登記、してますか? ―地縛霊だって不動産―
榎木睦海
第1話 三つの困りごと
僕には三つの困りごとがある。
一つ、僕はいまお金がない。
四月から大学三年生になって、通うキャンパスが変わった。後期キャンパスは町の中心から少し外れたエリアにある。昔ながらの住宅街といった風情で、少し前にオープンした大規模な高層商業施設があるほかは、さして見どころもないつまらない地域だ。そのつまらない地域と二年生までのキャンパスとは結構距離があって、同じ家から通うのはちょっと無理があった。それでこの春、僕は引っ越しを余儀なくされた。
引っ越しというのは、結構高くつく。まずシンプルに、荷物を運ぶのにかなりの費用がかかる。独り暮らしの身でそれほど持ち物は多くないはずだが、それでも三万円も取られた。持っていくものなんて、一般的な家具・家電類のほかはせいぜい本くらいなのに。ただ、これはまだいい。
問題は新居だ。何だってこの国では、入居するのにこんなにお金がかかるのだろう。仲介手数料に敷金、礼金、はては前払い家賃と、支払うべきものは山とある。オーナーと不動産屋に召し上げられる金額は、ざっと見積もっても数十万円はくだらない。そんなものを食らっては、僕の口座に穴が開く。
もちろん、僕も黙って指をくわえてみていたわけではない。不動産屋をめぐり、情報誌を穴が開くほど見つめ、千円でも家賃の安いところを探した。そのかいあってか、相場よりもかなり安いアパートを見つけることができた。家探しに時間をかけすぎたのと、新学期も間近に迫っていたのもあって焦っていた僕は、下見もせずに即決した。
とにかく、どうにか僕の預金口座もハコ割れを免れたわけである。とはいえ、もはや残高は虫の息だ。それが一つ目の悩み事。
次に二つ目。
目の前にいるコイツ。
それは、何の変哲もない犬だった。本当にどこにでもいそうな犬。ただ一点、半透明であることを除けば。それはいま、僕の家の玄関にうつろな目をして座っている。
いや、確かにおかしいとは思った。どう考えてもこのアパートの家賃は安すぎる。多少古いとはいえ、ベランダもしっかり南を向いてるし、立地もそんなに悪くない。何か裏があるのでは、と。
もちろん、そういう線も考えた。しかし僕は幸いにも、そういう物件については不動産業者に告知義務があることを知っていた。実際、家探しの中で何件か「お知らせ事項アリ」な物件にも遭遇したが、そこは抜かりなく回避している。
しかし、現に事実として、半透明のこいつはいまも玄関に座っている。ペットの死は、きっと告知事項ではないのだろう。人間以外の何かがいるということについては、まったく考えてもいなかった。油断していた。
死ぬ気で見つけた家で、すでに死んだ犬が幽霊になっていた。それが二つ目の悩み事。
それから三つ目。
ベランダにいるアイツ。
カーテン越しに影だけが見えるそいつは、女の形をしていた。壊れたテレビのように「開けて……開けて……」といまもつぶやき続けている。まさかの二体目だった。いやはや、さすがに同じ部屋に二ついるとは僕も思わなかった。
内覧もせずに入居を決めた僕は、不動産屋からカギをもらって、引っ越し業者が到着する一時間くらい前に初めてこの家を訪れた。建物自体は普通のアパートで、これといって気になる点もない。ところが、僕が住むことになる四〇三号室の前だけ、一目見てわかるほど空気がよどんでいた。
よく観察してみると廊下にすりガラス調の目隠しがしてあって、光があまり入っていない。この何となく嫌な雰囲気はそんな物理的な理由のせいかと思ったのだが、ドアを開けたときにそういう問題ではないと気付いた。何といったって、まずは玄関に半透明の犬がいる。ぎょっとしたのもつかの間、視線を上げてみれば大窓にかかるカーテンに、人影がくっきり映っていた。とりあえず、その場で卒倒しなかった自分をほめてやりたい。不動産屋は「カーテンはサービス」などと言っていたが、こういうことだったのかとその時僕はようやく理解した。
入居から今日までの約一週間、カーテンは一度も開けていない。今日も日曜日の朝だというのに、部屋の中は薄暗いままだ。電気を点けると窓にあれの姿がくっきりと映るので、あえて消したままにしていた。
こちらはどうも人間の霊のようだ。どうして調べきれなかったのかはわからない。やはり一度でも下見をしておくべきだったのだ。今更悔いてもどうにもならないが。
玄関には犬の幽霊、ベランダには女の幽霊がいて、あまつさえ後者は「開けて……開けて……」とうめき続けている。理不尽な挟み撃ちの中で、慣れるはずもなく、当然夜も眠れず、僕の精神はもう限界だった。昼間の講義でうつらうつらすることでかろうじて睡眠時間を確保している。こんなことではいったい何のために苦労して大学に入ったのかわからない。
一番簡単な解決策は、もう一度引っ越すことだろう。たださっき言ったように、もうそんなお金は残ってなかった。
金欠と、幽霊と、幽霊。
僕はいま、とても困っている。
*
不動産屋との泣きの交渉からの帰り、僕は朦朧とした頭で自宅までの道を歩いていた。足元は寝不足とストレスでふらついている。お金さえあればとにかく引っ越せるので、契約自体を解除できないか、ダメもとでの嘆願だった。
しかし案の定、僕の必死の訴えもむなしく、不動産屋は取り合ってくれなかった。出ていくのは構わないがお金は返せない、そもそもウチに責任はないだろう、と。にべもない。最後の手段が潰えた僕は、いよいよ心も折れてふらふらと街中をさまよっていた。
歩きながら今後のことを考える。ダメだったものは仕方ない、次善の策に出るまでだ。とりあえずバイトを探して、お金をためて、いまの地獄を脱出しよう。気の遠くなる計画だったが、もうそれしかない。ただ、それまで精神が持つかどうか。
ぐう、とおなかが鳴った。今日は朝食も食べずに、蜘蛛の糸に縋りつくカンダタよろしく不動産屋に駆け込んだのだった。胃の中は空っぽだった。バイト探しの前に、まずは昼飯を食べよう。おなかが膨れれば多少の元気も戻ってくるだろう。
とはいえ、引っ越して一週間なので、まだ土地勘もない。この辺りは全体的にさびれたエリアで、飲食店もあまり見かけなかった。定食屋でもあればと思いやみくもに歩いてみても、特に見当たらない。
あ……だめだ。もう限界かも。
そんな風に思った矢先、目の前に一軒のお店が見えた。反射的に足が向く。もうまともに思考できていなかった。引き戸を開けて中に入る。チリンチリンとベルの鳴る音がした。
いらっしゃいませ――とは言われなかった。
おかしいなと思い顔を上げる。よく見ると誰もいない。電気もついていなくて、薄暗かった。ぐるりと見まわすと、暗がりの中にこんな文字が目に飛び込んできた。
“弓野目司法書士事務所”
どうやら、朦朧として全然関係ないところに足を踏み入れてしまったみたいだった。「すみません、間違えました!」と叫んで、すぐに引き返そうとする。引き戸に手をかけようと振り返ったところ――。
目の前に、女性がいた。
反射的に、うわっと飛びすさる。
格好から推察するに、どうやら事務員の人のようだった。女性はニコニコと笑顔を浮かべて、そんな僕の様子を見つめていた。
「す、すみません。あの、本当に、間違えて……」
慌てふためく僕のことなんか気にも留めない様子で、その事務員さんはニコニコを崩さないままだ。
あれ、何だろう、この違和感――。何かがおかしいような気がする……。
瞬間、背筋に悪寒が走った。気づいてしまった。
透けている――。
女性の向こう側に、僕が入ってきた扉がうっすらと透けて見える。ひいッ……っと喉の奥から変な音がするのが聞こえた。これは……そんな――。
それは、疲弊した脳が見せた産物か。だが、そうではないことは僕が一番よくわかっている。幽霊はどうやら実在していて、これもまたまぎれもない本物――。
僕のアパートの玄関先とカーテンの向こう側にいるやつらとの同類が、目の前で笑っていた。
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