第4話 地縛霊登記簿

 支配権を取り戻した廊下で久方ぶりの夜の睡眠を満喫した翌日、僕は再び弓野目事務所を訪れた。自宅からまっすぐ向かうと十五分くらいだった。弓野目司霊しりょう書士しょしは「いらっしゃい」とだけ言って、前回同様、テーブルに僕を案内した。


「犬、消えてたかしら」


「あれ、やはり先生がやったんですか……?」


「消してみろ、って言ったでしょう?」


 少し自慢げな笑みを浮かべてそう口にしながら、弓野目司霊書士は一枚の紙を取り出して見せた。それは「登記完了証」と題されていて、その真ん中あたりには「登記の目的 地縛霊の滅失の登記」と書かれていた。


 うっすら緑がかっていて、透かしの入ったその紙は、以前何かで見た不動産登記の書類とそっくりだ。どう見ても偽造されたもののようには思えなかった。


「本当に、登記なんですか」


「ええ。世の中にはね、こういうものもあるのよ」


「どういう……仕組みなんですか」


 それでも、にわかには信じられないでいる。常識と現実とがせめぎ合う僕の頭は、そんな質問をひねり出すので精いっぱいだった。対する弓野目司霊書士は、パーテーションの向こう側の本棚に向かうと、一冊の本を持ってくる。とても分厚くて、しっかりとした作りをしていた。


「まあ、あなた法学部生だし、条文を読んでもらうのが一番早いかしらね」


 それは六法だった。彼女はパラパラとページをめくって、ある箇所を僕に示す。そこには、とある法律の名前が書かれていた。


「……『霊体法』?」


 生まれてからこの方、そんな名前の法律は聞いたことがなかった。首をかしげながら六法を見つめる僕に、弓野目司霊書士はなぜだか少し楽しそうな声で言った。


「調べてみるとわかるけど、ちゃんとした法律よ。あんまり知名度はないけれど、それはただ単にみんな関心がないからよ。例えばあなた、『お茶の振興に関する法律』っていうのがあること知ってるかしら。これは平成二十三年に議員立法で成立した法律なの。比較的最近のものね」


 そんな法律があるのか。こちらもまったく聞いたこともない。僕は無言で首を横に振った。


「お茶も地縛霊も同じよ。みんな興味ないから調べないだけ。探すべきところを探せば、そこにはきちんと存在しているのよ」


 関心や関係性が強まれば、いままで見えてこなかったものも見えてくると、そう言いたいのだろうか。そういう意味では、少なくとも地縛霊と僕の関係は、お茶とお茶農家くらいの関係性には発展してしまっているのかもしれない。


 そう、僕とやつらとの関係は、まだ途切れていない。何も今日は消えた犬のことだけを聞きにここに戻ってきたわけではないのだ。敵はもう一匹いて、課題を解決するためには、知識を仕入れなければならない。もはや僕は、地縛霊に関して知ることを避けられない身だった。


「お茶ですぅ」


 と、その時背後からいきなり声をかけられて、昨日と同じように、僕はまたしても飛び上がってしまった。振り返ると、例の事務員の幽霊――いや、幽霊の事務員というべきか?――が湯呑を差し出していた。


「こんにちは。先生の力、思い知りました?」


「あ……ありがとうございます。ただあの、いきなり脅かすのはやめてもらえませんかね……」


 昨日今日と、この幽霊は背後から不意打ちをするのが趣味なのだろうか。僕はそう言って恨みをこめた視線を幽霊に向ける。恨めしや……はそっちの専売特許だろうという気がしていたが。


「ちょっと桃!」


「いいじゃないですか~。お二人ともお茶のお話してたので、私もお茶をと……」


「んもう、まじめな話してたんだから茶々入れないで」


「えへへ……」と舌を出して、幽霊事務員は弓野目司霊書士の隣に座った。


 あらためて、示された六法に目を落とす。彼女が指さす先には、読み慣れないスタイルの文章が書かれていた。


 “第三条 霊体ハ其主タル縛地ノ所在地ニ於テ登記ヲ為スコトニ因リテ地縛霊ト為スコトヲ得”


 漢字とカタカナが入り混じった法律。おそらく、ずいぶんと古いものなのだろう。


 弓野目司霊書士はゆっくりと、記された条文を声に出して読み上げた。


「霊体は、その主たる縛地の所在地において登記をなすことによりて、地縛霊となすことをう。強い思念を抱いた死者は、登記されることで強固に土地に定着して地縛霊になるのよ。もう今更って感じかもしれないけれど、幽霊――霊体は実在するわ」


 幽霊は実在する。一か月前までの自分だったら到底信じられなかった言葉。しかしいまの僕は、何のためらいもなくその事実を受け止めてしまっていた。妙に理性的に現実を咀嚼そしゃくしていた僕に向かって、彼女は説明を続ける。


「これを見てみて」


 彼女がそう言って差し出したのは、A4サイズの紙だった。手に取って見てみたそれは、やたらと四角で区切られていた。


「何ですか、これ」


「あの犬の地縛霊登記簿の写しよ。現在事項全部証明書」


 地縛霊登記簿とは。不動産登記簿なら知っている。商業登記簿も知っている。だけど、地縛霊登記簿なんていうものは聞いたことがない。


「昨日も言ったとおり、すべての地縛霊は登記されているわ。別の言い方をすれば、登記されていない霊は地縛霊じゃない」


 何度聞いても荒唐こうとう無稽むけいな話だと思ったが、彼女の話が真実だという前提に立たないと一向に話が進まない気がしたので、ひとまずそういうものと受け止めることにする。そのうえで、どうしても気になって仕方がなかったことを口にしてみた。


「えっと……何で登記なんですか?」


 仮に地縛霊というものが存在したとしよう。しかし、どうしてよりにもよって登記なんだろうか。地縛霊と登記という言葉の組み合わせは、幽霊の存在以上に意味不明だった。登記は不動産とか会社にするものだ。地縛霊を登記する意味がまったく分からない。


「何言ってるの、そんなの不動産だからに決まってるじゃない」


 僕の心からの問いは、弓野目司霊書士に即答されてしまった。


 いやいや、「何言ってるの」はこっちのセリフだった。地縛霊が不動産だなんていう見解、僕は大学で教わった覚えがない。彼女は続ける。


「民法に書いてある通りよ。法学部生なのに民法八十六条知らないの? 『土地及びその定着物は、不動産とする』ってあるじゃない。地縛霊は土地に定着しているでしょう?」


 いやまあ。確かに土地には定着してるだろう。なんてったって地縛霊なのだから。むしろ地縛霊以上に土地に定着しているものはないかもしれない。しかし……。


「定着物っていっても、民法には『物とは有体物をいう』って書いてあるじゃないですか」


 地縛霊が有体物だとは思えない。


「でも私、体、ありますよ」


 そう言って事務員がひらひらと手を振った。有体とはそういう意味ではないと思うのだが……。


「わかったかしら? 地縛霊は有体物で、土地に定着していて、だから不動産に決まってるし、当然登記もするのよ」


 僕の内心の突っ込みをよそに、弓野目司霊書士は当たり前のことだと言わんばかりにそう告げた。


 この世界はどうやら、そういうことになっているらしかった。

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