08.噂の女官は依頼する
一応、陶氏に太皇太后への対応を確認したところ、やっぱり贈るべきとのことだった。女官はわざわざ送り先ごとに酒甕を分けてくれていたが、分けなおして呉三娘は宮殿を出発した。
最初に皇后宮へ向かい、双子侍女に敵が尻尾を出したことを伝える。それから太皇太后、皇太后……と順に酒を配っていく。
「楊徳妃様より皇太后陛下へ贈り物でございます」
前皇帝の妃たちの住まう一角、永寿宮を訪れて、呉三娘は要件を告げた。皇帝が退位したり崩御したりすると、後宮は皇后や子を生んだ者など一部の女人を残して解体される。今、後宮に残っているのは、皇太后と特に寵愛の深かった妃嬪が数人だ。
ちなみに後宮を出された妃たちは、妊娠していないことを確認するため一定期間置いた後、大部分は俗世を離れる。実家に帰る者もいるが、元妃嬪の衣食住には細かい規定があり、かなりの経済的負担になるので受け入れる家は少ない。現在では殉死させられることこそ減ったものの、やはり一度後宮に入ると外に居場所がないのは変わらなかった。
さて、楊徳妃からの贈り物とはいっても、呉麗華自身の位は低いので皇太后にお目通りはできない。女官に取り次いでもらって、侍女に確かに受け取ったとの一筆を書いてもらったら帰るだけだ。
だけだったのだが。
「皇太后陛下よりご下賜の品です。とても珍しい『香水』というもので、お香と違って瑞々しい香りが特徴です。直接肌につけると香りが長く続きますから、ぜひ首や顔に塗ってみてほしいとのこと」
皇太后付きの侍女が出てきて、両手に収まるほどの木箱を渡してきた。
「中を確認させていただいてもよろしいですか?」
「構いません」
呉三娘は侍女とともに女官の控える後殿に出向き、木箱を女官の前で開けた。
他の宮殿からの届け物が紛失したり、中身が粗悪品に入れ替わることは稀によくある。なので、やましいことがない者は中立の立場の女官の前で届けるものを確認して記録してもらうらしい。
呉三娘は腐っても皇后なので、蓮生殿に来るまで、こういった細々した事務処理についてはまったくの無知だった。侍女勤めを始めてから知ったが、宮殿間の物、人の出入りには必ず女官が介在するものなのだそうだ。
白木の箱を開けると、ふわりと薔薇と、ある特徴的な香りがして呉三娘は眉をひそめた。
木箱の中には見事に薔薇を彫りこんだ堆朱の箱が入っていた。さらにそれを開けると、箱の中は小さな瓶の形に合わせて凹凸がつけられ、黒の絹張になっている。小瓶はやはり薔薇の絵が描かれた陶器である。同じく陶器製の蓋は蝋で封がされている。妃が肌につけるものを途中で開封する方が毒物の混入などの可能性があり問題なので、それ以上の確認はしないでおく。
「確かに確認いたしました」
丁重に礼を言い、呉三娘は皇太后の宮殿を退出した。
☆
「これ、駄目です。肌につけるものではありません」
呉三娘は蓮生殿に戻ると、やはり例の女官が受け取りの当番だったので、一応言ってみる。たぶん、忠告しても無視するのだろうと半ば確信しながら。
「何を言うの? 皇太后陛下を侮辱するつもり?」
「いえ、単に事実を述べているまでです。箱を開けたときに金木犀の香りがしました。これ、燐油が入ってます。おそらく薔薇の香水に混入させたときに瓶の表面に付着したのでしょうね。こんなもの肌につけたら、見る見るうちにただれますよ」
燐油とは武具の手入れにも使う油で、木樨の香りがする。直接触ると肌がかぶれるため、必ず皮手袋を着用して扱うものだ。皮膚が薄い首や顔に塗ったら、下手すれば一生跡が残る。
「馬鹿なことを。そんなわずかな香りがわかるわけないでしょう。あまりふざけたことを言うと、お前も鞭打ちの上、冷宮送りになりますよ」
「はあ、そうですか。
ところで樨国の者には異常に膂力が強い者がいるって聞いたことありませんか? これ、膂力以外にも視力とか、嗅覚とかにも関係するんですよね。そして私は呉氏です。
ほんのわずかな香りでも、私たちにはわかるのかも……って思いませんか?」
呉三娘は自分の鼻を人差し指でつついてみせる。
「だったらなんだと言うの? お前のような下っ端の侍女に一体何ができるというのよ」
女官は意外とあっさり正体を暴露した。
「私、一応皇后付きの侍女なのですが」
「あの日和見皇后が皇太后陛下にたてつくはずがないわ。せいぜいお前を切り捨てて終わりよ。いいこと、悪いことは言わないから、黙っていなさい」
あっさり正体を暴露したのは、呉三娘がなめられているからであった。
のっぺりとした中年の色白の女官の顔には、皇后に対する恐れの色は僅かほどにも見られない。そういえば、先ほどから皇后に尊称をつけていない。
呉三娘は直情的である。いささかむっとして、思ったままのことを口にした。
「あー……もしかして皇帝陛下下賜の簪を盗んだのもあなたですか?」
呉三娘は脳筋である。なので、言葉巧みに話を聞きだすといった能力は備わっていない。ただ、真正面からぶつかるのみ。
この場に双子侍女がいれば頭を抱えたであろう。
「何のことかしら」
「ここまであからさまに皇太后陛下の肩を持っておいて、今更とぼける必要もないのでは?
葉盈盈に渡す前、耳殿で箱にしまうふりして盗ったのかな。その袍の袂なんて、少しの間小物を隠すのにはちょうどよさそう。侍女のひらひらした布地と違ってしっかりしてるから。相手がうっかりな葉盈盈だったのも幸運だったかな。
女官であれば、当番制だからいずれ宮殿を出る。少しの間簪を隠せばいいものね。ああ、でもそれはできなかったわけだから、誰かへの贈り物に忍ばせたのかな。そういえば、あの日は香淑妃様へ詫びの品を送っていたね?」
馬鹿力なだけの小娘だと思っていたのだろう、女官は呉三娘の突然の長広舌に気圧されたかのように、わずかに顔色を変えた。
「何を馬鹿なことを」
「宮殿間の贈り物は必ず女官が介在するし、今日のお酒も、あなたが全部送り先ごとに分けていたもの。あの時は反物だったから、隙間にそっと忍ばせれば」
「……お前も少しは知恵があるならよく考えた方がいいわよ。
田舎者の皇后に忠義を尽くして冷宮行きになるのと、皇太后陛下について香淑妃様の皇后冊立に協力するのと、どちらが賢い生き方か」
「……」
「皇太后陛下も、楊宰相と事を構えるのは得策ではないとお考えよ。だから徳妃様を陥れようとか、お命を狙おうとか考えているわけではないの。もちろん、樨国公ともね。
ただ、穏便に、楊徳妃様にはご寵愛を得られないように。皇后には西に帰っていただきたいだけ」
饒舌になった女官は、聞き分けのない子に語るように滔々と皇太后のお気持ちを代弁してみせる。そこにはもう隠す気もないのか、田舎者の小娘に向けた見下した視線がありありと見て取れた。
「何を言いたいのですか」
す、と呉三娘の顔から表情が消えた。
女官は、ちろりと唇をなめた。
「黙っていなさいということよ」
「年端もいかない少女が、顔に消えない傷を受けるとわかっていて?」
楊徳妃の、すべすべした頬。褒められたとき、ちょっと照れて薄桃色になった。微笑むと片えくぼができるのに、気づいている人はどれくらいいるだろうか。
「辺境の蛮族にはわからないでしょうけど。これが後宮なのよ」
女官は蔑みを隠そうともせず、薄笑いを浮かべながらそう言った。
呉三娘は、女官の目をじっと見返した。確かに、辺境の蛮族にはわからない道理だ。
「そう。よくわかった」
☆
とはいえ、そんなことを言われて黙っておく義理はない。
その夜、呉三娘は李氏を呼び出して香水が劇薬であることを伝えた。
「何てこと……どうしましょう、こうご、麗華さん」
「何でです? 香水は希少なものとはいえ、楊家なら似た香水を取り寄せることもできるのではないですか?」
後宮の女人が香水をつけるような場面など、皇帝を迎える時くらいしかない。つけないでやり過ごし、代替品を入手してごまかすことは可能なはずだった。
「ええ、おそらくは。
ただ、皇太后陛下が明日、こちらに来ると。間に合いません。
つければ徳妃様は傷を負い、つけなければ皇太后陛下への不忠不孝と謗られます」
「なるほど~。つけた後で楊家がどれだけ抗議しようと後の祭りだものね。そして盈盈のように誰かが皇太后の代わりに罪を負わされる。まあ、たぶん私だろうね。楊徳妃と皇后と、両方に傷を与えられるわけか」
呉三娘は深いため息をついた。
――これが後宮、か。
「皇后宮に使いを」
皇后は日和見主義でいたい――が、どちらかが均衡を崩そうというのなら、それを元に戻すのにはやぶさかではない。
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