11.皇太后は不機嫌である
その日、皇太后香小蘭はとても不機嫌だった。
皇帝である息子は毎日挨拶にくるが、今日はそれに年増の皇后がついてくるらしいからだ。
呉三娘というその皇后は、地味で、気が利かない田舎者で、しかも女のくせに剣や槍を振り回して人殺しもためらわない武辺者だ。
もちろん感謝はしている。太皇太后や宦官にそそのかされて、宮廷の主だった官僚――高級武官も含めて――を引き連れて西方の砂漠まで親征した先帝は、散々に打ち負かされたうえに捕虜になった。主要な将を失い、皇帝を捕虜に取られた央国軍は、まともに反撃もできずに敗退に敗退を重ねた。そうして、敵に央都を包囲されるに至って、皇太后は死を覚悟したのだ。
だから、輝かしい黄金の兜をかぶり、朝日とともに現れた彼女と樨国騎兵の姿を、皇太后は一生忘れることはないだろう。
とはいえ、皇族として彼女に感謝するというのと、息子の妻として認めるというのは違う。
気に食わないが今は排除できない――先帝は今も源で存命であり、太皇太后や宦官勢力は、虎視眈々と彼の奪還と復位を狙っている。先帝が復位すれば、おそらく皇太后も彼女の息子も命はない。天に太陽が一つしかないように、地に天子は二人も存在してはならないのだ。
今上帝の帝位維持のために、息子の命のために、樨国公は決して失ってはならない存在だった。
だから、皇太后は呉三娘が引きこもっているのをいいことに、彼女がいないかのように振舞ってきたのだ。だというのに、一体何の用でわざわざ会いに来るのだろうか。
あの太々しくて垢ぬけない顔を見るのかと思うと、皇太后は憂鬱になる。親には孝養を尽くさなければならないので、皇后が義母たる皇太后を無下に扱うようなことはないのだが、そういう問題ではない。
「皇后陛下のおなり!」
先導の宦官が声を張り上げた。窓から外をうかがうと、侍女に手を取られつつ門の前で輿を降りた皇后の姿が見えた。皇后の準正装をしていても、相変わらず田舎くさい。
「皇太后陛下にご挨拶申し上げます」
いつもながらの地味な顔で、皇后が礼をする。体幹がしっかりしているので、彼女の礼はとてもきれいだ。優雅ではないが。どちらかというと、武術の型に近い印象を受ける。
「皇帝陛下のおなり!」
続いて、皇帝の到着が告げられる。
十三歳になり思春期を迎えた息子は、もう少しで小柄な皇太后と背丈が並びそうだ。それでも、かわいい息子だ。室内に入り、母の姿を認めると、にこっと笑って駆け寄ってくる。そして手ずから彼女を椅子へと導き、座らせてくれた。
先帝は多情な男で、貴妃であった皇太后の他にも寵愛する妃嬪がたくさんいた。その結果として、今上帝を筆頭に皇子が七人、公主が五人。息子が急遽即位するまで、後宮ではそれは熾烈な後継ぎ争いが繰り広げられていたのだ。ともに死線を潜り抜けてきた親子の絆は強い。
「皇后と一緒に来るなんて珍しいわね。どうしたの?」
皇帝が皇太后の隣に座り、皇后は向かいの椅子に腰を落ち着けた。
皇帝は侍女から渡された茶の香りを楽しんでいたが、ふと手を止めて、ちらりと皇后の方を見た。
「母上にお願いしたいことがあるのです」
そう言うと、手を振って侍女たちを下がらせた。残ったのは、呉三娘の侍女一人だけだ。
「母上――」
何度か茶で唇を湿らせ、言いづらそうに切り出した皇帝の言葉を、呉三娘が遮った。
「皇帝陛下、発言しても?」
無礼な態度に皇太后は眉をひそめた。だが、皇帝が発言を許したので、何も言わないでおく。
「あのう、端的に言うとですね。
楊徳妃を傷つけるようなことはやめてほしいのです」
呉三娘の後ろの侍女が、右眉を吊り上げた。心なしか口元が笑っている。
「まあ、いつ私がそのようなことを? 心外だわ」
「ええと、うん。
呉家の者は遠回しな物言いができませんので、単刀直入に申し上げますね。
楊徳妃に燐油入りの香水を送りましたよね。
ちょっとした応酬なら私も何も言いませんが、幼い娘たちの体や心に傷が残るようなことはしないでいただきたい」
「何のことだか。言いがかりはよしてもらいたいわ」
「言いがかりではありません。あなたから楊徳妃に贈られた香水に燐油が仕込まれていて、誤って零した侍女の手がかぶれたのを、御覧になったでしょう。
にもかかわらず、あなたは謝るどころか、その侍女の粗相を咎めて冷宮に放り込んだ」
「一体誰がそのようなことを? 皇太后たる私が違うと言っているのに」
後宮において、真実はさほど重要ではない。強い者が語ることが真実になるのだ。たとえ楊徳妃であっても、皇太后の言葉を否定することはできない。できるとすれば、この後宮に三人のみ。皇帝、太皇太后、そして――
「私です」
皇后だ。
「何を馬鹿なことを。その場にいたとでも言うの?」
とはいえ、香皇太后対呉皇后なら、立場は五分と五分。親である皇太后の方が僅かに上か、というくらいだ。
「おりました」
「……は?」
「あの日、香水の瓶を握りつぶしたのはこの私です。
こう、目張りをばしっとして、眉をもふぁっと描いて、紅をくっきり引いたら、あの顔になるんです」
語彙が貧弱すぎて何を言いたいのかよくわからないが、どうやらすごい化粧をしたのだと言いたいようだ、と皇太后は察した。が、それでも意味は分からなかった。
「……は?」
「だから」
「いえ、何を言っているの? 皇后が徳妃の侍女のまねごとを? そんなこと信じられるわけないじゃない」
「ええ、うーん、まあそうですね。それには私も大いに同意します」
呉三娘はちらりと背後の侍女の方を見やった。侍女はすまし顔で微動だにしなかった。
「でも、陶器の瓶を片手で握りつぶしたり、燐油に触ってもかぶれるくらいで済んだり、鞭で頬を討たれて傷一つつかない人ような間がこの後宮にどれだけいると思われるんです? 樨国内ならまだしも。
第一、呉麗華なんて侍女は存在しません。調べられたらいい」
「……皇后ともあろう者が、なんて卑しい真似を」
「それについては反論しません。
ただ、私、皇后呉三娘が、香水の一件はこの目で見ている、そういうことです」
皇太后は内心歯ぎしりしたが、表面上は少し眉を寄せるだけで堪えた。
こんな蛮族にしてやられるなど、生粋の都育ちで機知と美貌で成り上がった彼女には耐えがたい屈辱だ。だが、息子のいる前で見苦しく言い訳はしたくなかった。
「そう、何かの手違いがあったようね?
わかったわ、以後重々注意するよう、言い聞かせます」
「ええ、そうしてください。……それから」
少しだけ首を傾げ、苦笑した呉三娘は、言いづらそうに言葉を継いだ。
「楊徳妃に簪を返してあげてください」
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