EP8.セナくんの傷
友達の家に行った時も含めて毎回思うんだけど、インターホンを押した後ってどこを見てどういう顔して待ってればいいんだろう。カメラをジッと見てるのも怖いし、かといってカメラに映ってなかったら意味ないし。セナくん家のインターホンを押した私は、ソワソワと落ち着かない心地で俯いた。やっぱり顔を映すのって照れ臭いし、それよりもセナくんに私の顔を確認されることが恥ずかしい。
「あ〜、タイミングしくった」
インターホンに出ずに扉を開けたセナくんの湿気を含まないカラリとした声が、私の心に温かい風を吹かす。バス旅行での瀬名くんとのあの一件以来、私のクラスでの立ち位置に微妙な変化があったのだ。紗良からすれば「沙耶香考えすぎ〜」という程の些細なもの。だけど、一部クラスメイトのどこか余所余所しい態度は勘違いではないだろう。
今まで誰かにそのような態度を取られたことはなかった。私のことを疎ましく思うのは私に注意を受けた人ばかりで、それは所謂逆恨み。そんな人たちにどう思われても痛くも痒くもない。だけど、今回は状況が違う。人に嫌われてるかも、って思うのはこんなにも心が苦しい。
「どうしたの?元気ないね、何かあった?」
「そう?元気だよ〜」
「……僕に嘘つかないでよ」
ニコリと作り笑顔を浮かべた私に、セナくんは悲しげに眉尻を下げた。その切なげな表情に罪悪感が刺激される。だけどセナくんには知られたくない。ただでさえ引け目を感じる私とセナくんのスペックの違い。セナくんの中の"正義感が強くて優しい人気者の沙耶香ちゃん"のイメージを崩したくないと、惨めなプライドが邪魔をした。
「……なんかね、同じクラスにセナくんに似てる子がいるの」
「僕に?」
その子と沙耶香ちゃんの元気のなさにどんな関係があるのだろう、とセナくんの顰められた眉が訴えている。
「そう、どことなくね、どことなく。その子がイジメられてて……それが放っておけなくて、気になって……」
嘘ではない。瀬名くんのことで気を揉んでいるのは本当のことだ。ただ私の気の落ちようとは全く関係がない、というだけ。事情を説明できない私が出した苦肉の策であった。
「その子、沙耶香ちゃんに告白してきた子かな?この前言ってたね、僕とはタイプが違うって」
頬を緩めたセナくんの細まった柔らかな瞳の奥は、しかし驚くほどに冷たい。どういうことなの?と、口では言わないが、どんどんと近づく体の距離が私を責めている。とん、と背中に壁を感じてもう逃げ場がないことを悟る。
選択を間違ったかもしれない。しれないじゃなくて、間違った。次の言葉でセナくんの怒りを鎮火させられるかが決まる。私はごくりと唾を飲み込んだ。
「タイプは違うけど……声とか口元が似てて、それだけ。ほんとにそれだけなの」
息がかかるまでに顔を寄せられ、恥ずかしいのか怖いのか、俯いた私にセナくんの甘い声が降る。
「声と口元かぁ……じゃあ、その子と僕はキスの仕方も似てるのかな?」
それだけ言うや否や私の顎を掴んだセナくんが荒々しい口づけを開始した。ガチガチと歯が当たる乱暴なキスがセナくんの怒りを表しているみたいだ。
「待って、好きとか、そゆことじゃ、」
「あったり前だろ?もし俺以外の男のこと好きとか言ってみろ、俺、きっとその男のこと……」
なんとか宥めようと言った言葉は火に油だった。セナくんはそれからも何度も激しい口づけを繰り返した。初めこそ怒りや戸惑いの感情をぶつけるだけの乱暴なものだったが、徐々に色気を含んだキスに変わってくる。耐えるようにセナくんの服を掴んでいた私の手も徐々に力が抜けて、今では誘うような手つきに変化していた。
「あー、やっぱダメだ……」
唇を離したセナくんは落胆の色を濃くした。何がダメなのだろう。それは私に向けた言葉なのだろうか、と途端に緊張が走る。
「このまま止めなくてもいい?」
うっとりとした瞳が私を甘美な世界へと誘う。差し出された手を取れば、怖いものなど初めからなかったみたいだ。私は何を恐れていたのだろう。セナくんがいればそれでいいじゃん。セナくんが私の全てで、セナくんが私の世界だ。
その手に応えた私の手をしっかりと握り締めたセナくんは、砂糖菓子のような甘い笑顔を私に見せた。
「ねぇねぇ、俺と"イジメられっ子くん"似てるんだよね?」
「あっ、もうやっ、くるしっ……んっ、あぁっ、イク、またイクからぁっ、」
「その子は沙耶香ちゃんのことこんな風に気持ちよくできるのかな?」
どう思う?と、楽しそうなセナくんはさらに私を追い立てる。彼の頭の中で"やめて"は"もっと"、"苦しい"は"気持ちいい"に変換されているらしい。初めての性行為がこんな激しいなんて、これから先のこと考えたくない。頭を左右に振って嫌だと訴えている私に「かわいー、かわいー」と囁く。朦朧とし始めた意識の向こうで、セナくんの笑い声が聞こえる。
「立ち上がれない程粉々に打ち砕いたら、俺だけのものになるかなぁ」
夢か現かも分からない。あぁ、でも夢なら醒めないでと思うほどの幸福と、夢ならいいのにと願うほどの苦しみ。その中で、私は確かに頷いた。私はもうセナくんのものなんだよ、と、それが伝わればいいなと思ったのだ。
目を覚ますと、私の髪を自分の指先に巻き付けて遊んでいたセナくんが「おはよ」と極上の声で囁いた。それは反則……また意識飛んじゃうよ。赤くなっているであろう私の頬をその指先がさわさわと悪戯に撫でる。
「無理させちゃったね、ごめん」
「んーん……気持ち良かった」
言った後にこれは大胆すぎたかな?と、顔全体が熱くなる。頬だけじゃなくて顔全部真っ赤って……可愛くない……。
「……はぁ……すっげーね、俺心臓射抜かれたわ」
「あ、"俺"になってる」
クスクスと笑えば、「恥ずかしーんだけど」と耳を赤くしたセナくんが布団に潜った。顔まで隠したセナくんの、ひょこりと布団から出た髪さえ愛しくて、気づかれないように丁寧になぞる。好き、好き。全部、好き。
「あー、だめ、布団の中熱い」
さっき潜ったばかりのセナくんは驚くほどのスピードで顔を出した。そして私を見つめ、口元だけに微笑みの形を作る。
「抱きしめてもいい?」
それは、先ほどまであれだけ激しい行為をしてきた彼の台詞ではないみたいだった。こくんと頷いた私の体の下に片腕を差し込んだセナくんが、「こっち向いて」と身体の向きを変える。
ベッドの上。私を腕の中に閉じ込めるように抱きしめたセナくんは、私の頭に鼻先をくっつけた。すん、と鼻で息を吸い込みながら、本当は私の匂いを嗅いでいるのだろう。
「汗かいたから……臭いかも」
「ううん、全然。ムラムラする香りだ」
「……もう無理だよ?」
信じられない、というような声を出せば、セナくんは大きな声で笑いながら「さすがにしねーよ」と、私の不安を解消した。
「……そっか、そうだよね、一回したもんね」
変な勘違いをして恥ずかしい。引いた熱がまた顔に集まってきた。良かった、セナくんから顔見えなくて。
「今日は沙耶香ちゃんが初めてだったからね」
「ん?」
「身体が慣れたらたっぷり付き合って?」
「えっ?!あんなのを何回もするの?!」
驚きに顔を上げたその先で、セナくんはひっそりと笑いに耐えていた。
「え?さっきの冗談?!やっぱり一回だけ?え、どっち?!」
混乱し出した私に耐えられなくなったセナくんが思わず吹き出した。
「それはこれからのお楽しみ」
セナくんは目尻に涙を浮かべ、私のおでこにキスをした。それが余りにも愛に溢れていて、その事実が幸せで、嬉しくて、私はもう一度キスを強請った。その懇願をセナくんはするりと受け入れ、私の唇を優しく奪う。そして強く抱きしめた。この時間が永遠に続けばいいのにと、願わずにはいられない。絡み合った足が私たちを繋ぐ絆のように思えた。
「どうして身体ってあるんだろう」
「……え?」
夢心地な私の耳にセナくんの声が届く。それは質問ではなく、話したいことの導入部。事実、セナくんは私に答えを求めてはいなかった。
「この身体がなければ、僕たちは一つに溶け合えるのに」
ねぇ、そう思わない?と、細まったセナくんの瞳の奥がまた暗くなる。彼の心の中はいったいどんな風になっているんだろう。
「あ、ここ、」
「え?」
セナくんの心の内を少しでも知りたくて、出来ることならその一番柔らかい部分に触れたくて、じっとセナくんを見つめていたから気づいた。小さな小さな、見過ごしてしまいそうな程の目の下の傷。古いものではないことが、その傷跡から分かる。それをそっとなぞれば、不思議そうだったセナくんが「あぁ、それ、」と理解した。
「モデルが顔に傷つけちゃダメじゃん」
「これぐらいメイクで隠れるから平気」
「ふぅん、そっか」
「なに?なんか含んだ言い方するね」
ニヤリと口角を上げたセナくんは私の気持ちなんてお見通しみたい。だってこれって、引っ掻き傷じゃん。そりゃセナくんが自分で引っ掻いちゃったかもしれないよ?その可能性の方が高いだろう。だけど不安なんだもん。セナくん、絶対モテるだろうし。
シュン、と項垂れた私の髪にセナくんは「ふふふ」と笑いながらキスをした。
「女の人につけられた傷じゃないよね?」
「あー、そゆこと?不安になってヤキモチ妬いてんのね、妄想の女の人に」
「……めっちゃ煽ってくるじゃん」
「嬉しくて、沙耶香ちゃんの口から聞きたいの。『セナくんが好きすぎてヤキモチ妬いちゃった』って」
私の真似をするようにいつもより高い声を出したセナくん。絶対に面白がってる……、とじとりと睨んでも、セナくんは少しも気にしていない。それどころか、「素直になって」だなんてさらに煽ってくる始末だ。
「セナくんは私のでしょ?私以外がセナくんのこと傷つけるなんて許さない」
嘘偽りない言葉をこぼせば、セナくんは深い息を吐いた。
「俺のこと殺したいの?」
「え?」
「いや……、まぁ安心してよ。僕は沙耶香ちゃんのものだよ」
セナくんは、私の問いかけを否定する言葉を口にはしなかった。だけど私を安心させるように優しい笑顔で頭を撫でてくれた。
なのに、その目の下の傷を無意識に触るセナくんの指先が、余りにも優しく丁寧で、それが傷の向こう側にいるかもしれない女の人を『愛してる』と言っているみたいで。私の心はざわざわと落ち着かなかった。
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