第6話 カーテンの向こう
弓野目事務所から家へ帰る道すがら、先生から受け取った登記簿の写しをあらためて眺める。
あの女は、地縛霊番号三四一七五九の地縛霊だった。種類は人。地縛霊になったのは三年前。それから名前は福井佳代子といった。地縛霊番号だけじゃなくて、ちゃんと名前があるようだった。
その地縛の目的は、「見たい」とそれだけ。
一体何を見たいのか、皆目見当もつかなかった。とにかく、あれの望みが何なのか突き止めないことには始まらない。突き止めて、それを叶えるか、不可能であることを証明しないと、僕に安眠は訪れないのだ。
でも、どうやって?
ぐるぐると考えているうちに、アパートについた。階段を上って、暗くよどんだ自室前へと歩みを進める。ドアを開ける前に、少し考えた。
なんにせよ、昨日までとは状況が違う。まったく正体不明だった幽霊は、その素性を暴かれつつある。人間はわからないものこそ一番怖い。よく考えてみろ、あれはいまや、地縛霊番号三四一七五九の不動産でしかないんだ。不動産を恐れる人間がどこにいる。
そうやって己を奮い立たせて、ドアをゆっくりと開けた。玄関で毎日僕を出迎えていた半透明の犬はもういない。
カーテンの向こう側に、いつものように、あいつはいた。黄色い布地の奥に、黒い影がゆらゆらと揺らめいている。それは相変わらず壊れたラジオのように「開けて……開けて……」と繰り返していた。
そうだ、こいつはいつも「開けて」とつぶやいていたじゃないか。それなのに地縛の目的は「見たい」なのか――。これはいったいどういうことなのだろう。
そのまましばらく固まっていたけど、状況に変化はない。待っていても事態は進展しそうにはなかった。やはり、ここに来るまでの間にずっと考えていた作戦を、決行するしかないようだった。
僕がいま持っている情報は、登記簿に書かれたことしかない。これだけでは圧倒的に足りないのだ。情報を手に入れるために、古来より人がとってきた手段は一つ。
手に汗がにじむ。鼓動が高鳴るのが自分でもわかる。カラカラになる喉を震わせ、同じく震える足で体を必死に支えて、僕はその手段を実行した。
「あのー……。開けてほしいんですか?」
話しかける、という手段だった。
緊張のあまり思わず敬語になってしまった。
「開けて……開けて……」
しかし、返ってきたのはそれだけだった。幽霊は、微動だにせずこれまで通りの言葉を繰り返している。聞こえなかったのだろうか?
もう少し近寄って、さっきより大きな声でもう一度呼び掛けてみた。だが、幽霊はうわごとのように開けて開けてと唱え続けるばかりで、何の反応もない。三度呼び掛けてみても同じだった。
決死の作戦も、完全に徒労に終わってしまった。
しばし考えこむ。このままではらちが明かない。何にせよ原因を突き止めなければ、その先も何もないのだった。
ふうっ……と大きく息を吐いた。この女がつぶやき続ける言葉は、「開けて」だ。頭ではわかっている。次にできることは一つしかない。
あらためてカーテンに向き直る。いま目の前に、開けられるものはこれしかなかった。そしておそらく、幽霊の視界を邪魔しているものも。
――やるしかない。
もう一度気合を入れて、僕はカーテンに手をかける。たっぷり三秒待ってから、思いっきりカーテンを引いた。
ジャラララ、とカーテンレールの上を金具が走る音がして、人影の主があらわになった。僕を一週間悩ませ続けているものの正体が。
春の日差しの中に佇んでいたのは、なんてことはないごく普通の女性だった。
肩の長さで切りそろえられた髪に、ほっそりとした顔。少しやつれているようには見えるが、年は四十代後半といったところか。白のブラウスに薄いグリーンのロングスカートを身に着けたその姿は、人の家のベランダにいるという点を除けば、どこにでもいる普通の女性だ。
どんなおどろおどろしい姿が目に入ってくるのか戦々恐々としていた僕は、予想を裏切られて拍子抜けしてしまった。だが、すぐに冷静さを取り戻し、次の展開に備えて身構える。さあ、お望み通りカーテンを開けてやったんだ。次はどう出る?
しかし、彼女は依然としてこちらに見向きもせず、「開けて、開けて」とつぶやき続けていた。無視されているのか? とも思ったが、そもそもこちらに気づいてすらいないようだった。
予想だにしない展開に戸惑う。カーテンを開けてほしかったんじゃなかったのか? カーテンの向こうが見たかったのでは。――え、まさか……カーテンじゃ、ない??
いや、確かにもう一枚開けられる。カーテンの向こうにはまだ、窓がある。
本当に勘弁してほしかった。かといってほかに選択肢もない。万策尽きた以上、避けては通れなかった。
――あーもう、なすがままだ。こういうのは勢いが大事だ。ためらったらもう二度と気力は沸いてこないだろう。
大きく息を吸い、カギを外して、ガラガラと窓を引き開けた。しかし……。
「開けて……開けて……」
彼女の望みは、どうやら窓でもないらしかった。
幽霊と僕とを隔てるものは、もう何もない。どうしたらいいのだろう。途方に暮れながらも、止まった頭で女性を見る。なんてことはないごく普通の女性とは言ったものの、あの犬や弓野目事務所の事務員同様、うっすらと透けている。この女性がこの世のものではないことを、あらためてはっきりと思い知らされた。まあこれで透けていなかったら、別の問題というか警察沙汰なのだが。一日中ベランダに生身の女が張り付いていたら、それはそれで非常に怖い。
万策尽きた僕は、窓とカーテンを閉めて部屋の中に座り込んだ。空気の流れが止まり、畳のにおいが鼻をくすぐる。
結局何も進展はなかった。決死の作戦も、何の情報も得られないまま徒労に終わってしまった。弓野目先生にはああ啖呵を切ったけど、やはり素人には無理なのだろうか。
消沈しかける僕だったが、ぶんぶんとその場で首を振って己を奮い立たせる。あの女を成仏させないと、平穏な暮らしは取り戻せない。そのためには、やつの目的が何なのかを突き止めなければならない。無理でも何でも、逃げ道はないのだった。まだできることはあるはずだ。
あらためて進め方を考えてみる。まずは本人について知らなければだめだろう。
もう一度、地縛霊登記簿の写しを取り出してみた。
名前は福井佳代子。彼女が登記されたのは、三年前だ。もしいまベランダの向こうにいるのが生前の最後の姿なら、少なくとも寿命で死んだわけではなさそうだ。ひょっとしたら、何かニュースになっていたかもしれない。
そう考えて、スマホで検索してみた。あった、ビンゴだ。この町の名前とともに、福井佳代子という女性が事故で亡くなったことを報じる記事がヒットした。年数もちょうど三年前。間違いなくこれだ。
福井佳代子の死因は、事故死だった。
初めての前進に少し高揚感を覚える。だが、それも長続きはしなかった。結局、死因が分かったところで、「開けて」の意味も「見たい」の意味も分かりはしないのだ。
また少し考えてみた。「開けて」と言っている以上は、どこか、あるいは何かを開けてほしいに違いない。それはカーテンでも窓でもなかった。ほかに何かないか。
あらためて室内をぐるりと見まわしてみる。まず目についたのは僕の荷物を詰めた段ボールたちだった。幽霊屋敷でのんびり開封する気にもなれず、引っ越し業者から受け取ったままにしておいたもの。確かにこれも開けられるが、僕が持ち込んだものだから今回の件とは関係ないだろう。
段ボールのほかには、いくつか家具が置いてある。これは僕が持ち込んだのではなくて、もともと備え付けてあったものだ。
ひょっとしてこの中のどれかを開けてほしいのだろうか。そう思い、部屋中の引き出しや扉を片っ端から開けていくことにした。と、その前にカーテンをもう一度開けておく。正直嫌だったが、彼女のリアクションを見なければ当たりかどうかもわからない。
一つ開ける都度、窓の方を見てみる。僕の荷物は段ボールに梱包したままだから、どれもこれも中身は全部カラだ。からっぽの家具類を一つまた一つと開けていく。どの引き出しにも扉にも、やはり彼女は反応しなかった。
手ごたえのなさに再び消沈しかけていたさなか、ある引き出しを開けたときだった。ぺらりと一枚の紙が床に落ちた。僕に引き渡す前に、部屋の中はきれいに片づけられているはずだけど、撤去し忘れたのだろうか。
手に取ってみると、それは写真だった。女性が赤ちゃんを抱いている。あれ、この女性は……。窓の外にいるそれと、手元の写真とを見比べてみる。写真の方がかなり若いが、間違いない、これはあの地縛霊だ。生前に撮ったものなのだろうか。ということは、写真の中の女性が抱いているこの赤ちゃんは、彼女の子供……?
何の気なしに裏返してみると、手書きのメモが残されていた。
「翔太 一歳」
ひょっとして、これが見たかったということはないだろうか。引き出しにしまわれた子供の写真が見たくて、それで「開けて……」と。
窓の方へと向かい、彼女にもわかるように写真を見せてみた。しかし、これも反応はなかった。
「違うか……」
そういえば……と、あることを思い出して、鞄の中から一枚の紙を引っ張り出した。紙の上半分は大きな四角で囲われていて、そこに何かを記入できるような形になっている。その紙質は、地縛霊登記簿謄本や、登記完了証と同じものだった。
地縛目的成就証明書、というらしい。弓野目先生が言うには、死者が地縛霊になるとき、登記と合わせて文様を登録するのだという。そして、地縛の目的が成就したとき、この紙を地縛霊に近づけると、どういう仕組みかその文様が四角の中に浮かび上がるらしいのだ。
地縛霊の滅失の登記を申請するときは、これを登記所――
成就証明書を地縛霊に近づけてみたが、何の反応もなかった。念のために窓を開けてみても変化はない。どうやら本当に、この写真を見たかったわけではないようだった。
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