03.炎と血の香り

 彼女の記憶に残る故郷の最後の姿は、黒く焼け落ち、煙くすぶる姿だった。そして、無残に磔にされた家族や重臣や、閉じ込められ、拷問された男や女たちの血の匂い。

 国都の民の多くは呉家の者が源を食い止める間に逃げられたし、樨国の主力は央都からの軍に場所を譲って近隣の町や城塞に移動していたから、樨国全体からすれば被害は大きくはなかったと言っていいだろう。だが、呉三娘の大切な家族は死んで、もう二度と会えない。

 それを行ったのが洸鴻である。彼の兄である太守は有徳の人物と知られており、虐殺を許すような男ではなかった。その証拠に樨から央都へ向かった洸鴻へ引き返すよう何度も使者を出したことが、その後の調査で分かっている。

 洸鴻は、呉三娘の故郷を踏みにじった張本人である。


 樨を発つ時、呉三娘と父の間で取り決めたことがある。洸鴻は楽に死なせはしない。戦死など以ての外だ。それから、先帝を二度と帝位に返り咲かせはしないと。

 だから彼女は央都に群がる源軍を蹴散らし、洸鴻の尻を散々に追いまくった後、生かして逃がしてやった。その後怯え切った宮廷に乞われて都に足止めされ、あまつさえ皇后に冊立されてしまった訳だが。

 皇后に、という話が出た時、樨と央との間ではいくつかの契約が結ばれた。

 後宮に入るにあたって、皇后の身辺は樨国の者で固めることや、状況が落ち着き次第この結婚は白紙に戻し――廃后などの不名誉な形ではなく――樨へ戻すことなどだ。

 楊中書令は、この時から後者の条件には強硬に反対していた。いつまでも樨に頼るな、自分の娘も後宮に入れておきながら何なんだと呉三娘は思ったものだが、まあ、無私の忠臣と呼ぶべきなのだろう。

 しかし、まだ言うとはしつこい男だ。


 呉三娘はため息をついた。厄介ごとが起こる予感しかしない。


「折角の御馳走が台無しだったな」



 ☆



 そんなことがあったからだろうか。呉三娘はその夜、故郷の夢を見た。

 それは幸福な時代の夢ではなく、焼け落ちた城の中で立ち尽くすという夢だった。遠くに樨国兵の鬨の声が聞こえるが、呉三娘は一人だった。双子たちもいない。とても寒かった。あの時、彼女は軍装だったはずだが、頼りない襦裙しか身に着けていない。それも破れてボロボロだった。汚れた裸足の足を踏み出して、瓦礫の散乱する室内をふらふらと歩く。

 誰かいないか――

 部屋中に、煙の臭いが満ちていた。

 煙の臭いが……。


 呉三娘は飛び起きた。


「誰か、あるか!」


 寝巻に裸足のまま寝台を飛び出し、部屋をも飛び出る。


「冥がここに!」


 今日の不寝番は冥明明のようだ。扉の横から飛び出て来た。


「火事だ。小火程度ではない」


「あ……! 焦げ臭い!」


 冥を引き連れて宮殿を出ると、呉三娘は周囲を見回した。幸運なことに今夜は月が出ているし、皇后宮は基壇の上に建っており他の宮殿より高い位置にある。臭いに頼りつつ、彼女は宮殿の東側へ回った。


「あそこ! 双松殿そうしょうでんか……?」


 呉三娘が指さす方角、後宮の北東の隅から黒い煙が上がっていた。

 双松殿は、芹充媛が暮らす宮だ。呉三娘は鋭く指笛を鳴らした。皇后宮の耳殿や回廊から扉が開く音がして侍女や女官、宦官が飛び出してきた。


「寿珪! 嘉玖!」


 腹心の侍女を呼べば、耳殿から二人が文字通り飛んできた。


「何事ですかあ?」


「真夜中じゃないですかあ」


 彼女らも辛うじて襦裙は身に着けているものの、髪はぼさぼさ、化粧もしていないひどい有様である。


「双松殿で火事だ。皇后の宝剣を持て。

 嘉玖は宝剣を持って六局へ向かえ。鉄砂宮の兵を消火に向かわせなさい。私からの指示は、人命を最優先にせよ、それだけだ。後はお前の判断で構わない。全権を与える。必要とあらば後宮の門を開け放て。

 他の者たちは手分けして後宮の各宮殿へ避難の指示をせよ。避難先は永寿宮がよいだろう。皇太后様へも使者を出せ。

 他の者たちも順次永寿宮へ避難しなさい」


「皇后陛下は?」


 寿珪が尋ねた。


「私は皇帝陛下の元へ向かう。陽動作戦の可能性もあるからな。寿珪は私の伴だ。着替える。手伝え」


 呉三娘が踵を返すと、皇后宮に仕える者たちは一斉に動き出した。

 後宮は――というよりほぼすべての建物は木造だ。燃えにくい木材や塗料を使っているとはいえ、風が吹き始めでもすれば瞬く間に延焼するだろう。

 宮殿の中を進みながら、呉三娘は寝巻を脱ぎ捨て、寿珪と冥は衣装を引っ張り出して来る。最低限の身なりを整え、剣を佩き、箙を腰に、弓を手に持った。彼女の支度を整え終えると、寿珪も手早く衣服を身に着けた。


「輿を回しますか」


「不要だ」


 彼女は答えて、ちょっと首を傾げた。その瞳が金色に輝き、瞳孔が猫のように細まり――瞬きの間に呉三娘の体は、黒い獅子の姿となっていた。


「背中に乗って」


 獅子の口から発せられたのは呉三娘の声だ。


「わあ~! 乗っていいんですかあ!? もふもふ!」


 隠すことなく喜びを露わにして、寿珪が真っ先に呉三娘の背に飛び乗った。


「色、変えられるんですねえ」


 のんびりと言いつつ、冥も背にまたがった。


「行くよ、しっかり捕まって」





 獅子の姿の呉三娘は、一昼夜で国の端から端まで移動することができる。宮殿の間などひとっとびだ。

 鳳麒殿の屋根に降りると、呉三娘は人の姿に戻った。侍女二人とともに密かに屋根から飛び降りる。当然ながら衛兵が突然現れた女三人を取り押さえようと槍を構えるが、残念ながら彼女らの敵ではなかった。


「正規の手順を踏まずに現れて悪かった。皇后の呉三娘だ」


 一応名乗ってから宮殿の中に入り、震えながら出てきた宦官へ皇帝への取次ぎを頼む。ややあって夜着に一枚着物を羽織っただけの皇帝が現れた。


「こんな夜中にどうしたんだ」


 ちょっと眠そうだ。


「双松殿で火災が発生しました。身辺の護衛にと思って。念のため鳳麒門へ移動しましょう。あそこなら禁軍も宰相も入れますから」


 後三殿と外の境目にある正門、鳳麒門は門とはいうものの、三間五間の立派な建物だ。両端の一間は小部屋になっているので、そこにいれば夜風も凌げるだろう。


「暖かくして、輿を準備させて。大丈夫です、私が必ず守ります」

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