EP11.姿を変えた瀬名くん

 今日はどうしても一人で登校したくなかった。正確にはその勇気がなかった。教室に行けばクラスメイトの批判的な視線に晒され、唯一の心の支えであったセナくんともあんなことになってしまった。

 未だに信じられない。大好きなセナくんが、あの瀬名和泉と同一人物なんて。私は彼に酷い言葉を投げつけたのだ。"絶対に好きにならない"と。好きで好きで仕方がない、何度も体を重ねて愛を確かめ合った人に。

 今まで私はセナくんのどこを見て、なにを好きだと思っていたのだろう。そうなれば、信じて疑うことのなかったセナくんへの気持ちにさえ自信が持てなくなった。根底が揺らいでいるのだ。それは当たり前のように思う。

 それじゃあ、好きの気持ちをなかったことにできるのか。それは否だ。私を騙してた。もしかしたら裏で新島くんと笑っていたのかもしれない。最低最悪の、私が大っ嫌いな人種だ。そう思うのに、確かに感じていたセナくんからの愛情全てを否定できない。2人で重ねた時間をなかったことにしたくない。その気持ちがまた私を苦しめた。嫌いになりたい。だけどなれない。私の心は混迷を極めていた。


「沙耶香、お待たせ〜」

「おはよ!突然ごめんね」

「いーよいーよ」


 一緒に登校してほしいと、突然お願いをされて紗良は驚いたかもしれない。だけど私の状況を慮り、わざわざ遠回りをして私との待ち合わせ場所へ来てくれた。やっぱり信じられるものって結局友情だけなのかもしれない。もう恋愛とか得体の知れない何かに巻き込まれたくない。それは今まで散々人様の揉め事に首を突っ込んできた私に芽生えた、新たな感情であった。


 紗良は私を苛む現状に触れず、明るく楽しい話題を口にした。しかし今となっては、日村さんやその取り巻きからの謂れのない誹謗中傷は瑣末なことに思える。


「でさ、その時芸人さんがね、」


 昨日観たバラエティ番組の顛末を思い出し笑いしながら話していた紗良の声が不自然に止まった。どうしたの、と紗良の視線を追った私の言葉も喉につかえる。あれ、なに?明らかに不自然な人混み。先生の「離れろ」という怒声にも似た叫びが私たちの耳にも届いた。


「え、あれなに?芸能人でも来てるの?」


 紗良のその言葉にどきりとした。


「セナくん……」

「え?瀬名くん?」


 頭に浮かんだ人物の名前を口にすれば、紗良は訝しげに眉を顰めた。違う。その瀬名くんじゃなくて……いや、その瀬名くんであってるんだけど。昨日までの瀬名くんではないのだ。

 やっぱり今日このまま帰ろうかな。そう思った私に、昨日のセナくんが「逃げないでね」と笑う。なんだか腹立ってきた。なんで被害者の私がこんな理不尽にビクビクしてなきゃいけないの?!私、悪いことなんて何一つしてないじゃん。本当にただ巻き込まれただけ。気を抜けばポキリと折れてしまいそうな心を鼓舞するように、「行こう!」と力強く紗良の方を見て頷いた。





 人混みの中心にはやはり思った通り、セナくんが立っていた。それをチラリと横目で確認したした私とは違い、紗良は隠せぬ興奮を吐き出すように「セナじゃん!」と私の肩をバシバシと叩いた。


「え?なんでいるの?!なんかの撮影?!」


 そうならばどれほど良かっただろう。私は紗良へ「どうだろうね」と曖昧に微笑んだ。

 先生が数人、セナくんに群がる生徒たちを引き剥がし「はい、通してー」とまるでSPのようなことをしている。セナくんも「ごめんね、教室に行きたいんだ」なんてアイドルよろしく、キラキラの笑顔を振り撒いた。


「あっ、沙耶香ちゃん!」


 彼は最悪のタイミングで私の名前を呼んで、ヒラヒラと無邪気に手を振る。だけど私はもう知っている。セナくんのその笑顔に隠された気持ちが、純粋な好意のみではないこと。彼はきっと何かを企んでいる。良い人じゃない。それが分かるのに、笑いかけられると胸が締め付けられて泣きそうになる。その涙は行き場を無くした私からセナくんへの愛だ。


 今まで振り撒いていたものは作り笑顔だったのだと、明確に分かるほどの蕩けきった笑顔。それを見せつけられたその場に居た全員が思わず息を呑んだ。そして特別な物を与えられた私に羨望と嫉妬の視線が集まる。


「え、え?沙耶香、知り合い?」

「し、知らないっ」


 スタスタと早歩きでその場を離れた私に、「え、だって、え?」と紗良の困惑の声が聞こえた。そりゃそうだ。セナくんが私を呼んで、あんな親しげで情愛に満ちた表情を向けたのだ。知り合いじゃないと言う方が無理だ。だけど私には逃げる選択肢しかなかった。

 ただでさえ昨日発覚した衝撃の事実を受け入れられず、今でもなお狼狽えているのだ。2人っきりでもどう接したらいいのか分からないのに。あんな大勢の人の目がある中で、和かに対応できるはずがない。


 自席に着いた私に、昨日までの刺すような視線を送ってくるクラスメイトはいなかった。それどころか、私が登校したことさえ気に留めていない人ばかりだ。みんなセナくんに夢中。初めてホッと胸を撫で下ろした。これだけが良いことかもしれない。このままあんな訳の分からない噂、消えてしまえばいい。一限目に使用する教科書を机の中にしまいながら、私は切に願った。


「え、セナこっち来るんだけど!」

「なになに?このクラスに転校ってこと?やばい!」


 クラス内の興奮が最高潮に達したのは、セナくんが教室に足を踏み入れた瞬間だった。セナくんに付き添っていた滝川先生が「説明するから座りなさい」と声を張り上げるが、そんなこと誰も聞いちゃいない。

 しかし、次の瞬間には教室中が静まり返った。それはセナくんが、瀬名和泉の席に座ったから。いや、正確には、「あ、そこ他の子の席なんだよ」と親切心から教えてくれた子に、「瀬名和泉の席でしょ?知ってるよ。僕がここにずっと座っていたからね」と答えたからだ。


 初めは「どういうこと?」とハテナマークを浮かべていたみんなも、誰かが発した「もしかしてセナって瀬名くん?!」という的確な答えを聞いて、チラホラと衝撃の事実を認識し始めたようだ。それでも信じられない気持ちはよく分かる。教室のそこかしこで「嘘でしょ……」と聞こえる。

 そんな静まり返った教室で、滝川先生の「説明するから座って」という声が今回はよく響いた。廊下に群がっていた他クラスや他学年の生徒は、他の先生に自分の教室へと帰らされたようだ。

 登校していたみんなは大人しく着席して、クラス全員が揃うのを待っている。近い席の子同士でコソコソと話すことも躊躇われるような異様な空気であった。そんな空気をぶち壊したのは、爽やかに教室に現れ、彼を「セナ〜!」と親しげに呼ぶ新島くんだ。


「新島くん、セナくんと友達だったの?」

「は?何言ってんの?当たり前じゃん。ずっと同じクラスだったんだぜ?」


 みんなの気持ちが"そういうことじゃない"と一つに纏まったと同時に、新島くんのセリフで"やっぱりセナは瀬名くんなんだ"と納得せざるを得ない状況になったようだ。


 クラス全員が揃うと、早速滝川先生が教卓の前に立ち「瀬名くん」と彼を呼んだ。指名されたセナくんはゆったりと立ち上がり、長い足を見せつけるようにみんなの前を堂々と歩いた。


「紹介します。彼はみんなのクラスメイト、瀬名和泉くん。モデルをしてるの」


 変な紹介の仕方だと思ったが、そう言うしかなかったのだろう。先生も、瀬名くんが突然正体を明かすだなんて事態を想像していなかったのかもしれない。

 先生がそう言い終わり、セナくんが「黙っててごめんね。これからもよろしく」と頭を下げれば、割れんばかりの拍手と耳をつんざくような悲鳴が起こった。

 なにこの茶番。今までこれっぽっちも瀬名くんに興味を示さなかったくせに。セナだと姿を現した途端に綺麗で見事な手のひら返し。私はその光景を冷めた目で見ていた。それは正義感故のものか、それともただの嫉妬からくるものなのかは分からないし、これから先考えたくもないけど。




 セナくんは休み時間ごとに人に囲まれ、サインをねだられていた。当たり前に他クラス他学年からも生徒が押し寄せるので、この教室だけ異様な人口密度だ。中には「ファンなんです」と泣き出す子も現れて、状況はいよいよ混迷を極めている。

 そんな光景を遠目に眺めていた一部の男子が、新島くんに「お前、瀬名の正体知ってたの?」と疑問を投げかけた。


「俺?もちろん。俺ら最初から仲良かっただろ?」

「あー、なんかちょっかいかけてんなぁ、とは思ってたけど。そゆことね」

「そ。だから俺はセナのことイジメてなんかなかったわけだよ。分かった?沙耶香ちゃん」


 その会話をこっそりと聞いていたことなど、新島くんにはお見通しだったようだ。ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべ、嫌味にも私を"沙耶香ちゃん"だなんて呼んで、肩に手を置いたかと思えば私の顔を覗き込んだ。


「……なに?」

「いやー、どんな顔してんのかなって思って」


 こいつは本当に性格が悪い。その事実を知って、私が瀬名くんを助けるためにしてたことって完全な自己満足の独りよがりだったんだ、って打ちひしがれてることを分かっての仕打ちだ。


「性格悪いね、新島くんって」

「いやー、セナよりはマシだけどね」


 新島くんは意味ありげにあははと笑う。私は顔を引き攣らせるばかりで、それを否定出来なかった。

 セナくんが私を騙していたこと、もちろん傷ついたけれど、有名人という手前仕方なかったこともあるのだろう。もちろん秘密にされていたことは悲しかったしショックだったけど、納得し始めているのも事実だ。だから彼の性格が悪いわけではない。それなのに否定できなかったのは、セナくんがまだ私に何かを隠していること。セナくんの真意が掴めないこと。これから先の私の学校生活が波乱まみれになるかもしれないこと。その全てからくる不安に押し潰されそうで、その状況を作り出したのがセナくんであったからだ。


「お前もやっばい奴に好かれたよなぁ?」

「……なにそれ」

「ん?そのまんまの意味だよ。ごしゅーしょーさまってやつ?」


 わざと頭の悪そうな話し方をした新島くんは、私を揶揄って楽しんでいるらしい。やっぱり性格最悪だな。


「そんな嫌なことばっかしてると地獄に堕ちるよ?」


 眉間に皺を寄せ、精一杯脅したつもりの私を見て、新島くんは口を歪めて笑いながら「俺は小学生かよ」と目尻に涙を浮かべた。


「ほんとだよ!因果応報!自分のしたことは自分に返ってくるよ?!」


 恥ずかしさから必死に訴える私に、新島くんが「あー、それなら」と急に神妙な顔つきに変わる。嫌な予感に胸がつきりと痛んだ。


「それなら、地獄に堕ちるのはお前だね」


 地獄の門が"こっちに来い"と私を手招きしている。いや、手をこまねいて私が堕ちるのを待っている地獄など生温い。

 本当の地獄は罠を仕掛けて待っている。地獄からの使者は、人を惑わすほど美しい。そんな使者に心を傾け、甘美な罪に酔いしれている間に、気がつけば堕ちている。それはまさに。地獄はまるで恋のようだと、そんなことを思った。

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