第2話 家族
「幸子さん?いま、いいですか?」障子越しに、大叔母、幸子さんに声をかける。
「彩乃ちゃん?はい、どうぞ、お入りください」
私は、廊下で両膝をついて、すっと障子を開ける。着物姿の幸子さんが、机の向こうに座っている。
「伊勢にお参りに行ってきたので、いつものお店でお香を買ってきました。どうぞ、使ってください」
「いつもありがとうね、彩乃ちゃん。嬉しいわ!早速、お香を聞きましょうね」私は、幸子さんに笑顔で答える。
茶道の先生をしている祖母の妹、幸子さんは、床の間の横の地袋を静かに開け、小さな木箱を取り出す。私は、床の間に、可憐に飾られている白いユキヤナギに目がいった。
「春だわ」と心の中で思った。
「幸子さん、床の間のユキヤナギ、少しの間、庭に出しましょうか?大丈夫だと思うけど、煙でお花が苦しかったら可哀想だわ。」
「そうね、お願い」
そう言いながら、幸子さんは、片目が見えないとは思えない手つきで、木箱を机の上に置くと、布に包まれたものを取り出した。
布を取ると、ちょっと不恰好なレモンの形をした香炉が現れる。
九谷焼の香炉だ。
誰が見ても、素人が作ったとわかる。しかし、幸子さんは、まるで高価な楽茶碗のように、いやそれ以上に丁寧に扱っている。
以前、私がこの香炉に合わせて、「レモングラス」の香りのするお香や、人工香料を使ったレモンの香りをするお香を買ってきたことがあった。幸子さんは、面白がってくれた。「若い人は、このようなお香を使うのね。すごいわ、今は変わったわね」とはしゃいでいた。そのとき、少し饒舌だった。
「彩乃ちゃん、『智恵子抄』って知っている?」
「え?えっと、詩人の高村光太郎の作品ですよね。教科書で、『道程』を読んだことがあるかな?『智恵子抄』は、題名は聞いたことがあるけど」
幸子さんは、眼帯をした顔でふふっと微笑んだ。
「私ね、女学生の頃、『智恵子抄』が愛読書だったの。『智恵子』とは、精神を病んでしまった高村光太郎の妻のことなの。その妻のことを読んだ詩集が、『智恵子抄』なのよ。その中でも、『レモン哀歌』って詩が好きでね。まぁ、私たちの時代の女性は皆、この詩が好きだと思うけど。彼女は、死ぬ間際に、レモンを噛んで一瞬だけ意識が戻ったことを綴っているのだけど、それに憧れちゃってね。そのとき、レモンの形をした香炉を欲しがったわ」
幸子さんは、本当に女学生のように可愛らしく私に語ってくれた。その話を聞きながら、ふと疑問に思ったことを彼女に聞いた。
「幸子さん、なんで、香炉だったの?別に、置物でもよかったじゃない?」
「そうね・・・。でも、香炉が良かったの。そのとき、私の祖母がね、彩乃ちゃんにとっては高祖母に当たるのかな?まぁ、その祖母が、香炉を持っててね。その香炉は、父、つまり彩乃ちゃんの高祖父の手作りだったの。羨ましくてね。私も香炉が欲しかったのよ」
「ふ〜ん、ちょっとロマンチックね」と私はそこで質問をやめた。本当は、もう少し幸子さんに質問をしたかった。誰がこの陶芸教室でつくったような香炉を幸子さんに渡したのかってね。でも、聞かずとも、多分、これは、幸子さんの好きな人が作ったものだと、そのとき確信したから。そして、それが原因か何かで、幸子さんは片目を失い、一生独身を通しているのだと思ったからだ。
黄色の釉薬をまとったレモンの形の香炉が、机の上に置かれた。その香炉の蓋を、そっと、幸子さんがあける。
次に、私が渡したお香の入っている包みを開けて、幸子さんがすっと香りを嗅ぐ。
「上品な甘さのいい香り、ほっとするわね」
「幸子さんにそう言ってもらえると嬉しいです。伊勢まであっちゃんを叩き起こして行ってきた甲斐がありました」
「あっちゃんも行ってくれたの?それはそれは、ありがたいお香ね」
「そうなんですよ、稀に見る貴重なお香かと存じます」と私がおどけて答えると、二人で顔を見合わせて声を立てて笑った。
幸子さんは、私の大叔母になる。祖母・和子さんの妹だ。色々あって、一緒に住んでいる。その大叔母様をなぜ幸子さんと呼んでいるかというと、女性の複雑な思いがある。
ことの発端は、私が誕生したことだった。私の両親が私に、大叔母に当たる幸子さんをどう呼んだらいいか迷ったからだ。淳はまだ生まれてない。
祖母の和子さんは、まぁ、「おばあちゃん」。すでに他界しているけど祖父は「おじいちゃん」。これで問題はなかった。そして、幸子さんのことは、本来は「大叔母」ってことになるが、「おおおばちゃん」は子供にとって、大人だって呼ぶのは面倒だ。で、「おばちゃん」。
子供達には、そのように呼ばせることを伝えた。
祖父は、快諾した。「おじいちゃんか」と嬉しそうに、つぶやいたと、母・涼子さんから聞いたことがある。すると祖母の和子さんが、反発した。「なぜ、2歳しか違わないさっちゃんが『おばちゃん』で、私が『おばあちゃん』なの?納得いかない」とごねた。涼子さんが、何度説明しても、聞き入れない。
なぜか和子さんは、「おばあちゃん」と「おばちゃん」の言葉のニュアンスにやけにこだわった。
「お母さん、おかしいんじゃないの?彩乃は、お母さんの孫よ。彩乃から見たら、あなたは『おばあちゃん』でしょ?別に、幸おばちゃんがいいなら『幸ばあちゃん』でもいいけど、私が『おばさん』って呼んでいるに、その私の子供だけ『幸おばあちゃん』って呼ぶのは、おかしくない?」と涼子さんが、突き放すように和子さんにいった。
女性同士ごちゃごちゃと言い合いが始まった。祖父と父は、無言。
そこに幸子さんが、母に助け舟を出した。
「和ちゃん、私も同じおばあちゃんだけど、やっぱりね、子供たちが混乱しないようにするのが一番でしょ。涼子ちゃんも、和ちゃんと私に気を使って、呼び分けを提案しているのだから、ここはね、それでいいじゃない。」
が、和子さんは、引き下がらない。
「涼子がさっちゃんを『おばちゃん』と呼んで、孫たちもさっちゃんを『おばちゃん』って呼ぶのっておかしくない?不自然でしょ!」
「別に、不自然じゃないでしょ。無理やり「おおおばちゃん」とか呼ぶ方が不自然よ。それに、私はこれまで通りお母さんのことは、『お母さん』と呼ぶのだから、『おばあちゃん』と呼ぶのは、彩乃やこれから生まれるかもしれない私の子供だけよ」
「涼子、若い身空で、『おばあちゃん』と呼ばれる私の気持ちも少しは、考えてよ。初めての経験なのよ、『おばあちゃん』って呼ばれるのは!」
「何が『若い身空』よ。どこが、若いの、お母様!『若い身空』っていうのは、二十歳ぐらいの乙女に使う言葉じゃないのかしら!」と皮肉たっぷりに言い返す。
「あのね、『おばあちゃん』と呼ばれるには、私は、まだ若いってことよ。そのくらい分からないの、あなたも頭を使いなさい」
「母さん、十分『おばあちゃん』の年だから心配ない!安心して、『おばあちゃん』と呼ばれてちょうだい!初孫よ、あなたの!」
「そうよ、嬉しいわ。どんなに可愛くない娘の子供だろうと、孫は別よ。でもね、さっちゃんが、『おばちゃん』で私だけが『おばあちゃん』なんて嫌なのよ!」
「幸おばちゃんは、独身貴族なの!その『貴族』の称号がある限り、どんなに年をとっても彩乃の『おばあちゃん』にはならないの、母さんと違ってね!」
「まぁ、それはさっちゃんと私に挑戦状を突きつけているのかしら、涼子!」
「何が挑戦状よ!何も突きつけてないわ。言いがかりも甚だしいわよ。私たちは、ただ、呼び名の話をしているだけでしょ。ようは、家族の中で、認証ができればいいのよ」
「『認証』って何よ!涼子、その機械的な考えを改めなさい。『人情』ってものを感じないわ!」
「家族の呼び名に『人情』が必要なの?だったら、名前が一番いいじゃない。『人情』と『認証」が一緒になった代物よ!」
「まぁ〜可愛くないわね。名前を『代物』ってなによ!あなたの名前を決める時、どれだけ悩んだと思うの、ねえ、お父さん!」
話がどんどん違う方へ向かっていく。
その激しい話し合いに、引き込まれそうになった祖父の気持ちは、いかばかりか。多分、「俺を巻き込むな」と思ったと私は思う。祖父は、争い事を嫌う、優しい人だったから。
・・・祖父に限らず、誰もこの言い争いに巻き込まれたくないか。
涼子さんは、エンジン全開で、和子さんに言い返す。
「どれだけ悩んだか知らないけど、それで『涼子』ですか?もっと凝った名前もあるでしょうにね」
すると、それを聞いた祖父が、その時だけは素早く口を挟んだ。
「『清く、澄でいる』という意味だ。それに、他の意味もつけようとした「香り」とか「音」とか・・・。でも、清く、澄んでいるだけで、十分だから、『涼子』にした」
祖母と母は、まさかここで父が口を挟むとは思わなかったようで、しばし沈黙。
「そう、ありがとう、お父さん。私、涼子って名前気に入ってるよ」
「ならいい」祖父は、そのまま目を閉じた。
すると、私の父が提案をした。
「あの・・・なれば、女性陣は、皆名前で呼ぶのはどうでしょう。私も常々呼び方には、困ることがあったのです。「お父さん」「お母さん」はいいとして、幸子さんのことを「おばさん」と呼ぶのは、なんとなく気が引けていたのです。それに、ちょっと間違えると「おばあさん」と言ってしまいそうで、いつもびくびくものでした」そう話す父の方を、和子さんと涼子さんは、睨みつけるように見ている。そのプレッシャーの中、父は話を続けた。
「でも、お母さんを「和子さん」、おばさんを「幸子さん」と呼ばさせていただければ、これはこれでわかりやすい。僕たちの子供にとって、どちらが『おばあちゃん』でも『おばちゃん』でもいいのです。お二方が、大切な家族だとわかればいいのですから。それに、家族の状況は、歳が経つにつれて、自分で理解していくでしょう」と。
和子さんは、父の提案を聞いて、大喜びしたらしい。
「そうね、そうね!孫に、『和子さん』なんて呼ばれたら、最高だわ!特に男の子でもできて、そう呼ばれたら、涙が出るかも!!そうしましょうよ!決定!」
それで決まったと思ったら、今度は、母がさらにごねた。
「じゃ、私も子供に名前で呼んでほしい・・・お母さんだけど、その前に『涼子』だわ」
それを聞いた和子さんは、すかさず反撃。
「子供みたいなこと言ってるんじゃないわよ、涼子。『お母さん』と言う呼称は、子供が家族の中で、親を親として『認証』する大事な呼び名よ!あなたの言っている通りにね。子供に『お母さん』を『認証』させるのは必要でしょ。『お・か・あ・さ・ん』!ほほ!」と皮肉たっぷりに良い、笑った。
「子供みたいなこと言ったのは、お母さんでしょ!」半泣きで言い返す涼子さん。
「涼子、『和子さん』と呼びなさい。決まったのだから。智幸さんの提案よ!」指差しながら、和子さんは涼子さんに言い切った。
この時涼子さんは、何も言い返せなくて、ぶすくれていたと後で父が教えてくれた。
この時から、祖母を和子さん、大叔母を幸子さんと呼ぶことになった。私とあっちゃんのためでもあったが、呼び名を変えることによって、呼家の中の雰囲気も変わったと父が言っていた。
「和子さん」「幸子さん」と呼ぶことが、家族の中で決まってから、さらに家の中は明るくなったらしい。まず父が幸子さんに話しかけることが多くなった。
そうなると、祖父も幸子さんに声がかけやすくなる。どうやら祖父も、幸子さんの呼び名で悩んでいたらしい。「さっちゃん」と呼ぶべきなのか「幸子さん」と呼ぶべきなのか迷っていた。いろいろ使い分けていたらしいが、「幸子さん」で統一されたことにより、より声がかけやすくなった。
大人になってから、改めて父からこの話を聞いた時、私はちょっと和子さんの企みを感じだ。新しい家族に、幸子さんは和子さんと同じなのだとわかるようにしたかったのかもしれない。それは、多分、両親も薄々感じているのかもしれない。
ちなみに、現在、私と淳は母を「涼子さん」と呼んでいる。時と場合によっては「お母さん」になるのだが、母も、名前で呼んで欲しかったらしい。
あっちゃんが、中学を過ぎた頃、ほぼ、強制的に「母」から「涼子さん」と呼ばされることになった。
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