02.香淑妃

 あくる日、朝餉を終えてすぐに香淑妃からの先触れがあった。早速簪について相談したいらしい。新しいおもちゃを待ちきれない子供みたいだ。というか、子供なのだが。


「皇后陛下に淑妃香小梅がご挨拶申し上げます」


 凰麟殿の正殿に入り、礼儀に則った挨拶の礼を取った香淑妃に、呉三娘はちょっとびっくりした。


「ちゃんと挨拶もできるのね」


 思ったままのことを口に出しただけだったのだが、香淑妃はさっと顔色を変えた。


「昨日は大変なご無礼を働き、醜態を晒してしまって……」


 そりゃそうである。皇后というのは皇帝の家族であり、後宮の最高権力者だ。正一品だろうが官位がある時点で官吏にすぎない妃嬪、侍女、女官や宦官の生殺与奪の権限を一手にしているといってもいい。皇后が死ねと言えば人が死ぬ。それほどの存在なのだ。昨日が異常だっただけで。


「あ、そういうつもりではなかったの。見ちがえたなと思っただけだから。怒ってません」


 慌てて付け加えれば、香淑妃はあからさまにほっとした顔になった。


「ありがとうございます。皇后陛下の寛大なお心に感謝申し上げます」


「こう言われても困るだけだろうけど。別に、そんなに気を遣わなくていいからね。普通に親戚のお姉さんくらいに思って接してもいいから」


 香淑妃はつやつやした頬に困惑の笑みを浮かべて、曖昧に頷いた。

 これだけ普通の対応ができるなら、昨日は一体何だったのだという疑問がわく。立つ許可を与えてとうに座るよう勧め、侍女も交えて話を聞けば、二人とも何だかよくわからないが頭にきて、売り言葉に買い言葉で歯止めが利かなくなったのだとか。

 子供だ。



「まあ! お姉さま、この絵は一体なんですの?」


 子供なので、順応もすっごく速かった。

 簪の意匠を考えようと図案を一緒に描き出したら、何と言うかお絵かきで遊んでいるような感じになってしまって、いつの間にかお姉さま呼ばわりになっている。香淑妃が連れて来た侍女たちは慌てているが、香淑妃にはすっかり懐かれたようだ。「小梅と呼んでください」と言われてしまった。

 子供らしいふくふくとした指で、呉三娘の描いた絵を指さす。指先や掌が赤くなっているのは昨日の取り合いのせいだろうか。それとも季節の変わり目で、肌が荒れてしまったのだろうか。


「これは獅子です」


「まあ、樨国に時折現れるという? 神獣の聖獅子? すごいわ、お口が大きいのですね」


 双子侍女がふきだした。

 呉三娘にだって分かっている。自身に絵心がないことは。でも、獅子が一番ましなのだ。たとえ体の半分が口になっていたとしても。


「簪に獅子はないと思います~」


「威嚇してどうするんですかあ~?」


 まっとうな指摘がすごく失礼な言い方で放たれる。

 その通りではあるのだが、呉三娘は腹立ちまぎれに寿珪と嘉玖に書いてみろと筆を渡した。そこまで言うなら自分で書いてみろと。


「ねえ、お姉さま、これは樨国のさらに西にあったという楽園ですわね? わあ、これは鳳凰? 仙女もいるわ。これは龍ね」


 香淑妃がすらすらと描かれた絵を言い当てる。墨のみで描かれて色もないのに、一目でわかるくらい、その絵は達者なものだった。


「……えっ、なん、どうしてお前たち、こんなに絵がうまいの……?」


「主が下手すぎるだけです~」


 挙動不審になる呉三娘を尻目に、香淑妃は二人が描いた絵に興味津々である。


「聖獅子もかわいい! こんなにもふもふなのかしら……。お姉さまはお会いになったことがあって?」


「鳳凰や神々は、私たちの想像もつかないくらいずっとずっと昔に西方を去ってしまったからねえ」


 この国の神話では、太古の昔、西の果てには楽園があって、神々や仙人、神獣たちが住まっていた、といわれている。しかし、彼らは人の世に争いが広まり、憎しみや怒りが満ちると、愛想をつかして去って行ってしまったと。そうして、樨国の西には今は砂漠が広がっている。


「でも、聖獅子は神々には付いて行かず、この世に残ったのでしょう?」


「そうだね、人と仲の良かった聖獅子や、いくつかの種族たちは残ったといわれているね。ことに聖獅子は樨国公の祖先と番っていたから、『この地に子孫がいる限り、人の世を離れない』と言ったとか」


「それが呉家のご先祖様なのですよね? 神獣の末裔なんて素敵!」


「まあ、異様に武芸に秀でた者が多いのは、神獣の血のおかげかもしれないね。そうやって、今でも異国の襲撃から子孫を守ってくれている」


 ありがたや、と呉三娘が西の方を拝むと、香淑妃も真似をした。かわいい。


「……ねえ、お姉さま、私聖獅子の簪がいいかなあって思うのですけど、失礼でしょうか?」


 聖獅子、別名狻猊は樨国公のいわば守護獣なので、他家の者が身に着けるのは確かに失礼に当たる。だが、他でもない樨国公の娘が贈るのだから、問題はないだろう。それが妃の装飾品としてふさわしいかは疑問だが。


「問題は、獅子を簪に仕立て上げることかしらね……まあ、何とかなるか」


 きっと皇室の宝飾品を手がけるのだから、凄腕の工匠がいるに違いない。獅子も娘らしい簪に仕立て上げてくれるはずだ。呉三娘は、見も知らぬ工匠の幸運を祈ることにした。

 そうして、香淑妃が仕上げた図案を侍女に渡した。后妃の公的な服飾品は、尚功局で管理しているので、そちらでよしなにやってくれるはずだ。私的な品は実家に言づけて手配してもらうが、昨日皇帝陛下も呉三娘の希望は聞くと言っていたし、公費で賄ってよいだろう。


「ありがとうございます! とっても楽しみです! 今度はお揃いの服を作りましょうね!」


 そうして、香淑妃はご機嫌で皇后宮を去って行った。


「お揃い……十歳と二十歳がお揃いの服って、許されると思う……?」


「ほほえましいんじゃないですか、親子みたいで」


「まあ、うん、そうなるよね。姉妹だよねえ……」


 昨日に引き続き、呉三娘はすんっと真顔になって香淑妃が去った門をしばらく眺めていた。

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