後編 雪解けしきれない
新年になっても外は雪がしんしんと降り積もっている。
テレビで新年恒例の駅伝を見ながら昨年までは毎年のように初詣を一緒に行っていたことを思い出す。去年は合格祈願のお参りを一緒に行ったなぁ。おみくじで大凶を引いて焦ったけれど、優奈ちゃんに励まされたっけ。
でも今年の初詣は行けない。年賀状も企業などから4通届いただけだ。今年は駅伝を見つつ、試験勉強に取り組む。編入試験は少し早めの2月初めにやってくれるらしい。残り1ヶ月、数学と英語を中心に問題を解きまくろう。2人では広すぎるこたつに問題集や参考書を広げ、今までろくに勉強していなかったことに後悔しながら進めていく。
冬休み明けの登校日。今日も寒い。道路の雪は自分の太ももまで積もっていた。いつも通りヘッドホンを着けて登校する。ヘッドホンだと耳全体が覆われて温かいので、冬には重宝するものだ。
小学校の頃は一緒に登校していたなぁとしみじみ思い出す。高校に入りたての頃も一緒だったが、向こうの部活が忙しいとかでだんだん登校時間が合わなくなり、夏休みに入る前からは毎日1人で行くようになった。
昇降口で靴を履き替えようとしたとき、廊下を歩く優奈ちゃんと目が合った。
声を掛けようとしたが、彼女はすぐに目を逸らした。見たこともないような表情をしていた。ぷいと横を向き、素早く歩いて去ってしまった。
この態度を見る限り、完全に嫌われてしまったようだ。いや、絶対確実に嫌われた。
怒られても当然のこと、嫌われても当然のことをしてしまった。新年早々改めてその罪悪感がまだ重くのしかかっていると感じる。もっと早く言っておくべきだった。今思えば「どう伝えようか」など考える必要など無かった。しかし、もう手遅れだ。取り返しのつかないことになってしまった。
でも、嫌われる前はどんな気持ちだったのだろう?
どうして、「どう伝えようか」なんてことで悩んでしまったのだろう?
本当は、優奈ちゃんが寂しくなるのではなく、僕が優奈ちゃんと一緒にいられなくなるのが寂しいのではないのか?転校したら彼女に一生会えなくなるかもしれない、というこの事実が悲しいと思うのは僕のほうではないのか?
そんなことを考えているからか、また勉強に手がつかなくなった。
外から運動部が練習する声が聞こえ、空はオレンジがかった赤色に染まっている。教室で机を向かい合わせにくっつけ、そこには理科の問題集。机の向かい側にいる女の子が口を開く。
「本当に私と同じ高校に行くの?この時期にレベル1つ上げるって、本気なの?」
「うん、そのつもり。本気で上げるつもり。」
「本当?でもなんで急に」
「いやぁ、知り合いが誰もいない高校に行くのは、ちょっと恥ずかしいかな~と思ってさ。そして、優奈ちゃんが行くとこに僕が行けるなら、それに越したことはないかな~と思ってさ。」
目の前の女の子は驚いたように目を見開いていたけれど、目が合うとすぐ照れ臭そうな表情に見えた。
「まぁ…、しょうがないから…分からないことがあれば…私が教えてあげても…いいわよ。」
「で、どこが分からないの?」
僕は電池の問題を指した。
「ああ、それね――」
すごく分かりやすい説明をしてくれた。
説明を受けた後に問題を解いてみると、正しい答えを導き出せたようで「すごいよ、さすがだね」と褒めてくれた。
いざ目標を上げて、頑張ろうとしたし、支えてくれる人はいるけれども、まだ自信はない。
「大丈夫かなぁ、落ちたらどうしようと不安になってきたよ。」
思わず不安が口からこぼれた。本当にいけるのか。どんなに頑張ってもできないかもしれない、そういう不安だった。
「絶対に大丈夫だって。私がいるんだし、絶対合格するよ、一緒に合格、目指そっ?」
そう言ってくれた。その一言が、自分の不安定な心のつっかえ棒になるような気がした。
数日にわたってしんしんと降っていた雪はもう止んでいた。上着を着て外に出てみる。太陽の光を浴びて伸びをし、深呼吸をする。吐く息は真っ白だ。道端の雪は僕の腰のあたりまである。今年は例年に比べ大雪だ。
今日から学校を休み、編入試験を受けに行くことになっている。編入先の学校は2月の初頭に推薦入試があるので、それに合わせて受験させてもらえるそうだ。今の高校も試験前日まで学校に来させるのは可哀想だと考えたのか、今日から公欠にしてくれている。
明日の試験は朝からなので前泊したほうが良いと父親とも意見が一致したので、公欠を利用し、今日から向かうことになった。でも父は仕事が忙しいので、今回は僕1人だけ。
簡単な着替えと制服を入れた小さなキャリーケースを引きながら、教科書や参考書が入ったリュックサックを背負って出かける。本当はリュックに全部詰めて量を減らしたかったが、参考書がかさばり、全部入り切らなかった。
最寄り駅に到着した。電車が来るまであと15分。少し早く着いてしまったが、この電車を逃すと次は約40分後。そうなると予約した新幹線の時間に間に合わなくなってしまうから、ちょっと早く着くのがちょうど良い。
ヘッドホンをして音楽を聴きながら、4両編成のドアの位置に立って電車を待つ。
ボーっと立っていると、誰かに右肩をポンと叩かれた。
思わずピクンと背筋が伸び、体が浮きあがった。この時間はみんな学校に行ってるはずだし、大人の知り合いだったとしても肩を叩いてくれるような関係の人はいない。
誰なのか。ヘッドホンを外し、おそるおそる振り返ってみる。
そこには、いたずらっぽく笑った顔を浮かべた優奈ちゃんがいた。
肩を叩いてくれるような人は彼女しかいない、ということに納得したものの、どうして彼女が今ここにいるのだろうか。先日そっぽを向かれてから一切会っていなかったのに。驚きを隠せない。
「今日ちょっと寝坊しちゃって…アハハ…」
彼女が寝坊するのは珍しいなと思ったが、それが言葉になって口から出てこない。
この間は意図的に向こうが避けていたのに。なぜまた以前のように接してくれているのか。僕は嫌われたはずなのに、どうして今声を掛けてくれたのか。頭の中が大混乱している。わけもわからず自分を攻撃してしまいそうだ。
「あのさ」
優奈ちゃんが口を開く。
「4月になったら転校するんだってね」
「うん…」
「これから試験なんだってね」
「うん…」
「君なら絶対大丈夫だから、頑張ってね」
「うん…」
1つもまともな返事ができなかった。うんとしか言えないのだから会話が全然続かない。
本当ならば僕から言わなければならないことを先に言われてしまった。
無言の間が流れる。
しかし、これがなんだか心地よかった。
隣に心を許せる人がいる、ということの温かさ、人の温もり。自分の中に積もっていた雪が解けていくくらいだ。
何もできない自分。優奈ちゃんに何もしてあげられない自分。その不甲斐なさでいっぱいだ。
「なんか、ごめんね…」
自分の心の声が口から漏れかけたとき、構内放送のチャイムが僕の言葉をさえぎってしまった。
「まもなく、下り列車が参ります。危ないですので、黄色い線の内側まで下がってお待ちください。」
優奈ちゃんが高校へ行くのは上り
方面。新幹線の駅は逆なので、電車が来たらまたお別れだ。
ほんの一瞬の別れ。そう、一晩泊まってくるだけで、明日の夜には帰ってくるのである。
明後日からはいつも通りの日々に戻る。
でも、嫌だった。1人になりたくない。優奈ちゃんともっと一緒にいたい。
何か話したかった。
でも、言い出した言葉が引っ込んでしまったので、ここから何を話せばよいのか分からなかった。
口だけがパクパクと開こうとするが、頭は動かない。
結局何も話せないまま時間は過ぎ、目の前に電車が止まった。
ドアが開く。
「じゃあ、またね。」
小さく手をあげ、やっと聞こえるくらいの小さな声で優奈ちゃんへ言った。
「絶対大丈夫だから!頑張ってね!!」
僕が片足を車両に乗せたとき、大きな声で背中を押された。振り返って目に飛び込んできた笑顔が眩しかった。
僕も精一杯笑おうとした。
ドアが閉まる。
優奈ちゃんはこちらを見たままだった。一生懸命笑って送り出そうとしているけれど、少し寂しそうだ。
ここで笑顔にならないと。精一杯の笑顔をキープして、手を振る。
電車が動いた。
優奈ちゃんは立ったまま、僕のほうに手を振り続けている。
見えなくなるまで、手を振り続ける。
応援してくれる友だちがいるんだ。試験、頑張らなくちゃ。
そう気持ちを強めて、揺れる車内に目を向けると、何人かがこっちを見ていた。なんだか急に恥ずかしくなった。
試験は筆記試験と面接試験。
筆記はもちろん別室で1人での受験。数人の先生に見られながら試験問題を解くのは初めての経験だ。試験だというのに、音という音は自分のペンの音と、空調の音だけ。そこまで「難問」と言われるようなものは出題されていなかったけれど、変に緊張し、冷や汗は止まらなかった。
そのまま面接試験へ。前の学校の先生からは「馴染めるかどうかの確認程度だから、そこまで緊張しなくて良いぞ」と言われたけれども、「面接」という言葉が僕を委縮させる。
頭が真っ白なまま受け答えを続けていたら、いつの間にか試験が終わっていた。まるで機械になってしまったかのような動きをして、学校を出た。
筆記試験がそれなりの手ごたえがあるだけで、学校を出た瞬間に、試験の記憶は完全に消えてしまった。
高校の編入試験だから、基本的には大丈夫だ、とは言われるけれども、いざ試験をし、終わった段階の本人からすれば、本当に受かっているかは不安でしかない。
そわそわする日が続いたが、2月も終わる頃に家に分厚い郵便物が届いた。
「合格」
思わず胸をなで下ろした。
真っ先に優奈ちゃんにメッセージで報告した。
すぐに既読がついて「おめでとう!」と返事がきた。
「3月は去る」とも言われるが、あっという間に時間は過ぎていき、終業式の日を迎えた。
僕がこの高校に来る最後の日でもある。離任式の日には、もう引っ越している予定だからだ。
だから、今のクラスメイトと学校で過ごすのは、今日が最後である。
クラスメイトたちともお別れの挨拶をする。と言っても、同じクラスという共通点以外はほとんど関わりがなかった人たちので、話すべき内容が特にない。「今までありがとう」など、当たり障りのない挨拶して、お別れをする。
明日は、浩二を中心にクラスでそこそこ仲の良かったメンツで送別会をしてくれるらしい。40人近くいるクラス。馴染めたかどうかは自分でも疑問符が付くが、何人かは仲の良い友だちができて、本当に良かったと思う。
数日前から辞書などの大きな荷物を全て運んであったが、今日は残り全てを持ち帰るということもあり、リュックもトートバッグもパンパンだ。
先生方にも挨拶を済ませて昇降口に戻ると、女の子が1人、ポツンと外で立っているのが見えた。
見たことのあるシルエット。
なじみのあるシルエット。
優奈ちゃんだった。
僕は上履きをしまい、下足を取り出す。
下駄箱に何もないことを確認して、その扉を閉める。
本当に最後なのだと思うと、なんだかしみじみする。
あっ、優奈ちゃんが待っているんだった。少し急ぎ気味に靴を履き、校舎を後にする。
「やっほ~、お疲れ~」
いつものように声を掛けてくれた。
僕はそれに応えるように、右手を軽く挙げた。
「最後くらいはさ、一緒に帰ろうと思ってさ。」
そうか、優奈ちゃんと一緒に帰るのも今日で最後か。そう思うと、改めて寂しさがこみ上げてくる。
「荷物多いね、ちょっと持とうか?」
小さな子を見るような目でそう言った。
「いや、これくらい大丈夫よ」
確かにちょっと重いけれど、我慢できるレベル。意地を張ってそう答えた。
「小学校の頃、そう言って大量の荷物全部持ってたのに、途中で『重―い!』って音を上げて、私が代わりに持ってあげたのはどこの誰だっけ?」
ギクリ。昔のことなのになぜか僕も鮮明に残っている記憶をここで蒸し返された。
「き、き、記憶にございませんなぁ~」
「まーたそう言ってごまかすぅ!」
「今はあの時とは違うんでー!ちゃんと自分で持てるから。」
そういってごまかして、強がった。ちょっと重いけれど、意地を張った。
そこからの帰り道――電車を乗り継ぎ、最寄り駅を降り、優奈ちゃんの家に着くまでの間、止まることなく他愛のない話をした。どこまでも意味のない話である。部活や勉強の話、互いの趣味の話、そして、昔の僕の言動の話だ。「こんなことがあったよね~」と何かを目にするために、思い出話をしてくる。
ただ、下校中のこんなやりとりも今日で終わってしまう。それは分かってる。
でも、ここで寂しい話をしたら、何かが終わる。何がどう終わるのかは全く分からないが、今まで2人の間に積み重ねてきた大切な“何か”が崩れてしまう気がする。
優奈ちゃんもそう感じているのだろう。
久々にこんなにゆっくり話ができているのに、別れを意識してしまってときどき生まれてしまう空白。その寂しさを助長させている。
「あっ、そういえばこの前さ、蘭花ちゃんと話したときにさ……」
空白が生まれるたびに、優奈ちゃんは話を振ってくれる。本当は寂しいのに、その寂しさを紛らわせるように。
僕もそのお話についていき、なんとか言葉のキャッチボールをしようとするが、僕が取り損ねたり、上手く投げられなかったりして、また詰まる。空白が生まれる。その繰り返しだ。
自分の不器用さに絶望を感じてきたうちに、とうとう優奈ちゃんの家に着いてしまった。といっても、そこから数十メートル先が自分の家なので、実質自分の家に着いたようなものだ。
「じゃあね~!」
優奈ちゃんは昔と変わらない、別れの挨拶をした。僕もそれに答えて手を挙げる。
その文字列自体は小学校から変わらないが、いつもと違う感じが取れた。でも、彼女の心に抱えた真意はよくわからなかった。
何かモヤモヤを残したまま、彼女の家の前から自分の家へと足を向けた。
いよいよ引っ越しの日がやってきた。
3日前の送別会ではこの1年で、やっと「青春」っぽいことをした、と思う。お菓子やジュースを食べたり飲んだりしながら、浩二たちとみんなで歌を歌ってどんちゃん騒ぎして盛り上がった。離れ離れになるのは寂しいけれど、最後は笑って過ごせた。
そんな友だちとも、お別れ。
思い出の家とも別れを告げる。
「これで全部ですか?」
一軒家から引っ越すには余りにも量が少ない。業者さんから確認を取られると、父が「そうです」と答える。
引っ越し先は狭いアパートの一部屋。一軒家と比べるとかなり狭くなるので、無駄な荷物は持っていかず、処分して、大切なものだけを持っていくことを、父と話し合って決めた。
持っていってもどうせ見ないような小学校の図工の作品や作文、ノートは全て廃棄処分してもらうことにした。
卒業アルバム、そして家族みんなで写っている写真。これくらい身軽でちょうどいい。
先に業者さんのトラックが発進した。
近所の人たちが数人、家の前に並んでいた。お見送りついでに、引っ越しする僕らを見ながら井戸端会議をしていた。
「今まで本当にお世話になりました。」と父がそれぞれに挨拶する。僕も隣で「ありがとうございました。」と頭を下げる。
その中には優奈ちゃんがいた。
優奈ちゃんと直接話すのは、これが最後かもしれない。
父はまだお母様方と話をしているので、優奈ちゃんには個別に挨拶することにした。
寄っていき、「お見送り、来てくれてありがとね。」と挨拶をする。
「ううん、いいのよ。今日は部活も休みだし。」と優しく答えてくれる。
しかし、僕から続けるべきその後の言葉がなかなか続かない。
いつ帰ってくるのか分からない。そもそも帰る家が無いので、もう二度と戻ってくることは無いのかもしれない。
となると、優奈ちゃんとお話できるのはこれが最後であろう。
いやだ。
離れたくない。
でも、時間は残酷だ。待ってはくれない。
「そんなに寂しくならないでよ。私だって……寂しくなっちゃうもん……。」
そんなふうに気遣ってくれるが、そう言う優奈ちゃんの目も潤んでいる。
「向こうにいっても、お話したいからさ……。たまーに、電話しても、いい?」
返事は迷わない。
でも、言えたのは「いいよ。」の一言だけ。
そこから先の言葉が出なかった。出すべき言葉は「もう会えない」という事実を受け入れる、その覚悟を示すものであったが、それを飲み込んでしまった。
最後まで、勇気が無かった。
その無い勇気を絞るための猶予はもう無かった。最後の時間はあっという間。「そろそろ行くぞ」という父からの言葉があった。
「じゃあ。元気でね。」
僕が最後に口にできたのは、この一言だけ。
「それじゃ。また、いつかね。」
と優奈ちゃんも半分涙目になりながら、目をまっすぐ見つめて言った。それを自分の心はしっかり受け止めた、つもりだ。
まだ言いたいことはある。伝えたい想いもたくさんある。
でも、伝えきれないでお別れになってしまった。
僕は助手席に乗り、律儀にシートベルトを締める。
「それでは、今まで本当にありがとうございました~!」と並んでいるお母様方に挨拶をしながら、父は車を発進させた。
車の中から、優奈ちゃんの姿が見えなくなるまでバイバイと手を振る。
もともと寡黙な父だ。車内の会話はほとんどない。
路肩の雪が、故郷を離れるにつれて減っていく。
僕はそれをただ眺めていた。
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