13.皇后は静かに暮らしたいだけ

「なんか~すっきりしないんですけどお」


 皇太后の元から戻ってきて、開口一番寿珪が言った。

 呉三娘は皇帝を顔を見合わせて、苦笑する。


「言いたいことは伝わったから、いいんだよ」


「母上も、まあ嫌がらせは続けるだろうが、ひどい怪我を負うようなことはなさらないだろう。簪も早晩見つかるはずだ」


 皇太后は皇帝の前で悪事を暴露されたくなかったようだが、彼はもとより承知である。彼だって、ともに先帝の後宮を生き抜いてきたのだ、母親が清廉潔白だなどと幻想を抱いたりはしていない。知らぬは親ばかりというわけだ。

 呉三娘は重い鳳冠のために凝った首をほぐしつつ、皇帝に茶を出すよう指示をだす。皇太后宮で出たのは渋めの坤茶だったので、軽めの花茶を出すよう指示した。


「陛下がいてくださったおかげで、穏便に済みました。

 私だけだったら、意地でも引かれなかったでしょうから」


「母上も本気で敵対するつもりはないんだよ。楊家とも樨国とも。

 ただ、前の後宮が過酷だったので、先手を打たねば後手に回ると考えてしまうんだ。それこそ下賜の簪を失くしただけで次の日には死んでいるようなところだったから」


 悟ったような顔で語る少年に、呉三娘はちょっと同情してしまう。即位したのが十一、その前ということは、彼も香淑妃や楊徳妃と同じような年齢の子供だったのだから。


「代替わりして大分明るくなったのだよ。呉三娘のおかげだね」


「いえ、年齢層が著しく下がったからだと思いますけど」


 真顔で返すと、皇帝も侍女たちも笑った。


「そうだね、母上はそこを忘れていたのだろう。

 ここにいるのは、たとえ背後に誰がいたとしても、まだ幼い子供たちばかりだ。大人同士の争いと同じようにやっては、あまりに冷酷だ」


 始まってもいない寵愛争いのために、子供の顔に一生消えない傷を残すこと。皇太后がやろうとしたのは、そういうことだ。


「だったら、簪のすり替えも言えばよかったのに~」


「いいんだよ。皇太后陛下を糾弾したって、楊家と香家の仲が険悪になるだけで何にもならない。私が成し遂げたかったのはそんなことではなくて、妃嬪たちへの過度な攻撃の制止だから。これでいいの」


 それに、これで皇太后への貸し一つだ。呉三娘は証人の孫明珠を死なせるつもりはない。


「でも、手違いで紛失ってことになったらどう終わらせるんです?

 葉盈盈を冷宮に放り込んだのは後宮に知れ渡ってますよ」


「そこはね、私皇后ですから。孫女官はじめ、女官の本分を忘れて皇太后陛下に与した者たちを名目は何であれ罰して終わりにします」


 鳳冠を止める金具を一つ抜き、指先で弄んだ。

 誰かが責めを負わねばならないが、皇太后は罰せないし無実の者に罪を被せることは避けたい。ならば、実際に今回の件に手を貸した者たちに、罪に応じた罰を受けてもらうしかないだろう。


「皇帝陛下も、それでよろしいですか?」


「葉盈盈はもう十分に不注意の罰を受けただろう。そこは配慮してほしい」


「承知しました。減給あたりで留めましょう。

 孫らは央都からの左遷を考えています。下賜の簪を紛失した者としては、軽い罰かもしれませんが」


「いいだろう。彼女たちも母上に命じられたのだから、温情はあってしかるべきだ」


 皇帝が茶を受け取りながら頷いた。茶の蓋を取って香りを嗅いだ彼が微笑む。


「木犀茶?」


「燐油は入っていませんよ?」


「何とも樨国らしい茶だな。私の好きな香りだ」


 そう言って、皇帝は茶を口に含んだ。

 樨国人は武人が多く、常に武具の手入れに使う燐油の香りがする、というのは武勇を褒める言葉であり、血なまぐささを揶揄する言葉でもある。

 だが、皇帝はその香りが好きだと言った。

 彼の信頼を嬉しく感じつつ、呉三娘も茶を手に取った。何だかんだでちょっと楽しかったし、寿珪の突拍子のない思いつきも悪くはなかったな、など度も思いつつ。





 皇后宮は今日も子供たちの声であふれている。

 楊徳妃に香淑妃、それに他の妃嬪たちも集めて総勢十五名だ。下は九歳から上は十六歳とほほえましい女の園である。皆少女らしい華やかな色合いの衣を身に着けているので、普段閑散としている皇后宮は春がきたかのようだった。


「私、蓮の実の砂糖漬けが大好きなのです」


「私は甘いものならなんでも!」


芹充媛せつじゅうえん様はお召し上がりにならないの?」


「この瓔茶えいちゃ、とってもおいしいです。新茶ですわね?」


「ねえねえ。龍婕妤りゅうしょうよ様の襖の生地、もしかして照月織ですか?」


 声をかけたところで、こんな名ばかり皇后の呼びかけに集まってくれるかなあと呉三娘は思ったのだが、意外なことに皆すぐに出席の返事をよこした。

 彼女たちがちょっと緊張しつつ、期待をはらんだ眼差しで皇后に挨拶をするのを見て、呉三娘は反省したのだった。ここは後宮で、実家の力も限定的で。皇太后は姪の香淑妃に肩入れをしている。香淑妃以外の妃嬪たちは、よるべき大樹を求めていたのだ。ちなみに香淑妃は本当に無邪気に喜んでいた。強い。

 他の妃嬪たちは、香淑妃同様無邪気にはしゃいでいる者もいたし、緊張からか暗い顔をしている者も、反抗的な顔をしている者もいて、子供とはいえこの年になると個性があるものだなあと呉三娘は思う。


「寿珪、持ってきてちょうだい」


 呉三娘が控えていた侍女に声をかけると、ほどなくして寿珪が桐の箱を捧げ持って戻ってきた。


「楊徳妃、簪が戻ってきたわ」


「!」


 椅子から立ち上がり、楊徳妃がしずしずと皇后の前に進む。呉三娘がうなずくと寿珪が楊徳妃へと箱を手渡した。楊徳妃は興奮に頬を染めながら箱を開けて、花がほころぶように微笑んだ。


 簪は、司服局の倉庫から見つかった――ということになっている。女官が誤って司服局に運んでしまい、さらに誤って楊徳妃ではなく皇太后の棚にしまってしまったのだと。幾人かの女官が処罰されて終わった。

 孫女官は皇太后が強硬に死罪を主張したが、のらりくらりと躱して結局樨国送りにすることで決着した。あれだけ蔑んでいた辺境へ送り込まれるのだから、十分な罰だろう。


「皇后陛下、ありがとうございます」


「嘉玖、挿してあげて」


 呉三娘の言葉に応え嘉玖が進み出て、楊徳妃が今挿している簪を外し、金の蓮の簪を挿す。


「よく似合うわ」


「ありがとうございます」


 しかし、と呉三娘は思う。

 あの思慮深さが冠をかぶっているかのような皇帝が、楊徳妃だけに誕生日の贈り物をするとは。

 もしかして、楊徳妃のことを気に入っていたりするのだろうか。

 蓮は、泥から生じて清らかな花を咲かせることから、清廉さを象徴する花である。古来から君子が理想を投影し、愛してきた存在でもあった。また、蓮の音は恋に通じ、男女の求愛の例えに使われる花でもある。


 呉三娘は、金の蓮に嬉しそうに触れる楊漣花を見やる。胡麻団子を頬いっぱいに詰め込んでいる香小梅も。


 ――まあ、いっか。


 呉三娘は日和見皇后なので――ひとまず、一件落着だな、とつぶやいてそれ以上考えることを止めた。


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