11.羽林将軍、衝撃を受ける
「あ、お帰り!」
寿珪に連れられ、龍婕妤が帰ってきた。凌寒殿で老侍女の話を聞いていた呉三娘は、そう声をかけてから、しばし絶句した。
「どうして二人ともそんなボロボロなの? 洪青海に話を聞きに行っただけなんだよね?」
寿珪も龍婕妤も、髪も衣服も乱れて嵐にでも遭ったかのようである。龍婕妤に至っては、首の周りが赤く腫れていた。
「主~、あの宦官ヤバいですう。何のためらいもなく口封じに龍婕妤様を絞め殺そうとしましたよ」
「なんと」
「あれは初めてじゃないですねえ。これまでも子供を手にかけてきてますよう。侍女が見ていようが絶対処罰されないって自信がある感じでしたし、間違いないんじゃないですか~?」
「まあ、太上皇帝陛下の後宮では夭折する皇子が多いなあとは思ってたけど。そうか。
龍婕妤、大丈夫?」
微かな饐えた臭いは、吐いてしまったからなのだろう。流石にかわいそうに思って龍婕妤を見ると、彼女は意外にも落ち着いた目をしていた。
「大丈夫です。皇后陛下、これまでの無礼な発言の数々をお許しください。
龍哀哀は真実を目にしました。私は洪青海に甘言を吹き込まれ、愚かにも香淑妃様を讒言により陥れようとしました」
「うん、わかった。
そしたら、その怪我は
☆
その晩、呉三娘は皇帝に遣いを出し、左羽林将軍、
呉三娘が外部の男性と会う場合、手っ取り早いのは夫である皇帝と同席できる場に来てもらうことなので、面会の場は勤政殿となったのだ。
龍文輝は
勤政殿の東の間、皇帝の隣に呉三娘は座る。皇帝と談笑していた龍将軍が、跪いて拱手した。
「皇后陛下にご挨拶申し上げます」
「楽にしなさい」
呉三娘が声をかけると、龍将軍は立ち上がった。よく日に焼けた、たくましい男性である。年のころは三十半ばくらいか。西方にも彼によく似た男がいた。育ちがよく、身ぎれいで、冗談と女が好きな男だった。
今日は軍務には就いていないのか、緋色の官服を身にまとっている。あまり龍婕妤には似ていない。
彼は少しばかり軽薄らしく、きれいに整えた口ひげの下で、唇が弧を描いていた。
「皇后陛下がお呼び出しとは珍しいですね。私としては光栄ですが。
いずれ後宮を出るときには是非とも私を夫候補にしていただきたい」
何を考えているのか、微笑んだまま龍将軍がとんでもないことを言い出した。
「はあ? 目の前に夫がいるのによくそんなこと言えるね」
「いやいや、こんな美しい人を前にして黙っているなど失礼ですよ」
呉三娘は自分のことをよく知っている。身内は可愛い可愛いと言ってくれるが、地味顔で十人並みである。歯の浮くような世辞に、彼女はいささかかちんと来た。
「意味が分からんな。今私は仕事の話をしているんだけど。
あなたは顔の美しい
第一、よく知らん人に顔を褒められても嬉しくないし気持ち悪い」
「きも……いや、あたら娘盛りをむなしく過ごされるのは惜しいなと、ご同情申し上げただけで」
「娘盛り? 私はいつでも花盛りのつもりだけど。三十でも四十でも、五十でも私は私だし」
「そりゃ、子供を生める時期は短いですから、女の幸せを思うとやはり惜しいものでしょう」
「まだこの話題続ける?
別に、子供が生めようが生めまいが、私は絶対幸せになるしなあ」
「いやしかし、家を断絶させないことは大事ではないですか」
「えっ結婚ってお互いが好きだからするんだと思ってた。
だって子供って授かりものだし。明日絶対雨を降らせろって言われても無理なのと同じでは? 養子取る人もいっぱいいるし。
両親も姉上たちもそうやって結婚してたしな」
呉三娘とて、自分の考えが世間の常識から外れているのはわかっている。だが、彼女の大嫌いなさる男を連想させることもあり、まるで若いうちしか価値がないかのように脅しめいた言い方は気に入らない。
「……」
「将軍閣下~駄目ですよう、この人と仲良くなりたいなら拳で語らなきゃ」
「拳で」
空気を読んだのか、そうでもないのか。嘉玖がいつも通りのへろりとした口調で沈黙を破った。
「いや、私の拳とかち合ったら、聞いたことない音立てて将軍の拳が粉砕されると思うけど」
「粉砕」
「私とまともに拳で語れるのは、樨を除けば――源の精鋭のごく一部くらいだろうね。あなただってあの日、見ていたのだろう?」
「まあ、皇后陛下はほぼ人外ですからねえ」
今度は寿珪が茶々を入れる。
「人外」
「うん、まあそう。だから人間向けの口説き言葉はあまり効かない」
「人間向けの口説き言葉……?」
「いずれにしても、皇后の地位にある者を皇帝の目の前で口説くような無礼な男はお呼びではない。龍文輝、私の言う拳で語るとは、誠の心で語るということだ。正面からぶつかって来いということだ」
龍将軍が、少し困った顔になった。ここで不満顔にならない辺り、根は悪い男ではないのかもしれない。とはいえ。今回の本題は全く別なわけで。
「というわけで、正面から話に入らせてもらう。
単刀直入に言うと、龍婕妤が香淑妃を讒訴した」
「なんですって!?」
☆
従妹が重罪を犯したと聞いて、さしもの将軍も顔色を変えた。
「内容は、香淑妃が楊徳妃を呪詛した、というもの。実際楊徳妃が体調を崩したので、太皇太后陛下が気になさっている。もちろん皇太后陛下もね」
「ちょ、ちょっと待ってください、龍婕妤様が讒訴したのは間違いないのですね?」
「間違いない。香淑妃を告発したことは私が龍婕妤に確認したし、告発の内容には虚偽が含まれていた。
ただし、彼女をそそのかした宦官がいる」
龍将軍は少し落ち着きを取り戻し、咳ばらいをした。
「その宦官は捕らえたのですか?」
「手配中だけど、まあそれはどうとでもなるよ。私が龍婕妤の話を信じているから。
龍婕妤は、さる宦官にそそのかされて香淑妃を讒訴した」
「そう――そうですか。
それは、ありがとうございます、と言うべきことなのでしょうね」
探るような目つきの彼に、呉三娘は微笑みを返した――つもりだが、帳に隔てられていることを思い出して言葉に出すことにした。
「礼はいい。無罪放免とはいかないのだから。
とはいえ、十四歳の少女が狡猾な大人に唆された末のことだ。できるだけ、同情を集めるような情報を提示して、皇太后陛下の心証をよくしたい」
「ああ、なるほど。
しかし、当家の恥を晒すことにもなります。どうしてそこまでしていただけるのか、教えていただいても?」
呉三娘はちょっと迷った。ここで太皇太后の関与を匂わせてよいものか。
「龍婕妤を唆したのは、お祖母様の子飼いの宦官だった。
私たちとしては、龍家に恩を売ってこちら側についてもらいたいと考えている」
と、それまで黙っていた皇帝が口を開いた。
「皇帝陛下!」
呉三娘は驚いて、小さな声で皇帝を呼んだ。
「大丈夫、人払いしてあるから、声が聞こえる範囲にいるのは私たちだけだ」
少年は落ち着き払った声で、先を続けた。
「お祖母様はことが露見したと分かれば、すべてを龍婕妤に負わせるだろう。
宦官に唆された、など言い逃れに過ぎないといってね。
だから、こちらは龍婕妤が甘言にのった背景も含めて話して信憑性を補強する。
彼女は後宮で困窮していた、それを救ってくれた宦官を信じた、告発の内容が虚偽だなどと疑いもしなかった、とね。
さらに、ろくに援助もなかったくらいなのだから、龍家の関与はなかった、という話にも持っていける。
私は龍婕妤を助けたい。そして私自身の帝位も長く保ち、民を安んじたい。だから、龍家を味方につけたいのだ」
呉三娘は、落ち着いた、真摯な少年の声にしみじみしてしまう。下手な小細工を弄するより、彼のこの表情と声は、よっぽど人の心を動かすだろう。
「――罰は、どの程度になるのでしょうか」
龍将軍が、考えを巡らせているのだろう、じっと床を見ながら言った。
「皇后」
「はい、陛下。
後宮から追放後、安和宮での幽閉とします。龍家には監督不行き届きとして罰金を納めてもらいます」
「宮中での呪術も絡む讒言事件としては、かなり軽い罰、ですよね」
皇帝が皇后に処断の内容を尋ねるということは、家庭内のこととして内々に済ませる、という意味だ。
「ええ、疑いだけで族滅となるほどの重罪です。何しろ、毒も剣も用いずに貴人を殺せるのですからね」
「はあぁ、なんてことだ。分かりました、全てお話しします」
龍将軍は大きなため息の後そう言って、口を開いた。
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