第3話 片目の世界

 お香に火をつけると、白檀と薄いバラの香りを感じる。白い煙が、天女が羽衣をなびかせるように部屋の中を漂う。


「彩乃ちゃん、何か悩み事があるの?」幸子さんの優しい声が、香りの中で響く。

 軽く目をつぶって、香りにうっとりしていた私は、ゆっくり目を開けた。私の前で、幸子さんがが、微笑んでいる。顔のシワが、さらに笑顔を柔らかく見せている。 

私は、ふうっと息を吐いて、頬杖をついた。少し首をかしげると、すっと幸子さんの手が優しく柔らかく私を撫でる。この時がすごく好き。

「そんな風に見える?」

「うふふ、なんとなくよ。疲れているのかなっとも思ったけどね」


私は、幸子さんの手のぬくもりを感じながら、自分の子供の頃のことを思い出していた。


 私とあっちゃんは、ほぼ幸子さんに育てられたと言ってもいい。幸子さんは、私が子供の頃は家で、着物の仕立てや学生服の下請けをしていた。家にいる時間が長い幸子さんは、私と淳の面倒をよく見てくれた。


 実施、私もあっちゃんも、「ママ」「パパ」より「幸(さち)」という言葉を、一番最初に覚えたと聞いている。


 はっきりとは覚えてないのだが、幼稚園ぐらいだったと思う。私が、幸子さんの左目が見えていないと認識したのは。


 それまでも、彼女は、左目に眼帯をしていたが、幼い私には、「目が見えない」と言うことがよくわからなかった。


 幸子さんが食堂の前の子供部屋に入ると、時々、部屋の中に私がいるのに、「彩ちゃん、どこにいるの?」と聞くことがあるのだ。私が「ここよ」と答えると、こちらを向いて微笑む。不思議だった。

 そのうち、ある一定の方向に私がいるときだけ、「どこにいるの?」と聞いてくることに気がついた。つまり、幸子さんの左手側、奥にいると、彼女には、私が見えないと気づいた。これが、目が見えないと言うことなのかとぼんやりと思ったのを覚えている。

 

 それを知ってから、幸子さんが「どこにいるの?」と聞くと、そっと左後ろから近づいて、驚かせたりした。また、かくれんぼよろしく、幸子さんの左側にぴったりついて、見つからないようについて回ったりした。幸子さんも私のいたずらに気がつき、それに付き合ってくれるようになった。例えば、私が声を殺して、幸子さんの左側に立っていると、彼女は、私の気配を感じて、逆に、わぁっと言って私を捕まえた。面白かった。


 時には、幸子さんの膝の上に座って、幸子さんの顔を見ながら、私が体を左右に振る。左に私が倒れると、幸子さん私が見えな。右に倒れると見える。

「彩乃ちゃん、見えた。あっ、見えなくなった」と幸子さんもよく付き合ってくれた。私は、きゃっ、きゃっと声をあげて喜んのだ。

見えないはずなのに、私のことを見つけたりする幸子さんを、私は特別な人なんだと思っていた。弟の淳も、幸子さんのことを「眼帯してて、かっこいい」と言っていた時期もあるくらいだった。


 そして、ある日、私は、片目が見えないのは、特別なんだとさらに思う事件が起きた。


 その日も、いつもの通りに、幸子さんが私を呼んだ。私は、かくれんぼができるので、ニコニコしながら、幸子さんの左奥に立った。

「こっちよ!」っと幸子さんに声をかける。

「彩乃ちゃん!隠れたわね、捕まえちゃうわよ」と、私に近づいてきた。私は、「きゃぁ!」と笑い声をあげて、幸子さんから逃げた。


 その場には、私の近くであっちゃんが、おもちゃの自動車を転がして遊んでいた。たまたま、そのおもちゃを、勢いよく転がした。そのおもちゃの車は、幸子さんの方に向かっている。小さな子供の力だから、スピードはたいしたことはない。そのたいしことないスピードが問題だった。そのおもちゃの自動車は、幸子さんの足元に向かっていき、タイミング悪く、彼女はそれを踏んでしまったのだ。


 どんっと大きな音がした。幸子さんは、反対側に広げていた私のお人形ハウスの上に、勢いよく転がったのだ。一瞬、何が起こったかわからなかった。はっと幸子さんを見ると、腕のあたりから、血が広がっていっる。あっちゃんは、音に驚いたのか、大声で泣き出した。

「あたた、ごめん、あっちゃん。びっくりしちゃったね。」と幸子さんは、起き上がろうといた。でも、足首を押さえている。

「つぅ、捻ったわ。」とつぶやいた。私は幸子さんに駆け寄った。

「ごめんね、彩乃ちゃん。お人形ハウス、潰しちゃったね。新しいの買わないとね」と声をかけてくれた。私は、首を横に振った。


「痛い?幸子さん?」とそれだけをいうのがやっとだった。

「ありがとう、優しいのね、彩乃ちゃん。じゃ、会社に連絡してくれる?わかる?」

「あれ?」と私が、台所にあるインターホンを指差した。

 私たちが住んでいる家と、両親と祖父母が働いている会社は隣り合わせだ。そして、緊急の場合のため、インターホンでつながっている。

「そうよ。やったことあるよね。赤いボタンを押すと、誰かがでるから、私が転んだといって欲しいの」と幸子さんが私にいった。頷いて、赤いボタンを押した。

「はい、何かあった?」と母の声が聞こえた。

「ママ、幸子さんが転んだ」

「え?彩乃?」と母の驚く声。ちょっとの間があり、さらに母は続けた。

「幸子さんが転んだのね。淳の鳴き声が聞こえるけど、どうしてだか言える?」

「泣いているだけ。」

「誰か怪我をしたのかな?幸子さんかな?」

「うん、血が出ている。足を押さえている。」

「彩乃は、怪我はない?淳は?」

「怪我してない。あっちゃんも」

「そう、パパがもう着く頃だから、もう少し待ってね。ママもすぐいくからね」と優しい声が聞こえる。インターホン越しに話をしていると、玄関が勢いよく開いた。

「彩乃!何があった!」と父が飛び込んできた。

「パパ!」と私は父に駆け寄った。

「幸子さん、血が出ているの。転んじゃったの」


 父は、私を抱えて、子供部屋に進む。あっちゃんは、大声をあげて泣き続けている。幸子さんは、父の姿を見ると、すぐ謝った。

「ごめんなさい。ドジしちゃったわ。足首を捻ったみたい。ちょっと立ち上がれなくてね」

「無理しないでください。腕も怪我してますね。」と父は、幸子さんの様子を見ている。私は、あっちゃんのところに行って、よしよしをしてあげた。そのうち、母もやってきた。


 幸子さんの腕の怪我はたいしたいことなかった。ただ、おもちゃに引っ掛けた傷から出た血が、薄手の白いブラウスに大げさに広がったのだ。その血があまりにも鮮明だったので、この記憶がはっきり残っていたのかもしれない。

 幸子さんの足首は、捻挫のみ。骨には異常なしとの診断だったと記憶している。病院から帰ってきた父は、幸子さんのたっての願いもあって、そのまま、新しいおもちゃを買いに、私をおもちゃ屋に連れていってくれた。


 私は、嬉しい反面、ちょっと複雑な気分だったのを覚えている。私は、父にその複雑な気持ちを父に伝えてみた。

「パパ、今日、幸子さんとかくれんぼしていたの。彩乃が、『こっちよ』って幸子さんを呼んだの。そしたら、あっちゃんの自動車を幸子さんが踏んだの。幸子さんを見えない方に、歩かせたのは彩乃なのね。かくれんぼしなかったら、幸子さんは怪我しなかった・・・よね」ちょっと上目遣いに、父の反応を見たっけ。


 父は、「そうか、かくれんぼか」そういって、少し考えていた。「遊んでいるときに、怪我をするのはこれからもあると思う。ただ、できるなら怪我は少ない方がいいよね」と父は、優しく答えてくれた。そして、ポケットからハンカチを出した。

「彩乃、幸子さんの見ている世界を体験してみようか」と父は、私の前にかがんだ。私は、訳がわからなかったけど、好奇心もあり、頷いた。父が優しくハンカチで、私の左目を覆った。ハンカチ眼帯だ。


 私の視界は、狭くなったが、前方左側も、45度くらいまで広がっている。ただ、左側が真っ暗だ。初めは、父が左側に立って手を引かれて、お店の中を歩いた。特に不自由さは感じなかった。

 次に、父は、私の右手を取って歩いた。その時は、少し、怖かった。左横から、他のお客さんが突然視野に入ったりすると、ビクッとした。片目を隠して歩いている間、父は「足元のおもちゃがはみ出ているから、気をつけて」とか「左に曲がるよ。棚があるからね」と声をかけてくれた。

 どのくらいハンカチ眼帯をして、お店の中を歩いたろう。眼帯を取った時、ものすごく安心したのを覚えている。


 父は、「どうだった?」と聞いてきた。私は父の質問に、興奮して答えた。

「幸子さんは、見えるものが少ない世界に住んでいるのね。すごいよね、幸子さん。彩乃よりずっと、見えないのに、まるで同じように見えているみたいに歩いたりするもの。魔法でも使えるのかな?」

父は苦笑した。そして、「そうか、幸子さんはすごいか。そうだね、すごいな」と私の頭を撫でた。私は急いで付け加えた。

「でもね、ちょっと怖かった。パパが、いなかったら彩乃は歩けなかったわ。ありがとう、パパ。声もかけてくれて嬉しかった。そうだ、私もパパのように、幸子さんに声をかけるわ。また、あっちゃんのおもちゃを踏まないようにね。幸子さん、声をかけたら嬉しいかな?そうだ、あっちゃんは、おもちゃをそのままにして寝ちゃったり、どっかいっちゃたりするから、お片づけしないと。これからいろいろ大変だわ」と母を真似るように言ったのを覚えている。

私のその様子をみて、父は微笑んだ。

「そうだね、声をかけてあげることは大切だね。おもちゃも、踏まないように声をかけてあげるといいね。彩乃は、いい子だ」と言い、頭を撫でてくれた。

 

 この時から、私は、幸子さんが特別な力を持っていると信じた。「一目置く」っていうのかな。子供の時には、その言葉は思い浮かばなかったけど。

 

その事件があってから、私は周りをよく見るようになった。慎重になったとでもいうのだろうか。幸子さんが、また転ばないように、特に子供部屋は気をつけた。自分のおもちゃはもちろん、あっちゃんが散らかしたおもちゃも、一緒に片すようになった。


大好きなスーパー幸子さん、魔法が使えるかもしれない幸子さんのために。

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