第3話 司霊書士 弓野目冬子


 またしても僕は混乱していた。というより予想外の事態にかなりテンパっていた。人間は考えてもいない事態に遭遇すると、何もできなくなるものなんだなと、そんなことだけを頭の隅で考えていた。


 椅子に座って固まったままの僕に、弓野目司法書士――いや、司霊書士――は説明を始めた。


「商業登記は分かるかしら。株式会社は、社屋があって社長がいて、従業員がいて、それでどれだけビジネスで利益を上げていても、登記がなければ会社としては認められないわよね」


 完全に動転していた僕は何を思ったのか、はたまたほかに何も思えなかったのか、弓野目司霊しりょう書士しょしの説明を自分の中で咀嚼する作業に取り掛かっていた。混乱する僕の脳みそは、とりあえず考えるのが簡単そうな事柄にその思考力を振り向けることを選択したようだ。幽霊と司霊書士と商業登記の中なら、商業登記が一番なじみがあって考えることにストレスがない。


 登記には、不動産登記のほかにもいくつかのカテゴリがある。その中でも大きなものの一つが、会社に関しての事項を記録する商業登記だ。


 法律上、会社は人ということになっている。言い換えれば、僕たち生身の人間同様に法律的な取引をすることができる、という意味で会社は法律上人間扱いされている。でもここで問題が出てくる。会社には物理的な実体はないから、それがどんな存在かを確かめるのはものすごく難しい。


 そこで国は、会社に人としての権利を認める代わりに交換条件を出した。つまり、すべからく会社は名前とか所在地とか、その基本的な情報を国のデータベース――商業登記記録――に記録すべし、記録のない会社は会社とは認めない、と。


 だから、商業登記に記録されていることは、会社が会社として存在するための生存条件なのだ。人間が酸素を吸って二酸化炭素を吐くように、会社は登記なくしては生きられない。


「あなたの家にいる幽霊――地縛霊もね、会社と同じなのよ」


「会社と同じ……ってどういうことですか」


「商業登記があることが会社の存在要件でしょ? 逆に言えば、登記がある限り、たとえ実態としてはもう会社として活動していなくても、法律上は会社として存在し続けているわね?」


 登記によって会社は会社となる。裏返せば、登記上から抹消された会社は死ぬ――法律的に消滅する。それはまた、登記上から抹消されない会社は、いつまでも生き続けるということをも意味している。何らかの理由で消されることを忘れられた会社は、そのまま残り続けることになる。それは、記録の上にだけ存在する幽霊会社。


 社会に出る前の身なので詳しいことは知らないけれど、そういう会社も世の中には結構あるという話は聞いたことがあった。


 それでね、と一拍おいて、弓野目冬子は冗談みたいなことを言った。


「地縛霊はね、登記されているのよ。というより、登記簿に記録されることが、地縛霊であるための条件なのよ」


 いや、冗談に違いなかった。


 ゆっくりと彼女の話を聞いているうちに、僕はようやく冷静さを取り戻してきていた。同時に、自分が置かれている状況がいかに意味不明かを、こんなところにまじめに座っている自分自身を、冷ややかな目で見つめる内なる僕に気づいた。

感覚が理性に追いついてくる。「地縛霊を登記」なんていう字面のばかばかしさを、きちんとばかばかしいと感じられるくらいには、僕の精神は回復していた。


「地縛霊は未練を遂げれば成仏できるんですぅ。だけど、登記が残ってる間は消えたくても消えられないんですよ~」


 既に頭の中がはっきり白けている僕に、事務員の幽霊がそう横から補足した。


「だから、滅失登記をしないとあなたの家の地縛霊は消えないのよ。そのためには――」


「もういいです」


 話し続けようとする自称司霊書士を遮って、僕は立ち上がった。テーブルがごとりと音を立てたのが聞こえた。


「そんなくだらない話、信じるとでも思ったんですか? おめでたい頭ですね。小説でも書いたらいかがですか? 期待した僕がバカでした。……失礼します」


 そう言って軽く頭を下げると、鞄をひっつかんで僕は出口に向かった。「先生に向かっておめでたい頭とは失礼な!」と幽霊がわめいていたが、当然無視する。


 扉に手をかけたところで、後ろから怜悧な声が投げかけられた。


「嘘なんかじゃないわ。この世界には、あなたが知っているものばかりじゃないのよ。つい少し前のあなたが幽霊なんて見たこともなかったのと同じようにね」


「そうですか。じゃあその地縛霊の登記とやらを抹消して、幽霊消してくださいよ。それができたら信じますから」


 振り返りもせずにそう言って、僕は事務所を出ようとする。その言葉を聞いてか、弓野目冬子がこちらに歩いてきて、一枚の紙を差し出した。


「じゃあ、この委任状にサインとハンコだけくれるかしら」


「はいはい。何でも書きますよ」


 そこには、例によって地縛霊だの滅失登記だの、くだらない言葉が並んでいた。こんなもの、サインしたところでおもちゃにもならないだろう。もはやどうでもよくなっていた僕は、言われるがままにハンコを押してやった。


 道路に向き直って後ろ手に扉を閉める間際、背後から小さなつぶやきが聞こえた。


「――この依頼、確かに承ったわ」



 まったくばかばかしい話に付き合わされてしまった。自分の人生を振り返ってみても、これほど無意味な時間はそうなかったと思う。


 あまりの怒りに空腹感もすっかり消え失せていたが、何も食べないのもさすがにまずいので、ようやく見つけた定食屋で無理やり腹に物を詰め込んだ。何かで気を紛らわせていないと、怒りがぶり返しそうだったというのもある。


 食事を済ませて、ようやく少し落ち着いた僕を、すぐに憂鬱な気持ちが襲う。不動産屋との交渉は失敗し、今日も何一つ進展はなかった。これからまた、あの化け物屋敷に戻らなければならない。


 できるだけ家にいないで済むよう、その後も僕は日が暮れるぎりぎりまで街中をさまよっていた。といっても、お金もないのでできることはたかが知れている。しばらく歩き回って、結局公園のベンチで二時間ほど寝て過ごした。目が覚めると、葉桜に切り替わろうとする桜が夕日に照らされて、風に静かに揺れていた。春とはいえまだ少し肌寒い。僕は身震いすると、自宅へ向けてゆっくりと歩き出した。コンビニで夕食を買って帰ろう。


 アパートに近づくにつれ足が重くなる。しかし、夜も野宿というわけにはいかず、選択肢はなかった。アパートの門を抜けて階段をのぼり、廊下に出る。相変わらず、僕の部屋の前だけ異様に空気がよどんでいた。廊下の手すり側に設けられた目隠しのせいで、余計に暗い。扉の前で一度深呼吸した僕は、意を決してカギを開けた。


 ドアノブをまわして扉を開けると、そこにはいつものように半透明の犬が……。


 犬が、いなかった。


 うつろな目で扉を見つめ続けていた犬が、どこにも見当たらない。


 どこかに出かけたのだろうか。


 いや、これはきっとそういうんじゃない――と、そう僕は直感していた。この一週間、この犬は一度たりとも玄関から動かなかった。ただひたすらにそこに居続けたのだ。まるで、主人の帰宅を待ちわびる飼い犬のように――。なのに、とにかくそれは忽然と姿を消してしまっていた。


 それから、僕はふとある可能性に気づいた。もしや――と期待して、室内につながる襖を開ける。こいつが消えたなら、あいつも――。


 壁に取り付けられた電灯のスイッチに、手探りで指を伸ばす。なぜか胸の鼓動が激しくなる。もしかして……いや、頼む……と緊張する指でぱちりと押した。


 窓に目を向けると、そこには変わらぬ人影があった。気づいてすぐに目を伏せる。


 こっちはダメだったか。


 心を落ち着かせるために、廊下に出て襖を閉めた。


 玄関に直結する廊下兼キッチンと部屋しかない1Kのアパートで、それぞれを地縛霊に占拠されていたこの家だったが、犬が消えたいま、少なくとも玄関側には、もう何の厄介ごともない。ようやく生まれた聖域で壁にもたれかかると、僕は思考を巡らせた。


 この状況が一時的なものなのか、もう二度とあの犬が現れることはないのか、それすらも僕にはわからない。ただ、頭の中はこの状況をもたらしたであろう、一つの存在のことでいっぱいだった。


 司霊書士。弓野目冬子といったか。


 冗談としか思えないくだらない話を僕に吹っ掛けてきた女。侮蔑のまなざしを向けた僕に臆することなく、悩みを解決してやると言い放った女。


 あの自信に満ちた態度は、ひょっとして、万が一にも本物だったのだろうか。


 確かめなければならない――。

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