06.陶氏は疲弊する

 ちょっと信じがたいことだが、潜入作戦は成功してしまった。

 もちろん、入念に根回しをして、正式に侍女の補充があるまで皇后から人を派遣したというていで徳妃の宮殿に入っている。皇后の侍女を貸し出したことになっているので、五日に一回は皇后宮へ顔を見せるという取り決めになった。これは呉三娘の身を案じた皇帝が言い出したことだ。双子侍女はじめ皇后宮の者はまったく心配してないようだったが。

 なお、楊徳妃側では徳妃と、侍女の李氏のみが事情を把握している。


呉麗華ごれいかと申します」


 化粧も思い切り派手にされたが、名前もすごく派手にされた。

 人払いをされた楊徳妃の宮殿――蓮生殿れんせいでんで、跪いた呉三娘を徳妃は早々に立たせると、まじまじと呉三娘の顔を見つめ、口元をわずかばかりひきつらせたが、それ以上の動揺は見せなかった。さすが宰相の秘蔵っ子である。


「ほ、本当に皇后陛下なのですか……?」


 楊徳妃の零した呟きは、本当に皇后がこんなことをしているのか、という意味と、本当にこの顔の女が皇后なのか、という二つの意味があるようだ。


「ええ、突拍子もないことだと思われているでしょうけど、というか私自身もそう思っているっていうか、何がどうしてこうなったという感じなのだけど。本当に皇后呉三娘です」


「しかし、私の簪のために、どうしてここまでしていただけるのか分かりません。本当にわたくしの管理不行き届きかもしれませんのに」


 真面目な少女はしゅん、とうつむいてしまった。


「楊徳妃、それも含めて、できる限り調べるためにこうして私はやってきたの。これも皇后の職務のうち……なのかな……違う気もするけど……?

 とにかく、倉庫の管理状況や人の出入りを調べて、下っ端の侍女たちの噂話を集めてみるから、あなたがたは徳妃様周辺の侍女や女官の動きを調べてくれるかな」


「ええ、それはもちろん。すでに文章にまとめてありますので、後ほど届けさせます」


「さすが、才女と名高い楊徳妃。話が早い」


 褒められなれていないのか、楊徳妃はほんのり微笑んで「いえ……」と口ごもった。


「じゃさっそくとりかかるから、『よく職務に励むように』とか言ってくださいな」


「……よく職務に励むように」


 軽くうなずいて、そう言うと李氏が退出を促すように袖を振ったので、呉三娘は徳妃の前を辞した。


 西六宮の宮殿は基本的に皆同じ構成をしている。

 周囲をぐるりと塀に囲まれた中央に東西五間、南北三間の正殿である蓮生殿。この宮殿には二間四方の耳殿じでんと呼ばれる付属の建物があって、そこが侍女たちの控室やちょっとした物置となっている。

 蓮生殿の南には中央に中庭を挟んで、東と西に南北三間、東西二間の一回り小さい配殿はいでんという宮殿が位置している。この二つの配殿には徳妃より少し位の下がる妃嬪が一人ずつ暮らしている。

 倉庫や女官、侍女の執務、待機場所には蓮生殿の北にある後殿こうでんとその配殿が当てられている。後殿は蓮生殿と同じ五間三間の建物だが、耳殿はない。

 南端にある正門の蓮生門は皇帝や皇后の出入りの時にしか使われない。東西にある小さな門が普段妃嬪や侍女たちが使うものだ。北端は後殿が塀に密着しているため門はない。

 いずれの宮殿も壁や柱は丹塗りされ、垂木には精緻な花卉かき文様が描かれている。屋根は皇居にのみ許される瑠璃瓦で葺かれ、中庭には殿舎の名にちなんで蓮が陶製の大きな甕に植えられていた。


 呉三娘は、李氏の指示に従って侍女の詰め所である蓮生後殿の配殿の一間へと向かった。





「あなたは七品ね? 私はあなたより位が高いから、私の指示に従ってちょうだい」


 そう言う陶という姓の侍女の腰には正六品の位を示す朱塗りの牌が下げられている。この牌は女官や侍女が持つもので、位階や官職が彫り込まれている。陶氏の牌には「蓮生殿 正六品 陶清琴とうせいきん」と彫られていた。


「はい、呉麗華と申します。よろしくご指導のほど、お願いいたします」


「そう、じゃあ、まずこれを全て洗濯してきてちょうだい」


 呉三娘の目の前には、山盛りの洗濯物。これは主人の身の回りの世話をする役目の侍女の仕事ではない。無位の下女の仕事である。しかも、この量。手車なしでは後宮の端にある洗衣場まで何往復かしなければならないだろう。普通なら。


 ――うーん、絵にかいたような新人いびり。


「あのう、私侍女に欠員が出たから来たのですが、前にいた侍女の方も同じような仕事を?」


「え? 盈盈えいえい? そうね、似たようなものよ。うっかりが多くてとても徳妃様の御前には出せなかったもの」


「うっかり」


「そう、うっかりよ。かわいそうだけど、いつかあんなことになるんじゃないかって、みんな思ってたわ。

 わかったら無駄口叩いてないでさっさと洗濯してきなさい。同じ目に遭っても知らないわよ」


「ふうん。うっかりねえ。あ、紐貸してもらえません?」


「紐?」


 陶氏は首をかしげながらも、紐を探し出してきてくれた。いびる割に人がいい。呉三娘はすべての洗濯物を圧縮して紐でぐるぐる巻きにすると、えいや、と担ぎ上げた。


「うん、楽勝!」


「えっちょっと……」


「行ってきまっす!」


 洗衣場は後宮の北の端、様々な肉体労働系の作業場が集められた一角にある。内膳房ないぜんぼうや鉄砂宮も近い。井戸を中心に正方形に掘り下げられた水場から、浅い水路が皇城を囲む濠に向かって引かれていて、汚い洗い物は下流、きれいになれば上流へ移動していく。

 呉三娘は勇んで下流域へと突っ込んでいった。

 ちなみに、彼女は一応樨国公の姫君なので、洗濯などしたことはない。


「洗ってきました!」


「……破けているように見えるのだけど? ていうか、どうして干してこないのよ!」


 わざとではなかったのだが、見よう見まねで洗濯をしていたら女物の薄い布はびりびり裂けてしまった。よく考えれば武具以外の衣服の手入れは、たとえ脱いだものを畳むことであっても寿珪や嘉玖はさせてくれなかったなあ、と呉三娘は皇后宮のある東の空を眺めた。


「干さないとならないとは気づきませんでした~。何か古い布だったんですかね? 普通にこすっただけなんですけど、ちょっと引っ張ったら破けちゃって。まあ、繕えば使えますって」


「あ、あなたねえ!」


「大丈夫! 私針仕事もできます!」


「じゃあ」


「ただなぜか針がよく曲がるんですよねえ」


「もういいわ……」


 正六品陶殿はすごく深いため息をついた。呉三娘はにっこりと微笑んだ。


「なんでも任せてください!」


 呉三娘は、なんだかちょっと楽しくなってきていた。





「今日は後殿を掃除するわよ。いいこと、心を込めて隅から隅まで拭き掃除をなさい」


「お任せください!」


 簪の隠し場所や抜け道があるかもしれない。呉三娘は雑巾を握りしめ、蟻の子一匹たりとも見逃さぬという強い決意のもと掃除にとりかかった。


「なんで屋根まで上ってるの!? ばれるじゃない!」


 ――だって、天井裏や屋根に隠してあるかと思って。


「だって隅から隅までって、あっやべ」


「ちょっと、今の何の音ー!?」


 呉三娘の足の下で、瑠璃瓦が割れた感触がした。


「いやあ、うっかりうっかり」


 まったく反省していない顔で呉三娘が頬を掻くと、陶氏は文字通り地団太を踏んで怒り狂った。高雅な蓮生殿に似つかわしくない騒ぎに、侍女や下女がこっそり二人を見やる。

 からかい甲斐のある人だ。


「古くなった家具を」


「庭の植木の剪定を」


「消火用の水甕の水の取り換えを」


 性懲りもなく陶殿は新人に力仕事を押し付けてくるが、呉三娘はありあまる体力と膂力に任せて彼女の想像を超える成果をたたき出して見せた。

 新人いびりを見て最初は驚いたり怒ったりしていた楊徳妃や李氏も今では苦笑いしながらあたたかく見守っている。楊徳妃に笑顔が戻ったのにはもう一つ理由があって、皇后の侍女が派遣されたためか、皇太后からの嫌がらせがおさまっているのだそうだ。

 最近では女官や下女、宦官も「突拍子のない呉さん」として呉三娘に気さくに話しかけてくれるし、少しばかり蓮生殿の空気が明るくなった、と言ってくれる。

 簪の件は何一つ解決していないが――結構なことである。

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