第8話 地縛霊の過去

 翌日、弓野目事務所からの帰りがけに買ってきた蕎麦を片手に、自室のある四階の端から順にインターホンを押して回った。ご挨拶が遅れまして……と、引っ越しの挨拶の体で聞き込みをする。


 ――四〇三号室の前の住人についてお聞きしたいのですが。


 僕の質問に対する住人の反応は二通りだった。


 一つは、福井佳代子が事故死した後に入居した人たちで、単に「知りませんねえ」と返ってくるだけ。


 もう一つは、蕎麦片手ににこやかに笑っていたのに、その言葉を発した途端に暗い表情をするパターン。福井佳代子の死について知っている住人は皆、僕がこの話題に触れた途端急によそよそしくなって、すっと家の奥に引っ込んでしまった。やっぱり、みんな話したがらないのだ。


 この建物には一階から四階まで、各三つずつ計十二の部屋がある。僕を除いて住人が住んでいるのは七部屋で、うち二階、三階の六部屋はこのどちらかのありさまだった。


 あっという間に最後の部屋だった。一階で入居者がいるのは一〇三号室の一部屋だけ。同じアパートとはいえ他の階を歩くのは少し緊張する。そういえばほかの階へ降りるのは今日が初めてで、どの階も何となく四階よりも明るい気がして不思議だった。


 最初は幽霊がいるから四階だけ暗いのかと思ったが、どうもそうではないようだった。他の階に来て初めて気づいたが、このアパートは意図的に四階にだけ目隠しがついている。おおかた、幽霊が出ることを気にした大家が心理的に少しでも遠ざけるため、後付けしたのだろう。それなら外から丸見えのベランダも隠さないと意味ないのに――と、廊下を進みながらそんなことを考えていた。ベランダの工事だと幽霊の横で作業する羽目になるので断念したのかもしれないが。


 ここまで、戦果としては全滅だった。気落ちした心に、すっかり薄くなった期待を抱いてインターホンを押す。


 ピンポーンと音が鳴る。誰も出てこない。どうやら留守のようだった。


 はぁ、と思わずため息が出た。とりあえず、今日のところは帰ろう。


 四階に上ろうと階段へ向かうと、ちょうど門を抜けてきた人影とぶつかりそうになった。慌てて「すみません」と謝る。


「こちらこそごめんなさいねえ。……あれ? 見ない顔だけど、あなた最近越してきた人?」


 声の主は、もう還暦を迎えたであろうくらいの女性だった。両手にスーパーの袋をぶら下げている。このアパートにいま戻ってきたということは、この人が一〇三号室の住人か――とそこで僕はようやく気付いた。


「あ、あの、そうです。一週間前に引っ越してきた河村といいます。これからよろしくお願いします。あ、これつまらないものですが……」


「あら、私は井上よ。これからよろしく。お若いのに気が利くのねぇ、ありがとう」


 僕が渡した蕎麦を受け取りながら、井上さんはにこやかに笑う。少し平静さを取り戻した僕は、ついさっきまで繰り返していた質問を、もう一度口にした。


「あの、四〇三号室の前の住人についてお聞きしたいのですが」


 僕の言葉を聞いて、井上さんがふっと遠くを見るような目をした。


「そっか、四〇三号室ってことは、佳代子さんの後の人なのね……」


 そう口にするや、少しうなってから、彼女は続けた。


「お時間あるかしら。よかったら、少し上がっていかない?」



 井上さんの部屋は僕のちょうど三階下にあるから、間取りはまったく同じだ。だというのに、生気のない僕の部屋とは大違いで、生活感にあふれたその空間は、とても同じ建物の中とは思えない。


 羊羹ようかんをプラスチックのナイフで小分けにしながら、井上さんはぽつりぽつりと話し始めた。


「佳代子さんはねえ、昔からいろいろあってねえ。若くして結婚して、すぐに子供も生まれたけど、しばらくしたら旦那さんが浮気して、離婚しちゃったのよね」


 あの幽霊にそんな過去が。


「佳代子さんてば本当に息子さんを可愛がっててね。旦那さんがいなくなってからは特にそうだった。ほら、西側に商店街があるでしょう? よくあそこで二人で買い物してるの見かけたわ。いろいろ辛かったと思うけど、息子さんといるときの佳代子さんは本当に幸せそうだった」


 愛する人に捨てられて、唯一残ったのが我が子なのだ。子供がいない僕でも、一心に愛情を注いだ彼女の気持ちくらい想像できる。


「でもねえ……」


 井上さんが言葉を濁した。羊羹をつついていた楊枝を、もてあますようにぐるぐるとまわしている。


「やっぱりいろいろと厳しかったのかしらねえ。結局、養子に出しちゃったのよ」


 もう三十年以上も前のことだ。女性一人で子供を育てるのは、いまよりももっとずっと厳しい時代だったのだろう。最愛の息子と別れざるを得なかったのは、そういう経緯だったのか。


「私も子供がいるからわかるけどね、誰だって子供と別れたくなんかないのよ。でも経済的に厳しくて、この子のためにしてあげたいけどできないことがたくさんあって、結局何がこの子のために一番いいんだろうって、悩んだ末の結果だったんだと思うわ」


「……辛い話ですね」


「それで、最初の何年かはずっとふさぎ込んじゃっていたんだけど、少しずつ元気になっていってね。結婚にはほとほと懲りたのか再婚はしなかったけど、趣味も見つけて友達もできて、彼女なりに楽しくやっていたみたいだったわ。けど結局ねえ……」


 うつむく井上さんの顔には、無念そうな表情が浮かんでいた。


「神様は彼女に恨みでもあったのかねえ……。三年前に事故があって……突っ込んできた車に轢かれて、亡くなってしまったのよ」


 いくらなんでも、あんまりではないだろうか。


 旦那に捨てられ、子供と別れ、最後は事故で死んでしまった。


 井上さんが悲痛な面持ちで続けた。


「せっかく前向きに生きていたのに、本当にひどい話よね」


 井上さんはそれきり口をつぐんでしまった。流れる沈黙が苦しくて、僕は思いつくままに言葉を並べた。


「あの、その息子さんはいまどうしているんでしょうか」


 井上さんは首を横に振る。


「佳代子さん、養子に出してからは息子さんの話をからっきししなかったから、わからないわ……。私の方から聞くわけにもいかなかったし。――それに、佳代子さん自身も、一度も会ってないんじゃないかしら。あえて関わらないようにしていたみたいよ。離れることを決めた以上、関わってもあの子のためにならない。忘れよう――って思ってたんじゃないかしら」


「そうですか……」


 またしばらくの沈黙。井上さんが切ってくれた羊羹を、二人とも機械のように口へと運んでいた。一切れ、二切れ、と口にしたところで、再び僕の方から口を開いた。


「井上さんは、その後も佳代子さんとよく話されていたんですか」


「たまに見かければ挨拶するくらいの仲かしら。私の方から話しかけることは、あんまりなかったけど」


 そこまで言って、「あ、でも」と井上さんが付け加えた。


「そういえば、佳代子さんが亡くなるちょっと前からだったかしら。しきりにベランダから外を見ていたことがあってね。その時はあんまりにも気になって、私の方から聞いちゃったわ」


「ベランダから外、ですか」


 いま彼女が陣取っているのもベランダだ。この一致は気になるところだった。


「ことあるごとにそうしているもんだから、どうしても気になって。そしたら佳代子さん、『これから建つのよ』って」


「? 何が建つんでしょう」


「それがはぐらかして教えてくれなかったのよ。あまり深追いしない方がいいのかなと思って、それ以上は聞かなかったの。でも、外を見ているときの佳代子さんたらすごくうれしそうで、もう三年も前のことなのに、はっきり覚えてる」


 どうにも意味が分からない。何というか、福井佳代子という人は、生前からあいまいな物言いをする人のようだった。おかげで僕はいまこうしてほとほと困り果てているのだが。


 その件を掘り返しても仕方なさそうだったので、話題を変えることにした。もう一つだけ、聞いておきたいことがあった。


「最後に一つ、いいですか」


「何かしら」


「安田翔太、という名前で何か、ピンとくることとかありませんか」


 これはダメもとでの質問だった。福井佳代子は養子に出した翔太さんのその後について、井上さんにも一切話さなかったのだから、現在の彼の名前を聞いたところで何も心当たりはないだろう。


 しかし僕がそう口にするや否や、井上さんは目を丸くして僕を見た。


「ピンとくる……って、この町で安田翔太の名前を知らない人はそういないと思うけど」


 えっ、と今度は僕が目を丸くする番だった。


「だって――」と井上さんが話し始める。その説明を聞き終わった僕は、ある一つのストーリーに思い至っていた。


 安田翔太。最初に聞いたときは何も思わなかったけど、そうか――。


 それから、急いでスマホで地図を見た。


 やはり……だけどそんなことが――。本当にその通りなら、ようやくすべてがつながった。


 お邪魔しました! とだけ言い残して、井上さんの家を飛び出す。割と失礼なことをしているなと思ったけれど、こんど手土産でも持ってキチンと謝ろう。そのまま階段を駆けあがって自分の部屋の前へたどり着くと、肩で息をしながらカギを取り出してガチャリとまわした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る