EP 10.教えてくれてありがとう、セナくん
いつもはすぐに返してくれるメッセージも、なんなら夜にしてくれる電話もその日はなかった。私が『セナくんに聞きたいことがあるの』と送ったその"聞きたい"ことに心当たりがあるのだろう。しかもきっとそれは言いづらいこと。できれば有耶無耶にしておきたいことなのかもしれない。だけど私はそのせいで今現在も針の筵なわけだ。
今日も責めるような視線が私を襲う。教室は息が詰まる。新島くんが普段通りに過ごしていることが一層私の感情を逆撫でする。セナくん、なんとか言ってよ。授業中、願うように覗き見たスマホには心待ちにしていたセナくんからのメッセージ。
『学校が終わったら僕んちに来て』
たったそれだけ。だけど私の話を聞くつもりはあるようだ。その事実にほっと胸を撫で下ろす。
昨日新島くんは「全て知れば誤解を解く」と言っていた。私へのこの理不尽な扱いも明日には終わりが見えるかもしれない。あと少しの辛抱だ。それになんとなくだが、謎に包まれたセナくんのことがやっと分かるかも、という予感がする。私はギリギリの所でなんとか耐えながら、その日一日を過ごした。
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放課後鳴らしたセナくんの部屋のインターホン。その日セナくんは、付き合ってから初めてインターホン越しに『入ってきて』と呼びかけた。いつもの出迎えがないことで一気に不安な気持ちが広がる。震える手を抑えて、玄関の扉を開けた。
「急に呼び出しちゃってごめんね。予定なかった?」
「あ、うん、それは大丈夫」
「そ。良かった。昨日も連絡できなくてごめん。体調悪くてさ」
だから今日学校休んだんだよね、と苦笑いを浮かべたセナくんは、私の不安を蹴散らすようにいつも通りだ。
「そうだったんだ!今はもう平気なの?」
「うん、沙耶香ちゃんの顔見たら治った」
えへへ、と恥ずかしげに笑うセナくんを見て、私のトゲトゲにささくれ立っていた心がまぁるく均されていく。私、新島くんに掻き乱されて混乱してた。セナくんのことどこかで少し疑ってた。だけど、こんな風に優しく微笑んでくれるセナくんが、私が傷つく秘密を抱えてるわけないじゃん。もしそうだとしても、故意に私を傷つけようとか、騙してやろうとか、そういった考えはないはずだ。ただ事実だけを伝えて、セナくんからの話を聞こう。そしてセナくんから告げられたままを私の真実にしよう。
私がソファに腰を下ろすなり、セナくんは「で、僕に聞きたいことって?」と隣に座った。
「……うん、実は、」
言い淀む。何度もこうやって聞こうと頭の中で予行演習したのに。セナくんを前にするとどうしても口籠もってしまう。セナくんに幻滅されたくない。嫌われたくない。離れたくない。そんな願望ばかりがぐるぐると思考の波に浮かぶ。
「……伊織とのこと?」
「っ、え?新島くんに何か聞いたの?」
「いや、聞いたって言うか……うーん、そろそろ種明かしの時期かなぁ、って話してたんだよ」
伊織と。ニコリと笑ったセナくんが私の肩を抱いて、すりすりと頬擦りをした。種明かし?聞き慣れない単語に私の脳は混乱を始めた。
「えーっと、何だっけ?伊織と沙耶香ちゃんが浮気セックスしたんだっけ?」
セナくんの声音はまるで愛でも囁いているかのように甘い。そのアンバランスさがぞわりぞわりと私の恐怖心を煽ってゆく。
「ちがうの、それ、誤解なの」
疚しさを多分に含んでいるみたいな声の震えと上擦りが、さらに空気を重くした。それなのに「分かってるよ、大丈夫」と答えたセナくんの声は、やはり異様なほど明るく軽い。まるで彼の周りだけ無重力みたいだ。怖い。私、いったい何に巻き込まれてるの。
「沙耶香ちゃんは浮気なんてしないよね?」
「……しない、しないよ」
「僕への愛に誓って?」
「セナくんへの愛に誓って」
神よりも尊く、神聖で、私の唯一。力強く一度頷いた私へ、セナくんは丁寧な口づけを落とした。それは紛うことなき誓いのキス。だけどどうして、これほどまでに冷たいのだろう。まるで悪魔に魂を売り渡して、もぬけの殻になってしまったような。
「どんな僕でも愛してくれる?」
「……もちろん、どんなセナくんでも愛してるよ」
その言葉を聞いたセナくんは「嘘つき」と嬉しそうに呟いて、私に甘えるように身体を擦り寄せた。
「嘘じゃない、ほんとだよ」
「僕は、沙耶香ちゃんと同い年だよ。一つ下じゃない」
「?知ってるよ?」
何が言いたいのだろう。セナくんの年齢は公式プロフィールでも公開されていて、私じゃなくても知っていることだ。「あの頃小さかったしな」とクスクス笑いながら、セナくんは私の肌にくすんだ赤いキスマークを一つつけた。
「好きな食べ物はお寿司、ガリも好きなんだぁ」
それも知ってる。私が頷けばまた一つキスマークを残す。
「185センチ、69キロ、B型」
「?セナくん?」
「覚えた?」
「……うん」
キスマークをまた一つ。
「2つ上に兄ちゃんがいて、4人家族だよ」
「そうなんだ、知らなかった、」
「覚えてね」
頷けばまた一つ。セナくんは彼自身の情報を一つずつ明るみにしていく。そして私が頷き応える度にキスマークを増やしていった。それは間違いなく"君は僕のものだよ"と教え込んでいるに違いない。私の体がセナくんの所有物になっていく。徐々に所有者を塗り替えられていく行為はどこか背徳的で、頭がビリビリと痺れる。
好きな香り、愛読書、趣味、特技、仲良しの友達、苦手なもの、怖いもの、服の好み、それらを丁寧に紡ぎ、その度に印を増やしていく。私の体はとっくにグズグズに溶け切って、もっと直接的な快感が欲しいと、今にも縋ってしまいそうだ。
「わぁ、たっくさんついたね」
恍惚な表情を浮かべ、セナくんはうっとりと呟いた。赤と表すには些か暗い内出血の印。その一つ一つをセナくんの白い指先が愛おしげに触れていく。その優しい手つきに、まるで自分自身がとても貴重な宝物にでもなったかのような錯覚を起こす。
本来の目的などもうどうでもいいか、という気にさえなってきた。早くキスをしてほしい。早く触ってほしい。セナくんへ伸ばした私の手を優しく絡め取り、やわやわと握りながらセナくんは微笑む。とても満足そうな顔に、なんだか私が安心した。
「そうだ、最後に一つ。僕の通ってる高校」
その言葉に溶けた意識が少し形を取り戻す。付き合ってから気になっていたこと。知りたい。セナくんのとてもプライベートなことを教えてもらえることは、即ち信頼を意味していた。
「どこ?」
「んー?千種高校だよ」
「…………?」
「沙耶香ちゃんと一緒だね?」
「えっ、」
なにそれ、そんなこと今まで少しも知らなかった。突然告げられた衝撃の事実に目が泳ぐ。俄には信じ難い。だってセナくんが通ってたら絶対噂になってるし、みんな騒いでいるはずだ。それなのに今の今まで一度だってそんな話聞いたことがない。
「う、そ、変な冗談やめてよ、」
「ひっどーい。今日僕が言ったことの中に嘘なんて一つもないよ」
セナくんの瞳の奥は暗く澱んでいる。分からない。セナくんって誰?セナくんってなに?
「セナくんの名前って、」
「"瀬名和泉"って知ってる?」
種明かしはいつだって驚きの連続。そして明かす方はいつだって得意げで楽しそうだ。
「や、だ、嘘だ」
「ほんとだって。信じられないなら制服持ってこようか?髪ボッサボサにして眼鏡かけて、猫背にしたら、沙耶香ちゃんが知ってる"瀬名くん"だよ?」
綻んだ顔が高揚で薄らと色づく。セナくんは「分かった?」と言って、私の頷きを待たずに唇を合わせた。
分からない。何が分からないのかさえ分からない。え、セナくんと瀬名くんは同じ人なの?セナくんはどうして偶然を装って私に近づいたの?セナくんって私のこと好きなの?私って、瀬名くんのことが好きなの?
「あははー、困ってる。でもまだ全部は教えてあーげない」
悪戯っ子の子供みたいな笑顔でそう告げたセナくんは、もう一度私へ深い口づけを落とした。
心と体は繋がっていると思っていた。だけど混乱に混乱を重ね、未だに収拾のついていない心とは裏腹に、私の体は主導権を彼に明け渡している。浅ましくも秘部をしとどに濡らし、受け入れ態勢をバッチリと整えた私を確かめたセナくんは、「すごいね、ここ」と率直な感想を漏らした。
「やだっ、」
「やだね、分かるよ。でもやめてあげない」
心も言葉も嫌だと訴えているのに、体に刻み込まれた好きの気持ちがセナくんに擦り寄る。もっと触ってほしい。もっと気持ち良くなりたい。セナくん、好き、やっぱり好き。だけど怖い。
私の複雑な心を知ってか知らでか、セナくんは自分本位なタイミングで腰を進めた。「っあ、」と思わず漏れ出てしまった私の声を聞いて、とても満足そうにほくそ笑む。ゆらゆらと腰を揺らしながら「気持ちい?」だなんて首を傾げて、私を煽りながら「僕は最高に気持ちいい」だなんて、どうかしてるとしか思えない。
「どんな僕でも愛してね」
「んっ、んっ、やだ、っ、ん」
いつもより控えめな喘ぎ声は私の些細な抵抗だ。そんな想いすら感じ取っているのか、セナくんにダメージはないようだけど。
「そんな悲しいこと言わないで」
「んっ、……っ、あっ、やだぁ、」
「ほら、僕って可哀想でしょ?」
セナくんの真意が分からぬまま、ただ与えられる快楽だけを享受している今がもしかして一番幸せなんじゃないだろうか、とさえ思う。夢から醒めてしまえば嫌でも考えなければいけない。セナくんのこと、瀬名くんのこと、私のこと、私たちのこと。
「やだっ、んっ、イクっ、やぁっ」
「好きだよ……好き。僕が骨まで愛してあげる」
愛の対価は愛なのか。愛は愛でしか補えないのか。セナくんは私に「愛して」と言って、私に「愛してあげる」と言った。本当のセナくんが見えない。そんなセナくんの真意など分かるはずもない。だから同じように愛せる自信がなかった。
嫌だ嫌だ、と頭を振って拒絶する私の目からは涙が溢れた。セナくんはそんな私の頭を押さえつけ、ハラハラと流れ落ちる涙を舌先で掬う。
「涙の味は感情で変わるらしいよ」
セナくんはこんな状況でも自分の気持ちに素直だ。少し弾んだ声が彼の心情をありありと伝えてくる。
「でも、悲しいときと嬉しいときは同じ味なんだって」
おかしいよね。そう言ったセナくんはもう一度私の涙を舐めた。丁寧に、味わうように。
「甘い。沙耶香ちゃんの涙は甘いね」
クスクスと幸せそうに微笑むセナくんが知らない人に見える。怖い。セナくんが怖い。この場から早く逃げなくちゃ。
思い立った勢いで起き上がり、帰り支度を始めた私の背中にセナくんの声がかかる。
「明日逃げないでね」
いつもより低い声音にびくりと肩が跳ねたが、今はなによりもまずこの場から離れたい。
「あ、正義感の強い沙耶香ちゃんは逃げたりなんかしないか」
閃いたみたいに一際明るい声で、コロコロと軽い笑い声を出しながら、セナくんは私の退路を断っていく。
「セナくん、おかしいよ……怖い」
「ふふ。ね、おかしいね。だけどそうさせたのは沙耶香ちゃんだよ?」
恐ろしいほど美しい笑みを湛えたセナくんは「……帰る」と言って背を向けた私に「気をつけてね、また明日」だなんて、平凡な日常の別れの挨拶をした。
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