パンスペルミアのペンギンが見えるか

マルヤ六世

パンスペルミアのペンギンが見えるか。

 ──る、か。

 み、え──る、か。

 ──あの真昼の星、一等輝く空の光が見えるかい。君を探す一番星。一人は怖いと泣いている。君たちの出会いを祝福したい。

 どうか受け取ってほしい、新しい人となる命。どうか、きっと気に入ってほしい。人よ、言の葉を見るがいい。流転の間を見るがいい。未知のアルファとなりて、始祖アダムとなりて、星を導け。

 私は枢要。基本骨子と開閉を司るもの。人よ、美しく穢れたものよ。見えるならば、応答せよ──。


 ある日、目玉が落っこちた。

 通勤中の、もうあと少しで会社にたどり着くというところだった。商店街の隙間に窮屈そうに置かれた公園の横を通りがかって、コンパクトを開いて化粧をチェックしていた。マスカラがくずれているのを直して、頬にできた黒い筋の上から乱暴にファンデを叩いた。

 行きたくない。ちいさな子供が幼稚園に行きたくないと泣いていて、お父さんが抱いてあやしている。私もだ。会社に行きたくない。子供はぜんぜん泣き止まないので、つられて私もまた泣いてしまいそう。

 そんな時だった。

 唐突に真っ暗になった左側の視界と、軽い音を立てて地面をバウンドする私の目玉。鏡に映る私の左目があった場所は、ぽっかりと開いたピンク色の穴を映すだけだ。混乱よりも先に思い出したのは、映画だか本だかで見た知識だった。

 すっぱり切れた指は、冷やしておけば後でくっつけてもらえることもあるらしい。

 私はまず道ゆく人がびっくりしないように前髪をおろして顔の左側を隠した。それから地面に転がった少し冷たい目玉を水道でよく洗い、コンビニで氷を買った。レジ袋をもらい、そこに氷と目玉を入れてさらに冷やす。黒目のところに豚の尻尾みたいな形の変な切れ目が入っている。落ちた時に傷ついたのかもしれない。こんな状態だと難しいかな。でも、もし眼科か外科に名医がいれば神経を繋いでもらえるかもしれない。

 人生最大級の驚きに襲われると、人はかえって冷静になろうと、そしてラクテン的でいようとするらしかった。なぜ、どうして、とは不思議と思わなかった。どこにどんな菌がひっついたら風邪をひくのかも知らない私だから。

 目の前に見えるビルに電話で当日欠勤を出してこっぴどく叱られた私は、自棄になってのんびり歩いて眼科に向かった。


 ──水晶落下症。

 医者が言うにはとても珍しい病気らしい。まず水晶体がかちこちに固まって内側から膨らむ。そうすると目玉自体がどんどん硬くなって、膨らんだ水晶体が球体になる。すると圧迫された神経を麻痺させ、最後には焼き切れて落ちる、だとか。

 大昔から患者が存在した記録はあるらしく、見せてもらった古いぼろぼろの紙には「貞観三年」と記されている。これが一番古いみたいだ。

 それからは「寛永九年」「元禄十七年」「寛保元年」。「文化十四年」──これなんか、江戸のところにマークがある。地図で見ると、だいたい八王子辺りの患者だ。親近感がある。こう見ると過去の症例はかなりの数があるらしく、指を滑らせてうねった文字を追っていく。

 「令和二年」千葉。今年の七月にだって患者はいたようなのに、その奇病はいまだに解明されていないと、担当医は申し訳なさそうに言った。治し方がわからない。それはつまり、今のところ治らないということだ。

「あまたのすひせうらつかのやまひとつたはる」とあるから、きっとこれから何回も私の目玉は落ちるのだろう。ただ、落ちた片目は石のように硬くなり、また、一日程度で生え変わるらしい。両目を無くすことは過去の記述に一切なく、眼球が取れることに痛みもないそうだ。確かに、さっき落ちた時はまったくの無痛だった。

 それに、落下の頻度はある程度変えられるらしく、下を向いていると眼球が落ちる回数が少ない、だなんて迷信みたいな治療法も教えてもらえた。普通なら下を向いている方が落ちやすそうなものだけど。 

 明日には目玉が生えてくると聞くと、途端に安心半分、落胆半分だった。片目でも仕事は出来るし、うまく隠して生きていくのもそんなに難しくない。つまり私は質問攻めにあったりしながら、明日からも仕事に行くのだ。身内と会社には診断書を見せることになる。あーあ、こんな状態でも私の人生は案外大丈夫だ。まったく困った。困ったけど、これからも生きて行かなくちゃいけない。それに比べれば、目玉が落ちるくらいは大した困難じゃない。

 だから、しばらく下向き生活で見られなくなる空を見上げた。今なら、どうせ目玉も落ちてしまっているから。


 そこはからりと晴れた空だった。午前の冷たい風が吹く。冬の空は空気が山頂みたいにみずみずしくて新鮮だ。頭上にはいくつもの星が瞬いていた。白く、遠く、黄色く、暗い、昼の星空だ。昼間にこんなにも綺麗に星が見えることもあるのかと、私はしばらく見つめている。

 すると、誰かと目が合った。

 空を見上げていたはずの私は、いつのまにかどこかの街並みを見下ろしている。ビル、信号、横断歩道。視界がスライドショーのように切り替わる。そして交差点を渡る男の子がふと天を仰いだ時。

 そんな彼と「目が合った」のだ。

 彼はフードを深く被っていた。そしてさらに前髪で片目を隠していた。右側の髪が垂れて、左側は耳にかけている。風が吹くと前髪が揺れて、くりぬかれたピンク色が見えた。もしかして、彼も同じ病を患っているのだろうか。

 しばらく彼と見つめ合っていた私は、ふと空が曇りだしていることに気づいた。ちらちらと雪が舞っている。

 彼の目を見つめていたら、だんだんと眩暈がしてくるのを感じた。昔から首猫背っていうのか、ずっと上を向いていると気持ち悪くなってしまうところがあった。もう少しこの不思議な空と男の子を眺めていたかったけれど、仕方なくやめることにした。この後のことを考えると少しだけ憂鬱で、そのままゆっくりと視線を下げて歩く。


 帰り道には会社のビルがあった。ズル休みをしているわけではないけれど、誰かに会えば少しきまずい。かと言って遠回りもしたくなくて、溜息を吐きながら歩きだした。しばらくそうして歩いていると、やがて、前方に人だかりが見え始める。会社のすぐ近くだった。まさかとは思ったけれど、先輩がやじうまに立っていた。

「ああ落合さん。元気そうじゃない。大丈夫だったの?」

「元気なんですけど、難しい病気みたいで。でも、大丈夫です」

「難しい病気って? 寝坊病とか?」

 私はむっとして先輩を見た。この人はいつもこうやって嫌味を言ってくる。けれど今はこの人だかりが気になって、言い返さなかった。

「テレビの撮影かなにかですか?」

「あなたって本当にラクテン的なんだから」

 ラクテンというのは私のあだ名だ。落合天子でラクテン。タンラク的なあだ名だ。あまり好きじゃないけれど、例えば本当に遅刻した時なんかは笑って許されるあだ名だと思う。

「事故ですって。トラックかなにかが突っ込んだみたいよ。もう片付いちゃってるけど。ほら、あの地面が大きく凹んでいるところ。まだ血がべったり見えるでしょ」

 そんなことを嬉々として語る必要があるだろうか。けれど先輩が指さした場所には見覚えがある。朝、ぐずる子供をたしなめる父親がいた場所だ。なんだかそわそわしたような気持ちで、私も釣られて覗き込む。自分の白い息に邪魔されてよく見えないけれど、たしかに酷く地面がひび割れている。私のアパートの一部屋よりも大きな窪みがそこにある。そこにこびりついている黒っぽいのが本当に血だったら……まさか、あの親子じゃないよね? 

 見上げれば、ビルからは人が何人か窓から乗り出してスマホを構えている。あそこはうちの部署だ。本当に、どうしてみんなこうなんだろう。嫌になる。


 ふと視線を感じた。左目があった場所が熱い。ちりちりと、深爪したみたいな小さな痛みが走る。医者は嘘つきだ。痛くないって言ったのに。視線は空から降ってくる。きっとあの男の子だと、空を見上げた。

 彼と目が合う。向こうはなにも喋らない。ただ、なにかが燃えているような眩しい光が見える。強く青い光が見える。

 彼が見える。彼の後ろにも、地面が凹んだ道路が見える。揺らぐ空間が見える。彼の遥か後ろに駅が見える。何駅だろう、彼も同じ病気なのだろうか。それなら、会って話せばなにかわかるだろうか。そう思って見つめたそれが、唐突に凹む。質量をそのままぶつけたみたいに、駅の屋根が陥没して、電車がひしゃげる。何もぶつかってないはずなのに、真上からなんらかの攻撃を受けたみたいに。

「ばか、じっと見るな。もう一発落ちるぞ」

 どこからか声がする。空からするみたいで、真横からするみたいで、頭の中からするみたいだった。先輩が話しかけてきたけれど、私はその声を聴き洩らしたくなくて、人気のない方へふらふらと進んでいく。

「聞こえてるのか?」

 男の子の声だ。空を見れば、彼と目が合う。口元が動いている。なら、この声はきっと彼だ。声変わりしたばかりみたいな、ざらついた、けれど少し高い声。言葉を放り投げるように話すのに、声がとても柔らかい。

「聞こえてるよ。私は落合天子、あだ名はラクテン」

「悠長に自己紹介か。アンタ、どうして自分の目が落ちたかとか、何が起きてるとか、気にならないのか?」

「やっぱりあなたも同じ病気なんだ。うーん、気にはなるけど……明日も仕事に行かなきゃいけないし」

 男の子はふん、と鼻を鳴らした。

「じゃあ俺と無駄話をする気にしてやる。安心しろ、アンタはもう仕事に行く必要はない」

 なんだか怪しげな宗教に勧誘されているような気分になって私は押し黙る。フードと長い髪で気づかなかったけど、よくよく見るとかっこいい男の子だ。十個くらいは年下かな。

「質問はいらない。どうせ世界はアミノ酸のスープで埋め尽くされる。俺とアンタ以外は。アダムとイブってわけだが、俺のせいでもあるし、これからは永久に一緒なんだ。自己紹介はしておく。俺はカサイ」

「……ええと、カサイくん。言ってる意味がわからないんだけど。不思議なことが起きてて、それは私やあなたのせいってこと?」

「いや。人間は消費期限切れだ。世界中の人間が毎日一日でも多く生きられますようにと願っているなら……悪いことをしたけど」

「私たちが永久って?」

「死なないってこと。まあ、なんだっていいだろ。葛西臨海公園わかるか? 詳しい話はそこで」

 男の子はそれだけ言うと、一度だけひしゃげた駅を見て、肩を竦めると別の方に向かって歩きだした。不思議と嘘を吐いていないような気がするし、この病気のことも私よりたくさん知ってるみたいだ。彼は地面を見つめて、もう私なんてどうでもよさそうに去って行ってしまった。千葉ってどうやって行けばいいんだっけな、と眺めていたら大塚駅が崩れ落ちてしまった。さあ私の方も大変だ。京葉線まで止まってしまわない内に、急いで東京駅へ向かわなければ。


 カサイくんは背中を丸めてベンチに座っていた。コートのポケットに両手をつっこんで、前後にゆらゆらと揺れている。息が白い。空は灰色だ。

 若い子と会うのにこんな着古しのダッフルコートだったら怒られるだろうか。駅のコンビニで買ったミルクティーを二つ持って隣に座る。なんとなく、彼は余計な挨拶を嫌がる子な気がした。

 色々なところで「事故」が起きているけれど、観覧車はゆっくりと回っている。潮風は強く冷たい。どうしてこんなに寒いところで、二人してのん気に座っているんだろう。

「子供って思ってミルクティーにしたんだろ。俺、コーヒー派だから」

「あ……ごめんね。勝手に買っちゃって」

「別にいいよ。次からはそうして。覚えててくれたらそれでいい」

 言いながらカサイくんはミルクティーに口をつけて顔をしかめた。どうやら甘いものは苦手みたいだ。

「アンタと二人で生きていくしかないんだ。つまらないことで癇癪を起して、印象を悪くしたくはないからな」

「えっと……カサイくん。水晶落下症のこと、ずいぶん詳しいみたいだよね。お医者さんは、あんまりカサイくんが言うようなこと言ってなかったから……」

「俺が信用できない?」

 どんぐり眼というのはこういう目をいうんだろうか。てっきり機嫌を悪くすると思っていた彼はしかし、きょとんと眼を丸くしている。少しだけ反抗期のような素っ気ない雰囲気がある子だけど、多分、彼は彼なりに私に歩み寄ろうとしてくれている。

 灰色と青の中間みたいな虹彩がとても印象的だ。近くで見るとまつ毛が長くて多くて、とてもきれいな顔をしていた。十代か二十代か判りにくい造りをしている。

 私は答えあぐねた。信用できないって言葉は乱暴だ。あなたのことは信用できないなんて言われたら、私ならそれなりにショックだ。でも、いきなり色々なことがあって、現状を飲み込めてないのも事実だった。どういう風に言えば彼を怒らせないで済むだろうか?

「そういうつもり……じゃないんだけど」

「なに、はっきり言いなよ。そうやっていつも人の顔色うかがってるわけ? 初めて会った年下のガキにまで気使ってさ」

 彼の声色には馬鹿にするような抑揚はなかった。顔だって笑ってるわけじゃない。どちらかというと呆れてるみたいだった。このうだつのあがらなさにずっと苦しめられてきた。そんな私のどこがラクテン的なのだろう。

「あ……うん、ごめんね」

「違う違う。別に怒ってないし責めてるわけでもない。アンタってどうしてそうなんだ? もしかして、俺のこういう言い方が良くないのか……」

 カサイくんは考え込むような仕草をして、それからすぐに悪戯を思いついたみたいに笑う。表情がころころ変わる子だ。目は口ほどにものを言うなんて言うけど、言葉はきついのに瞳が優しいから、きっといい子なんだろうと思う。

「傷つけられたってアンタが思うなら……次からは機嫌が悪くなったとそう言えばいい。アンタと仲が悪くなること、俺は困るから」

「なにそれ?」

「俺の説明書。病気だのなんだのよりも、大事なことだろ」

 そうなんだろうか。目玉が落っこちることより、世界が終わっちゃうことより、彼と仲良くなることが大事なことなんだろうか。彼にとってはそうなのだとしたら、私はどうやって応えるといいのだろうか。真摯な態度に対してどの返事が正しいか考えることは、もしかすると間違っているのかもしれない。

「何か言いたいこと見つかった?」

「うーん。カサイくん言ったでしょ。子供じゃないって、年下のガキって……それってどう接したらいい?」

「はあ? それかよ。うん、まあいいよ。そうだな、やっぱりガキ扱いはしないでほしい。でも、アンタにもしも弟や可愛がってる後輩がいて……寂しいっていうならそうしても構わない」

 いっそあなたの方が寂しいんじゃないかという顔で笑うので、私は思わず手を握る。永久に生きるって言ったくせに、死んじゃってるみたいにひやりとした手だ。

「……なんだ。ほんとに弟、いるの?」

「いないよ。カサイ君の手を握ってあげたいなって思ったの」

「ふーん? じゃあ、握ってれば」

 カサイくんは私に手を握られたまま顔をそっぽに向けた。海を見ながら、ぽつりと話し始める。しずかな声だった。

「……最初に俺の目玉が落ちたのは今年の7月2日だった。そりゃ、パニックだったよ。何が起きたのかわからなかった。医者にも行ったけど要領を得なくてさ。俺は知りえる限りの情報媒体を使ってこのことを調べてたんだ。そして、落ちた目玉を並べていたら、文字みたいな傷があることに気づいた」

 言われて、私は今日落ちたばかりの目玉をポケットから取り出す。確かに何か刻まれている。よく見ると、アルファベットに見えなくもない。Mかな?

「持ってきてるのか。なら話は早いな。そう、俺も最初はMだった。それは全部で五つなんだ。MONEO──助言や警告って意味らしい。何個落ちてもその繰り返しだよ。それに気づいた時、突然空から声が降ってきた」

「空から? さっき、カサイくんが話しかけてくれたみたいに?」

「そうだ。かなり流暢な日本語だったよ。あんなに明瞭な幻聴があったら、たまらないってくらいにね。そいつが言うには……どうやら地球の人類を保護したいらしい。貞観三年……いや、もしかするともっと前から了承してくれる人類を求めてメッセージを送っていた──隕石を落として。それもさ、どうやら日本の隕石にだけ仕込んだらしい。七月二日、記憶にないか? 習志野隕石、それが俺とそいつを結んだんだって」

 ニュースで見た気がする。多分、同僚とかも話していたかもしれない。普段から気にしている事柄じゃないから定かじゃないけど。

「地球は、定期的に丸洗いしないといけないらしい。菌も微生物も草も魚も人間も、とにかく今は生き物が多すぎる。はるか昔恐竜の数を調整したのと同じように、また一回ある程度減らすか、分厚い氷の下で眠らすんだそうだ」

「どうしてカサイくんなの?」

「気づいたから、らしい。試行錯誤を繰り返して何度も隕石を落としてチューナーにした。瞳から体に信号を流したけど、情報量が多くて目玉がもたない。今度はその落ちた目玉にメッセージを刻んだ。けれど、向こうだって俺たちの文明にあったメッセージを送ることに難儀したんだな。俺がそれに気づいたから、俺をやりとりする相手に選んだ。所かまわず話しかけてくるから、傍から見たら俺は独り言のうるさい男だ。親に閉鎖病棟にぶちこまれそうになったよ。まったく、こんな世界すでに終わってるじゃないかって文句のひとつも言いたくなる」

 彼は溜息をついて、視線を私に戻す。

「親……そうだ。お父さんやお母さんも生き残れるの?」

「いや? やりとりって言っても一方的だ。ゲーム会社とその社員だけは助けてくれって頼んだけど、理解できないみたいだった。腹減ってるのかな、くらいのテンションでさっきの駅みたいに、実家にアミノ爆弾を投下されたよ。向こうからすればカブトムシの籠にゼリーを置いてるような気分だろうな」

 アミノ爆弾、と彼が呼ぶのはさっき私の目の前で落ちたやつのことだろうか。あの透明な隕石。もしかしたら、幸せな親子を公園で潰し殺したかもしれない、それのこと。彼のご家族を消し飛ばしてしまったかもしれない隕石、爆弾……たしかに。すごい質量にぶつかられてひしゃげた駅舎を思い出す。

「どうして」

「先に謝るよ。アンタが生き残ることになったのは俺のせいだ。声の主が一つだけ俺の言ってることを理解したせいだ。俺が、こう言った──それじゃあ俺はこのさき一人きりで地球で生きていくのかと」

 申し訳なさそうな、懇願するような目で彼は私を見た。大人ぶった口調とはうらはらに、迷子みたいな顔をしていた。風で前髪がさらさら揺れる。あるべき目玉がなくなった空洞が、寂しそうに乾いていた。

「地球の救世主とやらは、人間となにもかも分かり合えないくせに、寂しいってことだけは知っていた。そうして俺の機嫌を取るみたいにアンタを選んだ。現状に嫌気がさしているアンタならきっと同じく寂しいのだろうと思ったんだろう。案外、そいつも一人で寂しがっているのかもしれない。そして、同じ喪失体験をしていることが隙間を埋め合えるってことだと思ってる。アンタも同じ病気にして──つまり自分の言葉が届くようにしてさ。その内アンタもあいつの声が聞こえるんじゃないか。勝手だよな」

 頭の中をぐるぐると言葉が回る。つまり。地球は近いうちに終わってしまう。私とカサイくん以外は死んだり、冬眠してしまう。それはすごく悲しいことだ。仲の良い友達と時々するランチも、お菓子をくれる近所のおばさんも、ちょっと素敵だなって思ってた取引先の営業さんも、みんな全部なくなっちゃうんだ。

 ああ、でも、どっちにしろ。最近誰ともまともに会話していなかったんだ、なんてことも、同時に気づいた。仕事ばかりしてたなあ、なんて。一方的に言葉をぶつけられることは多々あった。でも、こんな風にお話をするのは久しぶりな気がした。

 多分、これからものすごく残酷なことが起きる。それがわかってて、私やカサイくんには止められない。少しだけ思ってしまった。もう、仕事に行かなくてもいいのかあ。

 でも困ったな。死ねないなんてとても困った。これから色んなものがなくなっていくのに、死ねない。どうやって暇つぶしをすればいいんだろう?

「あまたのすひせひらつかのやまひ。気づいていたやつも過去にいたはずなんだ。それでも、さすがに滅亡したなんて文献はないし、下手したら久々の地球丸洗いなのかもな」

「すいしょうらっかじゃないの?」

「ああ、医者が言ってたやつ? 知らないよ。神様だか宇宙人だかだって、誤字をするんだろ。そうだ、今の内にしたいことがあるなら付き合うけど」

「えー。どうしよう。もうずっと有休も使ってないし、何して遊ぶとか思いつかないな」

 カサイくんは唸る。どうしようもないようなものを見るような、かわいそうな目で私を見た。彼の方はゲーム会社を残したい、なんて縋れたのに。私はというと、もうなにも救えないと聞かされて、そうなのかと呑み込めてしまったから。

 そうだ。いいことを思いついた。きっと、今の私はさっきの彼のような、悪戯をする子供の顔になっているんだろう。

「ねえ今、機嫌が悪くなったよ」

「はあ? なに、どうして」

「可哀相な大人だなって顔したから」

「謝罪するからそんなことで怒るなよ」

「嘘。ただの冗談。でも、災難だったよね。カサイくんだって相手くらい選ばせてもらえれば良かったのに」

「別に? 俺はアンタのこと嫌いじゃない。そのくだらない嘘をつくとこだって、黙ってるより全然いいよ。将来的に嫌いになって喧嘩したって、北半球と南半球に分かれて五十年くらい別居したって、どうせ俺がアンタに謝罪しに行くことになるさ。お願いします、もう一度一緒に暮らしてもらえませんか? 花の冠だって作りますって」

 カサイくんは手のひらを握り返してきた。温かかった。まだ、世界中にたくさん人が生きているのに、この掌しか温もりのあるものはないような気がした。

「ふふ。五十年も一人だったら何しようかな」

「前向きに検討するなよ。ああそうだ、ペンギンすき?」

 妙に舌ったらずに、甘えるような声で彼は言う。年上の女の人の機嫌を取ることに慣れてるのかな。ちょっと意地悪をしたくなる。

「ペンギン? うーん、あえて好きでも嫌いでもないけど」

「そっかあ……ほら、アンタが寂しいならさ。氷の下でみんな眠ってるなら、その上で生活するのもいいかなって」

「それでペンギン? 南極ってこと?」

「誰もいなくなるんだし、元々どこの国のでもないし。勝手に住んでもいいだろ」

「じゃあ……そうだなあ。私もカサイくんの機嫌とっていい?」

「いいけど? 何してくれんの」

「別になんでもいいよ。こう見えて貯金だけはあるんだ」

「なんでもいいとか、簡単に言わない方がいい。そういう浅はかさがアンタを生きにくくしてきたんだ」

「大人っぽいこと言うんだね」

「……じゃあ言わない」

 そっぽを向くカサイくんが海をじっと眺めていると、見えない隕石がどぼんと落ちる。ほら、ここに栄養の塊をおいたよ、食べる? と空の使者が言っているみたいに。波が弾ける音に、鳥たちが飛び去る。

「ごめんね。子供っぽいとか大人っぽいとか気にしないで。カサイくんがしたいこと、しようね?」

「……観覧車」

 ゆったり回るそれを見上げて、彼はぎりぎり聞き取れる声量でそう言った。

「乗ろうか。壊れちゃう前に」

「……うん」

「ペンギンも見に行こうよ。南極はおいおいにして。ほら、ここって水族館もあるみたいだよ」

「……うん。知ってる。地元だから。天子はなにかしたいことないのか」

 空を見上げて考える。そう言われると特になにもしたいことはなかった。ただ、やけに素直に頷くカサイくんはとてもかわいくて、これはなかなかいい気分だと思う。じっくりと人と話すことって、こんなに面白いことだったっけ?

「じゃあカサイくんがしたいことをして、楽しそうにしてるのが見たいなあ」

「俺のことばっかり」

「それはカサイくんがいい子……いい男だからだよ」

「なに、無理に言い直さなくていいけど……だいたい、それで俺がヘンなこと言ったらどうするつもり?」

 カサイくんは不敵に笑った。かわいい子。

「変って? 一緒に死のうとか?」

「……ああ、うん、まあ。なんでもいいけど。そういう、受け入れがたいこと」

「んー、いいよ。神様がいいって言うならね。でも、どうせだからもう少しだけ遊んでからにしよう。おやすみはいっぱいあるんだし」

「……わかった」


 上空百十七メートルから見る町はジオラマみたいで。なるほど人はみんな虫みたいに見える。遠くの大きなビルがどんどん潰れていくのが見える。あのどれかの建物には、きっと私の知ってる人がいたけど、それはもうどうしようもないことらしい。

 私のことを大事にしてくれた人もそうでもない人もみんなすぐにいなくなって、やがて一つのおいしいスープになる。栄養たっぷりで、どこからどこまでが誰なのか、見分けのつかない海になる。

 いつまで経っても飲みきれないスープを分け合いながら、私たちは次に命が生まれるまで、もしくは目覚めるまでを二人で生きていくらしい。

 そんなこと、一体誰が信じるのだろう。私たち、互いの口元に大きなスプーンを運んで、飲ませ合ったりしながら仲良く、時々喧嘩して生きていけるかな。寂しがり屋なくせに二人きりしか残さない、神様の目の下で。

 スープばかりじゃ飽きてしまうから、野菜の種を撒くこと、神様は許してくれるだろうか。究極のスローライフをカサイくんと二人で。毎年好きな花を順番に植えっこしていくくらいなら、罰は当たらないと信じたいけど。

「家庭菜園しても平気かなあ」

「やるだけやってみたら? もしかしたら大根はダメだけどキュウリはいいとかあるかもしれないだろ。あ、でもトマトはやだ。これは絶対。大根もなくてもいいし」

 はい、と私は素直に返事をする。これはいいよ、これは嫌だよ、なんていちいち確認しあって、そういうことを今までしてきたことはあっただろうか。

「あ、俺そろそろ目生えそう」

「そういうのってわかるんだ」

「アンタもその内慣れるよ。色々教えてやる……あーあ、ペンギンだけ生き残れないかな」

「お願いするだけしてみようか?」

 神様、どうかキュウリとペンギンだけは生き残らせてくださいなんてお祈りする人類は、きっと私たちが初めてだと思う。だから珍しく思って、どうか聞き入れてください。

「どうして生き残らせるのが日本人だったんだろうね」

「そいつの名前、カナメっていうんだって。日本っぽい発音だろ。だからじゃないか?」

「へえ、神様ってエコヒイキもするんだね」

 そりゃそうさ、と空から声がした。

 警報が鳴っている。蜘蛛の子を散らすみたいに、観覧車から慌てて人が逃げていく。空の雪をかき分けて、大きな波が立つ。神様、アミノ酸なんていらないからカサイくんのためにペンギンを残してください。

「天子! 見ろよ! なんだろうあれ、新種かな?」

 はしゃいだカサイくんが海を指さした。見たこともない真っ白なペンギンたちが、十、百、たくさん。地上の混乱をよそに、すいすいと泳いでいた。

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