界でマイケルは孤独に一人で生きていた.彼女の最後のわがままには随分と振り回されたなと思わず苦笑いが浮かんだ.だがそれも今日で終わりを迎える.いよいよ明日がわたしの誕生日だ.そして,わたしの命日だ.
子どものときは死ぬことが怖かった.幼い頃,ニュースで殺人事件のニュースが流れると母に抱きついて泣きじゃくっていた.人が消えるというのがとても怖かったのだ.昨日まで普通に生活をしていた人がある日を境にいなくなる.それでも,世界が何事もなかったかのように回り続けているのが恐ろしかった.自分の母や父,友達が明日には死んでいるのかもしれない.そんなことを考えて,何度眠れない夜を過ごしたことか分からない.
死ぬ前に自分の気持ちを整理したいと思い,40年ぶりに日記を開いた.紙は黄ばんでおり,虫に食われたような状態だったけれども,それでもかつての思いを読むことはできた.若かった頃の思いが胸をいっぱいにした.彼はペンを手に取り,最後の日記を付け始めた.
9月23日.ついにこの日を迎えた.明日24日はわたしの70歳の誕生日だ.そして,同時に,命日だ.明日の今頃,もうわたしはこの世にはいないだろう.メアリーが望んだことだから今日まで生きてきたが,孤独な世界で一人だけで生きるのはもう限界だった.今のわたしには,早く死んで楽になりたいという思いしかない.40年ぶりに日記を読み返すと,人類救済計画に燃えていた若い頃を思い出す.あの頃は,計画の実現のために必死だったなあ.当時の自分に一言声をかけてあげたくなった.お疲れさま.そして,ありがとう.人類救済計画を実施してから40年の歳月が経過したが,あの頃から変わらない思いがある.この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.この言葉は決して間違っておらず正しかったのだという思いだ.わたしはメアリーとの間にたくさんの思い出を作ることができた.だがそれも,わたしと彼女の二人とも金銭的余裕があり,経済特区に住むことが許可されており,戦争から遠いところで生活をすることができたことが理由の一つだろう.それに加え,経済特区には優先的に食糧や娯楽品が提供される.これも思い出を作ることのできた理由だ.別にわたしたちが優れていたわけではなく,親に恵まれ,遺伝子に恵まれただけにすぎない.わたしたちがこの世界で楽しく過ごすことができたからといって,それは決してこの世界を存続する理由にはならない.悲劇を防ぐ方が重要なはずである.
戦争が終わった世界でビルと会う約束をしていたが,彼は戦争終結を見届けることなく亡くなってしまった.彼の死を知った当初は深い悲しみに襲われたが,今では彼と会えなかったことは思いがけない幸運だったと考えている.というのも,彼との約束は,正確には,戦争が終わった「平和な」世界で会おうという約束だったからだ.確かに戦争は終わった.わたしたちの人類救済計画が成功し,戦争をするだけの資材を投入できなくなったからだ.だが,戦争が終わっても決して平和にはならなかった.戦争の対義語は平和ではなかった.その証拠に,戦争が終わったこの世界で,相手の領域に入った青年が殺されるという事件が起きた.結局のところ人間という愚かな生き物は,自分と異なった価値観を有する人間とは分かり合えない生き物なのだ.遺伝子編集に賛成する私たちはそれに反対する彼ら/彼女らを認めないし,逆もまたしかりだ.わたしたちの行った人類救済計画はやはり正しい手段だったのだ.対話による相互理解など机上の空論に過ぎない.この世界で他者と分かり合うことなど到底できないことだ.結局のところ人間という生き物が滅ぶことこそが,この世界の平和には必要不可欠なのだ.
早く死んで楽になりたいと心から望んでいるが,この世界に未練が何もないといったらうそになる.わたしの未練はただ一つ.この世界の,わたしたちが変革をもたらしたこの世界の行く末を最後まで見守ることができないということである.願わくは,この世界から人類がいなくなり,苦しみから解放されるその瞬間を見たかった.それはかなわない.わたしの寿命の方が先に訪れるだろうし,そもそも法律の定めに従って,わたしは明日,安楽死を執行される.だが,大丈夫だろう.計画開始から40年が経過したということは,生殖可能な人間の最低年齢も40歳だということだ.ここから人類が復活を遂げる可能性はほとんどないだろう.近い将来,この世界から苦しみがなくなることを願ってこの手記を終わろうと思う.
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
彼は手に取っていたペンを静かに置いた.日記は本棚の奥に,目に付かないように隠した.これで事実が明るみに出ることはない.安楽死を執行された人の遺品整理に割く人員などどこにもいないのだから.人類を救いたかったが,救世主として扱われたかったわけではない.おそらくメアリーもビルも同じ気持ちだろう.だからこれで良いのだ.秘密は闇に葬られ,真実は決して知られることはない.それでもわたしたちが計画を実行し,人類を救ったことには変わりはない.その事実だけで満足だ.わたしは満足して死ぬことができる.
「それではマイケルさん.今からお薬を注射しますよ.身体を楽にしてくださいね.最後に何か言っておきたいことはありますか」
いよいよ安楽死を執行されるときが来た.目を開けて医師の顔を見ると,わたしよりはるかにつらそうな表情をしていた.マイケルはその気持ちが痛いほど理解できた.人の命を助けたくて,人のためになりたくて医師を志したはずなのに,今から行う行為はまさにその正反対だ.だから,彼は最期の言葉を医師に向けて伝えることにした.
「大丈夫ですよ.何も心配はありません.本当にありがとうございます」
言葉が医師に届いたのか彼には分からなかった.だが,医師の表情が少し柔らかくなったのは錯覚ではないだろう.薬剤が身体に入ってくる.彼は眠りにつくときのように,意識が遠のくのを感じた.死は眠りのようなものだと今際の際で彼は知った.
夢を見た.父や母.それにビル.さまざまな人がわたしの元にやってきてお疲れさまと声を掛けてくれた.中には,わたしが遺伝子編集を行った幹部の息子もいた.生まれてすぐに呼吸器系の疾患が見つかったことが原因で大人に殺されてしまった彼だ.わたしを恨んでいるのかと尋ねたが,ゆっくりと首を横に振った.この世界じゃ仕方ないよ.彼の声が聞こえたような気がした.多くの人との出会いがあったことに気付かされながらも,彼女が現れないことに気付いた.すると父がわたしの背中を押して言った.
「あの子のところに行ってあげなさい.きっとおまえと二人で会いたいんだよ.邪魔な俺たちはここでお別れだから」
「父さん.ありがとう」
マイケルはゆっくりと歩き出した.集まった皆が道を開けてくれた.真っすぐ道を歩き続けた先に彼女はいた.
「お別れは済ませたの」
「ああ.皆,良い人ばかりだった.きっと分かってくれるさ」
「そう.なら良かったわ.手を出して」
言われて彼は手を差し出す.そして彼女に尋ねた.
「どこへ行くんだ」
「どこへでも行けるわ」
「なら,まずはゆっくり歩いて行こう.君に話したいことがたくさんあるんだ」
二人は手をつなぎながら歩き始めた.
「優しい表情ですね」
安楽死執行の場に居合わせた看護師が医師に声を掛ける.
「ああ.そうだな.きっと優しい人だったんだろう.この人は最期に俺の苦しみにも気が付いていた.最期の言葉はきっと俺への言葉だった.せめて向こうの世界では幸せに過ごすことができるように祈ろう」
そう言って彼はマイケルの顔に布を掛けた.
窓から入ってきた風でカーテンがふわりと揺れた.
第五章
マイケルの死から20年の月日が経過した.とうとう出生数はゼロになってしまった.出生数減少の原因究明に割く人的,経済的資本は存在せず,今や資本のすべてが社会システムの維持に割り当てられていた.そのおかげで,社会システムは最低限のレベルで維持されていたが,いつ崩壊してもおかしくない状況だった.法律の制定初期では,安楽死を執行する年齢は70歳だったが,年齢は段階的に引き下げられ,現在では60歳にまで引き下げられた.生産年齢人口を増やすために,子どもも労働者として扱われるようになった.以前までは,18歳までは教育機関において教育を受けることが義務づけられていたが,義務教育の年齢も10歳までに引き下げられていた.初歩的な教育を施された子どもは10歳になると,生産者としてインフラの整備や,物資の搬送業務など社会システムの維持に必要な業務に当たるようになった.だが,教育の短縮により生産年齢人口を増やす政策は,対症療法に過ぎず,長い目で見れば人類が衰退するのは避けられなかった.
社会システムをあとどのくらいの期間に渡って維持できるのか,政府が試算したところ,10年の猶予もないことが明らかとなった.そこで,政府関係者や科学者,哲学者など数多くの有識者が集まってある一つの結論が導かれた.どのような結論が導き出されたのか,緊急記者会見で直接的に市民へと伝えられることとなった.
「本日はお集まりいただき心より感謝申し上げます」
司会の方によるあいさつが始まった.
「これより,最高指導者ポール・ドルファーによる緊急記者会見を始めたいと思います.どうぞよろしくお願いいたします」
「皆様こんばんは.ポール・ドルファーです.本日は緊急記者会見にお越し頂きありがとうございます」
カシャカシャとカメラのフラッシュが大量にたかれた.報道陣だけではなく,一般市民も携帯端末で写真を撮影していた.通常であれば,最高指導者の記者会見では,一般市民が参加することは許可されず,あらかじめ許可を受けた報道関係者のみによる厳戒態勢の中で行われる.一般市民の参加が許されることこそが,これから話される内容の特別性を物語っていた.さらに,この記者会見は映像によって配信されており,すべての市民がパソコンや携帯端末から会見を見守っていた.
「直接皆様にお話ししなければならないと思い,今,私はこの場に立っています.多くの方が既にご存じかと思いますが,私たちは未曽有の危機に瀕しております.そうです.子どもが生まれてこないのです. 出生数が減少し始めたのは,今をさかのぼることおよそ40年前です.当時は何かの偶然が原因だと考えられており,原因究明は積極的には行われませんでした.ですが,偶然ではありませんでした.加速度的に出生数が減少し,少子高齢化が進行しました.このままでは社会の維持ができなくなると考えた政府は20年前に安楽死法を制定しました.非生産年齢人口を減らすために,70歳を迎えた高齢者に対して強制的に安楽死を執行する法律でした.生産年齢人口が少なくなるのに合わせ,安楽死を執行する年齢を70歳から段階的に引き下げ,現在では60歳で執行対象となりました.しかしながら,非生産年齢人口を減らすだけでは共同体は維持できません.生産年齢人口を増やす必要がありました.そこで,政府は,義務教育機関を短縮し,就労可能年齢を18歳から10歳へと引き下げました.非生産年齢人口の削減,そして,生産年齢人口の増加.二つの政策を組み合わせることで,どうにか私たちは今日この日を迎えることができました.まずは安楽死法により亡くなった,いや犠牲となった人生の先人たちに深く哀悼の意を表すとともに,彼ら/彼女らに心から感謝の意を表したいと思います」
ポールは話をいったん止めて,聴衆の反応を待った.会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた.亡くなった家族をしのんで泣いているのだろう.私たち人類が生き残るためとはいえ,到底許されることではない.だが,責任を負うのは今ではない.今はまだ私にできることをやらなくてはならない.最高指導者としての務めを果たさなくてはならない.
「先日.私たちはとある試算を行いました」
会場がわずかにザワザワし始めた.いよいよ本題が始まる.誰しもが指導者の言葉を聞き漏らさないように必死に耳を傾けた.
「試算の内容は,社会システムをあとどのくらいの期間に渡って維持できるのかというものです.昨年,とうとう出生数がゼロになってしまいました.現在のところ,今年も出生は確認されておりません.そこで,今の人口構成比や男女比などいくつかのパラメーターを使って,社会システムの維持期間を算出しました.結果は10年でした.私たちは,10年後には現状の社会システムを捨てなくてはならないのです」
再び会場が騒がしさに包まれた.立ち上がって怒鳴る人もいれば,ワッと泣き出してしまう人もいた.報道陣も市民も皆周りの人と話し始めた.
「静粛にお願いします.静粛に」
慌てて司会者が声を上げるが,会場が静かになる気配はない.さらに声を上げようとする司会者をポールが制止した.
「ええ皆様.混乱を与えてしまったことをおわびします.ですが,先ほど申し上げました数字は厳然たる事実です.皆様が怒り悲しむのは分かりますが,感情的になっても問題は解決しません.今は感情を押し殺し,静かに私の話に耳を傾けていただきたいのですがよろしいでしょうか」
「あんたには人の心がないのか!」
大声が上がった.声のした方を見ると,先ほど怒鳴り声を上げていた男性だった.
「ご意見ありがとうございます.先ほども申し上げましたように,感情的になってもこの苦しい現状は打破できないのではないでしょうか.私が泣いても意味はないのです.ですので私は皆様には寄り添うことはいたしません.これ以上,私の会見を妨害するならば,強制的に退出していただきますがどうしますか」
男性は会場に聞こえるように舌打ちをしてから再び椅子に腰掛けた.
「賢明な判断に感謝します」
ポールは続けた.
「10年後に今の社会は捨てなくてはなりません.ですが,これは皆様にとって現実的な話でしょうか.私たち人類はこれまで技術を発展させることで高度な文明を発展させてきました.今になって築き上げた文明のすべてを捨て去り,前時代的な,自給自足的なライフスタイルに戻ることができる人はおそらくほとんどいないでしょう.かく言う私もその一人です.ではどうすれば良いのでしょうか.ジリジリと滅びへと向かっていくこの流れを変えることはできないのでしょうか.政府関係者や科学者,哲学者,医者などさまざまな分野の有識者を集めて何日にもわたって会議を行い,私たちはついに一つの結論を導き出すことに成功しました」
聴衆は固唾を飲んで彼の口から出る次の言葉を待った.先ほど怒鳴り声を上げていた男性すら思わず耳を傾けていた.
「私たちは黙って滅亡するのを待つ必要はないのです.ただただ自然の流れにしたがって死を待つのは野生の動物に他ならないでしょう.ですが,私たちは人間です.高度な文明を有する私たちは,野生の動物とは違う存在なのです.自分たちの運命は自分たちで決められるのです.今ここで皆様に提言いたします.人類全員が死ぬことで成し遂げられる,すべての人間が幸せになることができる計画.人類総安楽死計画を!」
場は静まりかえっていた.すぐには言葉を飲み込めなかったのだろう.だが,30秒ほどすると場内は騒然となった.先ほどよりも多くの人が,ポールに向かって大声で怒鳴っていた.彼がどれほど文句を言われても何も言い返さず,それどころか口元に微笑が浮かんでいるのを見た先ほどの男が,怒りのあまり彼に近づいてきた.彼を守ろうと警備員がやってきて,男を取り押さえた.警備員に羽交い締めにされながらも男は声を枯らしながら叫んでいた.
「やっぱりおまえはおかしい!本当に人の心がないんだな!人類総安楽死計画?俺たち全員に死ねって言うつもりなのか.おまえらのような一部の特権階級の人が生き残るために,俺たち貧民には死ねって言うのか.おまえは悪魔だ.おまえはここで死ななきゃ駄目だ.誰か!誰かこいつを,この男を殺してくれ!警備員は俺が抑えておく」
男の叫びを聞いて,何人かの男性が立ち上がってポールの元に向かった.
司会者は慌ててポールの横にやってきて,今すぐ逃げるようにと助言をしたが,彼は静かに首を横に振った.すると,彼の前に立ちはだかった男が言った.
「おい.さっきの意見を取り消せ.俺たちは貧しくたって人間だ.家族もいる.おまえらの言いなりになって死ぬ気はない.もし取り消さないなら覚悟しろ.ここでおまえを一足早く殺してやる」
「いえ私は決して取り消したりはしません.私の政策に賛同できないなら今ここで私を殺せば良いでしょう.特別に許可します.今からここで行われることの一切についての法的責任は問いません.だが一つだけ条件があります.それは,私を殺した人間は,次の最高指導者として務めを果たさなくてはならない,という条件です.私を否定し,殺すのは大いに結構です.ただし,当然ながら,私をこの場で殺すということは,私の政策と比較し,より優れた案を持っていることを意味します.相手を否定するだけならば誰にでもできます.相手を否定した上で,より優れた案を出せないならば,その人は革命家ではなくただの反逆者です.さあ!私を殺しなさい!そして,素晴らしい政策で残された人類を救ってください!」
誰一人として動かなかった.いや動けなかったのだ.ポールの提案したアイディアより素晴らしいものなど誰にも思いつかなかった.本当は誰しもが心の底では理解していたのだ.いつか世界は滅んでしまうことを.そして,人類総安楽死計画はこの世界に許された最後の希望なのだと.警備員ともめていた男は悔しそうな顔をしていたが,それ以上暴れる様子は見せずに,おとなしく会場の外に連れられていった.立ち上がっていた男たちはそれぞれ自分の席へと戻った.
「皆様,私の政策に賛同してくれ本当にありがとうございます.心から感謝いたします.それではこれから人類総安楽死計画の詳細について話したいと思います.計画を聞いて疑問に思うところがあると思いますが,どうか最後まで聞いてください.それでも納得できないところがあれば最後に質疑応答の時間を設けておりますので,そのときに質問してください.ではまず人類総安楽死計画とはそもそもどのような計画なのか.その概要からご説明いたします.人類総安楽死計画とは,その名前の示すとおり人類全員が安楽死するという計画です.先ほど申し上げましたが,私たちの世界はゆっくりと,しかし確実に滅びへと向かっています.現在の社会システムは10年で捨てなくてはなりませんが,そこで人々がすぐに死んでしまうということはないでしょう.捨てるといっても現状の維持ができないだけで,優先順位の高いシステムのみを残りの人類で稼働させ続ければ,おそらくさらに10年ほどは生活に困らない程度のシステムは維持できるでしょう.ですが,その生き方は果たして幸福でしょうか.希望のある生でしょうか.私には到底そうとは思えません.ここで登場するのが人類総安楽死計画です.安楽死の執行日をあらかじめ決めておいて,執行日になったら全員が安楽死を遂げられるようにします.現状の社会システムを維持できている間に,人間らしく死ぬことを目的とした計画です.以上が人類総安楽死計画の概要です.次に,計画の詳細についてご説明いたします.まずは安楽死の執行日をお伝えいたします.それは今から5年後の4月1日です.5年後に設定した理由としては,5年後までにならば,安楽死に必要な薬剤の人類全員分の調達が可能だという試算結果が出ているからです.安楽死のための薬剤とは何か.既にご家族で安楽死を執行された方も多いかと存じますが,執行は医師による注射という形で行われたのではないでしょうか.現行の安楽死法では,麻酔薬と筋弛緩薬の組み合わせが,安楽死に使用することが許可されている薬剤となっています.麻酔薬を注射するのは,安楽死に伴う苦痛から患者を解放するためです.直接的に死に至らしめる薬剤が筋弛緩薬で,投与による呼吸停止が安楽死のメカニズムです.しかしながら,医師による注射では全員同時に安楽死をすることはできません.そこで,飲み薬としての安楽死用薬品が必要となるのですが,私たちは既にこの薬品の開発に成功しました.きっかけはとある一人の科学者マイケル・サンダーソンが報告した論文でした.彼の論文によると,理論的には睡眠薬だけでも安楽死を行うことが可能であるが,それは現在使用されている睡眠薬では不可能であるそうです.そもそも私たちが安楽死のために使用している睡眠薬は注射剤として使用することが前提の薬品であり,強力な酸性環境である胃内で分解されてしまうので経口投与ができません.そこで彼は経口投与可能な,そして単体で安楽死が可能な薬品のアイディアを論文に記載していました.名前はSEB227です.SEB227による安楽死は,投与後の意識消失、深麻酔、無呼吸、そして心臓停止というメカニズムで起こります.私たちは彼の残した論文の方法論に基づいてSEB227の開発に着手しました.実は以前より手間のかかる注射剤の代わりとなる経口可能な安楽死用薬品の開発は進んでいたのです.SEB227の効果は絶大でした.動物実験により効果を検証したところ,マウスにラット,イヌ,サルと多くの哺乳動物で安楽死を確認できました.つい先日,臨床試験として,安楽死を執行される方にSEB227を経口投与させたところ,苦しむことなくすぐに亡くなりました.したがって,SEB227は経口投与が可能な,私たちの希望となる安楽死用薬品と考えられます.先ほど,安楽死に必要な薬剤の人類全員分の調達が可能になるのに要する期間は5年以内だとお伝えしました.SEB227の品質に問題がないことが動物試験と臨床試験により明らかになったので,現在,皆様にお届けできるようSEB227の大量生産を行っております.全員分の薬品を生産するのに5年弱かかってしまうのです.具体的に安楽死はどのように行われるのか,ご説明いたします.5年後の4月1日が人類総安楽死計画の実行日です.この日の正午に人類全員で死のうではありませんか.これまでのように,第三者が安楽死を執行するわけではないので,どうしても死ぬことに対して抵抗感がある方を強制的に安楽死させることはできません.ですが,私の望みは全員の救済であり,そのためには全員が死ぬしかないと考えております.したがって,生きる希望を失わせるために私たちはとある決断をくだしました.私たちの安楽死と時を同じくして,食糧生産工場や水道,ガス,電気の供給プラントなどの生活の基盤となる社会システムをすべて完全停止および完全破壊いたします.これらの施設はかつての戦時中に『反対派』によって占拠された場合を想定して,解体コマンドが設定されております.とある科学者の予想によれば,雨水やダム,地下水を管理するシステムが崩壊してしまった場合に,制御を失った水が大量に地上にあふれ,道路は河川のようになってしまうそうです.石油や石炭,天然ガスを利用していた火力発電所やウラン燃料の核分裂によりエネルギーを得ていた原子力発電所もすべて破壊するので,深刻な環境問題が発生するでしょう.一時は自然環境へ大きな負荷をかけてしまうでしょう.ですが,自然の力は非常に強力です.地中に漏れ出た石油や石炭,天然ガスは微生物や植物により分解されます.放射能汚染も膨大な時間経過とともに解決するでしょう.多くの施設を一度に解体することで大量の二酸化炭素が大気中に放出されることを心配する方もいらっしゃるかもしれません.確かに温室効果を有する二酸化炭素が大量に放出されてしまえば,温暖化が進行してしまうのは避けられません.しかしながら,激烈な環境に適応する動物や植物,微生物が発生するでしょう.結局は時間経過とともに解決するのです.私は環境の自然治癒能力に望みを託し,社会システムの完全破壊を人類総安楽死計画の実行日に決行いたします.私たちの思惑に反し,安楽死を選ばなかった人々でさえすぐに救ってみせます.社会システムの停止,破壊による災害に巻き込まれて死ぬのであれば,SEB227を飲むことにより痛みも苦しみもなく安楽死をする方が幸せだと私は思います.以上が,人類総安楽死計画の全容となっております.皆様が正しい判断を下すことを信じております.最初に申し上げましたように,これより質疑応答の時間ですので,人類総安楽死計画について質問のある方はどうぞよろしくお願いします」
自分の死が5年後に約束されている.この事実おまえにして誰しもがショックを受けていた.だが,ショックに打ちのめされる人がいる一方で,毅然と立ち向かう人がいた.彼女はポールの話が終わるとゆっくり椅子から立ち上がり,質問用のスタンドマイクの前に歩き出した.会場にいる全員が彼女の一挙手一投足をじっと眺めていた.多くの視線にさらされながら彼女は意を決してマイクに話し始めた.
「中央病院で医師をしておりますマーガレット・ソールズといいます.丁寧なご説明ありがとうございました.何点か気になる点があるのですが,質問よろしいでしょうか」
「マーガレットさんありがとうございます.はい.質問よろしくお願いします」
「聞き逃していたら申し訳ありません.政府の試算によると,10年後に現在の社会システムは維持できなくなるとのことですが,どれほど機能不全になるのでしょうか.つまり,10年後にはすべてのシステムが崩壊するのでしょうか.それとも,10年後から崩壊が始まり,適切な取捨選択を行えば社会の延命は望めるのでしょうか」
「ご質問ありがとうございます.まず初めに,試算の結果およびプログラムコードなどはすべて会見後に開示することをお約束いたします.それで,ご質問に関してですが,先ほど既に説明したのですが,改めて詳しくお答えします.10年後に完全にシステムが崩壊するのではなく,10年後には崩壊が始まるという理解が正しいです.崩壊が始まってからも,社会インフラを適切に稼働させれば社会の延命は可能です.たとえば,批判を承知で申し上げますと,かつての戦線の近くの貧民地区への物資輸送や電気,水道,ガスなどのインフラを止めて,経済特区にのみ集中させれば経済特区は10年より長く生活することができるでしょう.実際に,肝心な社会システムの多くは,『反対派』に標的とされないように戦線から遠い経済特区に作られていますからね.ですが,共同体の最高指導者としては,できる限り人々の命は平等に扱いたいと考えております.全員が幸福な生を送ることができないならば,全員が死ねば良いというのが私の平等思想です.まとめますと,あなたのご指摘は正しいですが,社会システムの取捨選択ができないようにすべてのシステムを破壊するので,実際的には社会は存命不可能でしょう」
「分かりました.ありがとうございます.それでは次の質問なのですが,病気のために自力で安楽死用の薬品を飲むことができない人々についてはどのようになさるおつもりでしょうか」
「はい.ご質問ありがとうございます.そのような病気の方々がおられるのは承知しております.彼ら/彼女らを人類総安楽死計画から除外してしまい,システムの破壊により死なせてしまうのは計画のコンセプトから逸脱してしまいます.ですから, 4月1日までにあらかじめ医師の手により安楽死を執行しておくのが望ましいと考えております.そのために,現在使用している注射剤の安楽死用薬品を十分に確保できるように,大量に製造しております」
「分かりました.ありがとうございます.次の質問です.わざわざ座して死を待つ人はいないと思うのですが,『賛成派』を放棄して『反対派』へと人々が流れる可能性についてはどのようにお考えですか」
「はい.ご質問ありがとうございます.ご指摘の通り,『反対派』に流れる人の可能性については考えました.ご存じの通り,かつて私たち『賛成派』と『反対派』とでは長い戦争をしておりました.出生数の減少に伴い,戦争に割く人的,経済的資本がなかったため私たちは終戦かな定を結びました.ですが,戦争を止めたから仲良くなれるほど人間は単純ではありません.かな定上ではお互いの領土の往来は許可されていますが,ほとんどの人が相手の領土に入ったことはないでしょう.また,お互いでの貿易も許可されていますが,これまで一度も行われたことはありません.結局,私たち人間は,信じるものが違う人とは分かり合えないのです.なので,『反対派』に人が移動する可能性は非常に低いと考えられます」
「ですが,可能性はあるのではないでしょうか.ここであなたがそれを否定しないならば一層その可能性が高まると思いますが」
「そうですね.しかしながら,問題はありません.なぜなら,『反対派』も私たちと同時に安楽死をすることが決まっているからです.私はずっとこのように申し上げてきたはずです.人類総安楽死計画と.人類とは『賛成派』に限りません.『反対派』も含みます.『反対派』においても,最高指導者が私と同じ時間に会見を開始したはずです.実は,『賛成派』の有識者会議で総安楽死計画が決まったときに,すぐさま『反対派』にも声を掛けたのです.最高指導者同士は定期的に連絡を取っていましたから.『反対派』の有識者会議に議題を提案したところ,可決されたそうです.そこでお互いに今日会見を開くことにしたのです.『反対派』の安楽死の方法論も私たちと同じです.さらには,社会システムの完全停止,完全破壊に関しても意見を統一しております.つまり,5年後の4月1日.『賛成派』と『反対派』のすべての人々が安楽死をするというのが人類総安楽死計画です.なので,領土を移動しても安楽死を免れることはできません」
「分かりました.ありがとうございます.次が最後の質問になります」
「もう良いんですね.それでは最後の質問お願いします」
「あなたが今日この会見を開いた目的は何なのですか.会場の皆の表情をご覧になってください.絶望そのものですよ.希望を持って生きることを説いていたのは他でもないあなたではないですか.この会見をテレビやインターネットで見ている人の中には,この瞬間にも自殺している人がいるかもしれません.ここにいる私たちも,明日,早ければ今晩にも自殺に思い至る人がいるかもしれません.確かに,あなたの言葉は正しいのでしょう.出生数がゼロとなってしまった以上,いずれ私たちは滅んでしまいます.そんなことは市民の誰しもが心の中では理解しています.それでも自分を偽りながら,少しの幸せに目を向けながら毎日を必死に生きていたのですよ.ひょっとしたら出生数が戻るかもしれない.それまで自分たちが社会を守っていこうと考えている人もいたはずです.ですが,そのなけなしの幸福や希望をあなたは奪ったのですよ.どれほど懸命に今を生きても5年後には安楽死をさせられる.安楽死を拒否しても,社会システムが完全に破壊されてしまうので生きていくことはできない.こんな絶望しかない状況で人は5年間も生きることはできません.どうしてですか.どうしてあなたはわざわざ幸福や希望をたたきつぶしたのですか.これがあなたへの最後の質問です.建前ではなく,本心で答えてください.それが私たちへの義務のはずです」
長い沈黙が訪れた.会場中の視線がポールに向けられた.先ほどまで絶望に打ちひしがれて項垂れていた人も,彼女の言葉を聞いて前を向いた.ポールは会場を見渡し,皆の視線が注がれていることを確認した.目をつむって心を落ち着かせてからゆっくりと口を開いた.
「ご質問ありがとうございます.あなたのご指摘は間違っておりません.皆様から幸福や希望の芽を摘んだ私には,その心の内を皆様に開示する義務があるでしょう.大丈夫です.きちんとお答えします.煙に巻くことはいたしません」
彼は真剣に彼女を正面から見つめた.彼女も負けじと彼を正面から見つめた.
「私が皆様から幸福や希望を奪った理由は他でもない,それが偽りの幸福や希望であるからです.マーガレットさん.先ほどあなたはご自分でこう述べました.『自分を偽りながら,少しの幸せに目を向けながら毎日を必死に生きていた』のだと.つまり皆が気付いているのでしょう.自分の感じている幸福や希望は本物ではないのだと.目の前の厳しい現実から目を背けて,偽りの幸福や希望を享受する.果たしてその人生は素晴らしいでしょうか.誇り高く美しい生でしょうか.私はそうは思いません.昨日よりも今日,今日よりも明日がより良い世界になることを願いながら生きるときにこそ,本物の幸せは感じられるのではないでしょうか.だからこそ,私は皆様から偽りの幸福や希望を奪いました.そして,私は皆様に真の幸福や希望を与えたいと思っています.皆さんはやがて終わりが来ることをどこかで理解しながらも,それでも前向きに生きようとしている.その生き方はあまりにもつらく苦しい生き方です.そうではなく,終わりが確実に来ることを皆に知っていただくことで,限られた残された時間を有効的に活用してほしいのです.人類総安楽死計画を5年後に設定した理由の一つがそれです.先ほど申し上げたように経口可能な安楽死用薬品の大量生産に5年弱の年月を要するのはうそではありません.しかし,残された資源を選択集中することで,生産に要する期間を短縮するのは不可能ではありませんでした.ですが,あえて私はそのような資源の集中は行いませんでした.皆様が悔いなくこの世界から去るのに5年ほどの年月が必要であると判断したためです.皆様は悠久の時を旅する者ではないのです.やがて終わりはやってくる.いつ終わりがやってくるのか分かるから絶望するのではありません.逆なのです.終わりが見えないことこそが絶望的なのです.有限ではなく,無限こそが絶望なのです.あえて皆様に問います.絶望している時間はあるのでしょうか.仮初めの幸福や希望にすがるのはもう辞めませんか.5年後にあなた方は死ぬのです.それまで悔いなく,この世界を楽しんではいかがでしょうか.残された限りある時間で最後に自分らしく,心の赴くままに生きてみてはいかがでしょうか.そして,充実した人生だったと笑って皆で死にましょうよ.それが,それこそが私の偽りのない心からの願いです.マーガレットさん.あなたにも私は感謝しなくてはなりませんね.あなたが勇気を振り絞って私に質問をくださらなければ,私は心の内を皆様に機会はなかったでしょうから.ありがとうございました」
ポールはマーガレットに深く頭を下げた.気付けば涙が頬を伝っていた.涙を流していたのは彼女だけではなかった.会場の皆が,いや,会見を見ていた誰しもが涙を流していた.だが,その表情に苦しみや悲しみはまったく見られなかった.すべての人が清々しい顔つきをしていた.ポールの言葉は正しかったのだ.自分は幸せなのだと,未来には暗雲が立ちこめているけれども大丈夫だと言い聞かせる日々に疲れていたのだ.
「顔を上げてください.お礼を言わなければならないのは私の方です.真摯に答えていただきありがとうございます.私の質問なんて適当に煙に巻くこともできたのに,あなたはそうしなかった.あなたの誠実さに深く感謝いたします.そして,申し訳ありませんでした」
今度はマーガレットがポールに対して頭を深く下げた.
「あなたの本心を知らずに,私はあなたを非難してしまいました.人類総安楽死計画について説明を受けたとき,私にはあなたが,私たちを絶望へと誘う悪魔のように見えたのです.ですが,違いました.悪魔のように見えたあなたは,実は私たちのことを誰よりも考えている心優しい方でした.あなたのおかげで,皆が偽りではない本物の希望を胸に明日を生きることができるようになりました.5年という誰しもに与えられた平等な時間を悔いのないよう精いっぱい生きようと思います.そして,笑って最期の時を迎えたいと思います.本当にありがとうございました」
ポンッと栓の抜ける音が響いた.ポールはガラス製の机の上に並べられた二つのグラスにゆっくりとワインを注いだ.グラスの半分にまで注がれたワインは光に当たって芸術的に美しい赤紫色を呈していた.ブドウの爽やかな香りが彼の鼻腔をくすぐった.
「公務中の飲酒行為は慎むべきではないでしょうか」
秘書に注意を受けた彼は苦笑いをしながら,逆に言い返した.
「公務といっても,あとは社会インフラを遠隔で停止,破壊するだけだろう.このパソコン一つでできるのだから,固いことを言わなくても良いじゃないか.君も一杯どうだね」
彼は秘書にワインを勧めた.もともと,二人で飲もうと思ってグラスを二つ出していたのだ.先に仕事を終わらせてからでないと駄目です,と反対されるかと思っていたが,
「そうですね.今日くらい,固いことはなしですね.ありがたくいただきます」
と言って,秘書はワイングラスを彼から受け取った.
二人はソファに腰掛けながらワインを味わった.
「この赤ワイン美味しいですね」
秘書が思わずつぶやくと,ポールは得意そうな顔をしながら自慢げに語った.
「そうだろう.これは私がずっと懐に温めていたワインなんだよ.最期の日に飲もうとずっと取っておいたんだ.特別なワインなんだぞ.ほらボトルを見てくれ」
彼はワインボトルを手に取って,紋章が見えるように秘書の前に置いた.
「この紋章がどうかしたのですか」
「この紋章は生産者のブランドのロゴなんだよ」
「このワインは工場で作られたものじゃないんですか」
秘書は目を丸くした.基本的に飲食物はほとんどすべてが工場で製造されているため,個人が作ったものは非常に珍しかったのだ.
「私の友人にワイン農家の人がいてね.最高傑作ができたと言って私に送ってくれたんだよ」
「ワイン農家ですか.個人で農作物を育てている方がいらっしゃったんですね.知りませんでした.すべての作物が工場生産だと思っていました」
「まあ通常ならそうなんだけどねえ.どうにも私と君の問答を聞いてやる気になったらしいよ」
そう.秘書の名はマーガレット・ソールズ.かつてポールの記者会見で,彼の本音を引き出した女性だ.当時は医師をしていたが,ポールの理想に深く感銘を受け,医師を辞職し彼の秘書になりたいと志願してきた.彼としても,勇気を持って自分に意見をぶつけてくれた彼女とともに働きたいと思ったので彼女の申し出を快く引き受けた.彼女は極めて優秀な秘書だった.彼のスケジュール管理から資料,情報の収集と整理,文書作成にいたるまで秘書業務としてのほとんどすべての業務を非常に高いクオリティで全うしていた.彼女が彼の右腕になるのに時間はかからなかった.
「私の会見より前から寒冷地の農地はもっていて,いつかワイン農家をやってみたかったけれども,あと一歩勇気が出なかったらしい.それで,人類総安楽死計画の話を聞いてどうせ残り5年しかないなら自分の夢をかなえようと思い,すぐにブドウの果樹園を作ったんだとさ.出来上がったワインにメッセージを添えて私に送ってきてくれたんだ.手紙には君への感謝も記されていたからね.だからこうして君を誘ったんだ」
「それは嬉しいお話ですね.ワイン農家の方が笑って安楽死できていると良いですね.先生は公務の関係上,官邸を離れる時間もなかったので詳しくはご存じないかもしれませんが,本当に多くの方々が先生に感謝していましたよ.『先生のおかげで生きる気力が湧いてきた』『最期に笑って死ぬために今日を頑張って生きることにしたんだ』さまざまな声が私の元に届いていました」
「それは本当に嬉しい限りだな.最高指導者冥利に尽きるとはこの事だな」
彼は笑いながら言った.
「先生のお言葉を聞いて精力的に活動する人が増えましたよ本当に.芸術家になった方もいれば,研究者になった方もいますし,中には『反対派』と友好関係を結ぼうとする方もいらっしゃいました」
「知っているよ.その人は.彼の活躍なくしては『賛成派』と『反対派』の友好関係は実現しなかったな.彼には感謝しかない.当然,わだかまりを解くには時間が足りなかったが,たとえ信じるものが違っていても人は平和に生きることができるのだと世界に示したのだからね」
「もちろん,彼らが一念発起し,努力を惜しまなかったことが成功につながったのだと思います.ですが,すべて元を正せば先生のあの時のお言葉にあるのですよ」
彼女はそう言って,熱いまなざしを先生に向けた.
「あの会見の場で先生が人類総安楽死計画について説明し『死ぬまでの残された時間を悔いのないように生きてほしい』と言ってくださったからこそ,私たちは絶望に飲まれることなく希望を胸にしながら,今日まで生きることができたのですよ.私たちにとって先生は救世主だったのですよ」
「そう言ってもらえるのは嬉しいが,君は飲み過ぎだね.いつもの君らしくない」
マーガレットはグラスに残ったワインを喉に流し込んだ.
「そりゃあ最期の日ですからね.私だってお堅いままではいられないですよ」
今日は会見から5年後の4月1日.人類総安楽死計画の実行日だ.時刻は16時を少し過ぎた頃だ.当初の予定通り,正午に全員の安楽死が行われた.ワインを机において,彼は安楽死が無事に行われたか確認するためにパソコンを開いた.まず初めに確認したのは,動作感知型センサーだ.家の中の生存者を調べることを目的としてすべての家に取り付けられた動作感知型センサーは反応を示していない.おそらくすべての人が正午付近に自発的にSEB227を服用したのだろう.もし仮に生きている人がいれば,センサーに信号が伝わるはずだ.ポールの最期の仕事はすべての人が安楽死するのを見届けることである.共同体を預かる者として,救うべき民を残して先に死ぬわけにはいかない.家の中には生きている人はいなそうだ.では,家の外はどうだろうか.道路に設置された圧力センサーにも反応は見られない.家の外にも生きている人はいなさそうだ.私とマーガレットを残して,『賛成派』のすべての人が安楽死できたのだろう.メールを確認すると『反対派』の代表から一通メールが届いていた.確認すると,『反対派』で人類総安楽死計画が成功したという内容だった.メールの最後にはポールへの別れの言葉が書かれていた.『反対派』では既に社会インフラの破壊も行われたようだ.これで『賛成派』と『反対派』を問わず,自分たち以外のすべての人が安楽死した.私たちも人類総安楽死計画を完遂しなければならない.社会インフラのすべてを破壊するためにプログラムを彼は発動した.遠くの方から工場やプラントが崩壊する音がわずかに聞こえる.あっという間にプログラムの実行が終了した.これですべての社会インフラの破壊に成功したはずだ.
「人類総安楽死計画は現時刻を以て完了した」
彼はマーガレットに告げた.
「いいえ先生.まだ終わっていませんよ.私たちが残っています」
彼女ははにかみながら答えた.
「私たちが死んだときに初めて人類総安楽死計画は完了するんですよ」
「ああ.そうだな.君の言うとおりだ.それじゃあ私たちも薬を準備しよう」
彼は金庫から薬を取り出し,一つを彼女に渡した.半分が緑色,もう半分がオレンジ色のカプセル剤で,表面にSEB227と刻印されていた.他の医薬品と絶対に間違えることがないようにカラフルなデザインにしたと,開発者は話していたが,それにしては派手すぎないだオルか.緑とオレンジのカプセルなんて口に入れようとは思えない.だがそれでも,一見ビタミン剤のような見た目をしていても,この小さなカプセルを一錠飲むだけで安楽死するのだと思うと,どこか非現実的に感じている自分がいた.
「これが私たちの最後の会話になるだろう.君は最後に言い残したことはあるか?私で良かったら聞くぞ」
「いいえ.何もありません.私はこの人生に悔いはありません.今まで本当にありがとうございました.あ,一つだけ言いたいことがありました.最後のわがままです.一緒に死んでくれませんか.先生と最期をともにしたいのです」
「お礼を言わなければならないのはむしろ私の方だ.私に付いてきてくれてどうもありがとう.君に助けられてばかりの5年間だったよ.最高指導者として皆より先に死ぬわけにはいかない.皆が安楽死できたことを見届けなくてはならないからね.だから,君と一緒に死ぬことはできない.申し訳ない」
そう言って彼は頭を下げた.彼の言葉を聞いてマーガレットは小さくほほ笑んだ.
「やっぱり先生は最期まで先生なんですね.仕方ないですね.ここは私が折れてあげますよ.一つ貸しですからね.次に会ったときにこの借りは返してくださいね」
彼女はカプセルを口の中に放り込み,ワインで流し込んだ.10秒ほどで効き始めたのか,ウトウトとし出したので,ゆっくりとソファに身体を倒してあげた.
「先生.ありがとうございました」
彼女の最期の言葉が聞こえたような気がした.首元に手を伸ばし,脈を測ったが,彼女は既に事切れていた.
先ほどの飲みかけのワインを口に含んだ.彼はこの世界でたった一人の人間だった.今にも目を覚ましそうなほど穏やかな彼女の顔を見て,誰にも言うことのなかった思いを口にした.
「マーガレット.君は素晴らしい女性だった.この5年間,私は君への思いを必死に押し殺していたのだよ.君と私の関係は最高指導者とその秘書の関係に過ぎないからね.かつての記者会見で君と対峙したときから君のことが気になっていた.君が秘書になりたいと私の元を尋ねてきたとき,天にも昇るような気持ちだった.私と生きてくれてありがとう.私は君を愛しているよ」
彼は彼女の頬に静かに口づけをした.
「私も今から君の元に向かいます」
そう言って彼は薬を飲み込んだ.すぐに強烈な眠気が襲ってきて,耐性を維持することができずソファに横になった.最期に見たのは幸せそうな顔の彼女だった.
この日,ポール・ドルファー最高指導者が亡くなって,彼の考案した人類総安楽死計画は完了した.『賛成派』と『反対派』のすべての人が安楽死を遂げ,この世界から人類はいなくなった.工場やプラントなどの社会インフラも破壊され,自然の自浄作用によって,ゆっくりと朽ちてゆくだろう.
そして,同時に,マイケル・サンダーソンとメアリー・フォスターの実行した人類救済計画も完了した.
終章
この世界に生まれることに希望は存在しない.この世界に生まれてこないこと以上の救いはない.そして,人間には幸福に生きる権利があって,同時に,幸福に生きることができないなら人間は生きているべきではない.
影の救済 とろたく軍艦 @torotaku
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