第11話 エピローグ

 弓野目事務所の引き戸を開ける。チリンチリンと音が鳴る。


「あ、おかえりなさい~」と、桃さんの声が耳に飛び込んできた。


「先生はいますか?」


 と尋ねる僕の声を聴いて、桃さんが「いらっしゃいますよ~」と事務所の奥を指さした。


 先生がちらりとこちらを見やる。


「先生、彼女、きちんと成仏できていましたよ。ありがとうございました」


「そう、それはよかったわ」


 淡々と答えるその口ぶり。でも、その目にはうっすらと微笑みが浮かんでいた。


「あの、お代ですけど……」


「はい、約束通り一万円ね」


 小さく問いかけた僕に、彼女はそう嬉しそうに答える。登記申請代理だけなら一万円でいい。そういう約束だった。


 財布から取り出したお金を渡すと、弓野目先生はやっぱりそれを大事そうに胸に抱いて、素早く事務所の裏に引っ込んでしまった。


 ちょうど先生と入れ替わりになる形で、桃さんが茶色い袋を抱えてやってきた。


「実はおいしそうなコーヒーをいただいたんですけど、飲んでいきますか~?」


「ちょっと桃、何勝手なこと言ってるのよ」


 戻ってきた先生が不満そうな目を向けた。


「まあまあいいじゃないですか、冬子先生?」


「もう……」


 ここは私の事務所なんだけど……とぶつぶついいながらも、弓野目先生はテーブルに着いた。確かに、いろいろありすぎて僕もなんだか疲れてしまっていた。ここは桃さんの厚意に甘えて、少しゆっくりしていくことにしよう。


 桃さんがてきぱきと準備を進めていく。テーブルに用意されたカップからは、挽きたてのコーヒーのいい匂いがした。


「それにしても、河村さんはこれから大変ですねぇ」


 用意を終えて席に着いた桃さんが、開口一番そう言った。


「はい?」


「いやいやだって、河村さんもう『見える人』になっちゃったじゃないですかぁ」


「見える人」とは何の話だろう……怪訝けげんな顔をした僕に、弓野目先生が補足を入れた。


「強い念を持った霊体の影響下にさらされると、霊体に感応しやすくなるのよ。それで、一度そういう体質になっちゃうと、もう元には戻らないから……」


 待て待て待て、そんな話聞いてない。突然の事実に頭がくらくらする。ということは……まさか、これから先死ぬまで、幽霊を見ながら生きていかなければならないのか――。


「普通に一回見えちゃったくらいなら大丈夫なんですけど、河村さんは地縛霊の目的を叶えるレベルでどっぷりつかっちゃいましたからねえ。あれだけやれば、こうなっちゃいますって」


 つまり、原因は案件に首を突っ込みすぎたせいということか――!


「そうならそうと、どうして言ってくれなかったんですか⁉ 確かにお金をケチったのは僕のせいですけど、自分で解決したらこうなるってわかってたら、もうちょっと頑張ってお金用意しましたよ!」


「登記原因を解決したらどうなるかなんて、別に聞かれなかったし……」


 そんなもの知らないんだから、聞けるわけがない。そちらが説明するべきだろう。専門家としての責務はどこにいってしまったのか。


「そういえば前にいましたねぇ。霊体が見えるようになって、ノイローゼになって、自殺しちゃった人。しかもそのあと、『霊体が見えないようになりたい』っていう目的で地縛霊になっちゃって」


「たしかにいたわね。あれの滅失登記は大変だったわ……」


 僕のことをほっぽり出して、二人でそら恐ろしい話を始めてしまった。そりゃ、あんなものを毎日見ていたらノイローゼにもなるだろう。


 これから一生幽霊におびえながら暮らすなんて、まっぴらごめんだった。いったいこれから、僕はどうすればいいのだろう。


 うぅ……とうなり続ける僕に向かって、弓野目先生が口を開いた。


「そこであなたに提案なんだけど」


「何ですか?」


 ひょっとして、司霊書士なら知っている、何か特効薬みたいなものでもあるのだろうか? 期待して見つめる僕に、先生は言い放った。


「あなた、うちの事務所を手伝わない?」


 は――? 


 開いた口が塞がらない、というのを物理的に経験したのは初めてな気がする。そのくらい僕は面食らっていた。


「何で僕が幽霊退治の仕事をしなきゃいけないんですか! こっちは幽霊なんて金輪際ごめんこうむりたいんです!」


 どこからそんな発想が出てくるのかさっぱりわからなかった。そんな僕にはお構いなしに、先生が続ける。


「いやいやあなた、よく考えてごらんなさい? 恐怖の源泉は未知にあるのよ。あなたを始め、一般的には理解できない存在だからこそ幽霊は怖いんじゃないかしら。ここを手伝って霊体に詳しくなれば、もう恐れる必要なんてないと思わない?」


「毒を食らわば皿までってやつですねぇ」


 ぐぬぬ……と歯噛みするが、確かに先生の言い分には一理ある気もした。一生見え続けるのであれば、どうにかして折り合うしかない。見ないふりをするよりは、懐に飛び込んでみるのは確かに一手かもしれなかった。


「……おっしゃっている意味は分かりました」


「でしょう?」


 弓野目先生が得意げになる。


「でも、まだやるとは決めてませんよ。……そうだ、待遇はどうなんです!」


 雇われるからには、待遇は重要なポイントだ。時給は? 社会保険は? 呪われたら労災下りるんですよね!?


だがその質問に、弓野目先生は目をぱちくりさせていた。


「待遇って……何の話?」


「何の話って何ですか。ここで働けっていうんでしょう?」


「いやいや、私はあなたにお手伝いをお願いしてるのよ。雇うんじゃなくて」


「は??? するとなんですか? タダ働きをしろとおっしゃる?」


「人聞きの悪い言い方ね。霊体に慣れられるんだからいいじゃないの」


 何ということだろう。この女は、僕を無償でこき使うつもりだったのか!


 僕も弓野目先生もしばらく押し黙っていたが、やがて僕の方から口火を切った。


「……先生、前に言いましたよね」


「何をよ」


「僕の悩みを解決してくれるって」


「ええ、確かに言ったわよ。地縛霊二体、きっちり消してあげたじゃない」


「それだけじゃありません」


 確かに、地縛霊は悩みの種だった。でも、悩み事はもう一つある。


「僕、お金にも困ってるって言ったじゃないですか。これも解決してくれるんですよね?」


「うっ」


「じゃあ、ちゃんとお金を払ってください! 声かけたのは先生なんですから、今更なしとかないですよ⁉」


「あ~冬子先生、これは分が悪くないですか? 確かに河村さんそんなお話されてましたよ?」


 桃さんが茶々を入れる。


「……もし断ったら?」


 弓野目先生が謎の上目遣いでこちらを見る。


「きっと餓死しますから、ここの土地に取り憑きます」


 半分冗談、半分本気だった。


「普通に迷惑なんでやめてほしいんだけど、私は司霊書士だから泣き寝入りはしないわよ。全力で除霊してやるから覚悟しなさい」


「先生いま除霊って言いましたね⁉ あんだけ除霊屋じゃないって強調してたのに!」


「う~あなたみたいな悪霊は除霊よ!」


「まだ死んでません! 先生がお金を払ってくれれば死にません!」

さらにしばらく見つめ合っていたが、悔しさでか顔を歪ませながら、


「あーもう! わかった、わかったわよ! ちゃんとお給料出すから、ここで働いてください!」


 とうとう根負けしたらしい弓野目先生が折れた。


 よし! これで幽霊について知識を磨けば、もうおびえて暮らさずに済む。おまけに食い扶持も確保できて一石二鳥だ。


「うう……本当は、滅失を自力で解決できるような依頼人に、霊体慣れをエサにしてタダで働いてもらう計画だったのに。これじゃあ雇用じゃないの……。固定費が増える……」


「何ですかそれ! ひょっとして、初めからこうするつもりで原因の解決は別料金って言ったんですか⁉ くっそ、はめられた!」


 悲痛な顔をしながらポロっと口にした彼女の魂胆を聞いて、僕は正直ドン引きしてしまった。鬼かアンタは。この世には幽霊だけじゃなくて、鬼も実在するらしかった。


「一応、別料金は本当で、どのお客様でもあの内容でしたら三十万円はいただいてますけどね……」と桃さんが小さくフォローを入れるが、僕の憤りは収まらない。


 雇い主の本性を知って、登記法の前に労基法を勉強しておこうと固く決意した。


「……契約書類取ってくるから、ちょっと待ってなさい」


 と力なく言って、弓野目先生は奥へと引っ込んでいった。


 取り残された僕は、さっそく桃さんに詰め寄った。


「先生って、あれが素なんですか⁉ 仕事してる時とイメージ違いすぎませんか⁉」


 今回の件で僕の中に築かれていた、ミステリアスだけどプロフェッショナルで、なんだかんだで助け舟も出してくれる優しいお姉さんだった彼女のイメージは、この数分のやり取りで見るも無残に崩れ去っていた。


「あはは……。まあ、冬子先生はお金のことになるとちょっとあれで……。それにしても今回の件はひどいですが」


 桃さんが弱り顔をする。


「でも、河村さんが見たお仕事してるときの冬子先生も、間違いなく素の冬子先生ですよぉ。何より、冬子先生の司霊しりょう書士しょしとしての腕は本物です! 地縛霊の私が言うんだから間違いないです!」


 そう言って胸を張る。どうやら桃さんは本当に、彼女のことを信頼しているようだった。


 確かに、がめつい点はともかく、弓野目先生の実力については、門外漢の僕にも何となく伝わるものがあった。業務の難しさを僕はまだよく知らないけれど、地縛霊の背景にあるものを探り、その真意をとらえようとする彼女の姿勢は、きっと本物なのだろうと思う。


 さっき先生からの誘いを受けて乗ってみようと思ったのは、そんな彼女の姿に感銘を受けたから、というのもちょっぴりあったのだ。まあ、だいぶイメージが変わってしまったが。


 そんなことを話しているうちに、書類の束を持ってきた弓野目先生が戻ってきた。テーブルにばさりと置くと、「これ書いて」という。早速目を通しながら、雇い主に質問をした。


「先生は、いつも僕の件みたいな依頼ばかりなんですか」


「そんなことはないわ。もっと複雑で高額な依頼で毎日てんてこ舞いよ。つい先日だって……」


「いやいや冬子先生、何見栄張ってるんですか。河村さんのご依頼が今月初めてじゃないですかぁ」


 何やら語りだそうとした弓野目先生に、桃さんが割って入った。


 ん? 今月初めて……って、今日はもう四月の半ばだが。


「こら、余計なこと言わなくていいのよ桃」


 冬子さんがキッと桃さんの方を睨むが、従業員となった身分では聞き捨てならない。


「ひょっとして、あまり流行ってないんですか、この事務所? まさか、ここがやけに貧乏くさいのは……」


 以前桃さんにお預けを食らった話について、ひょんなところで答え合わせとなりそうだった。


「はい! 特に深い理由とかないですぅ。単純にお金がないからですねぇ」


 桃さんも話を投げ出したままだったことを思い出したのか、そう引き取って結論を述べた。


 弓野目事務所は、どうもあまり――というか相当――儲かっていないようだった。


 思わずがっくりとうなだれてしまった。この人がお金にがめついのはそういう理由か。ひょっとして、お給料やばい?


「いやー冬子先生はまだお若いですからね。こういうのって人脈商売なんですけど、ベテランの先生が囲い込んじゃってますからね。冬子先生みたいな新参者には、なかなかお仕事ゲットが難しいんですよぉ。やっぱ地縁が大事なんですかね? 地縛霊だけに」


 桃さんがそう言ってため息をついた。なるほどこんな経営状況ならば、事務員一人増える固定費増のインパクトは尋常なものではないだろう。


 冬子さんはといえば、顔を真っ赤にしながらこっちを見ていた。


「何よ、流行ってなくて悪かったわね! ちょっと河村君、いったん覚悟決めて雇ったからには、雇い主としてきちんとお給料は出すわよ! だから失礼なコソコソ話しないの!」


 桃さんに「僕のお給料大丈夫なんですかね?」とこっそり尋ねたのを耳ざとく聞いて、冬子さんが怒りの宣言をした。


「頼みますよ、ほんとにもう……」


「まあまあ、これから頑張ればいいじゃないですか。冬子先生はある意味失うものもないんですから」


「なんか私すごい馬鹿にされなかったかしら?」


 桃さんのフォローになっているんだかなっていなんだかわからないエールを受けて、二人でまた漫才のように掛け合っている。


 ふう、と大きく息を吐いた。


 確かに前途多難だし幽霊は怖いが、でも、胸の中に少しのわくわくもないと言えば嘘になる。この世に未練を遺した者の、最後の願いに向き合う仕事。それに携われることに、ほんの少し憧れもあった。


 やり残した願いが叶えば、それは素晴らしいことだと思う。しかし本当は未練なんて何も残らないのが一番いい。


 だから僕はいま、僕がいたいと思った場所で、やりたいことをやることにした。


 生きているうちは、何だって何度だって望める。そんな生者の特権は、使わないと損なのだから。


【完】

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登記、してますか? ―地縛霊だって不動産― 榎木睦海 @attend_enoki

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