02.人の恋心を笑ってはいけません。

 翌日、皇帝から昼餉をともにしないか、と珍しい誘いがあり、呉三娘は輿に揺られて勤政殿へと赴いた。


「やあ、いらっしゃい。そこに座って。寿珪と嘉玖もあちらに膳を用意するから」


「ありがとうございます。

 しかし、一体どういう風の吹きまわしです?」


 皇帝に促され、勤政殿の東の間の卓に就くと、呉三娘は首を傾げた。これまで、政務が終わってから皇帝と食事をしたことや、政務のない日にお茶をしたことなどはあったが、政務中に昼餉をともにするのは初めてだ。


「温かくて甘いものが食べたいと嘆いていたと聞いた。

 ここは御膳房がすぐ近くだから、毒見をしても温かい間に食べられると思って」


 少年の顔には慈愛が満ちている。呉三娘は感激した。


「なんて優しいお心づかいでしょう!」


 本当にいい子なんだわ……と思いつつ、芋事件は皇帝まで聞こえてしまったのだなとも思った呉三娘である。


 御膳房の食事は、呉三娘をいたく感動させた。事情を聞いた皇帝の配慮だろう。出されたのは湯麺だったのだ。

 内膳房では湯麺は出さない。そもそも庶民の食べ物だし、届くまでに麺が伸びてしまうからだ。野菜と海老の入った餡がかかっていて、より冷めにくいよう工夫が凝らされていた。

 そして、食後の甘味は糕と呼ばれる蒸し菓子だった。真っ白いふわふわした甘い生地の中に、胡麻や落花生、小豆の餡が入っている。蒸し上がったばかりの糕は、手で割るとふわっと湯気が出るほどほくほくしていて、餡は熱々だった。


「涙が出るわ……」


「そこまで感激してもらえて嬉しいよ。

 代わりと言っては何だが、今度、七色芋とやらを私にも馳走してくれたら嬉しい」


「いいですよ! まだたくさんありますから!」


「そういえば、皇帝陛下は芋版って作ったことありますか~?」


 寿珪が少し離れた場所に設えられた卓から声をかけた。


「いや、芋版とはなんだ?」


「芋を切ってできた平面を使って、判子にするんです。柔らかいので子供にもできるというので、食べられない未熟な芋なんかが出ると作って遊んだものです」


 説明を聞くと、少年の目が好奇心にきらめいた。


「ちょうどいいから、今晩焼き芋と芋版をいかがです?」


「いいね、楽しみだ」


「皇帝陛下は何を彫られるんです?」


「そうだな、自分の名前と何か……蓮の花でも彫ろうか」


 当然、呉三娘の頭にも、蓮の花、蓮生殿、楊徳妃、という連想は過った。だが思春期少年をからかうのは大人げないなと思い、そっと下世話な想像に蓋をした、というのに。


「あれ~?」


「あらあら~?」


「あんたら、やめなさいよ」


 双子侍女が下世話な声を出したので、うんざりしつつ制止する。


「だって、梅でも蘭でもなく……」


 鬱陶しいので、呉三娘は話題を切り替えることにした。


「そういえば、ここでお昼をいただくのは初めてですね。

 皇帝陛下はいつもこの部屋で召し上がられるのですか?」


「うん、大抵ここだね。たまに仕事しながら食べることもあるけど。

 ……実は今日来てもらったのには訳があるんだ。早めにあなたには伝えておいた方がよいと思って」


 そう言って、皇帝は糕を置いた。早く食べないと冷めちゃうんじゃないかなあと呉三娘は思った。


「実は源から使者が来ることになった。皇后にも会ってもらうことになると思う」


 呉三娘も、糕をおいた。


「……何の目的で、誰が来るのですか?」


「太守の弟が来る。目的は捕虜の返還交渉だ」


 太守というのは、源の都市国家群の王だ。各国家ごとに元首はいるが、彼らを取りまとめる者を源では「王」、央側では便宜上「太守」と呼んでいる。


「返還されるのは誰です」


「まだそれは聞いていない。こちらに準備をさせまいとしてのことだと思う。

 こちらとしては父上があちらにいる以上、強気に出られないから、今はまだこれしか分からない」


「なるほど。父も呼んだ方がいいでしょうね。場合によっては領土の割譲を求められるかもしれませんから」


 源ではまだ妟に替わる水源が見つかっていない。捕虜と引き換えに水を入手できる土地を求められる可能性は高かった。そうなれば、西端に位置する樨の土地を割譲することになる。


「西の守りならご心配なく。母がおりますし、歴代の重臣もおります。父一人いなくても源の木っ端共など近寄らせません」


「頼もしいな。分かった、内密に呼び寄せておこう」


 そう答えたが、皇帝はまだ箸を取ろうとしない。


「まだ何か?」


「皇后は太守の弟のことをよく知っているか?」


「ええ、戦場では幾度となく顔を合わせましたし、あの大敗がなければ、郡主として輿入れするはずでしたから。

 歳は三十八。逃げる央軍の残党を狩るという華々しい武功を立てられた方です」


「なるほど。

 彼が来るのは三ヶ月後だ。あらゆる事態を想定して準備したい。そこで、あなたの意見も聞きたくてね。実はこれから宰相たちと禁軍の者が来る」


「ああ……」


 呉三娘は察した。


「これ、食べ終わってからでいいですか?」





 ーー抜かったな。


 呉三娘は心中で舌打ちをした。

 まさか、引きこもりを引っ張り出すために食べ物で釣るとは思わなかった。この前のように朝議であれば、いやいやながら出てきたろうが、もしも源の使者を迎え撃つための謀議があると知っていたら、彼女は柱にかじりついてでも皇后宮から出なかっただろう。


「そんな怖い顔をしないでくれ。騙したのは悪かった」


「これが地顔です」


 双子侍女の使っていた机は片付けられ、そこに楊中書令と藍将軍が立っている。


「皇后陛下にとっては一族の仇、気が重いこともわかりますが、決してしくじってはならないのです。どうかご協力を」


 藍将軍が生真面目な顔をして頭を下げた。


「分かっています。でもこれが地顔なので」


「「「……」」」


 呉三娘にも分かっている。眉間に深い皺が寄っているであろうことは。


「それで、何を聞きたいのです」


 源の情報が最も豊富なのは樨だ。常に間諜を潜ませているし、敵対していても隣り合っていれば商取引や人の行き来は生まれるものだ。


「太守の弟とやらは、どのような人柄ですか」


 楊中書令が尋ねた。彼はそう、楊徳妃の父である。


「姓はこう、名はこう。これといって秀でたところのない男だ。ただ、泉人に心酔しているので、例の暗殺未遂事件を深く恨んでいて、央を目の敵にしている。それゆえに先の戦では太守の命を破って央まで攻め込んだし、攻め込んだ先で酸鼻極まる殺戮と略奪を犯したのだ。

 つまり、二年前に都を包囲した軍の指揮官だな。樨から央都まで戦線を延ばしたのは愚行としか言いようがないわけで、まあ目先のことに捕らわれがちな性質ではあるだろう。

 私のことは殊更憎いようだ。あの時もそれ以前も、戦場では散々に追い立ててやったのでね」


 金色のものを見ると怯えるらしい、と言って、呉三娘は乾いた笑いを浮かべた。


「泉人とは距離を置きたい兄君とは政治的に対立している。あちらでは水は金より貴重だからな。

 あ、あと極度の女好きだ。好きなのかな? 憎んでいるのかもしれないが……親征に同行した妃嬪のかなり多くを自身の後宮に入れたとか。

 もちろん、すぐに兄君に解放を命じられた訳だが、まあ渋りに渋ってその間に何人もの妃嬪が死んだ」


 楊中書令がしたり顔で頷く。


「それで皇族との宴をしたいと希望してきたのですな。正確に言うなら後宮の女性たちとの宴を」


 後宮の女性と聞いて、呉三娘が眉間だけではなく鼻にも皺を寄せた。


「言っておくけど、私は出ないからね」


「そうは言われましても……」


「彼は私の一族の仇だ。場合によっては血を見るかもしれないよ。彼は人質を取っているという有利な立場を笠に着て、間違いなく私を挑発するだろうし」


 男三人の脳裏に、央都解放時の天極殿の光景が蘇った。あの時、彼女は侮辱には必ず報復すると言っていた。


「しかし」


「例えば、彼は私に屈辱を与えるために、私の目の前で流れた縁談を口にするかもしれないね。太上皇帝陛下と引き換えに私を寄越せと。その時はおそらく、こんな穏やかな言い方ではないはずだ」


 呉三娘は少年の前なので、具体的な言葉は口にしなかった。


「彼の太妃たいひたちへの仕打ちを知っているなら――予測はつくだろうけど」


 太妃、つまり皇太后以外の先帝の妃嬪たちのことだ。後日解放されたとはいえ、洸鴻の「後宮」に入れられた彼女たちはひどい辱めを受けた。自死した者もいたし、病死した者も、折檻死した者もいた。身代金と引き換えに生きて返ってきた者たちも、未だに癒えない傷を心身に負っている。


「それはそうかもしれませんが……しかし皇后陛下がいないというのはどうなのでしょう。他に成人しているのは謹慎中の芹充媛様くらいです」


 藍将軍が言うのも分かる。皇族だの後宮の女性だのと宴をしたい、と言われて皇后が出ないでは済まされないだろう。芹充媛は美しい娘だが、不祥事を起こして謹慎を言い渡された娘でもある。移された東六宮で宮殿に閉じこもり、相変わらず体調が悪いのか太医を日に一度召すだけで、僅かな侍女としか顔を合わせずに祈りの日々を送っているらしい。だが、反省していようが何だろうが接待の席に出せるようなものではない。


「とはいえ、仰ることも分かります。皇后陛下が真実皇帝陛下の妻であれば、何を言われようが撥ねつけられますが、名ばかりであることは内外に知られておりますから」


 藍将軍が尤もなことを言えば、楊中書令が食いついた。


「そうです、やはり終生皇后として生きられるおつもりはないのですか。

 皇帝陛下には強い皇后が必要なのです。この機会に、国内が安定するまでと言わず」


 たん、と呉三娘がひじ掛けを叩いた。楊中書令が口を噤む。


「その話は終わったはずだ、宰相」


 それから、彼女は静かに立ち上がった。


「あまり長居しては陛下の政務の妨げになる。私はそろそろ後宮に戻るよ。

 宴の件は検討しよう。出席者や席は事前に相談するように」


 威儀を正し、呉三娘が皇帝に退去の礼を取ると、皇帝が頷いた。


「またね」

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