第10話 願いの結末

 アパートから事務所まで全力で駆けてきた僕は、弓野目先生に経緯のすべてを説明した。


「なるほどですねえ……」


 と、弓野目先生の隣に座ってせんべいをつまんでいた桃さんが声を漏らす。


 先生は黙って僕の話を聞いていたけれど、やがて僕に問いかけた。


「証明書はあるかしら」


「あ、はいここに」


 そう答えて、鞄から例の紙を取り出した。地縛目的成就証明書と書かれたその紙の真ん中の、大きな四角の中に文様が浮かび上がっていた。彼女の――福井佳代子の願いの成就は、確かに証明されている。


「問題なさそうね。それじゃあこれで登記手続きを進めるわ」


 弓野目先生はそう言って僕から紙を受け取ると、事務机へと向かっていった。


 ――何となく、心の中がもやもやする。


「あの」


「何かしら?」


 弓野目先生が机から顔を上げて僕の方を見た。深い黒色の知的な目は、何を言いたいのと言わんばかりだ。


「これで、消えちゃうんでしょうか」


「あなたが望んだんでしょう?」


 それは確かにそうだ。あんな薄気味の悪いもの、一秒でも早く消えてほしいと思っていた。そしてこの一週間、カーテンの向こうの幽霊を消すために僕は奔走してきた。


 でも、いまの僕は、最初にこの事務所に迷い込んだ時の僕とは違う。あの地縛霊の正体も、その辛い人生も、そんな中で彼女が見出した魂の渇望も知ってしまった。こうなった以上、僕はもう迷わずにはいられない。


「本当に……本当に、消してしまっていいのでしょうか?」


「どういう意味?」


 あの霊は、佳代子さんは、現にいまも存在しているのだ。何も、翔太さんの作品だけを見て満足しなければならないということはない。もっとほかにも、いろいろできることはあるはずだった。そう、例えば――。


「息子さんに会うことだってできるんじゃないかって。作品だけ見て成仏するなんて、悲しすぎます」


 せっかくなら、立派に育った翔太さん本人に会えばよいのだ。地縛霊云々は……まあどうにか信じてもらうとして。いや、それがあまりにも現実離れしているなら、せめて動画を見てもらうとか……。少し調べてみると、スカイクラウドビルの完成時のインタビューなんかがネットには残っていた。それを見てもらうだけでも。


 弓野目先生は、その言葉を聞いたきりじっと僕のことを見ていた。桃さんはといえば、相変わらずにこやかに、でも珍しく静かに、僕と弓野目先生とのやり取りを見つめている。


 しばらくして、先生が口を開いた。


「私は登記をするのが仕事だからわからないけれど――彼女は、それを願わなかったのよ」


 その言葉に、頭から水をかけられたようにはっとなる。


 地縛霊はみな、人生最後の願いを胸に地縛霊になっている。その未練だけを依り代にして。地縛霊登記簿に書かれているのは、死者をこの世に縛り付けるほどの強烈な願い。


 なのに、彼女は願わなかった。翔太さんにもう一度会いたいとは。


 そういうものなのだろうか。……そういうものなのかもしれない。彼女は生前だってそうだった。翔太さんを養子に出したときからきっと、もう二度と関わらないと心に決めていたのだろう。それが一番、翔太さんのためになるはずだと。彼女はひっそりと見守ることを選んだのだ。


 本当なら願えたはずだ。「もう一度彼に会いたい」と。それでも彼女は己の内なる心を押し殺して、彼女の信じる愛の在り方を貫いた。


 でも――。それでも捨てきれなかった想いが、彼女にはあった。彼女の下した決断とすんでのところで矛盾しない、そんなぎりぎりの願い。理性と本心との間で焼かれた心の最後の叫びがきっと「見たい」だったのだ。


 この結末は、彼女自身が望んだこと――。


「もし、登記を消さないとどうなるんでしょうか」


「変わらないわ……何も。今後も彼女はこの世にとどまり続ける。滅失登記をするまでは、地縛霊は決して消えないから」


 僕の問いかけに、弓野目先生は専門家として、淡々とルールを述べる。


「どうすれば……いいと思いますか」


「私は登記をするのが仕事よ。どうするかを決めるのはあくまであなただわ。縛地の利用権原を有するあなたには、それを決める権利がある」


 先生は、自分の在り方を崩さない。


 福井佳代子は本懐を遂げた。それなら成仏すべきだ。もとよりそういう約束で、彼女たちは地縛霊になっている。


 何より、最後まで信念を貫き続けた佳代子さんの選択を尊重するなら――。


「弓野目先生。彼女の、福井佳代子さんの、登記を消してあげてください」


「承知したわ」


 弓野目先生はそう一言だけ静かに告げて、書類を作成し始めた。僕は静かに、桃さんとお茶を飲んで待つ。


 しばらくして、弓野目先生がこちらを見た。


「登記手続が終わったわ。これであの地縛霊は消える。確認してきてごらんなさい」



 アパートへと戻り四〇三号室へと向かう。階段からつながる廊下の一番奥は、目隠しが外されて明るく光が漏れこんでいた。玄関の扉を開けて、部屋の方へ眼を向ける。


 カーテンは開け放たれたままで、ベランダが良く見通せる。そこにいたはずの人影はもういなかった。


「ちゃんと……成仏できたんだ」


 誰に向けるでもなく独り言がこぼれた。言葉にしなければ、胸が詰まってしまいそうだったから。


 部屋の中は、窓ガラスから差し込む昼下がりの陽光で明るく照らされている。ひなびた住宅街の、古ぼけた1Kの部屋。


 ほんの短い間だったけれども、この部屋であの親子は確かに暮らしていた。ひと時の幸福な時間。彼女たちは一度は分かれたけれど、その愛は、三十年の時を経て彼らを再び結び付けた。


 うーん、と大きく伸びをした。すがすがしいような、悲しいような、不思議な気持ちだった。


 さて、と――。


 ともかく、これで地縛霊をめぐる話は終わりだ。明日からはこの部屋も全部僕のもので、ぐっすり眠れる。


 弓野目事務所に戻って、最後の報告をしよう。


 一階に下りると、ちょうど部屋から出てきた井上さんと出くわした。彼女の姿を認めた僕は、慌てて平謝りする。


「あ、あの、さっきはすみませんでした!」


「あらあら、いきなり飛び出して行ってどうしたのかと思ったのよ」


「ははは、ちょっといろいろありまして……」


「ま、元気なのはいいことね」


 そこで、井上さんが周りを見回して、不思議そうな顔をした。


「あら……? 気のせいかしら、何となく明るくなったような」


 きょろきょろとする井上さんに、僕は小さくつぶやいた。


「そうですね。きっといろいろ、晴れたんだと思います」


 小首をかしげる井上さんに、僕は優しく微笑んだ。


 春の空は、どこまでも澄んでいた。

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