14.少年皇帝の憧憬(1)

「樨国公が三女、郡主呉三娘が皇帝陛下に拝謁いたします!

 皇帝陛下! 万歳! 万歳! 万々歳!」


 文武百官が詰めかけた天極殿てんきょくでんの空気を震わせて、その女将軍が張り上げた声を、満堂をどよもして西方のもののふたちが唱和する声を、丹堅は生涯忘れないだろう。

 その一声が、彼の帝位を決定づけたのだ。


 皇帝丹堅は、その帝位の正当性に疑義をはらんだ皇帝である。

 父である先帝が無謀な親征の果てに捕虜となり、源が央都へと攻め入ったとき、先帝の母后――丹堅にとって祖母にあたる――は皇太子であった丹堅を次の皇帝に指名した。皇帝が敵陣に捕らえられている限り、央の兵は源に弓引くことができず、滅亡を待つしかなかったからである。

 先帝は、急遽こしらえられた「太上皇帝たいじょうこうてい」という位を与えられたことになっている。

 だが、皇帝自らの意志によらぬ生前の譲位は異例であり、また当時十一歳の丹堅は通常十五で行う加冠かかんを行い即践祚せんそした上、皇帝が継承すべき伝世の玉璽ぎょくじも手元にはなく――皇位簒奪である、楊宰相、香家の傀儡であるという誹りは免れようもなかった。


 それを一蹴し、今なお皇位を支えてくれているのは、誰よりもまず呉三娘である。


 丹堅が即位を宣言したその日、源から降伏を促す最初の使者が訪れた。

 央都は源の兵に包囲されており、主力の軍は先帝とともに出征して帰らず、常ならば彼らを守る峻険な欧山おうざんも悠々たる欧河おうがも、かえって援軍の妨げとなっていた。

 毎日訪れる使者が届ける書状は、積み重なるばかりである。


 ――末代の皇帝となるのか。


 央都は背後を欧山に連なる崖に、前方を欧河に挟まれ、深い水堀と見上げるような城壁に囲まれた都市である。源の兵は堀の向こうに陣を敷き、籠城する央都が音を上げるのを待っていた。計算では、一年は籠城できる。計算では。だが、人々の心がどれだけもつだろうか。

 不安に苛まれたある日、丹堅は宮城きゅうじょうで最も見晴らしのよい角楼かくろうの一つで震えながら眠った。


 その夜半、奇妙な地響きの音で彼は目覚めた。央都は火山地帯の楠国なんこくと違い、滅多に地震が起きない土地である。

 城内に次々に灯りがともるが、異常は見つからない――地響きは、央都の外で起きていた。新月の夜だ。何が起きているのか、松明の火ではわからない。

 やがて、源が陣屋を張っていたあたりから剣戟の音、怒声、悲鳴が不気味に巻き起こる。

 地響きの正体は、馬蹄が地を蹴る音だった。

 樨国産の黒石馬こくせきばと呼ばれる、通常の馬より二回りも大きく、強靭な馬の足音だ――それに誰かが気付いた時、央都の兵たちは色めき立った。

 先帝の親征を諫め、幽閉された国士無双と名高き樨国公が兵を率いて救援に来たに違いないと。


 丹堅も例にもれず、角楼を飛び出し馬に飛び乗って宮城をも飛び出し、央都を囲む城壁へと駆け上っていた。

 やがて東の空が白み、待ちに待った朝が来る。曙光は央都の家々、官衙、宮殿の屋根を照らし、やがて彼らの姿を浮き上がらせた。

 堂々たる黒石馬にまたがる百騎ほどの騎兵。先鋒には金の兜をかぶった細身の将。死を表す黒色の鎧は、どれほど返り血を浴びても色を変えることはない。彼らの周辺には黒石馬に踏みつぶされ、あるいは槍に、刀に切り捨てられた源の兵たちの骸が散らばっていた。


 樨国軍は整然と陣をなし、生き物のように、水が流れるように、形を変えつつ源国軍を討ち取っていった。逃げ惑う源国軍を弓矢で袋小路へ追いやり、一気呵成に叩き潰す。あるいは怒涛の勢いで追い、追いつき、散々に蹴散らす。

 とうとう軍を維持できなくなった源国軍は、撤退を――というより散り散りになって逃げ出した。砂煙を上げて駆け去る彼らを樨国兵の一部が追って行った。


 丹堅は信じられない思いで、黒き精鋭たちを見下ろしていた。いつの間にか、傍らには宰相たちや母皇太后も集まってきている。


 救いを確信した央都の兵たちが歓声を上げた。


「何という……」


 全身がしびれたようで、今自分が微笑んでいるのか泣いているのかもわからなかった。少年皇帝は手を揉みしだきながら、身の内から起こる震えを抑える術を知らず、敗残兵を追う樨国の騎兵を見つめることしかできない。


「これで皇帝陛下をお救いできるぞ!」


「城内の兵を集めよ、樨国兵どもの勝手を許すな!」


「何を言うか、我々を救いに来たのだぞ!」


「先のご親征の轍を踏むつもりか!」


 言い争う家臣たちの声で、丹堅は我に返った。

 先帝の寵臣たちや太皇太后――先帝の生母――の派閥の者たちが先帝の救出や樨国兵の排除を叫べば、新帝を支持する楊宰相や新興派閥が反論する。

 央国は、一つ岩ではなかった。先帝の重祚ちょうそを望む旧派閥は、太皇太后を旗頭に依然として力を保っており、ことあるごとに先帝の奪還を叫び、丹堅の帝位の正当性を否定しようとしていた。


 ――もし、源国を打ち負かすことができ、父上が戻ってきたら。


 きっと丹堅は廃帝となるだろう。命すら危うい。皮肉なことに、丹堅の帝位は源の脅威によって維持されているとも言えた。だが、幼いとはいえ彼だって黙って死ぬつもりはないのである。

 場を収めようと、彼が口を開いたその時。

 まだ夜の気配の残る西の空より、淡く五彩に輝く何かが翔けてきた。豊かな鬣、黄金色の目。その全身を覆う毛は白のように見えて、揺れるたびに虹のように色を変える。そして手向かう者を引き裂くであろう顎に、何か紫色のものをくわえていた。

 米粒ほどだったそれは、みるみるうちに距離を詰め、丹堅が立ち尽くす城壁の上へと至る。護衛の兵が警戒して槍を突き出したが、彼はそれを手で押しとどめた。

 だって、見るからに聖獣だ。物語に聞く獅子と、その姿は瓜二つだった。


 聖獅子は彼の前に舞い降りると、猫のように座り、身をかがめてその顔を彼の顔に寄せた。


「おお……! 聖獅子が陛下に跪いたぞ!」


 誰かの興奮した声が聞こえた。

 丹堅はおずおずと、その柔らかい鼻面をなで、鬣に顔を埋めた。と、聖獅子がふるふると首を振ってわずかに身を引いた。離れた獅子と、皇帝との間に何か紫色の袋が見えた。

 聖獅子がぐいぐいとその袋を押し付けてくるので、彼はその袋を受け取り、中身を検めた。


「……! 玉璽……! これを余に?」


 なんと。捕虜となった先帝とともに源の手に落ちたと思われていた伝国の玉璽だった。

 丹堅は獅子の金色の目を見つめた。聖なる獣は、心得たように身を伏せ、彼に恭順の意を全身で示して見せた。少年皇帝は、今度ははっきりと、興奮でこの身が震えているのを自覚した。


「城門を開けよ。樨国の兵を労わねばなるまい」


 そうして、冒頭の情景に戻る。

 宮城の正殿、天極殿に詰めかけた文武百官の間を、呉三娘を先頭とした樨国兵が歩む。

 金の兜を小脇に抱え、黒い鎧に覆われた胸を堂々と張り、樨国公の娘は大股で皇帝の座す玉座の前へと進み出た。背後には同じく黒具えの偉丈夫たち。むわっと異様なにおいが室内に広がる。聞くところによると彼らは昼夜を徹して駆けつけたようなので、身を清める暇もなかったのだろう。丹堅は不思議と不快には思わなかった。


 礼儀通り、玉座の前の定められた位置にたどり着くと、呉三娘は跪き、兜を横に置いて頓首とんしゅののち武人らしく拱手きょうしゅ。兵どもも主に従う。

 それから、大きく息を吸うと、宮殿中を震わす大音声を発したのだ。


「樨国公が三女、郡主呉三娘が皇帝陛下に拝謁いたします!

 皇帝陛下! 万歳! 万歳! 万々歳!」


 これまで、先帝に遠慮して丹堅に対して万歳を叫ぶ者はいなかった。だが、呉三娘は百官の前で、樨国公はこの新帝を皇帝として認めていると言明したのだった。



※この話の後に同時刻にもう1話更新しています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る