14.後宮を去る日
正式に罰が決定し、龍婕妤が後宮を去る日が来た。めずらしく空は薄曇りで、肌寒さに龍哀哀は身震いした。
後宮を追放される妃嬪に、輿は与えられない。老侍女と二人で少ない荷物を持ち、鉄砂宮の兵に囲まれて後宮の西北端の門をくぐった。
鉄砂宮の者が付いてこられるのは、ここまでだ。ここから先は外の兵が彼女たちを連行することになる。
哀哀は後悔と憤りで胸が塞いで、ずっと地面を見ていた。
自分が愚かなことをしたのは理解した。確かに皇后の言う通り、正直に宮正に告げるべきだったのだ。
何故そうしてしまったのか。謹慎の間にじっくり考えてみたが、たぶん見返したかったのだ。何の苦労もなく安穏と暮らしている香淑妃を蹴落とし、名を上げて、自分を虐げた龍家の者たちの鼻を明かしてやりたかった。あわよくば、皇帝の目に留まって地位を上げ、彼らに復讐もできたら、と。
浅はかだった、と思う。
だけど、自分が理不尽な仕打ちを受けていたのも事実だ。
もしも自分が龍家の娘として遇されていて、妃嬪として相応しい援助を受けられていたら、きっとこんな愚かなことはしなかった。
どうして、自分ばかりがこんな目に遭うのだろうか。奴隷の生んだ不義の娘だから? でもそれは彼女の罪だろうか。
どちらかと言うと龍家の――
「龍婕妤、いや、哀哀」
男の声に、龍哀哀は顔を上げた。
「私が分かるか。お前の従兄、龍文輝だ」
見覚えはなかったが、名前に聞き覚えはあった。
哀哀は橙国で支度をしてからすぐ後宮に入ったので、ずっと都に駐在していた彼と顔を合わせる機会はなかったのだ。
「私を始末しに来たのですか? 一族の恥として」
龍家の当主は、橙国を発つとき「決して愚かな真似はするな」と言ったのだ。
「いいや、始末しようとする者たちから守るために来た。
安和宮に入れば安全だ。あそこは後宮の勢力からは隔絶しているから」
「それってつまり……」
少女の背中を冷たいものが走った。後宮を追放される者まで始末しようとするとは、どれだけ執念深く、細心なのか。哀哀は自分が思いもよらぬほど大きなものに手を出してしまったのかもしれない、と初めて思い当たった。もしも、皇后が間に入ってくれなかったら――
「皇后陛下のご配慮だ。
羽林軍から人を出すことも掛け合ってくださった」
そう言う文輝の背後には十人ほどの兵と、小さな馬車があった。宮中に馬車を乗り入れるにも特別な許可が必要だったはずだ。人目に晒されないようにという心遣いなのだろうと、哀哀にもわかる。
「感謝すべきだって言うのですか」
思わずこぼれた恨みがましい言葉に、文輝は苦笑した。
「いいや、恩を売りたいと言われたよ。皇帝陛下にね。
私個人としては、全力で買わせてもらうつもりさ。だからお前がどう受け取ろうと自由にしなさい」
哀哀にとって、これは予想外の言葉だった。きっとお説教をされた上にいけすかない皇后に感謝しなさいと命じられると思っていたのだ。
「だが、分かっているね。十五歳になるまでの十か月間で、お前は橙国公の一族として相応しい人間だということを証明しなければならない。賢明で謙虚で、忠実な人間であることを」
「分かっています」
「とはいえ、お前にこのような行動を取らせた原因は我が家にもある。一方的に反省しろだの更生しろだの言われても、納得できないだろう」
「それは、はい。
私が望んで来たわけじゃないし、龍家の方々が私を見捨てたからだし……第一今までずっと下女扱いで一度だって一族扱いをしてくれたこともないのに、いきなり龍家の代表みたいに言われたって……」
言い始めると止まらなかった。目の前にいる、この龍家の公子だって真綿にくるまれて育ってきた人だ。哀哀は大人に小突き回されて、働き続けていたというのに。
「そうだな。それについては詫びよう。すまなかった」
哀哀は文輝の顔をまじまじと見た。そこに卑しい者へ頭を下げることへの嫌悪や屈辱がないかどうか。
「私の誠意を疑っているな? まあいい」
「はい。まあ、謝ってもらえただけでも驚くべきことですし」
ふてくされた顔で哀哀は言葉を返す。
「ちなみに、お前の名目上の母親は正夫人から第三夫人に降格だ。第二夫人と第三夫人がそれぞれ繰り上がった。それから、父親は第二夫人所生の長男に家督を譲ることになった。これまで目下の者に優しかったお二人のことだ、きっと恙なく過ごされるだろうよ」
思いがけない辛辣な物言いに、哀哀は目を瞬かせた。
文輝は忌々しそうに目を眇めている。どうやら、哀哀の両親は宗家の不興を買ったようだった。
「何を驚いている。彼らは我が家を危うく族滅の憂き目に合わせるところだったのだぞ。あの屋敷で飼い殺しという名の嬲り殺しにされるのが相応しいだろう」
「嬲り殺し……」
「そして、宗家たる我々からの詫びは、庇護だ。
本当ならお前は一生橙国を出ることもなく、汚れものを洗い続けて生きて死んだはずだ。
だが、こうして陽の当たる場所に出た。おい、そんな目をするな」
何が「陽の当たる場所だ」という思いが顔に出ていたらしい。文輝が哀哀の鼻の頭をつついた。
「いいか、ここだけの話、無事十五歳の審判を乗り越えられたら、よい縁談なり仕え先なりを探してやれと両陛下は仰せなんだ。そのために必要な教育と援助を与えろと。
これは間違いなく僥倖だ。奴隷の娘として生きるしかなかったお前が、良家の妻になれるのだぞ」
「妻はいいです」
哀哀は首を振った。生家の夫人たちを見ていても、あまり幸せそうには見えなかったし、良家の人間が良い人であるかは外からは分からないのだ。
「私は出仕したい。
奴隷の生んだ娘を、良家の人たちが敬ってくれるかどうかわからないですから」
「なるほどな。ならば、よく学ぶことだ。できることが多いほど、より高みを目指せる。
文字は読めるのだろう?」
「はい、ここに来る前に教えられましたから」
龍家の本家の屋敷で、おざなりながら最低限の文字と計算、婦徳などに関する教育を受けた。まあ、教本を開いて一緒に音読するだけではあったが。
「それだけ? ふーん、お前は思いのほか……」
文輝は髭をひねりつつ、しばし明後日の方向を見ていたが、すぐに視線を哀哀に戻した。
「よし、指折りの教師を探してやろう。
よく学び、よく考えろ。腐っても龍家の娘だ。実力もあるとなれば、皇族へ仕えることも夢ではない。
たとえば、皇后陛下とかな?」
親子ほども歳の離れた従兄は、からかうように哀哀を見た。哀哀は本当に腹が立って、ふん、とそっぽを向いて見せた。
「嫌ですよ」
「そうかそうか。まあがんばれ。
さあ、立ち話はここまでだ。馬車に乗れ」
「だから違うってば! あんな人のことなんて!」
「はいはい、わかったよ。
俺も時々顔を見に行くからな、頑張るんだぞ~」
からからと笑いながら、文輝は哀哀の手を取って馬車へと導く。兵の一人が老侍女の荷物を持って、同じように付き添った。
「もう! 何なの、別にあの人に助けてもらったなんて思ってないんだから! あんな風になりたいとか、全っ然思ってないんだからね!」
「そうかそうかあ。足元に気をつけろよ~。中狭いから頭ぶつけないようにな」
「違うんだから~!」
ぷりぷりと否定する哀哀を乗せて、馬車は出発した。安和宮は宮城からそう遠くないところにある。龍家一行はぽくぽくと馬蹄の音を響かせつつ、後宮を去ったのだった。
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