#3 「春」×「ケータイ」×「消えた存在」=「指定なし」

 携帯のメッセージアプリには、彼女の名前がまだ残っている。

 桜咲く4月、とはいえ春の陽気には少し遠く、マフラーがないと首元が心許ない。道行く学生は入学式に向かうのか、制服を弾ませながら笑顔で歩いていく。それを横目にテラス席で珈琲を飲みながら、来週の課題のことをぼんやりと考えている。


 自由を愛する人だった。いつもどこからともなく現れては、この間行った湖がどうとか、いつぞやの祭がなんだとか、そんなことを楽しそうに話していた。そうして一通り話すと、ぐいと砂糖たっぷりのカフェラテを飲み干して、次の目的地を探しに行っていた。そんな彼女が好きで、いつしか僕もこの喫茶店の常連になっていた。連絡先を交換したのは確か去年の夏頃、富士山頂からの朝焼けの写真を撮ったと聞いて、送ってほしいと口実をつけて交換してもらった。あのときの表情を見るに、きっと僕の気持ちなんてお見通しだったのだろう。


 珈琲は少し冷めてしまって、課題と同じで一向に減る気配がない。彼女と話すときは、いつもこうして珈琲を飲みながらだった。僕の知らない遠いところの話をする彼女に対し、僕がたまに話すときは身の回りの話ばかりしていた。ゼミの先輩が飲み会で潰れたとか、バイト先のお客さんが変な味のキャンディーをくれたとか、母親からの仕送りに嫌いなものが入っていたとか、授業がつまらなくて寝ていたら怒られたとか。そんな他愛のない話を、彼女はとても楽しそうに聞いていた。まるで読み聞かせを聞く子供のように。あるいは、彼女にとってそれは本当に絵空事だったのかもしれない。あの時既に、彼女は自分の最後を見据えていて、そうして尚笑っていたのだ。時間が足りないことを、痛いほど知りながら。


 一度だけ、彼女と一緒に旅行に行ったことがある。去年の年末、初詣に行こうと彼女を誘ったら、あれよあれよと言う間に弾丸旅行の予定が立っていた。何でも除夜の鐘が有名な寺があるからそこに行きたかったらしい。どこの寺だったか忘れたけれど、車のフロントガラスに雪がうっすらと積もっていたことだけは覚えている。

 あの夜、カップ麺の年越し蕎麦をホテルの部屋で啜りながら、どうしてそんなに旅行に行くのかと訊いたことがある。長くない命と知りながら、どうして旅行を楽しもうと思えるのか。そう訊くと彼女はやはり、自由でありたいからと答えたのだ。死が迫っているなら、それを笑って受け入れられるくらい生を楽しみたい。心残りはきっと残る生だけれど、それでも後悔する生にはしたくない。そう答えて微笑む彼女は、普段見せる快活な笑顔とは違って、それでも確かに彼女らしく強くあって、僕は彼女を、とても美しいと思った。何か答えないとと慌てて居住まいを正そうとして、そんな時に除夜の鐘が鳴ったから、二人して思わず笑ってしまったのだった。


 携帯のメッセージアプリには、彼女の名前がまだ残っている。

 彼女は自由であれただろうか。今日を明日をと旅をする彼女は、ある意味とても追い詰められていて、実は自由とは程遠かったのではないか。そんな疑念にふと駆られて、でもすぐに杞憂だと思うことができた。だってそう、彼女は笑っていたのだ。それが嘘偽りでないことは、僕がよく知っている。そうして珈琲を飲もうとすると、黒い液面に映った僕が確かに笑っているのが見えた。そうだった、彼女と話しているとき、僕も確かに笑っていたのだった。


 携帯のメッセージアプリを開く。彼女の名前を見つけてメッセージを見る。彼女が最後に残したメッセージはどこまでも彼女らしくて、それが何よりの証明だった。


『旅に出ます!行ってくるね!』


 しばらく画面を見つめて、二、三言入力した後で、そっと彼女とのメッセージ履歴を消去する。ぐいと珈琲を飲み干して立ち上がると、暖かい風がざあっと吹き抜けていった。彼女が春風に溶けていったのだと考えるのは、少し感傷が過ぎるだろうか?


『いってらっしゃい。僕もそろそろ出掛けるよ』

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