08.捨てられた娘
その日の朝も凌寒殿は人の気配が少なかった。今日は年老いた侍女が一人、龍婕妤の傍に控えている。
呉三娘は改めて、少女の様子を観察した。着ている衣は上質な生地だ。
高級な生地である。高級ではあるのだが――丈が合っていない。前回会った時の装束も、海洋民族らしくはあるが、年齢の割に渋い色味ではあった。
「何故私がここに来たか、分かっているね」
呉三娘が席に着き居住まいを正して言うと、龍婕妤は、きっ、と呉三娘を見返した。浅黒い肌の中の、切れ長な目が燃えるように強く輝いている。
「いいえ、分かりません」
「そう。それなら説明してあげよう。
あなたは香淑妃が楊徳妃を呪ったために体を壊したのだと言ったね。
だけど、楊徳妃の体調不良の原因は呪いではなく飲み物だった。
だから、今一度呪詛について調べなければならなくなったんだよ。
確かに楊徳妃を呪うために埋められたものか、あるいは香淑妃を陥れるために埋められたものか」
「ええ、でも、呪詛は効き目があろうがなかろうが、手を出しただけで重罪ですよね」
「もちろん。讒言もね」
一瞬、凌寒殿に沈黙が落ちた。龍婕妤は呉三娘から目を逸らさない。
追い詰められた兵士の目だと、呉三娘は思った。
「問題は、それを香淑妃が埋めたのかどうか、ということなのだけど。
もう一度、あなたの話を確認させてほしい。
香淑妃が、蓮生殿の東の門のすぐ外の塼の下に、何かを埋めているのを見たのは確か?」
「はい、間違いありません」
「香淑妃の手が泥だらけだったのも間違いない?」
「はい、確かに見ました」
「同じ日のうちに、そこを掘り返してみたら、呪具が埋まっていたのも間違いない?」
「はい、真っ黒な壷の中に入っていました。見たこともない字が書かれた紙で封がされていて、開けてみたら、中にやはり読めない字で書かれた紙が入っていました。読めたのは、楊
呉三娘は少し胸が痛んだ。
だけど、彼女がやらなければ、皇太后か太皇太后が出てくるのだ。誰が一番ましかと言えば、呉三娘だろうということは、自信をもって言えた。
「あなたは、壷やその中身は見たのでしょう。
だけど、埋めるところは見ていないね。それに、掘り返してもいない。
例の塼の下は、昔から宦官の間では有名で、直接やり取りできない文書や暗号をそこに隠していたそうだよ。例えば、不祥事の密告とかね。
妃嬪が門の前にしゃがみこんでいたら目立つけど、輿の傍に控える宦官がしゃがんでいても、不自然じゃないからね」
皇太后が言っていた「内僕令が言っていた面白いこと」とは、この秘密の穴のことであった。
「それがなんだというのですか」
「でね、そこは、きれいな空洞になっているんだそうだよ。
わざわざ土を掘り返す必要もない」
「……!」
龍婕妤の目が初めて泳いだ。視線が中空をさまよっている。
「香淑妃の手が泥だらけなはずがないんだよ」
呉三娘が念押しをすると、龍婕妤は――憤怒の面持ちで睨み付けてきた。
「もう一度言うよ、讒言は、とても重い罪だ。
あなたが今、正直に話すのであれば、処罰に手心を加えてあげられる。
だけど、このまま何も言わないのであれば、あなたが自ら香淑妃を陥れようと計画し、虚偽の呪詛で告発したとして罰さなければならない。
どうしてこのようなことをしたのか、話しなさい」
龍婕妤の薄い唇が、きゅっと引き結ばれた。
白髪の侍女が不安そうに主を見つめている。
「あなたが主犯となれば、あなた付きの侍女も宦官も、一族も無事では済まない」
「卑怯だわ! そうやって脅して、私のせいにしようというのでしょう!」
ようやく龍婕妤が口を開いた。無礼な口調に、侍女が慌てて「婕妤様!」と諫める。
「いいえ、これは温情です。
もはやあなたの罪は明らかで、あとは罪の重さを計るのみ。
私は、あなたが自らこのようなことを計画したとは思っていないの。誰かに言われてやったのなら、あなたの罰を軽くすることができる」
「はっ」
少女似つかわしくない、嘲りの息を吐いた。
「あなたはもうすぐ失脚するって聞いているわ。不義密通の罪でね!
そんな人に何を言われたって怖くない。私には強い味方がいるんだから!」
「ははーん……」
後ろにいる寿珪が「なるほど~」と呟いた。
分かっていたことではあるが、分かりやすすぎでもある。
あの刑部尚書のずさんな告発と、時を同じくしたこの呪詛の訴えと。恥じらいとか、そういうものを忘れて生まれてきた脳筋の呉三娘が告発を正面突破しなければ、おそらく皇后は身動きが取れずに香淑妃は太皇太后の手に落ちていたわけだ。
「龍婕妤、残念ながら、その情報は少しばかり古い。
私にかけられた濡れ衣はすでに晴らされている。
つまり、私はこれからも皇后で、これからも後宮の最高権力者の一人だ」
「嘘よ」
「あなたに甘い毒を吹き込んだ者は、新たな餌は与えてくれなかったようだね。
かわいそうに。あなたは、使い捨てにされたのだよ」
「嘘、嘘よ」
「不義密通が認められていたら、私がこんな風に宮正の真似事をできるわけがない。
告発されてから何日経ったと思う?」
「……」
龍婕妤は身を固くして黙り込んでしまった。
呉三娘は、襖の袖から見える細い手首や、裙の裾からのぞく踝をみた。
龍家は、彼女を後宮に送り込んでからろくに援助していないのだろう。
妃嬪の衣装には官給の品もあるが、これは主に俸給が低く実家の援助が見込めない身分の低い妃嬪のためのものなので、みな「お揃い」になる。装束に決まりがある正装は別として、四大国公の一族の娘が身に付ければ悪目立ちするし、それを甘んじて受け入れるには、龍婕妤の場合は自尊心が邪魔するのではないだろうか。
普通なら、龍婕妤は女官や宦官を通じて購入するなり、実家から受け取るなりして身なりを整えているはずだ。それができていないのは、実家が支援をろくにしておらず、女官や宦官からも軽んじられている、ということを意味する。
見捨てられた少女の耳に、甘言を注ぐのはどれだけたやすいことだったろうか。
「龍婕妤」
呉三娘は、彼女自身で幕を引かせることにした。
「あなたに、真実を確かめる機会を与えましょう。
この話に乗るなら処罰は考えます」
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