EP7.瀬名くんの声
ゴールデンウィーク明けのバス旅行の行き先は、高速を使って2時間もかからない自然に溢れた場所。ここでテントを設営したり(実際テントに宿泊するわけではない)、飯ごう炊さんしたり、ウォールクライミングやカヌーをしたりと、野外活動が主、というかそれしかしない行事であった。
しかし私含め、生徒たちはとても楽しみにしていて、バスの中もキャッキャキャッキャとはしゃぐ声で溢れている。
バスの後ろの席は目立つグループが座っていて、私と紗良は前の方の席で昨日見た動画の話をしていた。なんでも"ひたすらキスする動画"なるものが存在していて、今話題らしい。悪趣味だ。
「寝転びながらもいいんだけどさぁ、身長差カップルの彼女が背伸びしてするのも、彼氏が腰を屈めてするのもいいのよ!」
「……それって最早なんでもいいよね?」
「……まぁ、そうとも言う」
紗良は気まずそうに笑って、「あたしの彼氏、身長低いからさぁ」と、どうやら身長差に憧れがあるらしかった。そんな話を聞いてどきりとしたのは、もちろんセナくんを思い出したからで。
彼はモデルという職業柄、180センチを優に超える長身である。しかし紗良の憧れる背伸びキスや腰屈めキスを一度もしたことがないのは、座るか寝転ぶかの状態でしかキスをしたことがなかったからだ。そもそもキスをしているという事実でいっぱいいっぱいの私は、体勢にまで意識を向けられていないと言った方が正しい。キスを重ねていけば、私もいずれ"このキスのシチュエーション最高〜"とか思えるようになるんだろうか。……セナくんとのキスに慣れる日がくるなんて想像できない。
「ね、ね、このクラスだと新島くんか……あ、あと瀬名くんも意外と身長あるよね」
紗良が声を潜めた。いくら座席が離れていると言っても、キスの内容でクラスメイトの名前を出すことに抵抗があったのだろう。
「やめときなよ、勝手に想像するの」
「ちぇ……沙耶香は厳しー」
下唇を突き出した紗良が私を非難する。だけど本当のことだし、と私は「紗良が悪いんだから」と嗜めた。
▼
野外炊飯でカレーライスを作るために、予め決めてあった班に分かれた。ちなみに男女混合で、グループ分けで余った瀬名くんは私の独断で同じ班に引き入れた。初めは新島くんが「俺んとこ来いよ」って言ってたけど、それは余りにも可哀想だと私が誘ったのだ。
「瀬名くんって、家でも料理するの?」
思わずそう聞いてしまったのは、野菜を切る手際が良すぎるからだ。
「……たまに」
「やっぱり?!すごい上手だもん!ね、みんな見て、瀬名くんすごいよ」
どんな小さなことでもいい。彼がクラスに馴染めるきっかけになれば、どんな些細なことでも構わないのだ。
私の声に反応した同じ班の子たちが瀬名くんの手元を覗き込み、包丁さばきに「お〜」と歓声を上げる。大袈裟な気もするリアクションは野外という開放感が大いに関係しているのだろう。
みんなの注目を浴びた瀬名くんは居心地悪そうに「大したことないんで……すみません」と、なぜか謝罪をした。それは"僕なんかに貴重な時間を使わせてしまい、申し訳ございません"てこと?……卑屈すぎる。
「ねぇ、瀬名くんってなんでそんなに卑屈なの?」
「……え、?」
「褒めてもらったら素直に"ありがとう"でいいと思うけど?」
「…………」
あっ……ついつい言い過ぎたかも、と何も発しなくなった瀬名くんを見て思う。だけど瀬名くんも自分を変える努力をしなきゃ、ずっとこのまま揶揄われて友達のできない寂しい高校生活だよ、と、根底には心配の気持ちがあるのだ。
「……瀬名くん、まずは髪切って、猫背直して、明るく挨拶してみたら?」
「……今はまだ無理……」
「そっか、じゃあ、ずっとこのままだよ?それでいいの?」
問い詰める私が思わず瀬名くんに視線をやったその時、指にピリっと痛みが走った。
「あつっ、」
カレーの具材を炒めていた鍋に指が触れた。しかし痛みはあるといっても我慢できるほどで、赤みはない。私の声を聞いた班の子たちが「大丈夫?」と口を揃えた。
「大丈夫、もう痛くない」
みんなを安心させるように明るい声でそう言った私の手首を掴んだのは、瀬名くんだった。突然の行動に動揺して言葉が出てこない。それは周りにいた子たちも同じようで、みんなが私たちを静観している。
「軽いやけどでも冷やして」
蛇口を捻り水を出しながら、瀬名くんはなかなかに厳しい口調でそう口にした。
「あ……うん、ありがと」
「そうだよね、たしかに!てか、瀬名くんかっこい〜」
「ね、思った!めっちゃ機敏だったし、的確だしね」
紗良や他のクラスメイトが瀬名くんを口々に褒めた。しかし瀬名くんはまた俯き、反応を返さない。みんなと打ち解ける絶好のチャンスじゃん、と私が焦ったい思いだ。
「ごめん、少しの間こうしてるから、みんな作業に戻って?」
「そだね。沙耶香気をつけなね?」
「うん、気をつける。……瀬名くんも、もう大丈夫だから、腕、離して?」
ジャージャーと勢いよく流れる水に指をあてた私の手首は、未だに瀬名くんに掴まれたままだ。みんなはもう居なくなったのに、瀬名くんだけが私のそばに居る。
こんな場面、もし新島くんに見られて、それをセナくんに告げ口されたら……。私、セナくんに嫌われたくないのに。本当に必要以上に関わりたくない。
「瀬名くん、もういいから、ほんと」
「……赤くなってる」
「え?」
「指、火傷したとこ赤くなってるよ」
瀬名くんは私の手首を操り、水から指を出した。そしてそこをまじまじと観察して、指摘した。私のお願いは綺麗にスルーだ。ほんと勘弁してよ。
「ほんとだね、先生に薬もらってくるから」
だから離して、と、続けて言えなかったのは、瀬名くんが徐に口を開けたからだ。え……なにしようとしてるの。開いた口から赤い舌が覗く。その光景がスローモーションに見えたのは、余りにも衝撃的なものだったからかもしれない。
「やだっ!」
「……っ、」
それほど大振りをしたつもりはなかった。しかし瀬名くんに舐められるかも、という嫌悪感が私の動作を大きくしたらしい。嫌だと振り解いた私の手が瀬名くんの顔と眼鏡を掠めた。しかも最悪なのは眼鏡が勢い余って飛んでいってしまったこと。さらに最悪なことはその眼鏡をクラスメイトが踏んで壊してしまったこと。「は?なんで眼鏡?」という、状況を飲み込めていない素っ頓狂な声が聞こえてきた。
「あっ……ごめ、っ、」
「……嫌だった?火傷の具合を確認しようと思ったんだけど……ごめんね」
瀬名くんの顔に私の指を近づけたのは純粋な優しさだったようだ。それなのに私、自意識過剰な被害妄想を爆発させて、瀬名くんの眼鏡を壊してしまった。
異様な空気を察したクラスメイト達の視線が私たちに注がれる。同じ班の子たちが「どうしたの?沙耶香がしたの?」と、私の過失を口にしながら周りを取り囲んだ。
「ちが、う」
「火傷の具合を確認しようと思ったんだけど……正木さん嫌だったよね、ごめん」
哀れみを誘う瀬名くんの態度が周りに伝播していく。誰かが「瀬名くんかわいそう……」と呟いた。気がついた時には同じ班の子だけでなく、他のクラスメイトも私たちを取り囲んでいて、「正木さんが瀬名くんのこと叩いたって」「なんで?」「眼鏡壊れたらしい」「瀬名くん、火傷の治療してくれてたらしいよ」「正木さんこわ〜」と、正しいようで間違っている情報が錯綜する。私を責める言葉が聞こえるたびに恐怖で足元がすくむ。
「……私、その、ごめん……」
「……いや、僕に近づかれるなんて気持ち悪かったよね、ごめん」
瀬名くんは自嘲するように声をこぼした。シーンとした空気に、クラスメイトの「さすがに瀬名くん可哀想すぎない?」の声が落ちる。これじゃあまるで、私が瀬名くんのことイジメてるみたいじゃん。
不穏な空気が流れる中、やっと事態に気付いた滝川先生が「どうしたの?」と駆け寄ってきた。それに「正木さんが瀬名を叩いて眼鏡壊したって」と答えたのは、新島くんだ。「飛んできた眼鏡を踏んだのはオレなんだけど、」と律儀に訂正を入れた男子の声は、心なしか弾んでいる。自分が怒られるわけのないこの状況を楽しんでいるらしい。
私と瀬名くんは滝川先生に連れられ、宿舎の一室にやって来た。落ち着いて話を聞くことと、ついでに傷の具合も確認しようという考えみたいだ。
私の火傷を見た養護教諭は「大丈夫そうね」と微笑んだ。もう痛みもなければ赤みも引いている。応急処置が良かったのだろう。そのままの流れで養護教諭が瀬名くんに「前髪あげてみて」とお願いをした。それに待ったをかけたのは滝川先生だった。
ちらりと私に視線を寄越し、「正木さん、あっち向いてて」と不可解なことを口にする。なに?瀬名くんって誰にも顔を見せたくない理由でもあるの?本人がコンプレックスに思うような傷跡でもあるのだろうか。そんなことを考えながら先生の指示に従い瀬名くんに背を向けた。
「どこに当たったの?」
「……、眼鏡に当たったから顔にはほとんど当たってないです」
「でも顔に傷がついたら……」
そんな会話を背中で聞きながら、私の胸はドキドキと鼓動を速めた。先生の指示に背き思わず振り返りそうになったのは、聞こえてくるはずのないセナくんの声が聞こえたからだ。
いやいや、ここにセナくんがいるはずないから!瀬名くんの声が似てるんだ。今まで気が付かなかったのは、声だけに集中することがなかったからだろう。彼らは骨格や声帯が似ているみたいだ。顔は全然似てないのに変なの……と思って気づいた。私、瀬名くんの顔ちゃんと見たことないじゃん。……見たい、今振り向いたら見れるかな……なんて、そんなこと出来ないけど。
瀬名くんの傷はそれほど酷くなかったらしい。確認と治療が終わると、滝川先生は私を呼んだ。
「何があったか話してくれる?」
その問いかけに、私は何を言えばいいのか分からなかった。喧嘩をしたわけではない。ただ私の誤解のせいなのだ。何も難しくない。真実を聞けば先生は「気をつけてね」と言って解放してくれることも分かる。ただ、その誤解の内容を言うのが憚れる。"瀬名くんに指を舐められるかと思ったんです"なんて、そんなこと言えない。ぐっ、と下唇を噛んだ私の代わりに、瀬名くんが口を開いた。
「僕たち付き合ってるんです。ただの痴話喧嘩です」
お騒がせしてすみませんでした、と瀬名くんは頭を下げた。
「え……あぁ、そうだったの。ここは学校だからね。周りを巻き込むような喧嘩は控えてね」
先生の声音が動揺に震えている。そりゃそうだ。突然付き合ってます宣言されるなんて思ってもみなかっただろう。だけど先生、私の方が驚いてるし動揺してるよ。私の彼氏はモデルのセナくんであって、クラスメイトの瀬名くんじゃない。私の彼氏はこんなんじゃない。どうしてそんな嘘を言ったの?
しかしこの場は私の反論を待たずにお開きとなった。私も丸く収まった場を再び掻き乱すことに躊躇したし、先生が勘違いしていることは些細なことのように思えた。同級生に知られなかったらそれでいい。
「ねぇ、どうしてあんなこと言ったの?」
宿舎の一室を出てみんなの所に戻る道中、瀬名くんに疑問をぶつけた。
「あ、ごめんね。ああ言うのが一番早く解決するかなぁ、って」
瀬名くんも先生からのあーだこーだというお説教を聞きたくなかったらしい。
「ごめんね、ありがとう」
「僕の方がごめん」
2人で謝りながらカレーの良い匂いが立ちのぼる調理場へ向かう。私たち2人の姿を捉えたみんなの視線に、なぜだかゾクリと鳥肌が立った。
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