09.皇太后は激昂する

 翌日は憎いくらいの秋晴れだった。

 皇太后は朝食が終わってすぐに来ると先ぶれがあった。例の女官からご注進でもあったのだろうか。横やりが入る前に絶対使わせてやるという強い意志を感じる。


 呉三娘は今日は楊徳妃の傍に控えている。というか、楊徳妃付きの侍女総出である。入りきらない者は次の間で待機して、皇太后がどんな無茶ぶりをしようと対応できるようにしていた。


 楊徳妃は宮殿の外に出て皇太后を出迎え、主殿の主間の最も位の高い席である宝座へ皇太后を案内した。


「皇太后陛下をお迎えできて、光栄の至りでございます」


「いいのよ、我が息子の妃とあれば、娘も同じ。あなたにはぜひとも皇帝の御代を盛り立ててもらいたいと思っているの」


 にこりと笑んだ皇太后は、十三の息子がいるとは思えないほど瑞々しい美女だ。先帝の寵愛深く、その後宮では貴妃の位にあった人である。豊かな黒髪を高々と結い上げ、金の簪を惜しげもなくそれに飾り付けている。印象的なのはくっきりと大きな目で、濃い紅を引いた唇もあいまって意志の強さを感じさせる、凛とした美貌の人だった。


「さて、昨日贈った香水だけど、使ってくれたかしら?」


 例の女官が、盆に載せた白い小瓶を部屋の前まで運んできた。

 室内にいた侍女がそれを受け取る――女官の目が驚きに見開かれる。ついでに、部屋の端に控えていた陶六品殿も。


「ちょっ! あの子に壊れ物持たせたら」


 その瞬間、間抜けな悲鳴が殿内に響き渡った。


「ああー!」


 盆を受け取った呉三娘は、わざとらしい悲鳴を上げて、盆を取り落とした。だが、陶器の瓶は意外と丈夫で割れない。


「何てことー!」


 仕方ないので、棒読みで叫び、拾うふりをして床に叩きつけ――ようとして握りつぶしてしまったが、そのまま手を床に叩きつけて演技を続行する。

 薔薇と金木犀のにおいが室内に充満する。楊徳妃も李氏も、皇太后も呆気に取られて何も言わない。


「申し訳ございませんー、私ってばなんてことをー、あいたっ!」


 混乱したふりをして、呉三娘はこぼれた香水を素手でかき集める。と、見る見るうちに彼女の手が腫れ始めた。超丈夫な彼女の肌がかぶれるのだから燐油の危険性がよくわかるというものだ。


「何てことでしょうー手が腫れてしまいましたわー」


「まあ!」


 声を上げたのは誰だったか。楊徳妃は青ざめた顔で呉三娘の手を凝視している。皇太后は美しい顔を歪めて、椅子を蹴立てて立ち上がった。


「このっ! 誰ぞ、この粗忽者を冷宮へ放り込んでおしまい!」


 呉三娘も、こちらは音もなくすっと立ち上がる。

 盛りに盛った化粧の迫力顔で、正面から皇太后の目を見つめ返した。


「この私を? 皇后陛下の許しもなく? 私は階位こそ低いとはいえ、樨国公に連なる呉姓を持つ者。あなたにそのような権限があるのですか……?」


「……っ! 無礼者! わたくしは皇帝の生母ぞ!

 ええい、この者を打ち据えよ!」


 皇太后が気圧されたように一瞬絶句し、それを恥じるかのように声を張り上げる。控えていた宦官と鉄砂宮の兵が動いた。

 呉三娘は、にやりと笑い――その瞳が金に輝き、瞳孔が猫のように細まった。


「なるほど」


 宦官が振りかぶった鞭を、彼女は正面から受けた。鞭といっても乗馬に使うようなしなやかなものではない。折檻のために作られた硬い小ぶりの棍棒のようなものだ。楊徳妃がたまらず小さな悲鳴を上げた。

 しかし、バシッと乾いた木の音がして――鞭の方が折れた。鞭の当たった呉三娘の頬骨は赤くなっているが、わずかな擦り傷すらない。ぎょっとして、宦官が後ずさる。


「……わあ、痛いーご無体なー」


 瞬き三回ほどの間をおいて、唐突に棒読みのセリフを吐き、呉三娘は「よよよ……」とばかりに座り込んだ。あまりの白々しさに李氏と陶六品殿が半目になった。


「冷宮に放り込まれてしまうー」


「そっそうよ! 早くこの者を連れておいき!」


 あまりの大根役者ぶりに見入っていた皇太后が、はっと我に返って命じる。衛兵が若干おびえながら呉三娘の腕を取ろうとし「あ、今腕触ったら手の平が爛れるよ」と言われて右往左往した挙句、両手首をそろえて差し出されて「縄で縛ればいいよ」と助言され「すみません」などと返し……


「何をとろとろやっているの!」


 あまりのグダグダ具合に皇太后の雷が落ちた。


「鉄砂宮はどういう教育をしているのかしら!

 楊徳妃、あなたもですよ!まったく侍女の躾がなってないったら! 最近の若い者はこれだから!

 このことは皇帝にもご報告しますからね!」


 楊徳妃は何もしてないのに悪いことをしたな、と呉三娘は思いつつ、衛兵に背中を押されて宮殿を後にしたのだった。





 冷宮、といってもどこか特定の場所が定められているわけではなく、その時空いていて使いやすい宮殿や空き部屋が妃嬪や侍女を幽閉するのに使用されると牢、すなわち冷宮と呼ばれる。律令に背いて正式に裁かれる場合には、それ用の牢があるが、皇妃の勘気を被ったといった内々の処罰なら冷宮に放り込まれるのだ。

 今回の場合は、鉄砂宮の一角だったようだ。ほこりをかぶった棍や防具などが部屋の片隅に転がっている。呉三娘のほかにも侍女が一人、下働きらしき娘が一人閉じ込められているのが、わずかに差し込む日の光で見えた。


 呉三娘と皇后宮の部下たちが立てた作戦はこうだ。

 まず、香水は使い物にならなくする。それから皇太后を激昂させて呉三娘をできれば冷宮送りか鞭打ちさせる。

 前皇帝の皇后が現皇帝の後宮で勝手に妃嬪に罰を与えるのは、明らかに越権行為なので、これを口実に皇后が皇太后に釘をさす場を設ける。

 その場で、香水は皇太后の差し金であること、簪の件もまた皇太后の息がかかった女官が関与したことを暴き、楊徳妃の簪紛失の濡れ衣を晴らす、というものだ。

 少しばかり呉三娘が捨て身すぎる気がするが、問題はない。双子侍女が言った通り、呉三娘はそう簡単には死なないからだ。


 聖獅子の血を引く呉家の者は、皆身体能力が高い。それは皮膚や骨の丈夫さや回復力にも現れていて、まず木の棒ごときでは傷がつくことはない。直系の中でも異常な呉三娘などは刺されても大抵は皮膚か筋肉で止まるし、そうして負った切り傷も一晩も経れば治ってしまう。

 彼女を殺すなら、楠国の火山にでも放り込まねばならないだろう。


 呉家の一族は古く、年を経るにしたがって系譜は広がり樨にその血が流れない者はいないといわれるほど――つまり樨国人はほぼ全員が猛者だ。

 それゆえに、かの地は長年異国との間の防壁としての役割を担ってきた。前の皇帝の親征に端を発した隣国源の侵攻を許したのも、親征を諫めた樨国公が妻と末の娘と息子とともに幽閉されてしまったからだ。そして悲劇的な殺戮の果てに、央は都を包囲されるという屈辱を味わったのだ。

 その央都を解放したのは、幽閉を脱した末の娘、呉三娘だった。


「なーにが辺境の蛮族だっつーの」


 都育ちの先帝やお貴族様たちのせいで、呉家の者たちはさんざんな目に遭ったのである。呉三娘の兄も姉も皆死んで、生き残ったのは両親と末の弟だけだ。

 感謝しろとは言わないが、今、央都が無事なのは、呉三娘が残った樨の兵を率いて夜を徹して駆けつけ、血みどろになって戦ったからだ。

 彼らの言う辺境の蛮族がいなければ、かの女官だって樨の女たちや先帝が引き連れていたお妃たちと同じ目に遭っていたのかもしれないのだ。


「帰りたいなあ……」


 本当に、このままあの紅い壁をぶち抜いて西へ帰ってやろうかと思う。

 ここは彼女には狭すぎる。

 西の果てに広大な砂漠を、万年雪をいただく星山山脈を遠く北に臨み、豊かな地下水と清らかな青川によって緑に潤う樨の平原。

 この後宮の四角い空は、呉三娘には狭すぎるのだ。

 馬を駆って草原を駆け抜けたい。力の許す限り弓を引き、あたりかまわず槍を振り回したい。大きな声で笑いたい。何の屈託もなく、何の中身もない馬鹿話をしたい。家族に会いたい。

 ちまちま簪だ香水だといじましい諍いに関わるのは、本当は性に合わない。


 だが、そういう訳にはいかないのも、呉三娘にはよくわかっていた。

 家族を守るために、呉三娘はこの後宮で、皇帝の帝位を守らなければならない。

 そのためには、呉家だけではなく、楊家と香家両方の力が必要なのだ。


 そういう訳で、呉三娘は例の女官が現れるのを待っている。





 先ほどの作戦で欠けている部分が一つあった。「簪の件もまた皇太后の息がかかった女官が関与したことを暴く」のだが、これについては決定的な証拠も証言もない。

 そこで、例の女官が安心して口を滑らせる状況を作ることにした。

 例の女官、名を孫明珠という。彼女に皇太后の使いを装った皇后宮の侍女を送り込み、こう囁かせる。


「冷宮へ薬を届けよとの仰せです」


 そして、小さな瓶を渡す。

 孫女官は呉三娘を殺すためにここに現れる。死者に口なし。最後の願いと真実を明かすことを願えば、簪紛失の真相を語るであろう、というのが作戦だった。これで無理なら皇帝の言う通りしかるべき筋に彼女を託すしかないが――そうすると穏便には済まなくなるので、できれば孫女官には饒舌に語ってもらいたいものだと呉三娘は思っている。双子侍女たちは、もっと短絡的に「その方が面白そう」と宣っていたが。

 問題は不確実なのと、呉三娘の演技力である。


 果たして、小瓶をもって孫氏は現れた。



※今回から7:00、19:00の1日2回更新です。本日19:00にもう1話更新します。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る