03.楊徳妃

 翌日には楊徳妃が訪れた。香淑妃より大人びた雰囲気の少女は、皇后宮の中に入るなり跪いて額づいた。呉三娘は慌てて彼女を助け起こす。


「そんなことはしなくていい。あなたは別に悪いことなどしていないでしょう」


「いいえ、皇后陛下にとてつもなく無礼な行いをいたしました。このままでは後宮の他の者にも示しがつかぬでしょう。どうぞ私を罰してくださいませ」


 呉三娘は弱ってしまった。憔悴した少女の顔を見ると、この一両日、悶々と悩んでいたであろうことがわかる。でも、呉三娘は本当に怒っていないのだ。


「謝罪は受け取りました。

 でもね、あなたはもう罰を受けたのではない? 不寛容の報いに皇帝陛下からいただいた簪は壊れてしまったのだから。

 すでに罰を受けた者に、さらに鞭打つような無慈悲な真似をさせないで」


 そう言うと、楊徳妃はさっと顔を青ざめさせた。


 ――何かおかしい?


 一昨日の出来事に対しての反応にしては過剰だ。呉三娘はさりげなく楊徳妃のお付きの面々を確認して、それから優しく楊徳妃の手を取った。


「昨日、香淑妃にも言ったのだけど、私のことは親戚のお姉さんのように思ってもらっていいのです。無礼だなどと他人行儀なことは言わないで。さあ、座って、お茶を召し上がれ」


 呉三娘が誘うと、楊徳妃はおとなしく席に着いた。けれど、うつむいたままで柔らかそうな絹の手巾を揉みしだくばかり。お茶にも手をつけない――が、これは考えてみればよくあることなので、呉三娘は重ねて勧めることはしなかった。


「……わた、私が悪かったのです。ですから、簪の修理は私がなんとかします」


 そう言って、良家の子女らしくもなく髪をくしゃりと握りしめ、そのままかり、と肌をひっかいた。緩く編まれた細くて艶やかな髪が、乱れて複雑な模様を作る。


「そうは言っても、もう皇帝陛下にお願いしてしまったし。そんなに気にすることないのに――」


 何気なく呉三娘が言うと、ぽたぽた、と少女の目から涙が滴り落ちた。手巾をきつく握りしめた手は、力を入れ過ぎて白くなり、小刻みに震えている。

 びっくりして皇后は言葉をひっこめた。


「あのう、ね。大丈夫?」


「主、口下手」「大丈夫じゃないに決まってるじゃん」と双子侍女の減らず口が聞こえたが、呉三娘はそれどころではない。子供を泣かせてしまった。


「ええと、簪のことは少し保留にした方がいいかな? 何か困っていることがあるなら相談してくれていいんだよ? 私に出来ることは限られているけど……」


 楊徳妃は必死に歯を食いしばって涙を堪えようとしている。それでも瞬きするたびに、ぽろぽろと雫が零れ落ち、手巾に袖に、淡い模様を作っていく。

 弱った呉三娘は、楊徳妃のお付きの侍女たちに目くばせした。侍女たちは楊徳妃と同じくらいの歳の子供が二人、呉三娘と同じくらいの歳の娘が一人。他に先導役の女官が一人いて、彼女は室内には入らず外で待機している。

 年長の侍女は目を泳がせて何も言わなかったが、幼い侍女の一人がポロリと言葉をこぼした。


「簪が盗まれてしまったから……」


 ――なんと。

 確かにそれは弱ってしまう。皇帝から下賜された簪を紛失しただけでも十分な失態だが、皇后が修理の手配をしているのだから隠蔽やごまかしの時間もない。進退極まった上でのこの面会だったというわけだ。


「楊徳妃」


「いいえ、何でもないのです!

 お願いです、簪の修理の手配を止めてください! ……っ余計なことはしないで!」


 思わず、といった風に楊徳妃が叫んで、はっとして口を手でふさいだ。大きく見開かれた目からは相変わらず涙が零れ落ち続けている。


「も、申し訳……」


 呉三娘は何だかこの少女がかわいそうになってしまって、眉を下げた。

 簪の紛失自体は、さほど問題ではない。本来であれば。贈り主の皇帝自身がそういうことで感情的になる子ではないからだ。だが、大騒ぎにしようとすればいくらでもできる。

 皇帝下賜の宝物を毀損するのみならず、紛失する、というのは、上手く使えば叛意ありとして処罰の理由とすることもできるのだ。過去の王朝で、実際そういう事件があった。


 そして楊家と香家はそれぞれ朝廷と閨閥を代表する二大勢力だが、後宮という閉鎖空間内に限って言えば、香家の影響力の方が強い。何故なら楊宰相はおいそれと後宮に入れないが、香皇太后は後宮近くの一角に今も住まっているからだ。香淑妃は後宮で何か困りごとが起これば叔母の香皇太后を頼ることができる。しかし楊徳妃はそうはいかない。足をすくわれたら、助けてくれる人は身近にいないのだ。

 それ故に、楊徳妃は後宮で隙を見せることができない。信用できるのは、実家から連れてきた侍女だけだ。

 たった、十歳やそこらの子供なのに。


「わかった。修理は断っておく。だから泣かないで。

 他に何か私にできることはある……?」


 呉三娘が言うと、楊徳妃は首を横に振り、はっと我に返って再び跪こうとした。


「いいえっ、ご無礼を申し上げて申し訳ありませんでした」


「わあ、いいの、気にしないで!」


 そうして皇后は再び少女を助け起こすことになったのだった。





 楊徳妃をなだめて送り返した後、呉三娘はどさりととうに腰を下ろした。

 ここが樨国なら、彼女は喜んで事件の渦中に突っ込んでいっただろう。だが、ここは央都で後宮なのだ。簪の紛失を不問に付すよう皇帝に進言すれば、周囲は皇后が楊家に肩入れしたと噂するだろう。

 何があっても今上帝の帝位を維持したい呉三娘としては、彼を支える勢力に乱れを引き起こしたくはなかった。


 ――様子見、するしかないか。


 呉三娘は榻の上にごろりと上半身を横たえた。天井の格子絵の鳳凰の番が戯れているのが見えた。

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