第2話 迷い込んだ先に
動けないでいる僕に、それがぬっと手を伸ばす。逃げなきゃいけない。だけど体は動かない。ゆっくりと時間が流れていく中で、彼我の距離は着実に縮んでいく。
ああ、もうだめだ……と、それの腕が僕を捕まえようとした瞬間。
パッ、と電気がついた。
「何してるのよ、もう……」
恐怖に体をこわばらせ気絶寸前の僕の耳に飛び込んできたのは、柔らかな女性の声だった。
「えへへ……」
事務員――の幽霊が、僕の背後に向かって照れ笑いを浮かべていた。どうにか気力を奮い立たせて振り返ると、そこに声の主がいた。
長い黒髪の若い女性。グレーのスーツに身を包んだ彼女は、その目に呆れをにじませながら僕の背後へと視線を向けている。
――彼女にも「見えて」いるのか。
それへの敵意はないように見えるし、むしろ親しげにさえ思えた。口ぶりから察するに、スーツの女性は僕の背後の幽霊を見知っているようだった。
と、スーツの女性がすっと目線を右に移動させた。つまり、僕の方に。
奇妙な珍入者を見る目。彼女は僕のことをじっと嘗め回すように見ると、何か言いたげな表情をして、実際、そのまま口を開いた。
「あなた、困ってるでしょう?」
確かに、困ってはいる。主にこの状況にだが。突然の問いかけに困惑した僕は、返事もできずにただただ立ちすくんでいた。
その女性――二十代後半くらいに見えるが、おそらく事務所の主なのだろう。ということは、司法書士の先生か――は、その知的な目で僕をじっと見つめていた。
「私のこと見えてる、ってことは、そういうことですよね?」
そう言いながら幽霊が僕の横をふわふわと通り抜けていき、スーツ姿の司法書士の横に並んだ。
そういうこととは、つまりどういうことなのだろう。途方に暮れた僕は、とりあえず人間の方の女性に視線を移した。すると彼女は無言で、右手に見えるパーテーションの方へと僕を促した。その奥には、テーブルがあるように見える。
座れ、ということのようだった。
どうしたものかと逡巡する僕に、彼女は再び口を開いた。
「あなたの悩み、解決してあげるわ」
悩みを解決する、なんて突然言われてもどうしていいかわからない。少なくとも初対面の人間に対して発する言葉ではないだろう。
とりあえず、状況を整理しよう――。ここまでで明らかにわかっていることは三つだ。一つ、幽霊がいること。二つ、司法書士にも幽霊が見えていること。三つ、名前らしきものを呼んだことから、司法書士と幽霊は知り合いらしいこと。
幽霊が見えて、あまつさえ、知り合い。
ああ……となんとなく納得しはじめている自分がいた。なるほど、そういうところか、ここは。
そこでふと気づく。――ひょっとしてこの女性は、僕のいま現在の悩みのことを言っているのだろうか?
目の前にいる一人と一体の存在は、僕の悩み事とあまりにも符合していた。ひょっとして、僕みたいな状況の人間を相手にしている人たちなのではないだろうか。幽霊が実在するという前提に立てば、そういう人たちがいたってそうおかしくはない。幽霊と一緒にいる彼女は、霊的な何かで僕が憑かれていることを見抜いて、解決を持ち掛けてきたとか――。
普通だったら、こんな脈絡のない問いかけは無視していただろう。だが、彼女の横には本物の幽霊がいる。その事実が僕をこの場にとどめていた。
いまの自分の手の届く範囲では、この人たちが一番解決の糸口になりそうな存在なんじゃないかと、そんな気がしてきていた。話くらいは聞いてみてもいいのかもしれない。少なくとも、ここでは幽霊という存在が現実としてある。この事務所では幽霊は妄想なんかじゃない。妄想の世界から現実へ――。それだけで、僕にとっては大きな一歩のように思えた。はたして、ここに紛れ込んだのは偶然か必然か。
結局、僕は女性に向かって一度強くうなずくと、促されるままテーブルに向かった。
歩きながら事務所の中をあらためて見まわす。司法書士が座るように促したテーブ
ルは接客用のものなのだろう。横長のソファが二脚、テーブルをはさんで向かい合っている。入り口から見て左奥には別の扉があって、彼女はそこから出てきて僕に声をかけたみたいだった。その近くにある事務机には、パソコンや書類が置いてある。観葉植物に遮られてよく見えなかったが、奥には本棚もあるようだった。よくよく見ると意外と広い。
ソファに腰を下ろすと、続いて司法書士の先生も僕の目の前に座った。
「あなた、お名前は?」
「河村といいます」
「そう、河村君ね。さあ、話してみて」
少しでも事態が好転するならばと、
それでも僕はためらうことなく、思いつくままに透過値五十の犬と女の話をした。僕の斜め前にも一匹いるという事実が、僕を
「とにかく、毎日毎日玄関のドアの方を向いて、じっと座っているんですよ。犬が。信じられないでしょうけど……」
「あーそれ、
司法書士の隣に座った事務員の幽霊が、いきなり口をはさんできた。たしなめるように司法書士が彼女の方をキッと睨む。厳しい視線を受けた幽霊は、すごすごと身を縮めた。
突然出てきた言葉に、僕はまるで意味が分からなかった。
「登記って……何の話ですか」
当然の疑問を口にした僕に、司法書士は向き直って質問を投げかけてきた。
「あなた、家や土地を買ったことは……?」
この人には、僕がそんな経験のあるような年齢に見えているのだろうか。彼女も言いながら気づいたのか、「……なさそうね」と締めくくった。そのまま続ける。
「じゃあ、登記ってわかるかしら」
「え? まあ、多少は……。大学で勉強しましたんで……」
登記という言葉の意味なら知っている。登記とは、簡単に言えば、ある事実を世の中に知らしめるためのデータベースだ。その管理は国がやっている。
登記にはいくつか種類があって、例えば不動産登記なら、土地や建物など不動産の所在地、面積、所有者の情報なんかが網羅されている。不動産を取引しようとする人間は、登記を確認すればその不動産についての基本的な情報がわかるようになっているのだ。そうすれば、何も知らないよりもずっと安心して取引ができる。
一般的に不動産は経済的価値が高く、また、特定の場所に固定されていて動くことはない。こうした不動産の性質を踏まえて、不動産取引の安全性確保を後押しするために国が整備したデータベースが不動産登記なのだが……。
はたして、その登記がどうしたというのだろう。
「あら、あなた法学部生? よかったわ、それなら話は早いわ。私、登記の仕事をしているの」
なるほど、それはそうだ。だってここは司法書士事務所なのだから。登記に関する業務を行う職業が、司法書士。弁護士や行政書士なんかと並ぶ、法律系の国家資格の一つ。
不動産を手に入れた人は、自分が所有者であることを国の不動産登記記録に記録してもらわなければならない。もっとも、ある不動産が誰と誰の間で取引されたかなんて国ではいちいち調べていられないから、登記記録の作成は自己申告制だ。
ところがこの自己申告というのが厄介で、結構いろいろなルール――例えば不動産登記法とか――がある。この手続きはかなり煩雑で、一般市民の手には余るものだ。そこで、そうした申請手続きを代わりに行ってあげる登記の専門家が生まれた。それが司法書士という職業。
で、それはよいのだけど。
「あの……幽霊の話と、登記が何の関係があるんですか?」
正直、この時点で僕は若干イライラしてきていた。気でも違ったのではないかと思われるような話を、意を決して伝えたにもかかわらず、目の前の司法書士は全然関係なさそうな方向に話題を進めようとしている。
そんな僕の内心を知ってか知らずか、彼女はこほん、と小さく咳払いをして、懐から何かを取り出して僕に差し出した。名刺だった。そこにはこんな文字が書かれていた。
“司霊書士 弓野目冬子”
あれ、見間違えたかな。しかし何度見直しても、「法」とあるべきところに、「霊」の字が書かれている。
「これ、誤字ですか? えっと……弓野目、先生? 司法書士ですよね」
「いいえ、間違いじゃないわ。あらためて、
僕の確認をあっさりとあしらって、目の前の女性はそう告げた。
司霊書士――。
……なんだそれ。
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