15.少年皇帝の憧憬(2)

 一瞬、しん、と天極殿の中に沈黙が落ちた。

 その沈黙を破るように、先帝派で元も位の高い高齢の官僚が彼女をどなりつけた。


「貴様! 太上皇帝陛下はご健在だというのに、万歳を唱えるとはどういう料簡か!」


「……」


 はっとして丹堅が呉三娘に立ち上がることと発言を許すと、彼女はゆっくりと立ち上がり、少年皇帝をその金にも見える不思議な色の目で見つめた。

 どこといって特徴のある顔ではなかったが、すっと凛々しくまっすぐに伸びた眉も、高くもなく低くもない鼻も、やや大きめな口も、端然と整っていた。何より、この目である。切れ長な目の中の瞳は、光の加減によって金にも、銀にも見え、丹堅に聖獅子の毛並みを思い出させた。


「ここにおわす皇帝陛下は、太上皇帝陛下のご母后の指名で即位なされた。これは古来より先例あること。

 なにより、今上陛下は聖獅子に玉璽を授けられたと聞く。なれば、聖獅子の末裔を名乗る我々樨国人は今この玉座におられる皇帝陛下を君主としてお仕えすることに何の異論もない。

 よって、我らは皇帝陛下の長寿と御代の長久を願う言葉として定められている『万歳』を唱えた。

 貴殿は、何をもって今上皇帝陛下の帝位を否定なさるのか?」


「な……っ! 否定など! 曲解だ!」


 恒例の高官は髭と同じくらい顔を真っ白にして、唾を飛ばして呉三娘に詰め寄ったが、彼女は微動だにせず、平坦な口調で返した。


「左様か。私は辺境の育ちゆえ、誤解をしていたら申し訳ない。

 それでは、『万歳を唱えるとはどういう料簡か』とはどういう意味かご教授願えるか。

 皇帝陛下への挨拶は万歳だと思うのだが。それともまさか。千歳、百歳と言えとでも?」


「その口の利き方はなんだ! この野蛮人が。

 女ごときには理解できぬことだ、引っ込んでおれ!」


 先帝派の者たちであっても、さすがに目の前の皇帝を否定はしない。間接的に認めないと述べるのがせいぜい――だが、呉三娘は真正面から「なぜだ」と聞いた。彼は答えることはできないだろう。


 罵りながら高官は呉三娘から三歩ほどの距離まで近寄っていた。と、突然顔をしかめるとわざとらしく鼻を覆って袖で風を仰いだ。


「ああ、臭くてたまらん。蛮族はさっさとあの化け物馬と一緒に西方へ立ち戻るがよかろう!」


 あまりの罵倒に、丹堅や楊宰相らが声を上げようとしたとき。

 呉三娘が、ふ、と唇を歪めた。


「わかった。お言葉に甘えて帰らせてもらう。

 我らも好きでここにいるわけではない。ご親征で荒れ果てた故郷を後にしてきたので、正直ここに留まらずに済むのはありがたい。

 嘉玖、出立の準備を」


 呉三娘が声をかけると、小柄な兵が、は、と応えて隊列を離れた。


「お待ちくだされ、今ここを離れられるのは困る!」


 武官の中から誰かが声を上げた。呉三娘は武官の方をちらりと見てから、


「蛮族にもわかるように説明してくれないか。そこの侍中じちゅう殿は帰れという、彼は残れという。そもそも今上皇帝に万歳を唱えることを咎められる理由がわからん」


 呉三娘は腕を組んで武官と侍中殿――先ほどの白髭の高官――を睥睨した。

 小娘に見下されたと感じたか、侍中の頬に朱が走った。


「これだから女は。すぐ感情的になる。まったく、状況も顧みずに自分のことばかり言うて、恥ずかしくないのか」


「お言葉だが、感情的であることの何が悪いのか分からぬな。

 我ら樨国人は、侮辱を受ければ怒るし、怒らぬのを理性的とは言わない――怯懦きょうだと言う。

 貴殿は、ここにいるのが私であったことに感謝するべきだ。父や今は亡き兄であれば、あなたの首はここにない。多分、そのあたりに転がっているはずだ。彼らの方が『感情的』なのでな?」


 呉三娘が五丈ほど離れた床を指さして言う。淡々としているが、声は低い。


「や、野蛮人が……! 身の程もわきまえず、皇帝の御前で私刑だと?」


 これまでほとんど表情を出さなかった呉三娘が、初めて嫌悪を明確に示してため息をついた。その瞳が一瞬、黄金に染まり、瞳孔が猫のように細まった、ように丹堅には見えた。


「貴様は先ほどから何を言っているのだ。

 私の名乗りを聞いていなかったのか? 樨国公が三女、郡主呉三娘と私は名乗ったはずだ。なんだか知らんが太上皇帝陛下が樨国に到着された際に郡主の位を賜ったのだ。

 郡主は従一品。後宮の妃嬪――内官ないかんを除いた一品に許されている特権は知っているだろう。自身の判断で罪を裁いてよいし、処罰は事後報告でよいという。

 身の程を知るべきは貴様の方だ」


 はっと侍中が目を見開いた。確かに、呉三娘を郡主とする詔が発されたとの知らせが西方から届いていたからだ。訳はともかくとして。

 この特権は功臣が一品を授けられた場合を想定しているが、公主や郡主が対象外というわけではない。確かに過去、その特権を用いて世を乱した姫君はいた。


「そうは言っても何の罪で裁くというのだ」


「皇帝陛下に対する不敬罪で。

 さて、初めの問に戻るが、皇帝陛下に対する『万歳』を咎めだてするとはどういう料簡だ? 申し開きの内容よっては、問答無用で、斬る」


 硬質な音を発して、呉三娘が剣を抜き放った。

 彼女は本気だった。彼女は躊躇いがなかった。彼女には信念があった。その薄汚れた姿の、何と輝かしいことか。

 丹堅は、聖獅子が彼に身を伏せた時と同じ震えが、腹の底から起きるのを感じた。

 彼女は、自分に忠誠を捧げているのだ。

 侍中を斬ることで、樨国は太皇太后を筆頭とする先帝派を敵に回すことになるだろう。いかに従一品とはいえ、太皇太后には敵わない。重い処罰を受けることになるかもしれない。それでも、彼女は自身の仕える天子と一族の名誉のために剣を抜いた。

 なれば、彼女を守るのは、主君たる自分しかいないのではないか。


らん将軍」


 丹堅は数少ない自身の側近を呼んだ。皇太子時代から身辺警護を担ってきた藍将軍だ。護衛の列から進み出た彼は、短く答えて御前に進み出た。


「この不忠者を捕らえよ。侍中蝋潜ろうせん。皇帝たる朕の命により、その官品官職を剥奪する」


 満堂の官僚が騒めいた。侍中は卒倒せんばかりにわなないている。

 これまで、この少年皇帝は皇帝の自称である「朕」を用いず「余」と名乗ってきたし、皇帝であることを誇示したことがなかったからだ。


「よい機会だから言うておく。

 朕こそは海内五国を統べる天子なり。今後それに僅かたりとも疑義を申し立てる者がおれば一切の容赦はせぬ。心せよ」


 楊宰相が真っ先に、は、と応えて跪いた。波紋が広がるように、次々に周囲の者が跪いていく。


「郡主呉三娘。その忠義、武勇、天晴である。ほめてつかわす」


 呉三娘は、にかっと笑って、それから跪いた。


「もったいなきお言葉!

 皇帝陛下、万歳!」


 再び、彼女はよく通る声で少年皇帝の御代をたたえた。

 今度は樨国の兵のみならず、跪いた全ての官が唱和する。


「万歳! 万歳! 万々歳!」


 この日以降、丹堅の帝位に対し表だって疑義を呈する者は現れなくなった。

 少年皇帝は、この時抱いた強烈な憧憬を、生涯忘れることはできないだろう。

 だから、紆余曲折の末、呉三娘が皇后として後宮に入ることが決まった時、何があろうと自分は彼女の第一の味方でいようと決めたのだ。



<第一話 了>

※この話の前に同時刻にもう1話更新しています。

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