12.皇后、お約束に乗ってあげる

「なんですって?」


 呉三娘が簪の返却を求めると、皇太后は柳眉を吊り上げた。美人の怒った顔は迫力がある。


「皇帝陛下が楊徳妃の誕生日に送った蓮の簪です。

 返してくれるなら、これ以上は何も申し上げません」


「あなたはこの私を盗人扱いするの? 何てこと!」


「……いえ、何かの手違いでそちらに届いてしまったようなのです。

 探していただけますね?」


「何を根拠に私のところにあると?」


 皇太后は強気だ。

 それはそうだろう。ここでは真実は重要ではないのだから。誰が、何を言ったかが重要なのだ。

 ただ、ここには皇帝と皇后がいる。皇后だけなら五分五分だが、彼女の愛する息子、皇帝もいるのだ。


「わかりました。寿珪」


「はい、皇后陛下」


 寿珪が部屋を出て行って、すぐに嘉玖とともに一人の女官を連れて戻ってきた。孫明珠だ。





 孫明珠は、三人の貴人の前で跪かされている。

 女官の袍は皺がより、官帽は傾き、鬢やうなじの毛は解けかかっていた。手荒には扱わなかったが、身だしなみを整えさせるほど親切にもしなかったので。


「女官孫明珠。お前は侍女呉麗華に対して、簪紛失事件の真実を話したね?

 もう一度、この場で話しなさい」


 孫氏はちらりと誰がそこにいるのかを確認して、深々と頭を下げた。


「恐れながら、何のことかわかりかねます」


「呉麗華が証言している。

 お前が、楊徳妃の簪は皇太后陛下のもとにある、と言ったと」


「何のことだか分かりかねます」


 孫氏は繰り返した。のっぺりとした顔は、ふてぶてしいほど落ち着いている。


「ああ、田舎の者の侍女には宮廷での言い回しがわからなかったのかもしれません。

 勘違いさせたのだとしたら、粗忽者にもわかるように言わなかったところは悪かったかもしれませんわ」


 樨国出身の呉三娘の前で、なかなか言うものだ。

 双子侍女は今、ものすごくにやにやしているだろう。


「田舎の、粗忽者ねえ」


 呉三娘がつぶやくと、皇太后の目が泳いだ。

 しかし、孫氏は皇太后がいることで調子に乗っているのだろう、嘲るように笑いながら、言い放って見せた。


「ええ、悪いことをしましたわ。皇后陛下におかれましては、愚かであることを理由にかの者を罰されることのないよう、お願い申し上げます」


 呉三娘はため息をついた。このように面と向かって侮辱されては、罰さないわけにはいかない。


「面を上げよ」


「は……」


 皇后の低い声に、孫氏はようやく何かを間違えたことに気づいたらしい。床に視線を向けたまま、固まってしまった。


「田舎の、粗忽者の、愚かな皇后が命じる。

 女官孫明珠、面を上げて、私の顔を見よ。この顔を見て、それでもかような嘘をつけるのか」


「……っ」


 重ねて命じられて、孫氏はそろそろと視線を上げた。最初に皇太后の顔色を窺い、それからちらりと皇帝を、最後に呉三娘の顔を見た。


「よく見よ。私の顔を見忘れたか」


 背後の双子侍女が、同時に、ふ、と息を止めたのを呉三娘は感じた。


「そう言われましても……お会いするのは二度目、それも一度は宮殿の外から遠目にお見かけしたのみでございます」


 ところが、孫氏の顔には「え。誰?」と書いてある。

 背後で双子侍女が笑いをかみ殺したのを感じる。……「お約束」とやらは不発だった。


「うーん、困ったなあ。化粧でそんなに顔変わる?

 お前は私に、『これが後宮だ』と教えてくれたではないか?

 この、野蛮な辺境出身の小娘にな」


「……!」


「もう一度言う、私の顔を見忘れたか? この『呉麗華』の顔を」


「な、なんで皇后が徳妃の侍女など……!」


 孫女官が顔色を失って、かすれた悲鳴を上げた。


「それは、お前が気にすることではない」


 有無を言わさず、呉三娘がきっぱりと言うと、孫女官は唇を震わせて黙った。


「お前は、冷宮に放り込まれた侍女呉麗華に、楊徳妃の簪が皇太后陛下のところへ届いているようだと、そう言ったね?」


「わ、私、は」


「なぜ、とか、どうやって、とか、お前が一体何をしたのか、とか。細かいことは今はいい。ここは戦場ではないのだから、私も裏切りだ処刑だと血なまぐさいことはしたくないし」


 たとえば、楊徳妃の簪を盗んだとか、皇后の侍女に毒を飲ませようとしたとか、公になればただでは済まない。よくて流罪、普通は死刑だ。


「だから、『はい』か『いいえ』で答えなさい。

 何かの手違いで、楊徳妃の簪が皇太后陛下のもとへ届いてしまったと、呉麗華に言ったね」


 孫氏はぶるぶると震えている。胸の下で右手の甲に左手を重ねる、礼の姿勢を維持するのも難しそうなくらいだ。

 ちらり、と彼女が皇太后を見たので、皇后も皇太后を見た。仮面のように静かな顔だ。怖いくらいの無表情、と言ってもいい。

 女官としては、ここで呉三娘の恩情にすがっても、皇太后を裏切ることになるのだから将来は暗い。この顔を見てしまったら、確かに「はい」とは言いづらいであろう。

 それでも、呉三娘は重ねて命じた。


「孫明珠、答えなさい」


「あ……っ、は」


「もういいわ」


 孫氏と呉三娘の会話を断ち切ったのは、皇太后だった。


「そんなに怖い顔で問い詰めて。かわいそうに、震えているじゃないの。

 もういいわ。一度、この宮殿の中を探してみましょう。それでいいわね?」


 これ以上、孫女官が問い詰められれば燐油の件含めて簪の一件が愛息の目の前で暴露されるかもしれない、それならば「なぜか分からないが誤って手元に転がり込んできた」とすることにしたのだろう。

 内心、ものすごく気に入らないだろうに、表面上はこれ以上ないくらい平静を装っている。さすがは後宮を生き抜いてきた猛者である。呉三娘は敵将に素直に賛意を抱いた。


「ええ」


 ちょっとだけ微笑んで、呉三娘は義理の母に体を向けた。


「ちょっとしたうっかりが重なってしまったのでしょう。不幸な事故でした」


 皇太后も唇だけで笑みを作った。


「まったくだわ。楊徳妃にはかわいそうなことをしました。

 私から何か、気の利いたものを送りましょう」


「香水以外で」


「ええ、香水以外で」


 後宮の一角で、美貌の皇太后と地味な皇后は微笑みあった。

 皇帝は、困った顔でお茶をすすっていた。

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