10.龍婕妤(2)

 上下左右も分からぬほど揺さぶられながらたどり着いたのは御花園だった。


「後宮で隠れやすい場所って少ないんですよね~。どこもかしこも直線だから」


 などと言いながら、寿珪によって木陰に降ろされた龍婕妤は。


「うっうぇぇぇ」


 吐いた。


「すいませえん、兵士と違って腹筋ないもんね~」


 傍らで寿珪が全く心のこもらぬ謝罪をしながら背中を摩っているが、龍婕妤はそれどころではない。


「にしても奴、ペドな上にサイコパスとかヤバヤバのヤバだわ~」


 吐いても吐いても胃の底がひっくり返ったみたいに吐き気が収まらない。目には涙がにじみ、手も足もがくがくと震えて気絶しないのが不思議なくらいだ。

 いや――不思議ではない。龍婕妤は深窓の令嬢とはいえないからだ。


 龍婕妤は橙国公の弟と、妾扱いもされぬ奴隷の女の間に生まれた娘だ。さすがに彼女自身は奴隷身分からは外されたが、龍家の娘扱いはされず使用人として仕えていたのだ。自室から出ることさえ稀な良家の子女とは違う。

 そんな彼女が龍家の名を背負って出仕することになったのは、先帝の後宮に入っていた従姉妹が親征に同行して死去したからだ。

 龍家は代々男女一人ずつを出仕させることになっている。当時、龍婕妤以外には三歳の女児が一人いただけ。先帝があんなことにならなければ、その子の成長を待って皇太子――今上帝――の後宮に入れるはずだった。


 理不尽なことばかりだった。

 どいつもこいつも、何一つ与えもしなかったくせに、容赦なく奪う。





 怒りの感情が、却って混乱していた頭を冷まさせた。龍婕妤は乱れた息を整え口元を拭うと四つん這いの姿勢から座りなおした。

 そう、どいつもこいつも、龍婕妤をいいように利用する。龍家も、洪青海も。


 当時十一歳の皇太子丹堅が即位することとなった時、当初後宮に妃嬪を集めるという話はなかった。何しろ、夫となる皇帝がまだ十一歳だったのだ。だから、龍婕妤にお鉢が回ってくる予定ではなかった。

 龍婕妤は相変わらず父の正妻の下女として、毎日忙しく立ち働いていた。生まれ故に、大人たちには遠巻きにされていたし、正妻からはちくちくと嫌がらせを受けたが、同年代の子供たちは比較的先入観なく接してくれていて、不遇ではあったが不幸というほどでもなかった、と思っている。母に比べれば――


 それが変わったのは、今上帝の後宮を作ることになってからだ。先帝の勢力は太皇太后を中心として後宮を根城にしており、彼らを抑え込む必要があったかららしい。


「当家は別に皇后を出したいとは考えていない。ただ、義務として娘を出仕させるだけだ。

 だから、お前はただ後宮にいてくれればそれでいい。決して、愚かな真似はするなよ。

 ここにいるより豊かな暮らしができるし、悪い話じゃない」


 龍家の当主は恩着せがましくそう言った。だが、父も、父の正妻も嬉しそうではなかった。その意味を、龍婕妤は後宮に入ってから知った。


「御実家からの支援がない? それは……」


 やむにやまれず実家に連絡を取ろうと事情を説明すると、洪青海は困惑の表情を浮かべた。彼を通じて連絡をしても、送られてくる支援は微々たるもの。梅香殿の香淑妃はたびたび茶会を開いたから、龍婕妤はいつも肩身が狭かった。


「龍婕妤様、よければこれを。

 え? 何故って?

 私にはあなたと同じ年頃の妹がいて、とても他人事とは思えないのです。

 ――私を宦官として売っておきながら、何人も子供を作る両親に思うところはありますがね。それでも、幼い者に不幸になってほしいとは思わないものです」


 皇后の茶会は、いつも気が重かった。同年代の少女たちとわが身を引き比べてしまい、惨めな思いをするからだ。ことに、香淑妃は。


「龍婕妤様、実は香淑妃様が、蓮生殿の門の前に呪具を埋めているのを見てしまったのです。呪詛は重罪です。もしあなたが告発したら、感謝されることでしょう。

 ――ここだけの話ですが、香淑妃様と仲のよい皇后陛下は近いうちに失脚されます。

 あなたは、香淑妃の次の淑妃になれるかもしれません。後ろ盾の心当たりもあります。

 私は、あなたをこんな惨めな境遇に置いておきたくはないのです」





「大丈夫そうですか~? 凌寒殿に戻れそうな感じです?」


 寿珪がしゃがみこんで、龍婕妤の顔を覗き込んできた。


「皇后陛下は、私を罰するかしら」


 龍婕妤は青海を信じて香淑妃を告発しただけだ。自分の目で見たかのように話したことは偽りだったけれど、龍婕妤も騙されたのだ。


「さあ~。皇太后陛下にも知られていますからねえ、何もなしってわけにはいかないんじゃないですか~」


「だけど!」


「もちろん洪青海もタダじゃすまないでしょうけど~。香家は怒り狂ってますし、無罪放免は無理でしょ」


「ふ、不公平だわ! 相手に後ろ盾があると罪が重くなるなんて!

 私なんてどうせ誰も助けてくれないのに……!」


「あ、そこはね、うちの主はうまいことやると思いますね~。

 あの人基本、武人なんで、非戦闘員には甘いですから~。

 必要以上に重い罰は与えないと思いますよう」


 そうは言っても罰されるのは間違いないのだ。

 龍家や父は龍婕妤が罪を犯したとなれば、容赦なく切り捨てるだろう。


「皇后陛下は……他の誰も、私のことなんか考えてくれないわ。

 どうせ私のことなんか、誰も分かってくれないのよ。

 みんな大切にされて敬われて、こんな、惨めでみすぼらしい人間のことなんか……」


「あ、それはそう。

 主は自己肯定感の塊? 権化? みたいな人なんで、我々みたいな下々のことは頭では分かっても体感としては分かんないでしょうね~」


「……自己肯定感の権化」


「樨国公の末娘で、天性の武人で、親にも周囲にも愛されまくって育って。しかもあの人、ああ見えて教養もあるし頭もいいですからね~。どうせ私なんか、なんて思ったことないですよ」


「……嫌な女」


 龍婕妤の対極にいるような女だ。生まれが違うだけで、こんなにも違うのに、同じ男の妻となっても、こんなにも違うなんて。


「そうですね~。私は生まれた時からお仕えしてますけど、赤ちゃんの頃から常軌を逸してましたよう。生まれた翌日には立ち上がってたんじゃないですかね、あの人」


 侍女の表情が遠い目になった。皇后が兵を率いて央都を解放したのは十八の時と聞いている。男でも中々そんな早熟な戦士はそういないだろう。

 あのうすぼんやりとした姿からは、想像できないが。


「でもまあ、だからこそ、変な感情を入れずに曇りなき眼で判断すると思いますよ~。見下すとか負の感情のない人ですから~。

 素直に話せば公正な処罰になりますって~」


「そんなうまい話があるかしら」


「どっちかっていうと、他の方々のが厄介だと思いますよ~。

 お一人身内を讒訴されて怒り狂ってるし、お一人は企みを頓挫させられて怒り狂ってるし~」


 確かに、侍女の言う通りだった。誰が一番ましか、という話だ。

 龍婕妤の表情の変化を読み取ったのだろう、侍女がにっこりと微笑んだ。


「それじゃ、皇后陛下のところに参りましょうか」

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