第9話 「見たい」の真実
キッチンに座り込んで、息を整えながらこれまでに分かった事実をもう一度整理してみた。やはりそうだ。確証はないけれど、きっと……。
心の中に浮かんだ一つの仮説に少し興奮しているのを感じながら、僕はそれを実行に移していく。
まずは部屋とキッチンのある廊下とをつなぐふすまを全開にした。これで部屋と玄関とを隔てるものは何もない。
次は――何でもいい、重しになるものが欲しかった。
部屋の中は、荷造りを解いていない段ボールで溢れている。適当なものを見繕って、ずるずると玄関まで引きずっていった。そのままドアを大きく開け放って、段ボールをストッパーにした。これでいま、僕の部屋からはアパートの廊下が良く見通せる形だ。
でもまだ足りない。
この四階の廊下には、目隠しが付いている。廊下に出てじっと見てみると、フレーム部分はしっかり固定されているが、半透明のパネル部分はネジで着脱ができるようになっていた。普通のドライバーがあれば外せそうだ。確か、家具を組み立てようと買ったものがちょうどあったはずだ。室内の段ボールをひっくり返して探す。あった! 見つけ出したドライバーを右手に握りしめて廊下に戻り、僕は一心不乱にネジをまわしていく。
はやく。はやく。ぎりぎりと回っていくネジがじれったい。はやく!
一本外れ、二本外れ……全部外れた。左手にプラスチックパネルの重みがかかる。すっと風が吹いて抜けた。外れたパネルを慎重に両手で支えて、そっと床に置く。
廊下から外がきれいに見えた。そして、思わず声が出た。
目隠しで遮られていた向こう側には、視界いっぱいにこの街の景色が広がっている。昔ながらの瓦屋根や、高度成長期に一斉に建てられたであろう団地たち。CMでよく見るハウスメーカー製の、こぢんまりとした新築の戸建て。
そんな、背の高くない住宅街の奥に、ひときわ目立つビルがそびえたっていた。スカイクラウドビル――町の北側にあるそれは、一年前に完成したばかりのものだ。閑静な住宅街のただ中に大きなビルが建つとあって、開業当時はテレビでもよく取り上げられていたらしいと、桃さんが話していたビル。
だが、このビルが注目を集めたのは何もその立地からだけではないのだと、井上さんが教えてくれた。スカイクラウドビルの設計にあたったのが、奇抜なデザインで知られるある新進気鋭の若手建築家だったということも、ひときわ世間の目を引いたのだという。井上さんいわく、当時を知るこの町の人間で彼を知らない人はいないわよ、連日ワイドショーに引っ張りだこだったんだから――と。
その建築家こそが、安田翔太だった。
ドアも目隠しも開いて、いまやこの景色は僕の部屋からも丸見えのはずだった。残すは最後の仕上げ。
僕は部屋にとって返すと、勢いよくカーテンを引き開けた。僕の仮説が正しければ、彼女は――。
窓ガラスの向こうがあらわになる。そこに見えたのは、震えるほど美しい笑顔だった。透き通りそうな――いや、まさに透き通った彼女の顔が、歓喜に染まっていた。
弓野目先生からもらった証明書を見なくてもわかる。この霊の願いはいまこの瞬間に叶ったのだと――。
うわごとのように彼女がつぶやく言葉と地縛霊登記、そして井上さんの話から浮かび上がったのは、福井佳代子にまつわるある一つのストーリーだった。
最愛の息子であった翔太さんを養子に出した佳代子さんは、彼との関係を一切断ち切って、失意に飲まれながらもひっそりとこの町で暮らしていた。そんな中で、彼女はあることを知る。
それは、安田家に迎えられた翔太さんが成長して、建築家の道へと進んでいたこと。そして、偶然にもこのアパートから見えるこの町の南側に、彼が新たな作品を建設しようとしていたことだった。
彼女がそのことを知るに至ったのは、息子と離れ離れになった後も消息だけは気にかけていたからなのか、本当にたまたまだったのか、そこまでは分からない。ただ、彼女は息子のことを忘れてなどいなかった。たとえ養子に出そうとも、どれだけ忘れようと思っても、忘れられるはずがなかったのだ。ビルのことを知った彼女は、スカイクラウドビルが建つだろう方角をことあるごとにベランダから眺めていた。
愛する我が子の作品が出来上がった景色に、思いを巡らせながら――。
井上さんが見かけたのは、その時の彼女の姿だった。
だが、運命は彼女をそのままにはしてくれなかった。三年前、突然の自動車事故で、彼女はその苦難に満ちた生涯を終えた。
しかし、彼女の物語は終わらない。佳代子さんは、成長した我が子の作品をどうしても見届けたかったのだろう。それこそ、死んでも死にきれないほどに――。たった一つの願いを胸に抱いて、彼女の魂はこの世にとどまった。
彼女の願い――それは完成したこのビルを見ることだった。離れ離れになった最愛の息子の作品を、その目で見届けること。
地縛霊となった佳代子さんは、ビルをはっきりと見とおすことができるこの部屋のベランダに取り憑いた。しかし誤算だったのは、当初の予定地に遺構が発掘されて、場所が当初の正反対――町の北側――に変更になったことだった。ベランダから北を見るには、玄関ドアを通してするしかない。
ところが、幽霊が出ることに気づいた大家がカーテンをかけっぱなしにして、さらには廊下に目隠しまで施してしまった。数々の防壁のせいで、彼女は完成後もスカイクラウドビルを目にすることはかなわなかった。だから訴え続けていたのだ。「開けて……開けて……」と。彼女と息子との間を邪魔する、忌々しい障害たちを取り除いてくれと。
……これはあくまで、僕の想像でしかない。死者の想いを探る営為だけれども、真実は死者の中にしかないのだから。それでもただ一つ確かなのは、死後三年の時を経て、彼女の願いはついに成就したということ。
せっかくだからと、窓も開けてあげることにした。佳代子さんの邪魔にならないように気を付けて、玄関の方へと目を向ける。
カーテンも窓も襖も玄関ドアも目隠しも、すべてが開け放たれたいま、彼女とビルの間を遮るものはもう何もない。福井佳代子と安田翔太は、三十年の時を経て、ようやく再びつながった。
春の陽ざしの中に浮かぶ彼女の顔をあらためて見る。死者の笑顔とは、人生最後の喜びは、魂を賭してした願いの成就は、これほどまでに美しいものなのか。見るものを狂わせるほどの美というものを、僕はいま初めて知った。
生きている人間には、絶対にたどり着けないだろう境地。なぜならそれは文字通り、この世ならざる美しさなのだから。
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