キャベツ

瀬尾 三葉

キャベツ

 お通しのキャベツは、硬い芯の部分ばかりが盛られていた。宏樹はそれを一欠片つまみ上げて、ぱきっと噛み砕いた。唇がもごもご動く。宏樹を見ていると、健康という二文字が浮かんでくる。基本的で理想的で幻想的なもの。

「最近どう?」

 私が同じようにごまだれのかかったキャベツを口に運ぶと、宏樹は言った。

「んー、なんかあったかな」

 私は芯を噛むのに苦戦しながら、答える。月に一度か二度、地元の居酒屋で交換するお決まりのセリフだった。

 そこでちょうど注文したビールが運ばれてきて、どちらからともなくグラスを合わせる。黄色い炭酸が喉を通ると体の空気が抜けていくような感覚がして、ぷはっと息を吐く。宏樹をちらっと見ると、安い居酒屋のテーブル席で私の目の前に座った彼は、白い歯を見せて笑っていた。やっぱり健康的だな。私もつられて笑った。

「何回飲んでもビールって美味いよなぁ」

「ねー、ほんと。社会人になってから特に」

「わかる。仕事大変だもんな」

「最近忙しいの?」

 もう十回くらいは会っているのに、毎回同じような言葉を交わし合う。社交辞令と手抜きの間のような、くすぐったい空気感がなぜか好きだ。ふわふわするのに、安心する。

「結構忙しかったな。この間ようやくプロジェクト引き継いだところ」

「へぇ、すごい。なんのプロジェクト?」

「なんかねぇ」

 宏樹は私の質問に律儀に答える。味もろくにしないキャベツを噛みながら、一生懸命喋る宏樹の口元を眺めていた。右の口角の少し下にある小さなほくろが宏樹の言葉とともにひょこひょこ動いて、かわいらしい。

 初めて会った時は、もっと大人しいほくろだった。誰かの言葉に大きな口を開けて笑っているか、微笑みながら頷いているかのどちらかだった。

「俺、体にほくろ多いんだよね」

 私が口元のほくろについて聞くと、宏樹はそう言った。初対面なのにそんなことを言うなんてよほど慣れている人なのかと警戒したけれど、宏樹に他意はないらしく、変に疑った自分が恥ずかしくなったのを覚えている。

 初めて顔を合わせたのも居酒屋だった。都内の少し照明の暗い六人用の半個室で、宏樹は私の正面に座っていた。

 合コンやろう、という会社の同期の由紀の誘いで参加した飲み会だった。しぶしぶ行ったわけでも、気合を入れて行ったわけでもない。暇だし、彼氏と別れて半年経っていたし、たまにはいいかなとなんとなく行ったのだ。そろそろアラサーだし。女子メンツは私と由紀と紗英。男子メンツは、由紀の大学時代のゼミ仲間の同期。その中の一人が、宏樹だった。席替えをするほどでもない人数の出会い目的の飲み会は二時間ほど続いた。

 男子三人は会社でも仲がいいらしく、それぞれキャラクターはお互いの間で決まっているらしかった。体育会系っぽいノリで一人が喋って、もう一人が冷静につっこむ。宏樹はその二人に話のオチとしてイジられるのが役割のようだった。

「俺この間めちゃくちゃなミスやらかして上司にこてんぱんに怒られてさぁ。あれは結構キツかったなぁ。社会人生活で一番へこんだかも」

「あんな大事な資料なくすなんてお前が百パー悪いわ。ま、宏樹は資料なくしすぎて会議室出禁になってるもんな」

「そんなわけないだろ!」

 みたいな。

 学生かよと言いたくなるような雑な扱いにも、宏樹はきちんと対応していた。偉いな、と思った。正直、二人が宏樹を少し見下しているような気がしたのだ。それに気づいているのかいないのか、宏樹は自分の話もろくにせずに、きちんと人の話を聞いて、笑って頷いて反応していた。三人の会話が面白かったわけではないけど、宏樹がいい人だと言うのは伝わってきた。いい人すぎて、グループ内で便利な存在になってしまう人だ。

 平日ということもあって、飲み会は一次会でお開きになった。駅でそれぞれの家路に向かって別れ、私と宏樹は同じ電車に乗った。

「伊藤さんはどこまで?」

「真嶋まで」

「え、俺の地元も真嶋」

「えっそうなの?すごい偶然。今も実家?」

「いや、今は真嶋のちょっと先に一人暮らししてる。伊藤さんは実家?」

「そう。じゃあ私たちどこかで出会ってるかもね」

 思いもよらない共通点に私たちは盛り上がった。小学校はどこだった?中学校は?高校は?これまでの二時間で明かす気すら起きなかったカードがするすると捲られていく。

 不規則に揺れる電車の中で私たちは二人だった。

「見事に被らなかったな」

 私たちは同じ地域で育ちながら、生活範囲は惚れ惚れするほど重なっていなかった。隣の小学校、隣の中学校、偏差値が同じくらいの同地区の高校‥‥‥。こんなに近くにいたのに今まで出会わなかったなんて、逆に奇跡みたいだと思った。

 私たちに直接の関わりはなかったけれど、共通の知り合いはかなり多く、学生時代の記憶を遡って思い出せるだけの名前を出し合った。知ってる、知らない。話が弾んでどんどん脱線する。部活の話。バイトの話。ほくろの話。

『次はぁ、真嶋駅ぃ、真嶋駅ぃ』

 鼻にかかったような車内アナウンスが私たちに一瞬の沈黙をもたらした後、宏樹が言った。

「また飲みに行かない?」

 私は迷わず頷いた。

 翌日、昨日はハズレだったねと残念そうな二人に、宏樹とのことは言わなかった。大した理由があったわけでもなく、言わなくてもいいような気がしたのだ。その日のうちに来た「今日はありがとう」で始まる次回のお誘いは、一人で何度も読み返すだけにした。押し入れにしまった宝物を、誰もいない時だけこっそり取り出して愛でるような感じで。秘密をスパイスにして、宏樹の存在は私の中で確実に大きくなっていった。

 あれから約三ヶ月。変わったことと言えばお互いを下の名前で呼ぶようになったことくらい。好かれていることはわかってるけど、好意の種類を打ち明け合わない関係が続いていた。私はこの関係性が結構好きだ。

「そういえば、うちに派遣の子が来た」

「派遣?」

「そう」

 宏樹が二杯目のビールを飲み干す。三杯目は梅酒のロックを注文した。これも、いつも同じ。

「隣の部で事務の人が一人定年退職してさ。今ちょっと忙しいらしいから、その代打」

「女の人?」

「そう。俺らの四つ下かな?」

「へぇ。どんな感じの人なの?」

「俺はあんま関わりないけど、みんなは、可愛いって言ってたかな‥‥」

 梅酒が運ばれてくる。みんなは、を強調して語尾を濁した宏樹は、助かったと言わんばかりにグラスに口をつける。宏樹の心はすぐに顔に出る。

 宏樹はどう思ってるの、その人のこと。

 目を伏せて、飲みかけのグラスを弄ぶ。

 別に私も知りたいわけじゃない。ただ、それを聞いたらどうなるのかという好奇心があるだけだ。私のことが好きだから、その子のことはどうも思ってないと言えるほどの力量が彼にあったら、私たちは今こんな所にいない。笑ってはぐらかすかな?困って顔を赤くするかも。意外と、この流れで告白してくれたりして。

 気になるのに、聞けない。だってそれを言ったら私たちの関係が崩れてしまうから。

「ふーん。今度写真見せてよ」

 だから私は、既に気まずそうな彼に気づかないフリをして、明るい声で言う。宏樹、私は何にも気づいてないよって。

 何かのゲームみたいだ。相手の心情を読んで、次の一手を考えそれに対する反応を予測する。自分の思い通りにいけば勝ち。私はだいぶ、このゲームにハマっている。それとだいぶ、宏樹はこのゲームが下手だ。

 健康だな、と思う。宏樹の精神や思考はすごく健康的だ。

「今日も実家に泊まるの?」

「うん。そのつもり」

「親孝行だね」

「偉いだろ。あみと初めて飲んだ時にさ、なんとなく実家に帰ったらばーちゃんすげぇ喜んでさ」

「おばあちゃんと暮らしてたんだっけ?」

「うん。ぶっちゃけいつまで元気でいてくれるかなんてわかんないから。できるときに孫孝行しておこうかなって」

「えらーい」

「棒読みだな。あみは実家だから親のありがたさまだわかんないかー」

「なになに、急に上からじゃん」

「一人暮らししたらわかるって。実家、まじで楽」

「まぁね、それはそうだよねぇ。私、家事とかなんもできないもん」

「おっ、俺めっちゃ自炊するよ。あみより料理できる自信ある」

「言ったな。今度なんか作ってもらうからね」

「おーおー、任せとけ」

 店員の掛け声や隣の席の話し声、キッチンでお皿のぶつかる音や水の流れる音がするのに、宏樹の声だけが私の耳にはっきり届く。このテーブルだけが透明な膜で覆われていて、居酒屋の一角で世界から切り離されているみたいだ。この世界の空気は私によく馴染んで、いつまでもここに座っていられるような、どこへでも走り出していけるような気がしてくる。宏樹も似たようなことを感じていると思う。

 電車に乗らないくせに、終電の時間までには店を出る。繁華街を抜けて、県道沿いを車のヘッドライトに照らされながらゆらゆらと歩いて帰る。触れ合わない手や重ならない影を思いながら、酔いのせいで少しだけもたつく声を交わし合う。四つ目の交差点で、私たちは立ち止まる。

「じゃあ。また連絡する」

「うん。今日はありがとう」

「こちらこそ」

 軽く手を振って信号を渡る時、私は宏樹を振り返らない。右に曲がっていった彼がどんな気持ちでどこを見ているか、わかっているから。

 次に会う時も、宏樹が健康でいますように。

 そんなことを考えながら、一人で家に帰る。

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キャベツ 瀬尾 三葉 @seosanpa

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