04.呉皇后は槍をふるう

「無力だわあ」


 紅い高い塀に挟まれた後宮の小道を後宮禁軍の制服を着た娘が二人歩いている。後宮禁軍の通称は「鉄砂宮てっさきゅう」だ。彼女らの詰める宮殿の名でもあるし、後宮以外の男性の禁軍に及ばない――鉄になれない砂鉄のような軍と揶揄する意味もある。

 紅墻こうしょうと同じ紅い長袍に黒い、黒い皮の長靴。腰に支給品の飾りのない長剣、反対の腰に短剣。頭には官僚と同じような黒い官帽。


「そうですねえ。主はすっごい日和見発言してましたねえ。

『何かできることがあれば』って何もやる気のない人の発言ですよね。

 一軍の将が窮地に陥ってる部下に『何かできることがある?』って言ったら、はあ~? ですよ」


「……」


 鉄砂宮の制服を着ているのは呉三娘と嘉玖だ。

 呉三娘は地味顔である。双子というだけで目立つ玄姉妹と一緒にいると、十中八九、忘れ去られる。名前の三娘も今時珍しい地味な名前である。要は三番目の娘という意味だ。こんな武骨な名前をつける貴族はいない。何なら侍女にも名前負けしている。

 というわけで、顔を知られていないことを生かして皇后呉三娘は時々後宮内を徘徊している。特によく訪れるのがこの鉄砂宮だ。ここで後宮の警備にあたる兵たちに混じって訓練を受けている。もちろんきちんと話を通しているので、一定以上の役職の者は彼女の正体を知っている。さすがに後宮の治安を守る部署で、身元不明の人間が紛れ込むのは不可能だったので。呉三娘は皇后宮でこっそり鍛えるくらいでは物足りないのだ。

 というわけで、呉三娘は皇后としては認識されていないが、顔見知りの使用人は結構いる。中でも鉄砂宮の者たちには、別の部署からわざわざ訓練に参加してくる物好きな人として認識されている。

 地味顔の功名である。


 さて、今日も今日とて、呉三娘は兵士の訓練に紛れ込みに行く。うきうきしている呉三娘に対し、護衛の嘉玖は浮かない顔だ。なお、双子が揃うと目立つので、お忍びの護衛はいつもどちらか一人だ。

 まずは走り込み。鉄砂宮は武器庫もあり、かなり広い。その内周を五十周。それから今日は槍の訓練だ。

 呉三娘は槍より剣の方が得意だが、戦場における優位性はよく分かっているし、後宮の一般兵が鍛えるのも当然だと思っている。それに彼女が西方で習い覚えたのは馬上の槍術、ここでは歩兵のための槍術だ。

 新しい武術である。呉三娘の胸が躍る。うきうきしている呉三娘に対し、ほとんどの兵はすでに吐きそうな顔色だ。こんなにピンピンしている体力お化けは呉三娘と嘉玖、数人の猛者のみである。


「あら、呉さん、また来たの? あなたも物好きねえ」


 今日訓練に参加する西六宮の衛兵の一人が呉三娘に声をかけた。呉という姓はよくあるので、お忍びの時も姓はそのままだ。呉三娘がうっかり名乗ってしまった時にごまかせるという意味合いの方が大きいが。


「ええ、皇后宮は、こう言っては何ですけど、暇ですし」


「そうよね。あそこは宴もまずないし、人が近寄らないもの。警備も最小限だし」


 そうなのだ。皇后宮は呉三娘の希望で警備を最小限にし、その最小限の警備すらも身内で固めている。


「……ねえ、皇后宮に異動できないかしら」


「それはまたどうして。閑職ですよ。淑妃様や徳妃様のお近くに仕えた方が、何かと有利だと思いますが。それに皇后宮は基本樨国出身でないと配属されませんよ」


「そうよねえ。呉さんも樨国出身? 姓が皇后陛下と同じだものね」


「ええ、物凄く遠縁ではありますが、樨国公の一族です」


「まあ、もし人手が足りなくなったら推薦してよ。最近西六宮居心地悪くてさ。

 噂によると皇后陛下は結構優しいらしいじゃない? 淑妃様と徳妃様の喧嘩を公平に仲裁してくださったって聞いたわ」


 西六宮は朝廷の二大勢力が一所に集まっているようなものだから、確かに居心地はよくないだろうが。いわば部外者の呉氏にこぼしてしまうほどの何かがあったのだろうか。

 呉三娘がわかりやすく首を傾げていたからだろうか、その衛兵は小さな声で耳打ちしてくれた。


「徳妃様の簪が盗まれたって大騒ぎになって、結局紛失の責任を取って侍女が罰されたらしいのよ。噂では淑妃様が盗ませたって話しだけど。私たちもいつ濡れ衣を着せられるものだか……」


「おおう。それはそれは」


 香淑妃も楊徳妃も災難続きである。いや、香淑妃は自分で問題を起こしてるのか? この前の髪飾り事件も香淑妃のせいと言えなくもない。徹底して後宮の勢力との関係をぶっちぎっているので、皇后宮には噂話もあまり入らないから、この事件がどういうことなのか、呉三娘にはよく分からなかった。


 ――そんなに悪い子ではないと思ったけど。


 話してみれば甘やかされただけの、年相応の女の子であったな、と呉三娘は思う。

 ただ、この呉三娘の「甘やかされた」の表現も正しいのかどうか、ちょっと怪しい。何故なら樨国公三女の常識は樨国のそれであって、平和な央都のそれではないからだ。何なら三食食べられるだけ贅沢だ、と思ってすらいる節がある。


 ――まあ、私が頭を悩ませても何にもならない話だ。さあ、鍛錬鍛錬。


「参りましょうか、嘉玖さん! 筋肉は友達!」


「友達なのは呉さんだけですう。私の友達は贅肉の方ですからあ」


 嘉玖が怠惰なことを呟いているが、呉三娘は無視して稽古用の槍を彼女に向けた。





 何だかんだ言って樨国出身の二人は戦うのが好き――というのとも違うが、身についている。この日も若干周囲が引く程度に激しく打ち合い、いい汗をかいたと爽やかな気持ちで帰途についた。


「馬上だと足元の動きが限られるけど、地上ならかなり俊敏に動けるね。横も縦も」


「基本、衛兵の槍術は集団戦法ですう。呉さんみたいに猿みたいな動きする人いたら戦略的には邪魔なだけですからあ」


「猿って。だって後宮は狭いじゃない。鍛錬場みたいな広い場所の方がまれだよ。そこらにある置物とかなんか洒落たもの、いい足場になると思うし……」


「そりゃ、みんな呉さんみたいな身体能力ならいいでしょうけど。普通の人は銅瓶どうがめを足がかりに一丈いちじょう近くも飛び上がったりしないですからあ」


「それほどでも……いや、さすがに一丈はないですけどね。せいぜい三尺さんしゃくくらい」


「いいえ、半丈はいってました。あと褒めてないです。あなた本気出せば二丈は軽いでしょ。自重してください」


 一寸いっすんは人の手首から先ほどの長さ、一尺は人の尺骨ほどの長さ、一丈はその十倍だ。三尺は女性の胸あたり、半丈は女性の背丈と同じくらいである。


「すみません……」


 侍女に叱られてもきちんと反省するのは、呉三娘のいいところ、である。威厳はないが。なにしろ、双子侍女は呉三娘の姉弟子なのである。樨国公の練武場では身分の上下はない。

 皇后宮の北門が見えたその時、二人は同時に人の気配に気づいた。警戒した嘉玖が、呉三娘の前に出る。


 侍女だ。皇后付きの侍女ではない。きらびやかな衣を身に着けているのは、お手付きの可能性がある東西六宮の侍女たちだ。基本、呉三娘の護衛である皇后宮の侍女ではないし、規定のお仕着せを着ている女官でもない。


「何者か!」


 嘉玖が普段のしゃべりからは想像もできないような、厳しい声で誰何した。

 侍女がはっとした様子で振り返る。嘉玖はつかつかと女の方へと歩み寄り、腰に下げた剣に手をやった。


「私は徳妃様付の侍女です」


 女官は緊張の面持ちで、そう名乗った。

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