EP9.傷つけてごめんね、瀬名くん

 昼間はまだ暑いのに、窓を開けて朝の空気を入れた瞬間、夕方学校から帰り道の一瞬、ふわりと冬の匂いがするこの季節が一番好きだ。




 夏休みが明けて体育祭が終わった頃には、ずっと感じていたクラスメイトの余所余所しさは無くなっていた。恐らく体育祭で一致団結したことが良かったのだろう。しかし瀬名くんだけはその体育祭に不参加で、相変わらず今も一人でいる。だけどクラス替えしたばかりの頃のように彼を揶揄う人はいない。新島くんは今でもたまに瀬名くんに絡んでいるようだったが、瀬名くんの上がった口角を見るにイジメられているようではなさそうだった。

 

 そんな瀬名くんと私の距離は自然と開いていった。イジメられていないならそもそも必要以上に近づく必要はないのだ。一人で居る彼の姿を見て話しかけたい気持ちが湧きあがることもあったが、頭の中のセナくんが「沙耶香ちゃんは僕のものだよ」と囁く。

 セナくんの甘えと弱さに私は絆されていた。2人だけの世界なんて不健全だと分かっていながら、私はその胸やけするような世界を受け入れていた。友達との約束も、家族とのお出かけも、セナくんに会える事実の前では無意義なことであった。私は自分の時間の全てをセナくんのために使った。私はセナくんのために生きている、と言っても過言ではなかった。


 表面的には平和に過ごしていた、私の一番好きな季節。そんな日常に暗雲が立ち込めたのは、私の預かり知らぬ所で起こったある告白がきっかけだった。


 



 登校をした私が教室の扉を開けた直後、クラス中の視線が集まった。哀れみと興味本位、嫌悪と不信感、それと憤り。様々な感情を乗せた視線に晒されて、教室に踏み込めない。二の足を踏んだ私の背後から「おー、おー、すげーな」と感心した声がして、さらに教室がざわめいた。


「おっす」

「あ、新島くん……おはよ」

「なに?入んねーの?」

「……入る、入るよ」


 纏わりつく複数の視線。それらを気にしてないふりで自席へ向かう。教室中の視線を私と二分している新島くんは、全く気にしていないような振る舞いだ。彼の心臓には毛でも生えているんだろうか。

 普段していたことができない。えっと、学校に着いたらまず何をするんだっけ……と、通学鞄を机に乗せたまま俯いた。


「おはよ」

「……紗良!おはよ!」

「ちょっと、トイレ行こう」


 この時の私には紗良が女神に見えたわけだ。この訳の分からない空間から助け出してくれる女神。その女神は宣言と違い、トイレには向かわず廊下の隅の方で私に耳打ちをした。


「沙耶香、何してんのよ〜」

「なに、ほんと分かんないの」

「え?昨日グルチャで回ってきたけど」


 紗良のその言葉に背筋が寒くなる。私の何がグループチャット(私は誘われていない)に回ったのだろう。その内容が先ほどの気味の悪い視線に繋がっていることは明白だった。しかし心当たりがない。噂の的になるような愚かな行いはしていない。私は静かに紗良の言葉を待った。


「新島くんのこと、日村さんから……寝取ったって……」

「…………っえ、なんて?」

「だから、新島くんとヤッちゃったんでしょ?」


 日村さん振られたらしいよ、と紗良は教室の方へと視線をやった。ちょ、ちょっと、ちょっと、待って……!いや、ちょっとじゃ足りない。よく考えさせてほしい。そんな私の思いを汲んでくれたのか、タイミング良く予鈴が鳴る。その予鈴が鳴り終わる頃、のそりのそりと姿を現した瀬名くんのことを視線の隅で捉えた。



 

 一限目の現代社会の45分をまるっと充ててもやっぱり理解できなかった。新島くんと日村さんは夏休み明けには付き合っていて、千種高校で知らない人はいないと言っても差し支えないほどの有名カップルだった。そのカップルが別れた。恐らく日村さんが振られるという形で。それは今朝、日村さんを取り囲む女子たちが「ほんと最悪だね」「元気出しなよ」と言っていたことからも明らかであろう。

 そして恐らく、振られた理由は新島くんに新たに好きな人ができたか、新島くんの浮気だ。新島くんなら十分に考えられる。そこまでは分かる。だけど、なんで新島くんの相手が私ってことになってんの?そこだけがどう頭を捻っても分からない。

 そもそも私は新島くんと個人的に連絡を取ったこともなければ、最近2人で話した記憶もない。接点は同じクラスということとセナくんだけ。だからこそ、なぜグループチャット(私は参加させてもらっていない)に私の名前が上がったのか、それが本当に分からなかった。


 針の筵だ。しかも謂れのないことで。こんなの耐えられない、と思った私が取った行動は、誤解を解くために日村さんへ直接説明することだった。


「日村さん、ちょっといいかな?」

「え、なんなの?よく話しかけてこられたね」

「いや、そのことで話したいことがあるの。色々と誤解があるようだから……」


 当の本人はだんまりで、日村さんを守るように周りを囲む外野がうるさい。こんなんじゃ埒が明かないと苛立ちに深い息を吐いた時。


「おー?揉めてんの?沙耶香ちゃんの話ぐらい聞いてやんなよ」


 と、渦中の人物である新島伊織の締まりのない声が割って入った。いや、あんたは引っ込んでて!ややこしくなりそうだから!と思ったが、新島くんが否定してくれたら一気に解決じゃん?と思い直し、「じゃあ、新島くんも一緒に来てよ」と同席を求めた。




 結局話すことになったのは放課後。あの体育館裏。私は一日中息苦しく過ごした怒りが沸々と溜まっていた。


「どうなってそういうことになったのか知らないけど!私と新島くんはそーいうことしてないから!」


 開口一番とばっちりだと強く訴えた。あとは新島くんに私の身の潔白を証言してもらって、日村さんとその周りの女子たちに謝ってもらえれば終了だった。そのはずだったのに。


「この後に及んで嘘つく気?」

「普段はあれだけ『正義感がどーだ』とか言ってるくせに」

「自分が一番最低なことしてんじゃん!」


 思わぬ反撃を喰らい言葉に詰まる。この盲信っぷりはなんなの?出鱈目な噂話をどうしてこうも信じられるの?日村さん、泣いてないでなんとか言ってよ。いや、新島くん、あんたはヘラヘラ笑ってる場合じゃないでしょ?!私の懇願が通じたのかどうなのか、泣いていた日村さんがゆっくりと唇を動かした。


「ごまかさないでよ。……わたし、新島くんに『沙耶香ちゃんの身体の方が気持ち良かったから、お前はいらない』って振られたんだよ?」

「…………?」

「なんとか言いなよ!ほんとサイテーだよね、正木さんも新島も!」


 え?なんで?何言ってんの?神に誓って私は新島くんと身体を重ねてなどいない。神に誓って、だ。人様の物に興味はないし、そもそも新島くんに興味がない。それになにより私にはセナくんがいる。私がセナくんを裏切ることなどあるわけがない。それなのに、あり得ないことが事実として語られている。この男何考えてんの。不気味過ぎて怖い。驚愕の表情を浮かべて見た新島くんは、相変わらずヘラヘラと薄気味悪い笑顔をしている。


「違う、私そんな、」

「おー?いいのかなー?」


 ニタニタと軽薄な笑みそのままに、新島くんは私の耳元へと唇を寄せる。その光景に日村さんは顔を背け、周りの子たちは「ちょっと?!」「きもい!」と非難轟々だ。そんな声も新島くんは右から左へと受け流し、私にそっと囁いた。


「セナに聞いてみなよ」

「……え?セナって、セナくん?」

「そうそう、お前のだーい好きな"セナくん"」


 「お前が全部知ったら、俺が誤解を解いてやるから」と話を終えた新島くんは、「それじゃ、話は終わりねー」と私の手を握り、体育館裏を後にした。後ろでヒートアップした声が聞こえる。こんなの明日からもっと厳しい現実が待ってるじゃん。確定した未来に泣きたくなる。だけどこの茶番にセナくんが絡んでいるなら、私はこの処遇を甘んじて受け入れる他なかった。


 それでも新島くんと仲良しこよしで帰る気にはなれなくて「先に帰って」と告げれば、彼は元々その気だったようで颯爽と帰って行った。頭が痛い。考えなきゃいけないのに、考えたくない。考えても分かんないんだから、考える必要ないのか。まとまらない思考に思わず苦笑いが出る。笑ってないと心が折れてしまいそうだ。その時、下駄箱前にずりずりとしゃがみ込んだ私の頭上で、声が聞こえた。


「あれ、正木さん?どうしたの?」

「あ、瀬名くん……いや、ちょっとね」

「……元気ないね、何かあった?」


 純粋に心配してくれていることが声音から伝わってくる。だけど今の私にはその心遣いさえ不必要だ。そっとしておいてほしい。私は頭を振ることで拒絶を匂わせた。しかし瀬名くんは鈍感なのか、人との距離感が掴めないのか、私の閉ざされた心情には気づかない。


「絶対何かあったよね?僕、正木さんの助けになりたいんだ」

「…………ないから、」

「え?なんでもしてあげるから言って!こんな可哀想な正木さんのこと、放っておけないよ!」

「ないから!瀬名くんに出来ることなんて一つもない!」


 一度堰を切った感情は止まらない。瀬名くんを傷つけると分かっていても、負の感情全てが言葉に乗っかていく。


「そもそも可哀想ってなに?私、瀬名くんに同情されるほど惨めじゃないし!」

「……そんな……僕は、もしかして正木さんがイジメられてるかも、って心配して」

「違う!私は瀬名くんとは違うの!」

「……好きな子が落ち込んでたら、僕だって慰めたいよ」


 今はその優しさが辛い。私の惨めさを加速させていくようで耐えられない。これじゃあ瀬名くんのことサンドバッグにしてるようなものだ。そう分かっているのに、動く口が止まらない。


「なに?下心?気持ち悪いんだけど」

「違うよ、そんな……僕はただ、純粋に」

「うっざい!何があっても瀬名くんのことは好きにならない!私の前から消えて!」


 口にした直後にハッとする。いくら自分が辛くても人に当たり散らしていい免罪符にはならない。咄嗟に「ごめん」と謝った私に、瀬名くんはゆっくりと口角を上げた。どうして笑うの。この場にはあまりにもそぐわない唇の形。それはまるで、瀬名くんの欲しい言葉が聞けた時のような笑み。

 分厚いレンズとボサボサの髪に隠された未だに見たことのない瞳が、確かに笑ったような気がした。

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