28 ジョセフィーヌの秘め事 1


 先日のアカデミアでは、あまりにも悪目立ちし過ぎたので、次の参加はしばらくほとぼりが冷めるのを待つことになった。

 すでにブリジットからオリアンヌへの手紙で、謝罪とともに、不出来な娘はしばらく謹慎させますと伝えてしまったそうだ。


 俺はたったあれだけのことであちこちが筋肉痛のようになった脆弱ぜいじゃくな身体をうれいながら、離れの部屋でこっそりと柔軟運動を中心とした体力作りに取り組んだ。


 もしものための護身用の武器については、離れの一階にあった寄贈品の中に、丁度良い具合の細剣さいけんを見つけ、それを普段からなるべく身の回りに置くようにした。

 まともに攻撃を受けたりできる作りではないが、突いたり払ったりすれば牽制にはなる。

 なにより、今のジョセフィーヌの力でも片手で扱える軽量さが魅力だった。


 ある時、遊びに訪れたエミリーが、俺が小脇に抱える細剣を不思議そうに眺めながら言った。


「やはり、ご記憶がなくても、お好みはそうお変わりにはならないのですね」

「……どういうことかしら?」


「以前のお姉さまもその剣をよく持ち出しておいででした」

「そう……なの……」


 別人なのだから、そういう話ではないだろうと思ったが、エミリーにとっての俺は記憶をなくしたジョセフィーヌなのだから、そういう返し方はできない。

 エミリーやアンナとの会話では、時折こういった窮屈なコミュニケーションを余儀なくされた。

 うっかりボロを出さないようにと気を張り詰めているせいで、エミリーにとっては、それが俺との距離を感じる要因となり不満に思われているようだった。


「もっと不安や困りごとはご相談いただき、わたくしを頼っていただいて良いのですのよ?」


 度々そういったことを言われる。

 実際、誰かに事情を打ち明け相談したいという気持ちは日に日に増していた。

 あの日以来、アンナの身体にミスティの魂が宿る気配はいっかな訪れない。

 俺が置かれている今の状況についての進展がまるでないのだ。


 何故俺が王都にいて、俺の身が危険にさらされている理由が何なのか。誰が敵なのか。そういった謎については、記憶が混濁したままの状態でミスティと話したあの晩から何一つ手掛かりが増えていなかった。


 その一方で、以前のジョセフィーヌに関する情報は日に日に増えていき、困ったことに俺の心も、見知らぬ女性の身体に宿っているという異常な事態に慣れてしまいつつあった。

 始めの頃は何でもアンナがやってくれたので、ジョセフィーヌの肢体をできるだけ見ないようにもできたのだが、病気から回復し、この身体で過ごす時間が増えるにつれ、どうしてもそういったことに対する注意が散漫になっていく。

 具体的には、着替えや排泄、湯浴みといった日常的に行う行為のことだ。


 ミザリストの王女という、俺が知る限りこの世で最も高貴な身分の女性の身体を覗き見るような大変後ろ暗い体験に慣れていく自分が恐ろしかった。

 この不可思議な状況が解消され、俺が元のユリウスの身体に戻ったときに、全てを知るミスティからどういうそしりを受けるのか、考えるだに気が滅入る。


 だが、そんな当初の戸惑いも、今にして思えばいかに些細ささいなことであったかと思う。

 それからさらに日が経つにつれ深まっていったのは、そもそも元の身体に戻ることができるのかという疑い。

 それに、元に戻ることが叶わず、ジョセフィーヌとしての生涯を送ることになるのではないか、というおそれだった。


 朝起きて鏡を見れば、そこには若く美しい女性の姿があるのだ。

 ユリウスのあやふやな記憶に対して、この細い指や手足、長い髪、胸の膨らみは紛れもない現実であり、時が経つほどにユリウスとして生きた十数年の方がであるかのような錯覚すら覚え始める。


 仮にそうだと考えた場合に、眼前に立ちはだかるのは、次代の王として国を背負って立つ役割を担わされたジョセフィーヌとしての人生の重さだ。

 それは、砦村でただ剣の腕を磨き、外敵に備えることを考えていれば良かったユリウス・シザリオンの人生とは次元の違う重さだった。


「……お姉さま……。……お姉さま!」


 エミリーの呼びかけで我に返る。


「ごめんなさい。ちょっと考え事を……」

「ずっとこんな狭い場所に押し込められていると、お気持ちがふさぎ込んでしまいますものね……」


 王宮や離れの豪華な部屋を狭いと感じたことはないが、確かに陽の光の下で思い切り剣を振りたいという欲求はあった。

 それができれば少しは気が紛れるだろうに。


「わたくし、今日はお姉さまの退屈を紛らすアイデアを持ってきましたの」

「まあ、何かしら?」


 今ではこんな女言葉も自然と口をついて出る。

 おかげで、実は中身が男なのではと疑われる心配だけはいらないだろう。


「お姉さまは、ときどき男の方のよう、というか、少し古風な物言いをされることがおありになるでしょう?」


 前言撤回。女性になりきるには、まだまだ精進が必要のようだ。


「ほら、ローラン様からわたくしをかばっていただいたあの時のお言葉……。わたくし、あの時の感激はきっと生涯忘れないと思います」


 ああ、あのときか……。

 ローランに対してすごんでみせるために、芝居がかった言い回しになってしまったものだと、我ながら恥ずかしく思う。


「それで、あれからずっとあの時のお姉さまの台詞を思い返しているのですが……。わたくし、あれとよく似た古めかしい言い回しを、この部屋で読んだことがあるのを思い出したのです」


「……読んだ? 本か何かでですか?」

「やはり。まだ見つけていないのですね? では一緒に探すといたしましょう」


 エミリーはそう言って俺の手を引っ張り、離れの部屋をあちこち探索し始めた。

 始めは二階から、そこで見つからないとなれば、一階にある寄贈品の家具や細工物の隙間の中に至るまで丹念に探し続けた。


「一体、何を探しておいでなのですか?」


 アンナがやってきて、途方に暮れている俺たちに向かってそう尋ねる。


「それが……、教えてくれないのです。出てきてからのお楽しみだと言って」


「参りましたわ。鍵付きの豪華な装丁の本です。一度だけ見せていただいたことがあるのです。お姉さまが創作された空想のお話が書かれていたのですが、もしかして処分なされたのかしら」


 エミリーがお手上げといったていでそう嘆くと、アンナが、ああそれでしたら、と言って二階に上がっていった。

 二人で顔を見合わせアンナの後を追う。


 アンナは、さっきまで俺とエミリーがいた部屋に入ると、中央に置かれたベッドのマットレスを豪快に持ち上げた。

 アンナがその下に手を入れてまさぐると、先ほどエミリーが説明したとおりの外観の本が出てきた。


「ミスティ」

「え……!?」


 アンナの口から思わぬ名前が飛び出したことにギョッとする。


「そう言えば、このお話の登場人物のお名前でしたね」


 アンナはそう言って微笑みながら、本を差し出した。


 なんだ。そういうことか。


 アンナが言ったのは俺が知っているミスティのことではない。

 この本に書かれている物語の架空の登場人物と、俺がうわ言でアンナのことを呼んだ───と、そう思われている───女性の名前が同じでしたね、と言っているのだ。


「ありがとう……」


 主人の隠した本の場所や中身を侍女が熟知していることはさておき、とりあえず礼を言う。


 本を受け取った俺は、ベッドの上にそれを置いて、エミリーと顔を並べながらページを開いた。

 施錠はされていたが、それを開く鍵は本の表紙に据えつけられていたので意味を成していなかった。

 中は綺麗な文字でびっしりと埋められていた。

 日記とは違う熱のこもった筆記だ。

 それを見て俺は、そうだジョセフィーヌの筆跡を真似られるようにしておかなければ、ということを思いついた。


「ジョセフィーヌ様……。いえ、以前の私がこれを?」

「そうです。何か思い起こされることはないですか?」


「いえ……」


「お姉さまは恥ずかしがってあまり見せていただけませんでしたけど、こういったお話を書き上げられるのは、素晴らしい才能だと思います」

「そ、そうね……」


 どんな物語なのだろう。

 ページをパラパラとめくってみると、厚い本の全体の五分の一ほどで筆が途絶えていた。


「交代で読み上げてみませんか?」


 未完成の物語を本人に黙って読むことについて、引け目はあったが興味の方が勝った。

 俺とエミリーは区切りのよい小節ごとに交代してその物語を音読していった。


 自分で物語を考えて本にする、などという高尚な趣味とはほとほと縁遠かった俺は、ジョセフィーヌという直接話したこともない少女の才能に舌を巻く思いだった。

 表の日記、裏の日記、それに母親やアンナなどの人づてに聞く人柄。

 ジョセフィーヌという女性は接する情報源によって、いろいろな表情を覗かせる。

 その度に、本物のジョセフィーヌに直接会ってみたい。会って話をしてみたいという思いが募るのだった。


 だが、それは容易に叶わぬ夢だろう。

 まず、元に戻れる算段がまるでない。

 それに、仮にお互い首尾よく元の身体に戻れたとして……。そうなってしまえば、俺はこの王女様とおいそれと話ができる身分ではない。

 俺は辺境の小さな領主の一人息子に過ぎないのだから。


 偶然にも今読んでいる物語の主人公も、辺境の砦を守る領主の一人息子だった。


 偶然……。なのだろうか……。


 物語の中の、という名の少女が、主人公の危機に際して叫んだ。


「危ない! 逃げて、!」

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