09.龍婕妤(1)

 宦官や女官には、派閥ごとに溜まり場がある。太皇太后派の宦官の溜まり場は、後宮の東北の隅にある。

 そこは、東西六宮や皇后宮に部屋を与えられない宦官たちが詰める一角で、細長い長屋がいくつも並んでいる。

 皇后の侍女、寿珪を伴って、龍婕妤はそこに足を踏み入れた。


青海せいかい


 その部屋は彼らの溜まり場らしく、酒や食べ物や、汚れた衣服の臭いがした。方卓の上には、骰子さいころと金子、酒といったものが乱雑に転がっている。龍婕妤たちの姿を認めると、青海以外の宦官たちは金子をかき集めてそそくさと退出していった。

 

「龍婕妤様」


 彼、洪青海こうせいかいは驚きに目をみはっていた。三十歳そこそこの男盛りだ。いつも一糸の乱れもなく髪を結い上げ、袍も褌も皺一つなくて、白檀のような薫りのする人だった。

 袍の前を寛げ、官帽も脱いだ彼の姿は、慇懃で丁重な態度を崩さない凌寒殿での姿からはかけはなれたものだ。龍婕妤は胸騒ぎを覚える。


 侍女が少ない龍婕妤を助け、髪を結ってくれたり、お茶を淹れてくれたり、本来の役目を離れて何くれとなく世話をしてくれた。時には、太妃の一人からもらったという布地をくれたこともある。

 龍婕妤への実家からの援助は途絶えがちだった。宴や行事、茶会があるたびに、次は何を着ていこう、と頭を悩ませていた彼女にとって、どれほどその布がありがたかったことか。

 ここまでしてくれる人は他にいない。彼は彼女にとって特別な人で、彼にとっても彼女は特別な人だと、そう思っていた。


 だが、ここにいるのはーー


「なんでこんなところに!」


 青海は行儀悪く立てた膝を下ろし、少しばかり気まずそうな顔を見せた。


「青海、助けて! 本当のことを話してちょうだい!」


 助けて、という言葉に、彼は怪訝な顔になる。


「あなたの言う通りにしたのに、皇后陛下が嘘だと言うの! それに不義密通も濡れ衣だったって…」


 龍婕妤が知る、「洪青海」の顔が、消えた。

 労わるような微笑みは嘲笑に、慇懃さは太々しさに、一瞬にして入れ替わった。


「ああ、なんだ、ばれちゃったのか」


「嘘、だったの……?」


「嘘? 計略と言ってほしいですね。全てうまくいけば、嘘ではなく真実になったのに」


「でも、それは讒言じゃない」


「陥れられる方が悪いんですよ。

 このところお子様同士で仲良しごっこをされているようですがね、ここは本来生きるか死ぬか、権謀術数渦巻く危険な場所なのですよ。

 罪悪感を抱く必要なんてないんです」


 青海がぬうっと立ち上がった。髭のない、色の白い顔からは感情らしい感情は読み取れない。貼り付けられた笑みは、相変わらず嘲りの色をしていた。


「罪悪感なんて持ってないわ。そうじゃないの、讒言だとばれたら、私はどうなるの? あなたの言う通りにしたのよ!?」


「だからね? 陥れられる方が悪いんですよ、龍婕妤様」


 龍婕妤は全身から血の気が引くのを感じた。

 一歩、青海が龍婕妤に近づく。龍婕妤は一歩後ずさる。


「私は何も言っておりませんよ。あなたが、宮正や皇后陛下の前で『香淑妃が呪詛した』と口にしたのです。私が言ったなんて証拠が一体どこにあるというのです」


 青海が、右手の甲で、龍婕妤の右頬をそっと撫でた。生温かい感触が頬骨から顎へかけて滑らかに移動していく。逃げるように顔を背けたのは、無意識だった。


「ひどい……ひどいひどい! あんまりよ! あなたを信じてたのに!」


 龍婕妤は青海の手を振り払って、逆に掴みかかった。衫の襟を掴んで揺さぶっても、彼は薄笑いのままだった。


「ひどいのはあなたも同じではないですか。香淑妃がどうなってもよかったんでしょう?

 自分より豊かで、愛されていて、だからこそ天真爛漫で無神経で。少しくらい痛い目に合えばいいと、そう思ったから、宮正に告発したんでしょう?」


「だって、呪詛したんだと信じて」


 龍婕妤の細い声を、青海はぶしつけに遮った。


「いいえ、あなたは沈黙する道もあったのですよ。

 あなただって、私と同じですよ」


 息が苦しい――龍婕妤はうまく呼吸ができず、ひっと悲鳴のような音を喉から漏らした。息が、吸えない。


「ち、違うわ。私は嘘をついて陥れようとなんてしてない!

 呪詛は罪だもの。訴え出ることの、な、何がいけないのよ。

 讒言させたのは、私に罪を犯させたのはあなたじゃない!

 私、私が、あなたに嘘を吹き込まれて告発したんだって言えば、きっと助かるわ!」


「あなたが証言するって?

 一体誰が信用するというんです?

 親にも顧みられない、惨めな妃の言うことを。

 私は長年後宮で働いてきて、実直で誠実であることには定評があるんですよ。守ってくれる人はたくさんいます。どうぞ、好きなようにわめきたてればいい」


 はは、と青海は、いつもと同じ軽やかな笑い声を上げた。

 龍婕妤は、いよいよ息が吸えなくなって、吸おうとするたび「ひっ」と聞き苦しい音を立てた。

 青海の表情が、奇妙に歪む。それは、愉悦、とも呼べそうなもので。


「ああ、苦しそうだ。かわいそうに。

 ……別に、何を言われても構わないけれど。変に騒ぎ立てられても面倒ですし、一思いに殺してあげましょうか?

 何、空閨をかこつ妃嬪が首を吊るなんて、よくあることです。以前の後宮ではこの手で何人も――

 きれいに処分してあげますよ。あなたの好きな御花園の木に吊るしてあげましょう」


 大きな右手が、龍婕妤の細い喉をとらえて、躊躇いなく締め上げた。龍婕妤は腰を抜かしてしまい、青海の腰に縋りつくような姿勢になってしまう。


「ひっ、いや、はなし、て」


「さすがに片手では難しいか。もう少し小さい子なら片手で済むのになあ」


 恐ろしいことを言いながら、青海は左手も首にかけた。


 本当に殺される――


「てえい!」


「げっ!」


 と、その時。龍婕妤はものすごい勢いで後ろに引っ張られた。同時に視界の端で、青海の横っ面に色鮮やかな鞋がめり込んだのが見えた。


「この下郎が~! 中学生に触るんじゃない!」


 ぶっ飛んだ青海が起き上がる前に、寿珪がむせる龍婕妤を荷物のように肩に担ぎ上げた。


「三十六計逃げるに如かず~!」


「ぐえっ」


 寿珪の肩が龍婕妤の鳩尾に食い込んで、彼女は妃嬪にあるまじき声を上げた。が、抗議する声を上げる間もなく。


「歯を食いしばってくださいね~。舌噛みますよ~」


 間延びした声が龍婕妤の耳に入ったと思ったら、今度は上下に揺さぶられ、彼女はもう何も分からなくなった。

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